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こんな夜には

作者: 多田 聡

 

 

 

 

 

 

     

 

    小説「こんな夜には」

 

 

 

 

 

 

 

 

                  多田 聡 著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蚤の市の扉と生まれて二十数余年。此処池袋の街並みも、随分と様変わりしたのかしないのか。なんせ私は扉である。知る由もない。 

 此処から見遣る六つ又交差点、裏通りの景色に殆ど変化は無いような気がする。尤も建物の中身は、時代の趨勢と共に変わってはいるようだ。ただ幸か不幸か、我が珈琲亭蚤の市と地階天ぷら若竹だけは、二十年相も変らぬ営業を続けている。

 ご夫婦で営む天ぷら若竹に対し、我が蚤の市はマスターの牙城。数年或いは数か月、アルバイトのおネエちゃんが移り変わるのは無理もない。

 今夜も周りの店達にネオンが灯り始める時刻。人影疎らな裏通り、細々営む君等には何とか頑張って頂きたい。憚りながらこの通りでは一番のベテランである私の、偉そうな物言いをご容赦願えれば幸いである。

 中から私を押し開ける。アルバイトのミヤちゃんが、外へと出て来た。

 この娘は良い娘だ。歴代のアルバイトでナンバーワン、と言っても過言ではない。毎朝必ず私の顔、つまりはガラスをピカピカにしてくれる。窓枠の桟を指で拭われると、身体の芯が痺れるほどに気持ち良い。「ハァ」と息を吹きかけ、ゴシゴシしてくれる。歳若い女性の「ハァ」である。もう、堪ったもんじゃありません。

 やや、これはのっけから失礼を致しました。セクハラ紛いの妄想、私もまだまだ精進が足りません。言い訳を承知で言わせて頂けば、この娘宮崎みゆき嬢。当年とって二十と、ん。

 しかしミヤちゃんは幾つになったのか。随分といい女になったものである。最初に現れたときは、流石の私も度胆を抜かれた。蜂の巣頭にドギツいメイク、ガムをクチャクチャ煙草をスパスパ。そんなヤンキーネエちゃんが、である。

 ショートヘアーに小さな丸顔。厚ぼったい唇には紅も挿さない。透き通るほどの柔肌に、スラリと伸びた長い脚。ワンピースの裾靡かせる、私はそんな風になりたい。

 いったい私は何が言いたいのやら。兎も角、ミヤちゃんは美しい女性なのである。

 私を押し開け出て来たミヤちゃんは、私のお腹に紙を貼りつけた。人気のない土曜日の裏通りを眺め遣り、ひとつ溜め息を吐く。視界に狭い東京の夜空を眺めた。それでも仄かに秋の星が瞬いて見えた。

 この夜空を、この場所に立ち、いったい何回見上げたんだろう。きっとミヤちゃんは、そんなことを考えたんだと思う。笑顔を作って私に頷くと。私に向かって頷いたと思いたいだけだが。又、店の中へと引き返した。

 私のお腹に貼られた紙。

 「泰造コンサート♪1994・10・8♪」

とある。それは可愛らしいギターの絵が描かれた、ポスターらしい。ミヤちゃんのお手製、つまりはその絵もミヤちゃんの手に拠るものである。実に良い。私の肌に心地良い。このまま永遠に貼っておきたい代物である。今日という日が、永久に終りのない一日であれば。願う処切なる、私であった。決して大袈裟に言うのではないことは、この後皆さんの知る処となるでしょう。

 カウンターの中で苛立ちを隠しきれないのが、マスターの沢木泰造くんである。無理もない。店内には泰造とミヤちゃんの二人しか居ない。お客様の姿が無い訳である。コンサートというポスターを掲げたにも拘わらず。

 此処は所謂、昔ながらの喫茶店。カウンターに七席、テーブル席が五台。手前みそで申し訳ないが、こじんまりと落ち着いた、大人の雰囲気を醸す、今では貴重な喫茶店だ。

 そんな蚤の市の電話が鳴った。これも今では懐かしい公衆電話。赤電話というやつだ。

 泰造の目がギロリと動く。ミヤちゃん、さっと受話器を取った。

「はい、蚤の市です。あ、原田くん」

 マスター泰造、じっと耳を傾ける。忙しなげに煙草に火を点けた。

「え、そう、それじゃ仕方ないよね。・・うん、そう、有難う。・・だけど、またちょいちょい顔出すし。マスターのライブだって聴きに来るから・・うん。わざわざどうも有難う。原田くんも、お仕事頑張ってね・・」

 溜め息のミヤちゃんは、受話器を置いた。

 察するに余りある電話の内容。手も足も出せない扉の私には、ミヤちゃんの無事を祈るのが関の山か。

「ミヤ。今何時だ」

「六時、四十五分」

「そうか、十五分まえか」

 目にマスターの怒気を感じ、背中に視線を感じる。板っきれの私に背中などと、失笑すること勿れ。私の目玉は三百六十度廻るのである。乃ち、視線の逆が背中となる。店内の泰造とミヤちゃんを見ている今、背中と言えば道路となる。此れ、理の当然。

 通行人が格子窓から店内を覗き込んでいる。カウンターに並べられた料理の数々は、どれも旨そうだ。選り取りみどりの酒の数。ビールに日本酒、ワインにウイスキー。蚤の市ファン垂涎の、マスター特製珈琲焼酎が、我が意を得たりと鎮座ましますのが、目に入らぬか。

 次いで通行人は、私を見る。私に貼られたポスターを、だが。此処で私は自問する。どうして私は扉なのだ。扉と生まれたばっかりに、私は私を開けられない。私は自身の無力を呪うほかない。巷に数多溢れる自動ドアなど、夢のまた夢。誰かに押すなり引くなりして貰うほか、私の生きる道はない。時に犬畜生でも私を開けるというものを。

 嘆き悲しみ地団駄を踏む私を尻目に、通行人は行ってしまった。憐れみの眼をもって、ミヤちゃんが私を見るのも致し方ない。泰造のイラつきは鎮まる処か、増す一方だ。

「で、何でこの店には、一人もお客が居ないんだ」

「まだ十五分も前なんだもん。いつもみんな、集まり悪いんだから。そのうちボチボチ集まって来るって」

「そのうち、ってのはどのうちなんだ、ええっ。みんな、ってのは何処のどの連中なんだ、ええっ。ミヤっ、どうなんだ」

 泰造に物申す。お客が居ないのは、ミヤちゃんのせいでは決してない。言わせて貰えば沢木泰造、お前の唄が拙いからだ。かてて加えて、自分で自分を開けられない、木偶の板の私の責任だ。ミヤちゃんに当たるのは筋違いというもの。この私を責めるがいい。自分の唄を呪うがいい。

 私の頭上で鈴が鳴る。油断をしていたか、気付かなかった。私を引き開けカップルが入って来た。

「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席」

 ミヤちゃんの顔が綻んだ。この顔だ。この娘の笑顔は堪らなく良い。瞬時にして店中を明るく彩ってしまう。この顔見たさにお客様はいらっしゃるのだ。泰造の唄では、決してない。

「今日はうちのマスターのコンサートなんですよ。楽しいですから、是非聴いていって下さい」

 座りかけたカップルは、二の足を踏む。無理もない。藪から棒にコンサートなどと。

 秋の夜長にしっとりと、愛を語らう男女が選んだ店。それが此処蚤の市だ。男は煙草を燻らせる。ツーっと煙が宙を上る。女はカップを玩び、両手を添えて口に運ぶ。見つめ合う二人に囁きかけるような、ビル・エバンスのピアノこそ相応しい。それが私の蚤の市だ。泰造の唄では、決してない。

 だがしかし、此処は私が踏ん張るべきではなかっただろうか。ミヤちゃんの曇った顔など見たくはない。

「そうですか、残念。じゃあ、又この次にでも。有難うございます」

 又しても私は自身を呪う。開けたい時に開けられず、開けてはならぬ時に開けられてしまう。哀しき扉の業のようなものに、私は独り打ちひしがれるしかない。

 空気が濁る。くすんでいる。泰造とミヤちゃん、二人きりの店内。時計は刻々と夜を刻んでいく。

「ミヤっ、今何時だ」

「だから、マスター。ついさっき聞いたでしょ。まだ五分も経ってません。少し落ち着いてよ。そんなにイライラしないで」

「そう言えば、ミヤ。さっき電話鳴ってたろう。誰からだ。誰からの電話だ。良い報せか。ええっ、どうなんだ、ミヤ」

「原田くん」

「は・ら・だ。良い響きだねえ。彼奴は前々から、見処のある若者だと、俺はそう思ってたんだ。で」

「仕事、終われそうもないから、って。なんか元気なかったなぁ。又ヘマでもやらかして、怖―い女上司に怒られてるんじゃないかな」

「だから彼奴はダメなんだ。今日は土曜日なんだぞ。何でこんな大事な夜に、彼奴は仕事なんかしてやがるんだ。頭おかしいんじゃねえのか。そんでヘマなんかやらかしてよ。あの色っぽいおネエさま上司に、ベシベシしごかれてんだろう。ったく。夜中に二人で残業かぁ。羨ましくないこともないが」

