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ザ・スーツ・ファーム

作者: 星野 太保

「いらっしゃいませ」

スーツを買いに入った紳士服店の店内にはもうもうと煙が立ちこめていた。

「何名様ですか?」

オールバックにスーツ姿、そして白いふりふりのエプロンを身につけた男性店員が出迎えてくれる。

「1名ですけど。すみません、ここ紳士服のお店ですよね?」

「あ、お洋服のお客様ですか」

入り口の青い看板には確かに「紳士服の店 ザ・スーツ・ファーム」と書いてあった。店内の壁や、ハンガーラックにはたくさんのスーツが吊るされている。

そしてスーツの吊されたハンガーラックの間には、テーブルと椅子が所狭しと並んでいて、会社帰りとおぼしきスーツ姿の酔っ払い達が楽しそうに焼肉を焼いている。

カルビ、タン、ホルモン。白いお皿に並んだとりどりのお肉。ビール、サワー、マッコリ。グラスに入ったアルコール。店内はほぼ満席で、肉を焼く煙が天井に溜まり、頭の高さほどまで垂れ込めている。

「はい、私どもは紳士服の店、ザ・スーツ・ファームでございます」

オールバックはにこやかな笑顔で答える。

「この、焼肉はなんですか」

ジュー

目の前のテーブルでホルモンから落ちた脂が炭火にあたって淡い音をたてる。舞い上がった煙は壁につるされたライトグレーのスーツの方へと漂っていく。

「お客様」

オールバックが急に真剣な表情を見せる。

「スーツに付いてしまう焼肉の臭い。困りますよね」

うん、そうだね。

「そこで、私どもは考えたのです。はじめから焼肉の香りのするスーツがあれば良いのではないかと」

なんでや。

「いや、私は普通のヤツが欲しいんですけど」

「ご安心ください」

オールバックが笑顔に戻る。

「品質にはこだわっております」

そう言って胸を張る。

「どれも国産の和牛です。A5ランクの松阪牛などもございます」

そっちにこだわってどうする。

「ご存じですか、和牛は和牛香と呼ばれるココナッツや桃のような甘い香りがして、それが美味しさの秘密の1つなんです」

「はあ」

「おかげさまで大変好評をいただいております」

それはスーツか、肉かどっちだ。

「どのような商品をお探しですか」

オールバックがエプロンを外して、ポケットにしまう。

「明日、会社で内定式に着ていくんですが」

「あ、学生さんでしたか。おめでとうございます」

「いえ、むかえる方です」

IT企業の社内SE。普段は私服で通勤。暑い日にはTシャツにGパンというスタイルの同僚すらいるラフな職場だ。

しかし、取り引き先の銀行から来たという人事部長から「せめて新入社員をむかえる時くらいはスーツで」とお達しがあった。

就活の時に使ったスーツは断捨離していまい、驚いたことに自宅にはスーツが無かった。

「そうしますと、こちらはいかがでしょうか」

オールバックが壁に吊るされていたスーツを長い棒を使って器用に取り、肉を焼く網の上空を通過させて渡してくれる。

「お客様はスリムでいらっしゃるので、こちらの三つボタンのものはいかがでしょう。ちょうど、そこのお客様が当店自慢の生ラムをお召し上がりになられたところですよ」

せめてタン塩であってくれたなら。

受け取ったスーツからは、香ばしいラム肉の香りが立ち上る。

「香りがしっかりついておりますので、クリーニングした程度では落ちませんのでご安心ください」

不安しかない。

「あの、普通のスーツは無いんですか」

焼肉の臭いのするスーツで内定式に出る先輩は、新入社員にどう思われるだろうか。肉食系リア充と思われたりするのだろうか。

「やはり二つボタンの方がよろしいですか」

ボタンの数の問題じゃない。

「いえ、香り無しのスーツが……」

「ございません」

きっぱりと断られた。

「香りのないスーツをお求めでしたら、申し訳ございませんが他をお探しください」

そうはいかないのだ。次の休みに買いに行こうと思いながらも、休日出勤やら残業やらが続いて、内定式は明日だ。夜の11時を過ぎて、他に開いている服屋もない。こんなことなら寄り道して新宿のディスカウントストアに行くんだった。

「……あっちの二つボタンのやつの方で」

なんかもう、どうでもよくなった。

「かしこまりました。ズボンの裾直をいたしますので、あちらの試着室へ。スーツをご購入のお客様にはカルビをサービスしておりますので、裾直しをお待ちの間にお召し上がりください」

煙立ち込める店内の奥に、試着室があった。ズボンを履き替えていると、脂でギトギトになった試着室のカーテンの向こうから、賑やかな乾杯の声が聞こえる。

日常のすぐそばでズボンを脱ぐと、なんだか露出狂にでもなった気分だ。

「ここでスーツを買うお客さんなんているんですか」

ズボンの丈を調整してもらいながらオールバックにたずねる。

「そうですね。どちらかと言えば焼肉が人気です。今月はお客様がはじめてですよ」

先月はいたのか。


焼肉はくやしいほどに美味しかった。

ビールとタン塩とキムチを追加オーダーした。スーツと合わせて28,000円とお高くはない。


翌朝、ベランダに一晩吊るしておいたスーツからはまだしっかりと焼肉の香りがした。

通勤電車の中では自分の周りに微妙なスペースが空き、すぐ前の男子高校生は食欲を刺激されたようで時おりスマホから顔をあげて物欲しそうな目でスーツを見つめてきた。

職場につくと、普段はジャケットすら着ない主任までスーツを着て、落ち着かない様子だった。

「主任、おはようございます」

近づいて挨拶すると、主任がのけぞる。

「おう、おはよう」

主任がのけぞる動きとともに、ソースの香りが広がる。鉄板の上で焦げた小麦粉と、豚肉の脂と、かつお節の香り。


「……主任はお好み焼きですか」


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