ACT5.日常1
5月2日。
理成くんが迎えに来ていた。チャイムを押すわけでもなく、私が玄関を出るまで家の前でずっと待ってくれていたようだ。
「おはよう」
理成くんは笑って言った。
「おはよう……」
私も挨拶を返す。
ホーム消失の話題は彼も私も一切せず、いつも通りの朝だった。見上げると今日も太陽の光が眩しい。どこまでも青空が広がっている。嘘の世界のはずなのに、なんて綺麗なんだろうと思った。
授業を受け、お昼は屋上でイコちゃんとお弁当を食べる。
放課後には、もうホーム消失の記憶は不思議と薄れていた。今日はバイトがあるのでバイト先へと向かう。
いつも通りバイトは18時から入った。店内にお客さんが少ないような気がする。
「そういえば、加賀井さんは必ずバイト先に居ますけど、ちゃんとお休み貰ってるんですか?」
私は布巾でテーブルを拭きながら、ふとした疑問を加賀井さんにぶつけてみた。
「あ?普通そういうこと気にするか?つーか俺に聞くか?」
加賀井さんが呆れた顔をする。何か変なことを聞いてしまったのだろうか。
「お前がバイトの日は俺もバイト。否応なしにそうなってんだよ。……変なこと突っ込んでこないで集中しろ」
そうなってる……?集中?仕事に?いや、もしかしたらゲームに……かな?
混乱してくる。……いくらなんでもそれは深読みしすぎだろう。私は軽く頭を振った。
窓際に座っているお客さんに呼ばれたので、オーダーを取りに行く。大学生くらいの男性2人組だった。
「ねえ、名前教えてよ。可愛いね」
2人組の片方が唐突に言った。派手な柄シャツのわざとらしいくらい軟派な外見だ。
「いえ、あの仕事中なので……」
私は答える。
「じゃあさあ、仕事が終わったらいいんだよね?何時まで?何時まででも待ってるから、どっか行こうよ!!」
もう片方の左耳に大きなピアスを付けている男性が親しげにそう言って、強引に腕を掴んできた。言い方のイントネーションが独特で気持ちが悪い。
加賀井さんは仕事中よく女性のお客さんに声を掛けられているけど、私は初めてでどう対応したらいいのか分からなかった。とにかく掴んでいる腕を早く離して欲しい。
「お客さん、俺、22時までですけど、どこ行きます?」
側で低い声がした。冷徹な表情をした加賀井さんだった。
「は?なんだよ。お前なんて誘ってねーよ」
柄シャツの男性が言った。加賀井さんがピアスの男性の手を掴んで私の腕から引き剥がす。2人組は明らかに動揺していた。
「外で待ってて貰えますか?店出たら、お客様、客じゃないですからね?覚悟はいいです……ね?」
凄みのある声。怖い……怖すぎる。
加賀井さんの迫力に負けて、彼らは慌てて退散した。
「アホが……」
加賀井さんが言った。やっぱり、恐ろしく冷たい声。涙目になってくる。
「お前に言ったんじゃねーよ。悪い。誤解させたな。……泣くなよ」
「分かってます。す、すみません。ありがとうございました」
加賀井さんはため息をつく。
「ちょっと待ってろ」
そう言って彼はバックルームに入って行ったと思ったら、すぐに戻ってきた。
「店長に許可貰ったから、今日は俺もお前と同じ時間に上がるわ。家まで送ってやるよ」
加賀井さんは優しかった。私はすみませんともう一度謝り、好意に甘えることにした。