「誰が夜中なんて言ったのよ。何がどう羨ましい訳、マスター」

「ミヤっ、今何時だ」

「さっきっから、いったい何回聞くのよ。五分も経ってませんっ。ほら、六時四十八分」

「なにぃ、ミヤ。もう三分も経ったのかよ。今この店では、何の出来事も起ってないのにかぁ。あそこのオンボロドアを開けてだ。誰一人入って来てないってのに、もう三分経っちゃったのかよ。ええ、ミヤ、三分か。本当に三分も、経っちゃったのか」

 聞き捨てなりません。二十年間一度として、修理もしてくれないのは何処のどいつだ。二十年間、大した事故も故障もなく、こうして立って居られるのは、いったい誰のお蔭なんでしょうか。ええっ、マスター、経営者。毎日こうしてピカピカの笑顔で、お客様を迎えられるのは、誰のお蔭かと聞いているのです。

ましてやこの数年間。一度として、貴方が私の顔を磨いてくれたことが、どうです、おありになるのですか。みんなミヤちゃんがやってくれている。

 それを、言うに事欠いて、オンボロドアとは何たる暴言。此処に撤回を要求致す次第であります。

「もう、ちょっと落ち着いてよ。そのうち誰か来るから。ねえ、マスター、ビールでも呑んで待ってようよ」

 君って娘は。ミヤちゃん、君は良い娘だ。素晴らしい女性です。蚤の市の女神です。それに引き替え沢木泰造四十と六歳。大人げないにも程がある。

「どーして、誰も来ないんだよ。何でひとりも現れないんだよ。おい、ミヤ。お前はどーして、そーやって落ち着いてビールなんかを呑んでられるんだ。今夜はあれだぞ。お前の送別会でもあるんだぞ」

 出来得るならば、それは言って欲しくなかった。決して忘れていた訳ではない。忘れられるはずがない。そう、蚤の市の天使宮崎みゆき嬢。本日一九九四年十月八日をもって私の元を去って行くのです。

 ミヤちゃんが残って泰造が去れ。そう思うのが人情ならぬ扉の情というものだが。如何とも為し難いのが世の中の常と、此処は諦めるよりほかはない。大いなる未来を背負った若者が、このような寂れた場末の喫茶店で、燻ぶって居て良い筈もない。背中いっぱいに翼を拡げ、社会という大海原へ飛び立って欲しいと願うのも親心。

 通信教育とやらで、人知れず勉強を続けたミヤちゃん。晴れて貰った高校卒業資格を盾に、就職活動をしていたのだ。このご時世、そうそう旨い口が転がっている筈もない。苦い涙を飲み下したのも幾度か。そして今回到頭遂に、就職という切符を手にしたのです。

 まずは拍手。何でも浜松町にあるディベックなる会社らしい。海外留学斡旋業とでも言うのだろうか。宮崎みゆきの熱意と人柄に打たれた青年社長。必須である語学もままならない彼女に、事務員の糊口を与えてくれた。

 浜松町で働きながら語学を学び、末はアメリカへ行ってみたい。これがミヤちゃんの目下の夢である。

「随分遠回りしちゃったけど。やりたいことが見つかった」 

 泰造にそう語ったミヤちゃんの目は、輝いていた。寄り道結構、道草上等。遅すぎることなど決してない。普通の人の倍掛かるのなら、普通の人の倍生きれば良い。

 だから泰造、今夜の主役はミヤちゃんなのだ。貴様の唄などどうでも良い。主役が脇役に缶ビールを手渡した。

「まあ、マスター、ほら。みんなもそれぞれ忙しいんだし」

「俺だって忙しいよ。糞がつくほど忙しいんだよっ」

 泰造先生、まだまだ駄々を捏ね繰りまわす。

「その忙しい合間を縫って、今迄良く頑張ってくれた宮崎への手向けにって、毎晩毎晩ギターの練習してきたんじゃねえか」

「有難う、マスター。私、本当に嬉しい。マスターのそんな気持ちだけで、もう充分だよ。長い間、本当に有難うございました」

 ミヤちゃんは、改まって頭を下げました。流石の泰造もこれには照れを隠せない様子。

「だけで終わらせるなよ、だけで。気持ちも唄も、全部受け取れよ」

 カウンターに並べた料理の数々。とりどりの酒瓶を見るにつけ、泰造の気持ちはザラつくのでした。

「しかしよぉ、ミヤ。手料理ごまんと拵えてよ。酒だって何だって呑み放題。食べ放題の、呑み放題の、聴き放題だよ。こんだけ並べて、まだ何が足りないって言うんだよ。何が不足だって言うんだよ。ええ、ミヤ。俺は何か悪いことをしてるのか。イケナイことをしてるのか。どうなんだ、ミヤ。俺の唄は犯罪か。コックのギターは、法に触れるのかっ」

「私、マスターの唄好きだよ。お店跳ねて、こうやってビールなんか呑んだ時。マスターよく唄ってくれたよね」

 駄々っ子の戯れ言に、いつまでも付き合っては居られないのか。蚤の市で過ごした数年の日々が脳裏を掠めたのか。ミヤちゃんの口調がしんみりとした色を帯びてきた。

「マスター、気持ち良さそうに唄ってるから、私も気持ち良くなっちゃって。いつの間にかウトウトして。夢現にマスターの濁声聴いてるもんだから。何か悪い夢見ちゃって、変な汗掻いて跳ね起きたり」

 泰造の随分と後退を見せる生え際に、クエッションマークが浮かぶのが見えた。

「店の灯りが点いてるからって。通りがかった夏子姉。そっと中覗いたら、マスターが大声で唄ってて。見つかったら、大変だぁ、なんて。そっと逃げて帰ったり」

 堪らず泰造、缶ビールをプシュッと開ける。

 私からもお願いだ、ミヤちゃん。ひとつぐらいは、良いエピソードを聴かせてやって頂きたい。

「マスター、唄う声だけは、大っきいでしょ。外まで音、ダダ漏れだから。通りすがりの知らない人に、指差されて笑われてて。マスター全然気づいてなくって」

「止めろ、ミヤ。優しい口調で、世にも恐ろしいことを口走るんじゃない」

「だけど、マスターの唄のお蔭で、私知らない唄いっぱい教えて貰った。私の知らない素敵な唄が、まだまだ世の中には沢山あるんだ、って。何か嬉しかったなぁ」

「だろう、なあ」

 泰造、息を吹き返す。私も少し安心が出来た。

「まだまだ、もっともっと沢山ある」

「うん。マスターの拙い唄じゃ、絶対に良さが分からない。オリジナルで聴かなきゃ、って。随分CDショップに行ったっけ」

「どうして、こんなに悲しいんだろう」

「楽しかったなぁ、蚤の市。優しいお客さんに囲まれて、毎日毎日楽しかった。マスター、本当に有難うございました」

 また少し、しんみり。今日を限りに去って行くミヤちゃん。この事実が実感として私の胸に、泰造の胸に迫って来る。

「ミヤ、乾杯するか。来るか来ないか分かんない連中、待っててもしょうがねえ。二人で呑んで、始めるとするか。宮崎最後の夜を」

「うん。呑もう呑もう、乾杯」

 兄弟の様に仲の良い二人が缶ビールを合わせる。私もひとつご相伴に預かろう。

「後で、たっぷり唄ってやるからな、ミヤ。今夜はお前だけの為に熱唱だ」

「そのうちみんな来るって。私独りを地獄に置き去りなんて。そんな酷いこと、みんなしないから」

「何だかさっきから、胸に何かが突き刺さって来るんだけどな。ミヤ、敵意があるよね、俺に」

「ああ、ビールが美味しい。蚤の市で呑むビールは、最高だ」

「ううむ、何だか少しずつ、傷ついてるんだけど、僕」

 言いながら泰造は私を見遣る。視線を感じて辺りを見回す。が、私を開けようという人の気配は、毛頭ない。

 六つ又交差点の裏通り。日の暮れた裏街に、珈琲亭蚤の市の灯りがほんのりと漏れている。

 駅の方角に人影が見える。一組の母娘連れが、此方に向かって歩いて来る。

 私は今でも覚えている。あの日の夕方、一九八七年の秋。泰造の学生時代からの友人、宮崎潤子に連れられて、ミヤちゃんが初めて蚤の市に現れた日のことを。


 潤子さんが私を開き、店の中に入って行った。躊躇いがちに立ち尽くしているのが、十六歳のミヤちゃんだ。正直驚きを隠せなかった。いや、恐怖さえ感じていたことを、私はハッキリ覚えている。

