-土-
giardino 土色の壁
私は校舎を出ると真っ直ぐに、庭のベンチへと歩いていく。
土の匂いが鼻へと流れてきて、続いて庭に咲く花の香りも遅れてやってくる。
周囲を土色の校舎に囲まれた、中庭には燦々たる太陽の光が降り注いでいて、金色の温かさに包まれていた。そこに吹き抜ける風も、またやさしく、頬をスッとかすめ吹いていく。
そんな庭に、佇む大きなアルベロッタの大樹――
私は大樹の側にある、小さなベンチに腰掛けた。
上を見上げると、ひらひらと揺れる葉から、光が零れ落ちている。
大きく息を吸い込み、瞼をゆっくりと閉じた。
(静か……ほんとうに、静か……)
耳には、さっきまでの人が話す声や、動く音など一切聞こえてこない。自分が、まだ学校にいることさえ、忘れてしまいそうだった。
ゆっくりとした時が流れていく――
「――……」
(……ん?)
耳にまた、あの声が聞こえた。
(誰……誰なの?)
目をそっと開けると――そこは
光に溢れた世界だった――
(ここは……)
夢で見た世界に似ていた。
しかし一つ違うことがあった。
それは、目の前にアルベロッタの大樹があること――
私は歩いて、大樹に近づいていった。
「――……」
近づくにつれて声が大きく、鮮明に聞こえてきた
「――だ……め」
(え?)
「来ては――だめだ!」
そうハッキリと聞こえ瞬間、世界は白から黒の世界へと変貌し姿を変えた。
世界に闇の臭気が溢れてきた時、目の前の地面から闇の塊が現れた。
「な、なに?!」
思わず後ずさる。
闇の塊は、脈打つように蠢きながら形を変えていき、やがて人の形を成した。
「やっと……会えた」
闇の塊が真っ赤な口を開き、まるで笑っているようだった。
聞こえてきた声は、直接頭に響いてくるような声――その声に体の底から恐怖が押し寄せてきた。
そんな私を察したのか、闇に塊は少しだけ私から離れた。
「フフ……そんなに怖がらないで」
「あ、あなたは誰?」
「ボク? ボクはね……」
闇の塊が一気に私の顔の側まで寄ってきた。
「ボクは……君だよ!」
そう言った瞬間、闇の塊の顔は、私の顔へと変化し――歪な笑顔を浮かべた。
「い、いや!!!」
私は大きな声で叫び、目を閉じた。
(助けて……誰か)
「大丈夫」
「え?」
闇の塊の声とは違う、やさしい声が頭に響いてきた。
「大丈夫だよ」
闇の世界の天井から、私の足元に一筋の光が射してきた。闇は、その光から逃げるように光を避けいき、やがて地面へと光が届くと、そこに光の塊が現れ始めた。
そして、光の塊は人の形を成し、見覚えのある姿へと変化した。
「リオ……リオ君?」
「助けに来ましたよ、麗しき歌姫様」
そう黒猫の獣人は、私に微笑んだ。
こんな軽口を平気で叩くのは、間違いなく私の知るリオ君だった。
「あれ? アメル様ったら、いまヒドイこと頭の中で言ってませんでした?」
リオがむすっとした表情を浮かべた。
「そ、そんなことしてるわけないでしょう! って勝手に私の頭の中を覗かないでくれる?」
「あ! 覗いたって言いました! 言いましたよね? じゃあ、ほんとにヒドイことおもってたんですね!?」
「ああ、もう! そんなことより、君! 早く私を助けなさいよ!」
「なんか……アメル様、偉そうですね?」
「う、うるさい! 早く早く!」
リオの胸倉を掴み上げ、激しく揺さぶった。
「あは……は、はい、た、助けますから、離して……は、離してください」
「ほんと?」
「ええ……しばしお待ちを」
乱れた服を調えて、リオは私の前に立った。
「あ……」
「あ?」
「その前に……」
「その前に?」
「その後ろにいるのを、どうにかしないといけませんね」
リオが指差した先には、闇の塊がゆらゆらと蠢いていた。
「うわ! ……わ、忘れてた!」
私は急いで、リオの背中へ隠れた。
「は、早く! 君、あれを早くどうにかしなさいよ!」
「う〜ん」
「唸ってないで早く!」
「どうやって……やりましょう」
「……え?」
「いや、どうやって……やればいいのか……」
「あんた……なら、何で助けにきたのよ」
「ぼ、ボクは本来、武官ではなく文官の気質な部分がございまして……」
「頼りないな〜君は……」
「すいませんです」
リオは両耳を垂れ下げうな垂れた。
「でも、本当にどうしたら」
私が不安な表情を浮かべていると、リオ君は微笑んで私の手を握ってきた。
「大丈夫ですよ! ボク一人では無理ですが……歌姫の力があれば、大丈夫です!」
「私の力?」
「そう、歌姫のアメルのお力です!」
「私に……そんな力なんか」
「あるんです!」
リオが興奮気味に、握った手を強く握ってきた。
「そ、そう?」
「はい!」
「で……私は、何をすればいいの?」
「歌ってください」
「え?」
「歌うのです!」
「いまは、そんな時じゃないわよ!」
「いいえ、あなたの歌う歌は、人の心にとても響いてきます…… そんな、あなたの声には、闇を払う力があるのです」
「そんな……」
「騙されたとおもって、さあ、歌ってください!」
「え……ええ、じゃあ……」
私はリオ君に促されて、歌いだした――
「草木を揺らし 風は行く」