バイトが終わり、彼のバイクの後ろに乗せてもらった。細身に見えるけど、ぎゅっとしがみついたらすごくしっかりしていて、着痩せするタイプで意外と筋肉質なのかもしれない……とか余計なことを考えてしまった。
バイクは、踏切で止まる。貨物列車がゆっくりと前を通過していった。
「お前、もうちょっと強くなれ。心配でしょーがねー」
別れ際に加賀井さんがそう言った。
その通りだと思った。これ以上、彼に迷惑をかけられない。
遠くで再び踏切警報機が鳴っている。
どこかが痛かった。何か大事なものを失ったような感覚……。
理由は全く解らなかった。
5月8日。
理成くんと映画を見に行く。恋愛ものは何となく避け、話題のSFにしてみた。映画を観終わり、喫茶店でお茶を飲んでいた。
「今度他校でバスケの練習試合があるから応援に来てよ」
理成くんが言った。
「本当はバスケ部のマネージャーになって欲しかったんだけど」
そう言って私を正面から真っ直ぐに見つめる。
マネージャーを引き受けるなら軽音部を辞めるか、大変だけど掛け持ちするしかないだろう。
理成くんは、私が軽音部に入ったことを知っているようだった。即答できずに無言でいると、「無理はしなくていいよ。返事は急がないから、とりあえず考えてみてほしい」と言われた。
「遊くん、今日はありがとう」
私はお礼を言った。
理成くんが笑う。こんなにも彼が優しいのは、やっぱり私が幼馴染だからなのだろう。心の中でも『遊くん』と呼びたいけれど、出会ったばかりの彼にどうしても距離がある。
5月7日。
午後1時に水希くんと水族館に行く約束をしていた。家まで例の高級外車で迎えに来てくれる。
「先輩♡今日はありがとうございます。昨日は嬉しくてよく眠れませんでした」
水希くんは全開の笑顔でそう言った。今日も天使みたいに可愛らしい。
彼は白と黒のボーダーのシャツに白のジャケット、紺のパンツ。中学生にしては年の差を意識してか(といっても一つしか違わないんだけれど)モノトーンの大人っぽいファッションだった。
水族館に着き、二人で巨大水槽やイルカショー、水中トンネルを見て回った。魚はとても綺麗だったし、イルカも可愛かった。間近でショーを見ていたので、水しぶきがかかって服が少し濡れてしまった。まあ、歩いているうちに乾くだろう。
水希くんは普段より燥いで、振り向く度に彼の綺麗な水色の髪がさらさらと揺れる。
「ホントに綺麗な髪だね」
私は目を奪われ、率直に言った。
「……長いし、女の子みたいですよね。先輩が嫌なら切ります」
水希くんは何を思ったか、髪を押さえながら下を向き、そう言った。私は意外な反応に驚いて、
「嫌なんて思ってないよ。綺麗で羨ましい。それに水希くんにすごく似合ってて、とっても可愛いと思う!!」
と伝える。
「可愛い……ですか?」
彼の表情が暗くなる。
「可愛いなんて思われたくない!!僕は男です。本当は、可愛いなんて武器にならないこと知ってます!!」
「水希くん‥‥?」
水希くんは俯いたまま、黙り込んでしまった。
「……すみません。大きな声出したりして……。僕、格好良くなりますから待っていて下さい。先輩の周りにいる男の人たちには、絶対負けません」
震えているような真剣な声。それから、彼は無理をしているのかもしれないけれど、いつもの明るい表情に戻って笑った。
「水希くんは、そのままで大丈夫だよ。一緒に居て楽しい水希くんのこと、私……」
私……?