 その出で立ちが尋常ではない。不良、ヤンキー、アフロ、蜂の巣。チェーン、カミソリ、金属バット。シンナー、万引き、カツアゲ、リンチ。積木の崩れたビーバップ。

 数知れない言葉が溢れ出て来たが、単語を並べるのが精一杯だった。兎にも角にも、不良少女が其処に居た。

 私の傍らで躊躇う娘を、潤子さんが引き入れた。唖然呆然、流石の泰造鳩が豆鉄砲喰らうの体。無理矢理声を捻り出す。

「随分気合の入った娘さんだな、潤ちゃん。まあ、其処座んなよ」

 泰造に促され、潤子さんはカウンターに腰掛ける。一応面接と心得ているのか、ミヤちゃんそのまま立ったままだ。

「みゆきちゃん、だっけ。どうぞ、掛けて」

「ちぃス」

 これが挨拶と言えるのかどうか。曖昧に頭を下げたミヤちゃんが腰掛ける。どうする、泰造。どうなる、蚤の市。私は生唾を呑み込んだ。

「ちょっと、みゆき。もっとしっかり、挨拶なさい。面接して貰ってるのよ、貴方が」

「まあ、まあ。いいから、潤ちゃん」

「泰造君、本当に大丈夫かしら、この娘。ご迷惑なんじゃないの」

 迷惑とまではいかないが、大丈夫でないのは確かだろう。見てくれで人格を判断してはいけないが、珈琲亭蚤の市には相応しくない。

 テーブル席の常連を見給え。目を合わせたら危害が及ぶとばかり、さっきから俯いたまま固まっているではないか。

 此処は丁重にお引き取り願うのが定石。言わずと知れた客商売、向き不向きがあるというもの。潤子さんには申し訳がないが、今回は縁が無かったということで。

 ミヤちゃんを眺めていた泰造の顔に、笑みが浮かんだ。意外な言葉を口走る。

「大丈夫かどうかは、やってみないと分かんないよ」

「でもこの娘ったら。飲食店で働こう、っていうのにこの格好。頭なんて、もう蜂の巣みたい」

 娘は母親を睨み付けた。やっぱり無理だろう、泰造くん。苦労するのは自分なんだぞ。

「ハハハ。十六歳だろ、今。お洒落したい盛りじゃない。まあ、君のそれがお洒落なのかどうかは、このオジサンには分かんないけどな」

「それにこの化粧よ。この爪よ」

「まあ、いいから、潤ちゃん。そんな固っくるしい店じゃないんだから」

 其処には私も異論はない。気心知れた常連さんで賑わう、ザックバランな喫茶店。だからこそ、難しいのである。マニュアル通りで事が済む、そんなお客連ではないではないか。

 泰造、今度は娘に向き直った。

「但し、だ。お洒落するんなら、毎日キチンと綺麗にして来ること。マニキュア剥げかかってたり、化粧が斑だったり。眉毛が片方無かったり。そういうのは、アウトだぞ」

 蜂の巣頭がコウベを垂れる。ちょこんとだが。

「みゆき。しっかり返事しなさい」

「いいから、潤ちゃん。やいや言わない。分かってるって、この娘だって」

 苛立つ母親を尻目に、突然娘が勢い良く立ち上がった。あからさまに怯んだ泰造を、真っ直ぐに見つめている。

「宜しく、お願いします」

 素直で元気な挨拶に、潤子さんは少なからず驚いている。ホッと息を吐く泰造、態勢を整えた。

「それじゃ、みゆきちゃん。早速今日からやってみるか」

「泰造くん。今日来ていきなり今日ってのは、ちょっと私」

「何で潤ちゃんがドギマギするんだよ」

「やります。私」

 みゆきの宣言に、泰造が顔を綻ばせる。

「良し。その意気その意気。あの奥に洗面所あるからさ。ちょっと準備しておいで。これ着けて、頭とか顔とか。ササッと、な」

 泰造の差し出したエプロンを受け取り、みゆきは洗面所へと姿を消した。母親は心配そうに見送っている。私も同様。泰造はあのまんまで働かせるつもりなのか。

「大丈夫かしら、あの娘」

「さあさ、潤ちゃんは帰った帰った。まさか閉店まで此処に居るつもりじゃないだろう。あの娘だって、オフクロなんかが居たらやりづらいんだから。さ、帰った帰った」

「でも、何だか心配で」

「心配したってどうにもならない。ダメな時はダメなんだから。だけど、折角自分で、何かをしようと思ったんだろう。このままじゃ、つまんないって、さ。放っといてやれよ、な。さ、帰った帰った。今日はもう何時間もないんだし、ある程度で帰すから。じゃあね」

 泰造は急き立てるように潤子さんを立たせる。背中を押して追い出した。

 私の顔越しに潤子さんは中を覗き込んでいる。焼けるだけの手を焼かされ、もう丸焦げの家庭に、どうにか平穏が戻るように。何かの切っ掛けになってくれますように。そんな想いが、私にも伝わって来た。

 潤子さん、泰造が引き受けたんだ。大船と言うには甚だ頼りないが。奴が言うように、暫らく放っておくのが良いのかもしれない。どっちに転がろうと、今より悪くなることはない。沢木泰造が、そうさせる筈はない。さ、オフクロさんは帰った帰った。

 私の思いが通じたのだろう。潤子さんは、意を決したように踵を返す。駅に向かって元来た道を帰って行った。

 潤子さんを見送る私は、気配を感じる。反対側の六つ又交差点から、小走りに駆けて来るひとりの女。おお、あれは美容室ハルカの遥姐さんに間違いない。今日はミヤちゃんの送別会だ。私も何時までも思い出に浸って居る場合ではない。待望のお客さんのご来店だ。

 

 身体ごとぶつかるように、私を引き開け入って行く。遥さん、そんなに急がなくても大丈夫でしょう。

「ああ、やっと来たっ。お客さんだよ、マスター。遥さん、いらっしゃい」

 待ち焦がれたお客さん。ミヤちゃんの声もひと際でかい。なんせ未だ一人も客は居ないのである。

「何よ、これ。閑古鳥がケタタマシイじゃない」

「有難う、遥さん。もう、マスター荒れちゃって大変だったんだから」

「だって、今日はミヤちゃんの送別会でしょう。店、早仕舞いして来たんだから」

 ビールを片手に泰造が歩み寄る。満面の笑顔を漲らせて。

「やっぱり、持つべきはハルちゃんだよ。ハルちゃんだけが本当の友達だよ。はい、ビール。沢山呑んで」

「遥さん。長い間本当に有難うございました。遥さんが常連さんで居てくれたから、私此処で頑張れたんだと思う。何にも出来ない私を、いつも気に掛けてくれて。本当に感謝してます」

「そんな、私は何にもしてないわよ。ミヤちゃんだから、こんなマスターと長いことやってこれたの。ミヤちゃん、ご苦労様でした」

「遥さん、私」

 感極まる。ミヤちゃんも私も。目に一杯の涙を溜めるミヤちゃんに、遥さんも釣られそうになる。

「待って、ミヤちゃん。湿っぽいのは止めようよ。そういうの苦手。別にミヤちゃん、この世から居なくなるわけじゃないんだから」

「そうだよ、ミヤ。これからは客として、ちょいちょい顔出すんだぞ」

「はい。マスターも、遥さんも有難う」

「これからは、お客同志よ。一緒に珈琲飲みに来ましょう」

 遥さんとミヤちゃんが、カウンターに並んで珈琲を呑む。立ち昇る湯気の中に泰造の顔が浮かぶ。想像するだけで微笑ましい光景ではないか。

 OLとなったミヤちゃんは、スーツなんかを着てるのだろう。ジーンズにエプロンの今のミヤちゃんも可愛いが、スーツのミヤちゃんはさぞかし恰好の良い都会の女といった風情だろうか。一端に恋の相談なんかを遥さんに打ち明ける。んん、恋。

 恋だとぉ。おのれ俗悪なる東京の虫め。宮崎みゆきの美しい瞳に、涙のひと滴でも浮かべさせてみろ。この私が黙ってはいない。凡そ軽薄なる東京の馬の骨風情に、指一本触れさせてなるものか。みゆきが欲しくば、この私を倒してからにして貰おう。

「何だか、風が出て来たのかな」

 怒りに打ち震え、ガタピシいわせる私を優しいみゆき嬢が撫で擦ってくれた。私に両腕の自由があれば、今此処で君をしっかり抱きしめたであろうに。私を落ち着かせたミヤちゃんは、席へと戻って行く。

「マスターのライブだって、きっと来るから。遥さんも一緒に、ね」

「唄、は、ねえ。まあ、ね。時間が、あったら、ねえ」

 明らかに迷惑そうな遥姐さん。全く意に介さないのが泰造の強みだろうか。

「二人共、先の話は、まあ良いじゃないか。今夜のライブも、盛り上げるからさ」

「こここ今夜ぁ。唄うのぉぉぉ」

 この人、本当に驚いている。本当に厭がっている。声を落して囁いた。

「知らなかった。参ったなぁ。だったらお客さん断るんじゃなかったなぁ」

「ん、ハルちゃん。今、何か言った」

 力なく遥さんは首を横に振る。その目は、泰造の唄に怯えていた。ミヤちゃんはそっと近づき、幽霊のポーズを取る。

「遥さん、まだあの部屋に、住んでるんですか」

「もちろん。快適よ」

「まだ、出て来てるの」ミヤちゃん、更に両手を突き出す。

「それが、全く現れないのよ。此方は首を長くして待ってんだけどね」

 言いながら遥姐さん、急き立てられるように、缶ビールを呑み干した。

「ね、ミヤちゃん。珈琲焼酎貰える」

「もう、お替り。遥さん、ピッチ早い」

「幽霊だって、色々忙しいんだろう。折角出て来たと思ったら、ハルちゃんにあれやれこれやれ、なんてコキ使われたんじゃさ。幽霊さんも堪ったもんじゃないだろう」

「ハハハ、遥さん、可笑しい。幽霊さん苛めちゃったりして」

「苛めた訳じゃないわよ。お友達になろうとしただけ」

「ハルちゃんらしいよな、実際」

 らしいです。先ごろ引っ越した遥さんのマンションに出るらしいのです。うら若き女性の幽霊が。

 幸子と言う名の不幸な女の短い生涯。粗末にした命を取り戻せとばかりに、遥さんは引っ越しの後片付けを押し付けたらしい。余りの人遣いの粗さに辟易した幸子さんは、その夜を限りに二度と姿を現さないとか。