「私から あなたへ流れる この風に」
「このまま私をのせて 行ければと」
「切に願い またこの丘に私は立つ」
「彼の地のあなたを思い ここに立ち 今日も待つ」
戦地の恋人の帰還を願い、再会を願う、若き娘の唄だ。
こんな場所で歌う歌ではなかったが、私にも帰る場所はある、帰りたい場所ある――
そう思った時に、この歌が思い浮かんだ。
歌っている時から、周囲を覆っていた、冷たい闇が晴れていった。
そして、黒の世界は、白の世界へと戻っていった。
「くっ……」
私の顔をした黒い塊が、苦しそうな声をあげて揺れた。
「もう……一押しですね」
そう言うと、リオも歌いだした――
『水面を揺らし 風は行く』
『我から 君へ吹く この風に』
『いっそ乗って 行ければと』
『願い 今日も戦地を行く』
『明日に 故郷の土を 踏むために』
二人で歌い合うと、黒い塊が咆哮をあげて激しく揺れていた。
「うっ……ぐぉぉ!!!」
そして闇の塊は脈打ちながら、段々と地面へと消えていった。
「消えた……」
「ねえ? 言ったとおりでしょう?」
「う、うん……だけど」
「あれは、なんだったんだろ……それに、君はなんで、ここに来れたの?」
「それは……」
その時、地響きとともに、激しく揺れた。
「な、なによこれは!」
「ああ、もう時間のようですね……力の均衡が壊れて、この世界はもう終わります」
「終わる?」
「はい、ですから、急いでこの世界を出ないと」
「で、でもどうやって……」
リオは大樹を指差した。
「あのアルベロッタの大樹に触れてください」
「それだけ?」
「はい! あの大樹は、この世界と元の世界に繋がっています」
「さあ、急いで!」
「わかった!」
私とリオは、走って大樹へと急いだ。
大樹に近づき、手を触れようとした瞬間、黒い線が足に纏まり付いてきた。
「な、なによ!?」
線が伸びてきた先には、あの黒い塊がいた。
「にが……にがさ……ない」
黒い塊が赤い口を開けて、こちらを見ている。
「また出た!」
「しょうがないですね……」
リオは、私の足に纏わりついた線を引き剥がした。
「あ……ありがとう」
「いえいえ」
リオはやさしく笑った。
「ですが……どうやら、ボク達を簡単には、帰してくれないみたいです」
「どうすれば……」
「先に行ってください」
「え……でも……」
「いいから早く行ってください!」
リオは私をそっと押し返した。
そして私は大樹に触れて、徐々に身体が薄くなっていった。
「また……お会いしましょうね」
リオがそう笑って、闇の塊へと歩いていった。
「り、リオ君!」
私は光に包まれていった――
そして目を開けると、そこは――
ベッドの上だった。
「ここは……?」
「目を覚ましましたか」
声がした方をみると、そこにはアイツが座っていた。
「あんた、なんでここに?」
「さて……なんででしょうね?」
「あんたと、じゃれ合ってる気分じゃないんですけど?」
「それだけ元気があれば、もう大丈夫そうですね」
「え?」
「さすが、アルベロッタの紅き歌姫ですね」
「それって関係あるの?」
「ない……かもしれませんね」
彼が微笑み笑った。
「で、私……」
「ああ、中庭で倒れていたんですよ……それで、この保健室まで、私が運んできたのです」
「そうだったんだ……」
あれは夢だったのか――でも、体中に疲れを感じる。
「そうそう……ヒスイです」
「え?」
「私にはちゃんとヒスイという名があります」
「し、知ってるわよ……」
「おや? 一回も呼んでいただけてないので、お忘れかとおもいましたよ」
ヒスイは、にやりと笑うと席を立った。
「えっ……もう、行くの? もしかして……怒った?」
「いやいや、まだ授業もありますし、この子を」
そう言って、ヒスイが後ろを向くと、そこには白い猫耳をぴくぴくさせた、獣人族の子が立っていた。
「帰らせないといけないので」
ヒスイはやさしく微笑みながら、獣人の子の頭を撫でた。
「この子が、アメル嬢を見つけてくれたんですよ」
「そうだったの……ありがとね! え〜っと……」
「……ルゥ」
獣人の子が、私の方へ歩いてきた。
「ん?」
「ボクね、ルゥっていうの」
「そう、ルゥちゃんか……ルゥちゃん、ありがとね」
「うん!」
ルゥは、私の顔を見て微笑む。
「これはこれは……珍しいですね」
ヒスイも私の方へ歩いてきた。
そして、ルゥの頭を撫でた。
「この子は人見知りが激しく、ひどく臆病でしてね……自分で、こうやって挨拶するのは、初めて見ましたよ」
「そう……ヒスイとは、全然違うのね」
「やっと、名前を呼んでくれましたね」
「え……これは、その……偶然よ! 偶然!」
「ふふ、その偶然に感謝しつつ、失礼しますね」
ヒスイは、軽く胸のあたりに手を会釈する。
ルゥも、それをマネするように、慌てて私に頭を下げた。
「うん、色々と迷惑かけたわね……ありがと」
「いえいえ、では」
ヒスイとルゥが部屋から出ていった。ルゥが最後に軽く手を振った。
私も、それに答えるように、軽く手を振りかえした。
(さて……)
私はもう少し、保健室で休むことにした。