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想いの価値は  作者: スミス・ヴァルター
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第2話

2017.6.14 文章を修正いたしました

 創平が出発したのを和美は玄関の扉が閉まる音で確認した。二人で待ち合わせでもしているのだろう。創平は近頃十五分程早く家を出るようになっていた。

 和美は洗い物をしていた手を止め、リビングのソファーにゆっくりと腰を下ろすと、リモコンを操作してテレビを消した。背もたれに頭を預け天井を仰ぐ。右手で眉間を揉みながら大きく息を吐いた。天井には電気の付いていない照明だけがある。最後に照明を清掃をしたのがニ月だったことを考えると、今から約三ヶ月前のことだった。

 三十秒程天井をじっと見つめながら、三ヶ月前とは随分と心境が異なるものだと和美は自嘲した。その日、鼻歌を歌いながら脚立に登り拭き掃除をしたのを思い出した。

 朝のそれも七時三十分だというのに、身体が重い。一ヶ月前から睡眠の質が悪く、疲労が抜けきらない状態が続いているのは自分でも分かっていた。当然ながらその理由も。

 困ったものだ。と、和美は心中で呟いた。いつから自分は変わらぬ日常を演技するようになったのだろう。いつから身の回りのささやかなことに、大きな労力を払わなければならなくなったのだろうか。全ては一ヶ月前に始まったことのはずなのに、もう随分と長いこと続けているような心境だった。

 注意をしなければ、いつかほころびが露呈する。それは誰に?他ならぬ彼に。

 問題なことに、その兆候が見え始めている。和美はちらりとキッチンのゴミ箱に目をやった。その中には、失敗して黒焦げになった朝食の目玉焼きが入っていた。創平の起床までに、別のものを用意できたため事なきを得たが、タイミングを一歩誤れば現場を見られていた可能性もあった。

 ハインリッヒの法則という言葉が頭をよぎる。小さなミスの蓄積はやがて大きな重大事故の原因になる。まずは、この微細なミスへの対応から始めよう。失敗の受容は真摯しんしに行い、糧にする大切さを和美は知っていた。

 ソファーにかけたまま、頭を動かして正面を向く。テレビに自分の姿が反射していた。腕組みをし、左手を口元にやり和美は思案した。

 創平が近くにいる時ほど心中が穏やかではなく、ささやかなことで動揺しやすい傾向があるのは明らかだった。

 真に意味のある事は何か。最も重要なことは何かを和美は考える。この際に大切なことは、優先順位の逆、つまり劣後順位を考える事だ。食事の小鉢を一品減らそう。単純な作業の見直しである。

 次にどうするか。漠然と行動するのではなく、一回以上は頭の中で予行をする。それは、今のような零細時間を活用すれば十分に可能だ。一つ何かが増えたら、一つ何かを減らす。仕事をする上での基本に立ち返り思考を巡らせた。大切なのは、自分が今までと同じ品数で料理ができることではない。創平の好みの味付けで料理ができて、穏やかで他愛のない会話を楽しめることだ。それが和美の導き出した帰結だった。




 出勤の時間になり、和美も家を出ることにした。駐車場まで歩いて行くと、アクアの前で立ち止まった。先週洗車したばかりなのに、薄黄色に汚れていた。黄砂か花粉か分からないが、この季節は車の汚れが目立つのが和美は嫌いだった。

 運転席に座り、エンジンをかける。パーキングからドライブにして、ハンドブレーキを下ろすと車体がゆっくりと動き出す。彼女はこの瞬間を密かに気に入っていた。車の駆動音が声に聞こえた。

『どこでも良いから、行きたいところ無い?』

 車の免許を取った最初の日、和美は真っ先に創平に尋ねた。新しくできるようになった事が、創平の力になれる事でもあり、それがとにかく嬉しくて和美にしては珍しくはしゃいだ。

 行き先は大型ショッピングモールとありふれた場所であったが、せっかく車があるのだからと家具を始め色々と大きいものを買った。朝食を並べたダイニングテーブルがそうだった。

 至る所に創平との思い出があった。そして、ふと和美にとって創平がかけがえのない存在となった時の事を思い出した。




 母親が再婚した事で、和美が十四歳の時に九歳の創平と出会った。多感な時期に親の離婚と再婚を経験した、当時の和美はやさぐれた少女だった。最初は悲劇のヒロインのような気持ちになり、嘆きもしたが、それよりも周りの視線や評判というものに次第に嫌気がさしていった。自分の事でありながら、それは他者によって規定され、しかもそれを覆すのは難しい。馬鹿らしいと思った。

 ある時、和美が当時所属していたバドミントン部の試合で三位に入賞した時のことだった。小学校からの同級生の母親が和美に言ったのだ。

『色々と大変だったのにねぇ。本当に頑張ったと思うわ』

 言葉を発した本人に悪意は無かったのだろう。だが、その言葉は和美の心をえぐった。

 和美からすれば、こんな環境になったから、頑張ったのではない。そして何より、努力が本当の意味ではなく余計なものがついて周囲に歪められることが一番彼女を憤らせた。その日を境に彼女は部活を辞め、授業も何だかんだと理由をつけては、保健室に入り浸るようになった。ラベリング効果の理想形のように、意図的に「憐れな少女」に堕していった。