 詳しい事の顛末を、此処でゆっくりと語りたい処ではあるのだが。先を急ぐ遥姐さんが遮ってしまう。今回は割愛させて頂こう。また何れ折をみて、聴いて頂ける日が来ることを願いつつ。

「ねえねえ、ミヤちゃん。その話はもういいからさ。珈琲焼酎、ね。お願い、珈琲焼酎ロックで。早く、ミヤちゃん」

「そんなに慌てて呑まなくても。はい、今作ってきますから」

 焼酎の中に珈琲豆を漬け込むだけ。それが珈琲焼酎だ。使うは金宮焼酎、炭火焼の豆。これが泰造の拘り。乃ち、蚤の市特製珈琲焼酎と相成る訳だ。

 仄かに香る珈琲が、甘い匂いを醸し出す。呑んでは滑らかな口当たり。知らず知らずに一杯が二杯。気付く間もなく、足は取られる腰は立たない。過去も未来も忘却の彼方へ。強い酒なのである。大人が嗜む酒である。

 そいつをロックで所望する、遥さんの心が語っています。

「マスターの唄、聴くんだもんね。強いお酒で神経殺しておかないと」

 お酒を作りにカウンターを離れるミヤちゃんを、改めて見つめる遥さんの瞳。遠いあの日のミヤちゃんの姿が、映っているのかもしれません。

 蜂の巣パーマのドギツイメイク。美容師である遥姐さんの、お眼鏡に適う筈もなく。

 

 トレンチで運ぶ珈琲にも、漸く慣れた蜂の巣少女。一滴として珈琲は、ソーサーに零れなくなりました。

「お待ちどうさまです」

「有難う。随分慣れたみたいじゃない、ミヤちゃん」

「はい、有難うございます。でもまだ失敗ばっかりで。いつもマスターに怒られてて」

 蜂の巣少女のはにかむ笑顔。正直言って気色悪い。プロの美容師が、穴の開くほど見つめています。

「どうか、しました。遥さん」

「うむむ」美容師が眉を顰めて唸っている。

「私、何か、おかしいですか」

「んん。おかしく、ないことは、ない。かなぁ。うむむ」

 遥さんは店内を見回す。夕方の蚤の市は客席も疎らだ。カウンターでは泰造が、暇そうに煙草を燻らせている。

「ねえ、マスター。暇だよね、今」

「ああ、暇だな、今日は」

「だったらマスター。今夜ちょっと、ミヤちゃん借りれない」

「借りるって、どうすんの」

「もうすぐ閉店だし、今日はもうそんなに混まないでしょ。私、良いこと思いついちゃったんだ」

「何だよ、ハルちゃん。嬉しそうに」

「ね、ミヤちゃんも良いでしょ。ちょっと私に付き合ってよ」

「私は、良いですけど」

「良っし、決まり。ね、良いんでしょ、マスター。ミヤちゃん連れて行っちゃうね」

「どうしたんだよ、いったい」

「フフッ。それは明日のお愉しみ。ささ、ミヤちゃん。行きましょ行きましょ」

「あっ、でも、遥さん。片付けとか、まだ」

「良いよ、ミヤ、今日は。ハルちゃんに付き合ってやんな。何か企んでるらしいから」

「有難う、マスター。じゃあ、あとは宜しくね。お疲れ様ぁ、ご馳走様ぁ」

「すいません、マスター」

「いいからいいから、ミヤちゃん。行こ行こ。うちのお店に、行きましょう」

 いったい何を企んでいるのやら。遥さんはさもそれが愉しい出来事であるかのように、ミヤちゃんの背中を押して出て行った。

 煙草を吹かしながら泰造は、女二人が残していった華やいだ空気の中で、笑顔を浮かべていた。

 翌日がやって来る。閉ざされたシャッターが巻き上げられ、朝陽が私を照らし出す。秋晴れの澄んだ空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。今日も一日が始まるのだ。

 傘立てに私を引っ掻けた泰造が、看板を引っ張り出す。二十年変わらぬ朝の風景だ。私も看板くんも傘立てさんも、開店当初からのベテランだ。三者三様、味のようなものをそれぞれの身体に滲ませている。

 ガステーブルでは、お湯がチンチン沸き立っている。マスター泰造、珈琲豆を三倍掬い、ミルの筒に入れ込んだ。ゴーッと大きな音を立て、珈琲豆が挽かれていく。水気を絞ったネルをセット。ゆっくりとお湯を落とし込んでいく。珈琲豆から立ち上る湯気と香りが、泰造を蚤の市を包み込んでいく。これも変わらぬ朝の光景。

 私は大きく息を吸い込み、朝一番の珈琲を味わうのだ。サーバーには二杯分の珈琲が抽出されようとしている。泰造自身と、もうすぐ出勤するであろうミヤちゃんとの二杯分。

 一番客の訪れる前に、二人で珈琲を味わう。それが、泰造の朝の流儀。香りのご相伴に預かりながら、訪れる客を待つ朝の時間。私にとっては至福の時だ。

 今日は天気が良さそうだ。背中から差し込む朝陽で、目がシバシバしてしまう。朝の一服、泰造が煙草に火を点けた。と、背中から私を開ける女性が一人。

「いらっしゃい」

 眩しげに目を細めた泰造が言う。朝陽に翳む目を凝らす。ホワイトジーンの脚がスラリと伸びた、ショートヘアーの女性が私の目の前に佇んでいる。後姿で間違いない。池袋の裏通りでは滅多にお目に掛かれない、美しい女性だと。

 今更ながらに世を恨む。どうして私は扉なのかと。早足で脇をすり抜けて、何食わぬ顔で振り返る。世の男性諸君の常套手段が、扉の私には不可能なのだ。ひと目で良いから拝んでみたい、美しい後姿が言葉を発した。

「お早うございます、マスター」

 んん、この声は。カウンターから身を乗り出し、泰造は目ん玉の焦点を合わせる。

「ミヤザキ、か」

 お願いだ、ミヤちゃん。こっちを、こっちを向いてくれ。ひと目その姿を、生まれ変わった君の姿を、この老い耄れた板っきれに見せてくれないか。

「アッハハハ。ミヤ、何処の別嬪さんかと思ったよ」

「昨日、遥さんが、お店で」

「ああ、ハルちゃんの美容室に行ってたのか。ふうん、変われば変わるもんだよなあ」

「やっぱり、変かなぁ」

「変じゃねえよ、全然。ミヤ、案外美人なんだな。良いよ良いよ、物凄く良いよ」

「メイクもしない方が良いって、遥さんが」

「ああ、良い。しないで良い」

 感慨深げに泰造が見つめている。照れ臭そうに泰造の視線から逃れたミヤちゃんは、エプロンを着け来客の準備を始める。

 実に良い。素晴らしく良い。この世紀のイメージチェンジに、総ての常連が驚くこと請け合いだ。慣れない自分の姿に、照れてる形も可愛らしい。今更ながらに思うのだ。宮崎みゆきは花も恥じらう十六歳の乙女なのだと。

「何だか自分じゃないみたいな気がして。少し、恥ずかしい」

「ミヤだよ、それが。本当のミヤザキだよ」

 八時を回った。朝の常連さんがポツポツ来始める時刻である。

「いらっしゃいませ」

「えっ、何、へぇぇぇ、ミヤちゃん。誰かと思ったよ」

「お早うございます」

「凄いイメチェンじゃん。ふうん、へぇぇ」

 思った通りの反応だ。不良の面影をかなぐり捨てたミヤちゃんの姿に、驚き、感心し、見惚れてしまう。蚤の市の看板娘の一挙手一投足に、好奇の視線が注がれる。

 余りの無遠慮な眼差しに、少し臍が曲がるのも今朝は愛嬌ということにして頂こう。

「ジロジロ見てんじゃねえぞ、コノ野郎」

「ヒィ、御免なさい」

 急激に中身までは、変われないものであります。が、八割方埋まったモーニングタイムの店内で、ミヤちゃんは忙しく働いています。

 仕事を覚え常連に溶け込み、働く愉しさといったものを理解し出したミヤちゃん。あれからずっと、ミヤちゃんの笑顔が珈琲亭蚤の市を明るく彩って来たのです。

 今では懐かしいそんな日々の思い出が、私の脳裏に甦って来るのも送別会の為せる業。どうか今夜は賑々しく、彼女の門出を祝おうではありませんか。


 背中に視線を感じて振り返る。と、私を透かして中を眺める男が一人。いや、私の影に身を顰め、中を覗き見している男。大きな花束を携えてモジモジモジモジ煮え切らない。入りたいなら入るがいい、野々市勘太郎専務。