咄嗟に好きだと言おうと思ったけど……押し留める。安易に好きだなんて言ってはいけないような気がして。
水希くんは何も言わなかった。でも察したのか、俯いた顔が赤くなっているのが分かって、ますます可愛らしいなぁと思った。
いつの間に買っていたのか、帰りの車の中で水希くんからおそろいのストラップを貰った。小さなガラスのイルカは精巧にできていて、とても綺麗だった。
5月中旬、中間テストがあり、結果は学年で2位だった。熱心に勉強していたわけではなかったから、あまりにも結果が良くてびっくりしてしまった。もしかして、これがチートというものだろうか?実力という気が全くしない。
1位は想像がついていたけれど、理成くんだった。本当に怖いくらいパーフェクトな幼馴染だ。
中間テストの結果が貼り出されたその日の放課後、入学式以来現れなかった生徒会長が私のクラスにやってきた。
「斉田晶乃、話がある。私と一緒に生徒会室へ来てほしい」
教室のドアからフルネームで叫ばれ、私は固まった。残っていたクラスメートが歓喜の悲鳴を上げ、騒いでいる。南波会長は有名人らしく、ずいぶん人気があるようだ。イコちゃんが「何かしたのですか?」と聞いてくる。全く分からない。とりあえず、私は黙って会長に付いていくしか選択の余地がなかった。
広い生徒会室に着くなり、椅子に促される。
「今、欠員が出ている生徒会役員、会計に相応しい人材を探している」
向かいに座る南波会長がいきなりそう言った。初めて間近で見る会長は思っていた以上に綺麗な顔で、近寄りがたいオーラを放っていた。
「欠員?」
緊張しながら私は訊ねる。
「会計の生徒が急な家の都合で転校してしまった。それで、是非君に引き継いでもらいたい」
「……私ですか?選挙で決めなくていいんですか?」
「中途の欠員の人選は会長である私に権限がある」
南波会長はそう言うと眼鏡を少し上にずらした。
「あの……無理です。私、バイトもあるし、軽音部にも入っていて」
「掛け持ちで構わない。学園のために協力してほしい」
「……無理……です」
表情を少しも変えず話す南波会長は怖かった。でも私は、はっきりと断る。バスケ部のマネージャーの件もあるし、申し訳ないけれど、これ以上掛け持ちなんて出来そうもなかった。
「……実は理成遊人にも断られた。そんなに生徒会は魅力がないのか」
言った後、南波会長は眉間を押さえた。初めて見せる苦悶の表情に私は思わず目を反らす。
「すみません」
「そうか。分かった……。無理を言ってすまなかった。もう行ってくれ」
南波会長の声は小さく、落胆ぶりが痛々しい。私は椅子から立てずに、そのまま沈黙が流れた。
「南波会長、その……もしかして、本当に、ほんっとうに困っているんですか?」
「ああ」
即答で断ってしまった罪悪感しかなかった。やっぱりこんなに困っている人を放って、このまま出て行くなんてとてもできない。両手をぎゅっと握る。
「……私で良ければ、会計……やります」
小声でそう言うと、南波会長は初めてほんの少し口元を緩めた。確かに口調は厳しいけど、多分優しい人なのだろうと思う。学園のためにこんなにも一生懸命な人だから。
「これでとりあえず全員と話しましたね」
いつもの波留くんの部屋。彼は明るくそう言った。そして、更に続ける。
「どの人がタイプですか?ひと月過ぎてますし、そろそろ絞っていきましょう!!」
「絞る?」
「最初にも言いましたけど、攻略できるのは1人です。無しの人とは距離を置いていいと思うんです」
「無しの人?ですか?」
波留くんは当然だというように強く頷く。
「全くタイプじゃない人です。1人しか攻略できません。乙女ゲー、やったことあるなら分かりますよね?」
波留くんの言っていることは、よく分かるし正しいと思う。確かに魅力的なキャラクターの中から1人を選び、その人を攻略するために全力を尽くすのが普通だろう。私だって今までそういう認識で乙女ゲーをやっていた。
大体ここへ来る前は、断り切れずに始まったゲームを早くクリアしようと、そればかり考えていたのに……。
「……無しの人……なんていません」
私は考えて、そう答える。
ダメだな。これじゃただの八方美人。……自分が嫌になる。
「そうですか。まあ、まだそんなに関わってない人も居ますし、もう少し色々話してみた方がいいかもしれませんね」
波留くんは言った。
明るく話しているけれど、何故か彼がいつもより少し疲れているように見えた。