 だから創平と会った時、和美は自暴自棄になっていた。もう何をしてもどうしようもないと、諦観しきっていた。だが、転機は訪れた。

「お姉ちゃんの作ったご飯凄く美味しい!」

 それは両親共に遅番だった日、二人で夕飯を食べることになり、和美が初めて創平に料理を作った日の事だった。ハンバーグを一口食べてすぐに、満面の笑みを浮かべて創平は和美にそう言ったのだった。

 予想外の大きな声に驚いて顔を上げると、創平と目があった。何の偏見も無い、ただ喜びに輝いた瞳。求めていた純粋さ。正当な評価がそこにはあった。和美が創平を理解するよりも早く、一瞬で心を奪われた。そして、それは和美にとって居場所の承認のようにも感じられた。ここにいても良いのだという安心感。優しいものに包まれている安堵感。今まで心の拠り所を見いだせなかった少女が辿り着いた、そこはまさにアララト山だった。


 その後、和美は人が変わったように精力的に物事に取り組むようになった。保健室にも通わななくなり、成績も破竹の勢いで上がっていった。そして、家では積極的に家事をこなした。元から慣れていはいたが、創平の喜ぶ顔見たさで一層腕に磨きをかけていった。創平好みの味付けを覚え、それを何度でも再現できるように徹底した。もっと、もっと何かがあるはずだ。もっと何か。もっと創平が喜ぶような何かがあるはずだと、ただひたすらに。

 同級生の女子からは「ブラコン姉」や「ショタコン」というように散々からかわれ、男子からは「残念な美人」と言われても気にはしなかった。

 和美が高校に進学する頃には創平も思春期を迎えており、過保護な印象を与えては煙たがれるだけだと思い慎重になった。中学生の頃の舞い上がったような気持ちは落ち着き、理性と知性を身につけ始めた。そのため、高校では男女を問わず人気がある生徒だったが、恋人は作らなかった。いなくても心が満たされていたからだ。

 そして、和美は高校最後の年、ある決断をする。

 就職だった。友人や後輩たちは驚いた。学級担任からは何度も呼ばれ、面談することになった。両親も驚き、学費の心配はいらないと説得を試みた。創平から「姉貴成績良いんだから、勿体無いよ」と言われた時は少し迷いそうになったが、心は変わらなかった。

 したいことが思い当たらなかったのだ。今の日常に不服は無いし、キャンパスライフを楽しみたいだとか、研究がしたいだとか、進学してまで行きたい就職先があるわけでもなかった。そもそも今の生活が維持さえされていれば、楽しみと小さな幸せが数多く存在し、和美は満ち足りていた。そんな自分が、親に負担をかけてまで進学を選択するのは費用の無駄にさえ思えた。


 ところが卒業後、働き始めて早くも和美は災難に見舞われた。ストーカーだ。住んでいる市の役所に勤めたが、電車で通勤をしていたところ、財布を落としてしまった。運良く警察に届いていたが、拾い主の男から謝礼を請求された。それをきっかけに付きまとわれるようになり、和美は次第に怯えるようになった。

 様子がおかしい和美に気がついたのか、創平が声をかけてきた。理由を話すとすぐに警察に連絡を入れ、それでは足りないと出勤と退勤の際には送り迎えをしてくれるようになった。

 そして、これもある日のこと。事は起こった。電話に出ない和美に激怒した男が目の前に現れ、襲いかかってきた。男の手には包丁があったが、創平は臆することなく和美の前に立ち、飛びかかってきた男を取り押さえた。


 男を連行する警察を見送った後、和美は創平に泣いて訴えた。二度とこんな危険なことはしないでほしいと何度も言った。

 創平は和美の頭を優しく撫でながら、

『やっと、姉貴の役に立てた。空手やってて良かったって、今始めて思った』

 と、白い歯を見せながら笑った。創平があまりに嬉しそうだったので、つられて和美も笑った。

『ありがとう』

 感謝の言葉を口にすると、創平の黒い瞳と目が合った。恐らく身長は180センチはあるだろう。165センチと女性の中ではやや高めの身長の和美が見上げなければならない程、いつのまにか背丈を追い越されていた。

 もう一度創平の目を見る。その瞳を通して、和美はハンバーグを美味しそうに頬張り、満面の笑みを浮かべる在りし日の創平を見た気がした。

『家に帰ろう』

 創平が手を差し出す。

 黙って、その手を取る。大きな手だった。二人で手を繋いで歩いた。歩きながら、今日のような光景を見なくても済むよう車の免許を取って、車で通勤しようと和美は思った。




 信号が青になり、最後の交差点を右折してすぐ左折。和美の職場の役所についた。もやついた気持ちも、昔のことを思い出しながら車を運転するうちに楽になっていた。

 職場に家での気持ちは持ち込みたく無かったため、今の精神状態に和美は安堵した。車から降りて、ロックをする。念のために頰の筋肉を緩め、口角を上げる。大丈夫。ちゃんと笑える。車のサイドミラーで確認すると、和美は歩き出した。

感想等ございまいたら、よろしくお願い申し上げます。励みとさせて頂きます。

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