 そんなに身体を摺り寄せられては、如何な板と雖も気味が悪い。仕方がない。私がミヤちゃんに気を送る。振り向いたミヤちゃんが、専務を認めた。やれやれ、さっさと入りなさい。世話の焼ける御曹司めが。

 駆け寄るミヤちゃんは勢い良く、私を開け放ちました。零れる笑顔に勘太郎、一歩退く屁っ放り腰。情けないったらありゃしない。

「いらっしゃいませ、専務。わざわざ来てくれたんですか」

「ええええええ、あああああの、きょ今日は、そそそそ送別会だととととと」

 ミヤちゃんが勘太郎の腕を取る。屁っ放り腰を引き摺り込んだ。美容師遥姐さんが、坊ちゃま丸出しの蝶ネクタイに、怪訝な視線を投げかけている。

「珍しいですね、専務さん。今夜はお独り様ですか」

「気を遣わないで下さいよ、ムーちゃん。そんな花束なんて」

 言いながら泰造が大きな花束を取り上げた。

「あっ、それは」

「そんな花束貰うような、大それたコンサートじゃないんですから」

「コンサートって」

「表のポスター、見ませんでした。専務、あのギターの絵、私が描いたんですよ」

「絵が。ミミミヤちゃんさんの絵が、飾られているのですか」

「余興ですよ、余興。仲間集めて、ただワイワイと、なんて。まだ、一人しか集まってなくて。ムーちゃんが二人目のお客さんで。って、何で誰も来ないんだよ。ミヤ、一体全体、今何時何分何秒なんだ」

「あちゃぁ、又始まっちゃった。誰もって、マスター。ちゃんと遥さんが、来てるじゃない」

「そうよ、マスター。失礼でしょう、私に。腹括ってお客で居るんだから。珈琲焼酎四杯目だけど」

 勘太郎は私の背中に回り、ミヤちゃんの描いたポスターを確認している。収まらないのが泰造だ。駄々っ子ぶりをぶり返す。

「じゃあ、何か、ミヤ。俺の仲間はハルちゃんだけだ、ってことなのか。俺には他に友達が居ないって、そういうことなのか。ええっ、どうなんだ、ミヤ」

 ゆっくり私を閉めた勘太郎は、明らかに興奮の体だ。

「す、素晴らしい絵です。何という才能なのでしょう。素晴らしい。本当に素晴らしい」

「兎に角さ、ミヤちゃん。専務さん、座ってもらったら」

「あ、すいません。どうぞ、座って下さい、専務。今日は、呑み放題の食べ放題の、聴き放題なんですから。遠慮なく、何でも好きなもの言って下さいね」

「は、はい。しかし、うちの片町が、今日はミヤちゃんさんの、送別会だと。確かに、そう言いました。コンサートなどとは、その、ひと言も」

「で、ムーちゃん。いつも一緒の、その平社員は、今日は」

「ええ、ええ。片町くんは、何でも今日、大事な試合があるとかなんとか」

「片町くん、又ジャイアンツ。よくまあ毎日毎日、飽きないもんねえ」

「今日が、最後のゲームだとか、なんとか」

「今日って、巨人VS中日でしたっけ」

「は、はい。ななな何でもご存知なのですね。ミミミヤちゃんさんは。おおおお御見それしました」

「何だかみんな、盛り上がってましたから」

 ふん、と遥さん、興味無さげに珈琲焼酎を煽った。四杯目が空になる。勘太郎も同様、野球になど興味が無いらしい。

「一九九四年十月八日。今日のゲームは、きっと伝説になるに違いない。と、うちの片町が。しかし、です。そんなくだらない野球なんかと、取締役専務であるこの私の、大切な恋路とです。どちらが大事なのですか。私はこう申し上げたいのです」

「恋路、ねえ」

 遥さんが憐れみを含んだ目を、勘太郎に向ける。満たされた五杯目の珈琲焼酎に口を付けた。乗っかれるものには乗っかるのが、今夜の泰造だ。

「全く、ふざけた平社員だ。ねえ、ムーちゃん。野球なんざぁ、毎日毎晩何時だって見れるだろうに。今日のコンサートは今日しかないんだ。ミヤザキ最後の蚤の市の夜に、どうして彼奴は野球なんかを見てられるんだ」

「そうなんです。其処なんです。こんなことになるのなら、もっともっとずっとずっと以前から、このお店に通っているべきでした。こんなに素晴らしいお店を知っていながら、これまで何の報告も受けては居りませんでした。ダメ人間です、あの男は。一生死ぬまで、平社員のまま居ることになるでしょう。哀れ、片町周次くん」

「まあまあ、専務さん。片町くんも送別会だって知ってるんですから。野球終わったら、顔出しますよ、きっと」

「ズルいです、片町くん。コンサート知ってて、確信犯ですね」

「ん、何が」泰造の額にクエッションマークが点灯する。

「コンサート終わった頃に、ひょっこり、ってね」

「ん、何で」

「しかし、しかしです、遥さん。ミヤちゃんさんは、これからいったい何をしようというのでしょう。こんな私を置き去りに、何処へ何処へ行ってしまうのでしょう」

「本当に、やりたいことが見つかった。そういうことだよね、ミヤちゃん」

「ええ、まあ、それは。色々よく考えて、決めたことなんです」

「やりたいこと、ですか。淋しいです」

「兎に角、専務さん。今日は一緒に呑みましょうよ。何か呑みもの作りますか」

「いいいいいい一緒に、のののの呑む。嗚呼、何という幸せ。でででででは、遥さんと同じものを」

「専務さんも珈琲焼酎ですか。やっぱり人気だな。マスター特製珈琲焼酎」

「ミヤ、氷が心配だな。何故か今夜は珈琲焼酎がいっぱい出るような、そんな気がする」

「マスター、今のうちに、氷買っておいた方がいいかも。私、買ってきます」

 エプロンを着けたままミヤちゃんは、飛び出していった。元気な後姿に見惚れたままで、勘太郎が呟いた。

「マスター、ロックで大盛りにして下さい。神経殺してしまいますから」

「ん、どうして」

 街灯に照らされた裏通りを、ミヤちゃんが走って行く。良い刻限だ。マスターの拙い唄でも聴いていれば、そのうちボツボツ常連さん達が顔を出すだろう。

 長い夜だ、そんなに急ぐ必要もない。急げば急ぐだけ、意地の悪い時間というものは早く過ぎ去ってしまうのだから。愉しい時間は、あっという間に過ぎて行く。今夜だけはゆっくりじっくりミヤちゃんとの時間を過ごしたい。走らなくても良いよ、ミヤちゃん。ゆっくり歩いて帰っておいで。

 ミヤちゃんの帰りを待ち侘びる私の心に、苦い記憶が甦って来た。思い出したくもないあの日。出来ることなら、このまま帰って来ないで欲しい。買い物に出掛けたミヤちゃんに、そう伝えたい私が其処に居た。

 自分で自分に鍵を掛け、シャッターを引き摺り下ろしてしまいたかった。括りつけられた扉である私に、どうしてそれが出来ようか。

 買い物袋をぶら下げたミヤちゃんの姿が、遠くに見える。来るんじゃない。帰って来てはいけない。ミヤちゃん、ミヤちゃん。

 声にならない私の願いは、虚しく宙に消えて行った。


 両手の塞がったミヤちゃんは、窮屈そうに私を引き開ける。身体を滑り込ませるように中に入った。瞬間、身体が凍り付く。眉を顰めた目元から鈍い光が放たれる。

 テーブル席に三人の若者の姿。否、小僧共と言い直そう。微動だにしないミヤちゃんを認め、口角を上げた。ミヤちゃんの顔は引き攣っている。

 遥さんはカウンターから、不安気な視線を送っている。平静を装い泰造は煙草を吹かす。離れたテーブル席には常連の原田くんがいる。目を合わせたが最後、どんなイチャモンを付けられるか分かったもんじゃない。じっと俯き動かない。

