第3話
2017.6.14 文章修正いたしました。
夕方になり、帰宅しようとアクアのドアに手をかけた瞬間、和美は名前を呼ばれ振り向いた。知らない男が立っていた。身長は175センチ程。色白で、穏やかな笑顔の青年だった。
「こうして面と向かって話をするのは初めてだね。梶 和美さん。僕は一 翔吾」
名前を聞いても、思い当たる節は無かった。
「どこかで面識がありました?」
「君が僕を知らなくても、僕は君のことを知っている。良ければ今からお茶でもどうだい?」
一と名乗る男は、穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。和美は本能的に目の前の男は危険だと感じた。張り付いた笑顔は、瞳の奥にある見透かされたく無いものを守るために、纏っている仮面に見えた。
「その理由が私には分かりかねますので、遠慮致します」
棘のある言い方にならないよう、和美は丁寧な口調で断りを入れる。
「人が親睦を深めようと思うのに、何か理由がいるのかい?」
一は間髪入れずにそう答えた。一ほどの美形の青年にこのように優しく声をかけられたのなら、多くの女性であれば嬉しい事であろう。しかし、和美の意思は変わらなかった。
「申し訳ありません。大変有り難いお話なのですが、本日は体調が優れないので」
きっぱりと言い、和美は一の瞳をしっかりと見つめる。空虚な目をしていると思った。
「良いのかい?」
一は試すような口ぶりでそう言うと、ゆっくりと声を出さずに唇を動かした。
ーーーソ ウ ヘ イ ク ン
目の前の男は、間違いなくそう言ったようだった。胸騒ぎがする。
「良いでしょう。三十分だけお付き合いしましょう」
なるべく冷静な声音で和美は答えた。空は徐々に曇り始めていた。
一に案内された喫茶店は、和美も知っている店だった。コーヒーからは湯気が登っている。カップは二つとも一切口がつけられていない。店内は広い木造で、置き時計などのアンティーク家具が置かれ西洋の屋敷を思わせる造りになっていた。
「単刀直入に言おう。君の弟君、三笠蒼空っていう女の子と付き合っているだろう?手を引くように、君から言ってくれないかな?」
足を組んで一は椅子に腰かけていた。
「その理由は?」
口元を僅かに上げ、意図的な微笑みを作り和美は質問する。早くこの場を立ち去りたいのだろうか。簡潔な表現を選ぶ自分に、和美は内心苦笑した。
「彼女は僕のものだ」
和美たちのテーブルだけ、空気が変わった。一のその言葉には刃物のような鋭利さがあった。
「失礼ですが貴方は、彼女とどういう関係なんですか?」
「従兄妹だよ。昔からよく面倒を見ていたんだ」
微笑みを浮かべる一の口が少しだけ開いた。ちらついた八重歯は肉食獣の牙を彷彿させた。一はカップに口をつけると、すぐにテーブルに戻しミルクを入れかき混ぜた。口に合わなかったのだろうか。マドラーを回しながらその瞳はカップに向けられているが、何か別のものを見ているように和美には感じられた。まるで、何かを慈しむような温かい眼差しだった。
「恋愛は当人たちの心の問題です。私たち他人がとやかく言うものではないでしょう」
ゆっくりと一の視線が和美に向けられる。先ほど垣間見た瞳の色が消え、空虚がそこには戻っていた。
「では、聞こう。君の心は耐えられるのかい?この先もずっと地獄のような生活の中で心をすり減らし続けていくのかい?」
その言葉に和美は目を見開いた。和美の手料理を食べながら、創平と蒼空が仲睦まじく笑う。そして、その反対側で感情を押し殺し、作り物の笑みを浮かべながら眺めている自分の姿が頭をかすめた。
息苦しさを感じ、思わずゆっくりと息を吸って吐き出した。目の前に視線を戻す。勝ち誇ったように一の口元がつり上がった。
「おっしゃっている言葉の意味が良く分かりませんが」
語気を強めて和美は言った。
「君と僕はとてもよく似ている。目を見れば一目で分かる。同族の目だ。些末なものは写していない、ただ一つ。ただ一つの大切なものにだけに、その眼差しは向けられる。だけど、そんな本当の自分を周囲には見せたくない。その為に仮面を纏った。しかも、その辺の連中とは違うとびきり上等な仮面だ。一貫しているが故に徹底され、洗練されている」
和美は一の言葉を聞きながら、これからの方針を固めた。
「一さんのおっしゃることは難しいですね」
和美はあえて、満面の笑みで答えた。
「この状況でもまだ惚けるのかい?」
一の舌打ちが聞こえたような気がした。
和美は思った。この男が自分と同類だとしたらこの日のために、十分な情報収集を行なってのことだろう。和美の職場や帰宅時間、日々の行動。調べ上げるために探偵でも雇っていたのかもしれない。
「一さん。貴方のお話面白かったです。でも、どうも気乗りしません。全部貴方の推測だけで、確かなものは何一つ無いじゃないですか」
「強情だね。そんなに弟君が好きなんだ。僕と同じだ」
誰がお前なんかと。と心中で和美は吐き捨てた。
「分かっているだろうけど、僕たちの間で利害は一致しているよ。君の協力が得られれば丸く収まるかと思ったけど仕方がない。こうなったら、僕一人で行動するしかない」
「何をするつもりですか?」
「答える義務が?その場合僕と君は敵同士といことになるわけだからね」
「まともじゃない」
「お互いね。恋愛とはそういうものだろう。愛と戦争は何をしても平等だと故人も言っている。健闘を」
和美がソーサーに札を挟んで立ち上がると、「そうそう」と一は付け加えた。
「フェアプレーの精神で教えておくよ。僕は教師だ。蒼空と創平君に英語を教えている。以後、改めてお見知り置きを」
「私としては、今後も一さんが良き教師でいらっしゃることを切に願います」
視線が重なる。目の前には穏やかな笑顔があった。自分も似たような表情をうかべているのだろうと、和美は思った。だが、自分は目の前の男を肯定するわけにはいかないと、強く拳を握りしめ喫茶店を後にした。