 小僧共は、どうやら蜂の巣時代の仲間らしい。どの角度からどう見た処で、紛れもない不良が三人。先程から我が者顔で踏ん反り返っている。実に五月蠅い。癪に障る。

 太ったでかっ鼻が口を開いた。此奴は一彦と呼ばれている。

「全然顔見せねえからよぉ。寂しがってるんじゃねえかと思ってよ」

「いらっしゃい。ご注文は」

 震える声を押し殺し、ミヤちゃんは平静を装う。

「水臭えじゃねえか、そんな他人行儀でよぉ。俺とお前は他人じゃねえ。そうだよな、みゆきよぉ」

 挙動のイチイチがコザカシイ吉村という眼鏡が、ミヤちゃんの神経を逆撫でる。ミヤちゃんが苦虫を噛み潰す音が聞こえた。

「今、仕事中だから」

 パンチパーマのでかっ鼻一彦は、お決まりの因縁。

「何だとぉ、コノ野郎」

「おい、みゆきよぉ。随分と立派な台詞吐くようになったじゃねぇか」

 小五月蠅い吉村は小穢い長髪を掻き上げる。生理的に此奴は嫌いだ。店の空気を澱ませる。

 何処かの銀蠅のようなリーゼントが昇だ。此奴は中でもまともっぽい。二人のアホンダラを時折諌めている。

「止めろよ、お前等。ワリィな、みゆき。アイスコーヒー、三つくれよ」

 注文なんてしなくていいから、お前等とっと帰んなよ。声に出さないミヤちゃんの呟きが、私の耳には聞こえている。

 黙って席を離れるミヤちゃんの背中に、吉村の声が纏わりつく。

「お返事も出来ないのかねぇ、この店の従業員は。大事なお客様に挨拶もねえんだ。この蚤の市ってお店はよぉ」

「ご立派な仕事だなぁ、みゆきさんよぉ」

 調子に乗る一彦の声にも、ミヤちゃんは苦虫を噛み砕くしかない。

 気が気じゃない遥さんは泰造に顔を寄せる。

「ちょっと、マスター。何なのよ、あれ」

 今は只、事の成り行きを見守るしかないのか。泰造は何も言わない。怒気を孕んだミヤちゃんを心配そうに見つめている。

「アイス、三つ、です」

「ミヤちゃん、知り合いなの、あの子達」

「すいません」

 原田くんはそっと、奴等の視界を避けながら出口を目指している。抜き足差し足忍び足、漸く私にたどり着く。六個の目玉が此方を向いた。

「ごめんなさいっ。ミヤちゃん、お金、置いたから。さよなら」

「あっ、原田くん。有難うございます」

 駆け逃げる原田くんに掛けたミヤちゃんの声が、奴等に餌を与えたのだった。

「何だよ、みゆき。やれば出来んじゃねえか、挨拶。なあ、吉村、今出来てたよな、挨拶。他の客にはよぉ」

「じゃあ、あれかな一彦。俺達は客じゃねえってことか。不愉快な店だぜ、ったくよぉ」

「おい、昇。お前も何とか言ってやれよ。気分ワリィ店だよなぁ」

「コーヒー飲みに来ただけだろう。別にいいじゃじゃねえか」

 案外とリーゼントは良い奴なのかもしれない。が、今のミヤちゃんにはどっちでもいいのだろう。飛び掛からんばかりの形相で、三人を睨み付けている。「テメエラ」と口が動いた。

「ミヤ、ミヤ」

 怒、と書かれたミヤちゃんの背中に泰造が声を掛ける。

「ホラ、アイス。三つ」

「大丈夫、ミヤちゃん。私が運ぼうか」

「いいえ。大丈夫です。すいません」

 泰造の目がミヤちゃんを宥める。頷き返してミヤちゃんは、アイスコーヒーをトレンチに乗せた。

 増長する奴等はタバコに火を点ける。黙ってコーヒーを給じるミヤちゃんの顔に、一彦が煙を吹きつけた。五月蠅い眼鏡も模倣した。ミヤちゃんの顔が煙に捲かれる。冷静に、声を押し殺して、ミヤちゃんが口を開いた。

「タバコは、止めなよ」

「あんっ。何か言ったか、みゆき」

「タバコは止めてくれ、って。そう言ったんだよ」

 気持ちは分かるが、ミヤちゃん。それは奴等の思う壺かもしれない。吉村が手を叩いて悦んでいる。此奴は本当に嫌な奴だ。

「何だ、この店は禁煙なのかよ。此処にちゃんと灰皿だって、置いてあるじゃねえか、なあ、吉村」

「ねえ、マスター。この店は、禁煙なんですかあぁぁぁ」

 おどけた吉村の物言いが、癪に触って仕方がない。

 冷静では、もう居られない。ミヤちゃんの声が震えている。

「此処は堅気の店なんだ。未成年がでけぇ面ぶら下げて、タバコ吹かせる店じゃねぇんだよ」

「アッ、ハッハハハ」

 何が可笑しいか、吉村め。蚊トンボみたいな面ぁしやがって。

「おい、聞いたかよ、一彦。未成年はタバコ喫っちゃ、ダメなんだとよ」

「へぇ、物凄いこと聞いちゃったよ。そうなんだ。何処のどの口がそんなご立派な台詞を吐いたのかねぇ」

「お前等、止めろよ」

 昇の制止など何処吹く風だ。でかっ鼻も蚊トンボも、増々ボルテージを上げて行く。

「吉村くん、未成年はタバコ喫っちゃいけないんですって。じゃあ、シンナー吸ってもいいですかぁ」

「一彦、程々になさい。未成年なんですから。だけど、タバコは、ダメよ」

「はぁーい。じゃあぁあ、シャブ喰ってもいいですかぁ」

「しょうがない子ねぇ、一彦ちゃん。でも、タバコはダメよ。未成年なんですから」

「そしたらぁ、駅前のテレクラで、引っ掛けたエロオヤジ、咥え込んでもいいですかぁ」

「アンタも好きねェ。でも、ダメなのよ、タバコだけは、ね。分かった、一彦くん」

「はぁーい。僕、未成年だから、タバコは喫いませーん」

 ミヤちゃんの顔が、真っ赤に逆上せている。頭から、背中から沸き立つ湯気がハッキリ見えた。爆発しそうなミヤちゃんが、一歩を踏み出した。より先に、泰造が小僧共の前へ進み出た。

「少年、そういうの、楽しいのか。この娘本気で厭がってるだろう。君等はそれが楽しいのか。こんなことが、本当に楽しいのか」

「うるせぇんだよっ、コノヤロー」

「禿げオヤジは、黙ってすっこんでろっ」

 立ち上がった吉村が、泰造を突き飛ばす。堪らずミヤちゃん、詰め寄った。

「何しやがんだ、この野郎」

「ダメ、ミヤちゃん。マスターに任せて。ミヤちゃんが行っちゃ、絶対にダメ」

 必死で遥さんがミヤちゃんを羽交い絞める。澱んだ空気が凍り付く。泰造は吉村に正対した。

「少年よ。よく聞いてくれねえか。そりゃあ、俺もそんなに若くはないさ。来年にはとうとう四十路突入だ。君等から見れば、まあ爺さんには違いない。自分でも少しは気にしてるんだ。だからさ、少年、もうちょっと良く見てくんねえか。な、ほら、ここをさ。禿げと呼ばれるには、まだ少し早いと思うんだ」

「そこなのぉ」遥さんが呆れ返る。

「其処に居るのは美容室の遥さんだ。ハルちゃんにも言われたんだよ。マスターは大丈夫。当分禿げは来ない、って。なあ、そうだろう、ハルちゃん」

「だから、今そこ拘るところなの」

 何をやっているのか、泰造は。遥さんは頼りにならない経営者を押し退けた。

「アンタ達、質が悪いわよ。女の子苛めたりして」

「そうそう、其処だよ。な、少年」

 今更の泰造、全くもって頼り甲斐がない。ながらも、遥さんと二人、背中のミヤちゃんを庇っている。二人の大人が、愛情を持って一人の少女を庇っている。その様が吉村の癇癪を逆なでたのかもしれない。立ち上がった吉村が飲みかけのグラスを持ち上げた。泰造を遥さんを、そしてミヤちゃんを睨み付ける。

「ゴチャゴチャ五月蠅ぇんだよ。何なんだよ、この店は。手前等、気色悪ィんだよ」

 吉村は手にしたグラスを振り上げた。零れるアイスコーヒーが泰造に振り掛かる。私を目がけ、グラスが一直線に飛んで来た。あっ。思うまもなくど真ん中に命中。私の顔、すなわちガラスが木端微塵に砕け散った。

「キャァァァァァ」

 悲鳴。喉が切れるかと思う程の悲鳴を、ミヤちゃんが上げた。その場にしゃがみ込み、頭を抱えている。

「止めてよぉ。マスターの蚤の市、傷つけないでよぉ。厭だもん。壊れんの厭だもん。マスターの大事なお店、壊れんの厭だもん」

 号泣。火のついたようにミヤちゃんは激しく泣き出した。まるで幼子が大事な玩具を取り上げられたかのように。しゃくりあげながら号泣している。

「止めてよぉ。もう、止めてよぉ。厭だもん。厭なんだもん」

「どうしたの、ミヤちゃん。確りして。ミヤちゃん」

 蹲りしゃくりあげるミヤちゃんに、遥さんが寄り添う。儘ならない呼吸がミヤちゃんの心を身体を苦しめている。過呼吸のようにミヤちゃんは、吸った息を旨く吐き出せないでいる。震えながら引き攣るミヤちゃんを、為す術なく抱き締める遥さん。

 初めて目の当たりにするミヤちゃんのそんな姿に、昇は戸惑いを隠せない。そんな昇を押し退け、吉村がミヤちゃんの髪を掴み上げた。

「ビィービィー、五月蠅ぇんだよ、この野郎。あんっ、コラッ。堅気のお嬢ちゃんにでもなった積りか。ああん、みゆきよぉ」

「止めろ、吉村、何すんだよ。こんなのやり過ぎだろう、お前等」

 昇は身体ごとぶつかっていく。吉村を引き離し対峙した。

 傷ついた私は、襲われた恐怖に正直手も足も出ない。早く、この修羅場が過ぎ去っていくことを、只々願うのみだ。

「面白くも何ともねぇなッ。ああ、だりィ。一彦、帰ろうぜ」

 ミヤちゃんの号泣と、昇の反発に毒気を抜かれたのか。吉村は捨て台詞を吐くと立ち上がった。立ちはだかる昇を突き飛ばすようにして、私へと歩みを進める。俯いたまま一彦がその後に従う。傷だらけの私を押し開き、蚤の市を出て行った。表に飛び散る私の破片を、足で払う。踏まれた欠片が、バリリと鳴った。

 昇は責任を感じているのか、その場に立ち尽して動かない。遥さんに抱きすくめられたミヤちゃんを哀しそうに見つめている。

「すまん、みゆき。ちょっと顔見に寄っただけだったんだけど。彼奴等、馬鹿野郎」

「帰ってよぉ。もう、厭なんだから、来ないでよぉ。厭だ厭だ厭だ」

 昇の声に、ミヤちゃんは又ぶり返す。激しく頭を振り立てるミヤちゃんに、泰造が手を差し伸べた。縋りつくようにミヤちゃんは、泰造にしがみ付き、声の限りに泣きじゃくる。

「ミヤ、落ち着け、な。大丈夫だから」

「ごめんなさい、ごめんなさい。私のせい。私が悪い。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「分かったから。分かったから、な。ミヤ。もういい、もういいから。そっと、そっと。落ち着くけ。な、ミヤ」

「すいません、マスター。俺達で、必ず弁償しますんで」

「坊や、今日はもう帰りなさい。後は何とかするから」

 立ち竦む昇の肩に手を掛け、遥さんが囁いた。昇は深く頭を下げ、後ろ髪を曳かれながら出て行った。

 啜り上げるミヤちゃんを泰造が優しく抱き締めている。膝の上からミヤちゃんは、力一杯しがみ付いていた。

 粉々に飛び散った私の欠片を、遥さんは箒で集め取ってくれた。溜め息混じりに見上げた空に、秋のお月さまが引っ掛かっていた。

 仄かに灯る街灯に照らされて、小走りに駆けて来るシルエットが見える。買い物袋いっぱいの氷をぶら下げて。「おかえり、ミヤちゃん」

「ふーっ、重かった、氷。あっ、いらっしゃい。今晩わ、みんな来てくれたんだ。良かったね、マスター」

 私が苦くて痛い思い出に吐き気を催している間に、泰造のコンサート目当てではない常連さん達が、ミヤちゃんの送別会へと集まって来ていた。みんな、いらっしゃい。どうも有難う。マスター泰造になり替わり、ようこそのお運びで厚く御礼を申し上げます。


 ほぼ満席となった蚤の市に、ミヤちゃんの華やいだ声が響き渡っている。

「いらゅしゃいませっ。どうぞ、こちら。ああっ、今晩わ、お帰りなさい。マスター、ビール二つ。ウイスキーのハイボール。珈琲焼酎、三つ。やっ、四つだ。マスター、ナポリタン出来ますか。えっ、やらない、あっ、そう。マスター、私もビールお替りっ」

 私の背中から中の様子を伺っている女性がある。活き活きと弾んだミヤちゃんの声が、女性の胸に突き刺さる。と、色んな感情が込み上げて来るのだろう。母親である以上、致し方ない。潤子さんは、ある感慨をもってそんな娘の姿を覗き込んでいた。此処は暫らく、そっとしておくに如くはない。

 愈々始まってしまうのか。泰造がギターを抱えている。設えたステージでペンポンペンポンやっている。チューニング、という作業らしい。

「そろそろ演るからな。へぇ、みんな結構集まったじゃん。エッヘヘ」

 願わくは、始めて欲しくはないのだが。そんな私の胸のうちを野次馬連が代弁してくれる。常連さんとは、有難いものですな。

「マスターのヘタクソな唄、聞きにきたんじゃないぞお」「ミヤちゃんに会いにきたんだよぉ」

「口の減らない連中だねぇ、全く。みんな揃ってんのかな。んん、イノさんは、どうしたのかな」

「今日早番だって言ってたから、急いで向かってると思うんだけど」

 いいんだよ、ミヤちゃん。そんなステージからの高飛車な台詞に答えなくっても。別に急いで来なくってもいいんだから。ステージのナルシストが図に乗るだけです。ほら、ね。

「嬉しいねぇ。早く聴きたくってさ、その辺全力疾走してんじゃねえかな」

「いい気になるなっ」「どっかで呑んでんだよ、きっと」「唄終わる頃に来るつもりだよ。イノさん、賢い」

「まあ、ボチボチ演ってりゃ、みんな揃って来んだろ。んじゃ、行くぞ。今夜も賑々しく参りませう。泰造コンサート,94、始まり始まりィィィ」

「引っ込め、ジャイアン」

 拍手、歓声、罵声、怒声、指笛。

 掻き鳴らされるマーチンギターに乗って、泰造の濁声が蚤の市に、池袋の街に流れ込んで行く。

 背中の湿っぽさに振り返った。私の影に隠れるように潤子さんが泣いている。

 手の掛かる子ほど可愛いとは言われるが、我が子に限ってそんな生易しいものではなかった。この子を道連れに、などと不遜な考えをよぎらせたことも一度や二度ではない。そんなみゆきが、今。そう思うだけで潤子さんの胸は熱くなる。潤子さんの脳裏を流れるそんなドラマが、私には手に取るように分かるのだ。潤子さんの痩せた肩に手を置いて、ご苦労様と言ってあげたい。潤子さんの背中をそっと押し出し、目の前の仲間の輪の中へ導いてあげたい。

 遥さんが私を見遣る。きっと私の手招きが見えたのに違いない。遥さんは私の腕を、そっと押し開けた。目立たぬように外へ出る。

「潤子さん」

「ご免なさい、遥さん。こんな賑やかな夜だっていうのに。私、こんなで」

「良いお嬢さんになったわね、ミヤちゃん」

「有難う。皆さん、本当に有難う」

「あのミヤちゃんなら、何処へ行ったってきっと大丈夫。もう立派な大人の女。だけど、母親としては、少し淋しいのかな。蜂の巣の頃が懐かしかったりして」

「そうね、今となっては、懐かしいのかな。もう二度と体験したくはないけれど」

「さあ、潤子さん、中に入りましょう。大きな子供が駄々捏ねるから」

「そうね。大きな男の子がね」

「もう向こうに、珈琲焼酎。用意してありますから」

「有難う、遥さん。まともな神経じゃ聞いてられないものね」

 遥さんが私を大きく引き開けた。潤子さんが見上げる秋の空には、降りかかるような満天の星空が拡がっていた。

 泰造が気持ち良さそうに唄っている。

 満面に笑みを湛え、ミヤちゃんが母を待ち受けている。

 蚤の市に入る遥さんに続いて、潤子さんが足を踏み入れる。その背中に映し出されるあの夜の光景が、私にはありありと見える。七年前の親子のドラマを、潤子さんの背中が物語っていた。

 踏み入れた潤子さんの視界の先には、七年前の自宅のリビングが拡がっているに違いない。余所行きの装いに身を凝らした潤子さんが、あの日のみゆきに呼びかけるのだ。


 「みゆき、みゆきちゃん。ちょっといらっしゃい。みゆきィ」

 渋々現れたみゆきは十六歳。積木の崩れた蜂の巣アフロのみゆきである。

「何だよ、うっせぇなあ。今忙しいんだよ」

「みゆき、今夜は暇なの」

「聞いてねえのかよ、人の話を。今、言ったばっかじゃねぇか。忙しいんだよっ」

「そう。じゃあ、みゆきちゃん。今夜、映画を観に行きましょう」

「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

「さ、そうと決まったら急がないと、ね。ぐずぐずしてると始まっちゃう」

「ざけんじゃねぇよ。行くとも何とも言ってねぇだろうが。暇じゃねえ、っつってんだからよぉ」

「ホラ、お母さんはもうすっかり、準備は出来てるんだから。みゆきも早く着替えてらっしゃい」

「何でたかだか映画行くくらいで、そんな葬式みてぇな格好してんだよ」

「葬式だなんて、失礼な娘ね。これでもお母さん、お洒落に決めてるつもりなんですからね」

「フンッ、行かねえよ。何が悲しくって、オフクロと映画なんか行かなきゃなんねぇんだよ。誰かに見られたら、どーしてくれんだよ。みっともねえ」

「だって、お母さん、もう何年も映画館へなんて行ってないもんだから。独りで行くの怖いんだもの」

「んじゃぁ、誰か他探せよ。オヤジももうすぐ帰って来んだろう。じゃなきゃ、友達とか誘えよ。カッタリィ」

「今からじゃ、もう誰も誘えないんだから。貴方と一緒じゃ、余所のお客さんが恐がるかもしれないけれど。あ、みゆき、くれぐれも人様に危害を加えちゃ、駄目よ」

「面倒臭せぇなぁ、ったくよぉ。いい歳ブッこいて、お母ちゃんと映画行きました、なんつったら、いい笑いもんだよ」

「十六歳の娘が、母親と一緒に映画に行って何がおかしいの。普通だったら、みゆき。貴方も高校一年生なんですから」

「なんだとおぉ、コノヤロー。普通じゃなくって、悪かったなぁ」

「ね、みゆき、良いでしょ。帰りに何か美味しいもの、ご馳走してあげるから」

「別に。うまいもんなんか要らねえから。そしたら、カネくれよ、カネ」

「いけません。お金は渡しちゃいけないって。きつく言われてるんですから」

「じゃあ、行かねぇよ。くっだらねぇ映画なんか見てるほど、暇人じゃねえんだからな」

「みゆきッ。お母さんこんなにお願いしてるんだから。たまには付き合いなさい」

「んだよぉ、何強気に出てんだよ、ったく。しょーがねぇーなぁー。ああぁ、面倒臭せーなぁー。夜だしさぁー寒いしさぁー雪降りそうだしさぁー」

「でも、ちょっと、その格好じゃ、ねぇ。お母さんも余所行きで決めてるんだから。みゆきももう少し、キチンとまともな格好で、行ったらどうなの」

「るせぇんだよ、コラァ。これが私の盛装なんだよぉ。これだったら、何処出てっても恥ずかしくない格好なんだよぉ。ビシッと、決めてんだよ、気合い入ってんだよぉ。文句あんのかぁ、あああああああああんっ」

「分かったわ。分かりました。二人共、ビシッと、決めてるってことで、ね。さあ、行きましょう、レイトショーを観に」

 斯くして母娘は、映画館へと出掛けたのである。此処は東京池袋。謂わずと知れた名画座、文芸座の客席に親子の姿があった。

「薄汚ねぇ映画館だなぁ、ったく。潰れないでやってたんだ、此処」

「ね、みゆき。そうポリポリムシャムシャ、やたらとお口に入れないの。ポップコーンがポロポロこぼれてるじゃないの」

「こんな汚ったねぇ映画館、これ以上どうにもなんねぇよ。喰うか、オフクロも。何だかニチャ二チャニチャ二チャ、美味くもなんともねえけど」

「コラ、みゆき。そんなところに脚を投げ出すんじゃないの。余所のお客さんに、ご迷惑でしょ」

「他の客なんて言ったって、ほとんどガラガラじゃん。大丈夫なの、ここ。ちゃんとやっていけてんの」

「タバコは止めなさい、タバコは。禁煙に決まってるでしょ、映画館なんだから」

「何かさ、口ん中モゴモゴしちゃって、気持ちワリィな」

 娘の口から慌ててタバコを?ぎ取った母は、そのやり場に窮する。火種を吹いたり触ったり。どうして良いやら分からない。

 そんな母を尻目に娘は不遜にも、缶ビールをプシュッである。

「ちょっと、みゆき。何処からそんなもの持って来たの。お酒なんていけません」

「うっせぇなぁ、ったく。あれダメこれダメ、キャンキャンキャンキャン。だったらこんなとこ来ねぇで、家でビデオ見てたほうがよっぽど楽しいよ」

「大きな声を出さないで。みんなに見られてみっともないでしょう」

「出たよ、得意技が。人目だの体裁だの、くっだらねぇもんばっか気にしやがって。そんなだからな、大事な一人娘が非行に走るっつうんだよ」

「もう、止めて、みゆき。だから貴方と出掛けるのは、お母さん厭なのよ」

「だったらこんなとこ、連れて来てんじゃねぇよ。面白くねぇなぁ、ったく。何でカネ払ってまで、こんなイライラしなくちゃいけねぇんだよぉ。ああ、帰りてぇー、タバコ喫いてぇー、シンナーやりてぇー、シャブ喰いてぇー」

 そんなこんなで客電が落ちる。ウィーンと広がったスクリーンに、映像が映し出された。どうやらモノクロフィルムのようだ。

「ホラ、みゆき。始まるわよ。とっても面白い映画なんだから、ゆっくり観ましょう。ハイ、ホラ、みゆき、拍手拍手。ワーイ」

「おいっ、バカ。何やってんだよ。映画に向かって拍手するバカいるかよ。みんなこっち見てるじゃねえか。みっともねぇなぁ」

 人差し指を口に当て、母は娘を制する。「シーッ、黙って」と口だけ動かした。

「ナニコレ、ちょっと待ってよ。もしかして、シロクロ。ダッセー、参ったなぁ。シロクロだよ。いつの映画なんだよ、コレ。何かジメジメしてそうで、調子ワリィなぁ。マジダッセー、シロクロ」

「シーッ。黙って、観るの」またもや母は口だけ動かす。が、スクリーンに吸い寄せられる母の表情は、優しい笑みを湛えている。

「アハッ。アハハ。アハハハハ」

「笑ってるよ、この人。バッカじゃねぇの。シロクロ見て笑ってるよ。ついていけねぇ。もう、無理」

「アッハハ、アッ、ハハッ。アハッ、ハハハハハハハ」

「ったく。どんだけ笑ってんだ、この人。ちょっと、オフクロ、見て喰えよ。ポップコーン、ポロポロこぼしてんじゃねえよ。ちょっと、オフクロ」

「シーッ。黙って、観るッ」やはり声は出さないらしい。

「ハイハイ、分かったよ。喋んネェよ。何なんだよ、この人。夢中かよ。プフッ、フフ」

「ハハッ、ハハハッ」

「フフッ、フフフッ」

「ハハハハハハハハ」

「フフフフフフフフ」

 母娘の笑い声がシンクロする。

 スクリーンに釘付けのまま、母は鞄からおにぎりを取り出した。そのひとつを娘に差し出す。ラップにくるまれた手作りのおにぎりに、娘は少し驚き母を振り返る。母の視線はしっかりとスクリーンに貼り付いたままだ。

 我を忘れて入り込んでいる母が、おにぎりのラップを剥がそうとする。映画の虜になり笑い転げる母には容易なことではないようだ。モゾモゾ手を動かしているが、全くもって要領を得ない。ついに母は、ラップごとおにぎりに齧りついた。

 慌てて娘は、母の口からおにぎりを?ぎ取る。と、娘の蜂の巣が母の視界を遮った。

「邪魔、退けなさい」やはり口だけ動かした。

 娘はおにぎりのラップを剥がし、母の手に握らせる。もとより夢中の母が気付いてくれる筈もない。娘は母の手を掴み、剥いたおにぎりを握らせた。こんもりアフロが鬱陶しい。またしても、「邪魔、退けなさい」。

 それでも段々と、娘も映画に引き込まれているようだ。繰り広げられるスクリーンのドラマに嬉々とした表情を浮かべている。隣で夢中な母の様子を伺いながら。

「アッ、ハハハ」

「フッ、フフフ」

 時折、母娘の笑い声が温かなハーモニーを奏でている。身体全体で、笑いを発散させる母。ハニカミながらも、笑いを隠せない娘。

 おにぎりを頬張ったまま笑い転げる母は、口の周りに幾粒ものご飯粒を付けている。母の顔にへばり付くご飯粒を娘は摘もうとする。当然のことながら、ドでかい頭が視界を遮る。母は邪険に、蜂の巣を押し退ける。

 母は手を打って喜んでいる。片手におにぎりをにぎったまま。無残で残念なおにぎりを、娘は母から奪い取った。蜂の巣頭を払い退ける母の手は、もはや乱暴を極めていた。

「アッ、ハハハ。アッ、ハハハ」

「フッ、フフフ。フッ、フフフ」

 映画も佳境だ。母娘は夢中である。

 感動を隠せない母娘の表情は、笑みを含んで華やいでさえいる。その瞼に温かな涙を浮かべて。ゆっくり目を閉じ、大きく息を吸い込み、そして吐き出しながら。母と娘はゆっくりと瞳を開いた。

 文芸坐の映画館を出た母娘は、池袋の裏通りを歩いている。月灯りの下、そぞろ歩く母娘の視線の先に仄かに灯る看板が見える。年季の入った四角い看板に、「珈琲亭蚤の市」の文字。二人は其処を目指しているようだ。

「オフクロ。あの女優さん、何て名前」

「シャーリー・マクレーン。可愛いでしょ」

「何かさ、感じがオフクロに似てるな」

「本当。同じこと、昔お父さんにも言われたなぁ」

「オヤジとも、あの映画、観たんだ」

「何度も。今夜と同じ映画館でね」

「じゃあこの道も、何度も歩いたんだ」

「みゆきの生まれる、ずっと前からね」

「アパートの鍵貸します、か。なんかスパゲッティ喰いたくなっちゃったな」

「私も、そう思ってた。其処の喫茶店、美味しいナポリタン出すのよ。一緒に食べて帰りましょ」

 店に近づいた母が足を止めた。得も言われぬ濁声が聞こえて来る。奇妙奇天烈なその唄声は、娘の耳にも届いている。扉のガラス戸から中を覗き込む。と、マスターと思しきおっちゃんが、ギター片手に唸りを上げていた。

「今日はダメだなぁ」

「何やってんの。へぇ、唄うたってるんだ。楽しそうじゃん。オフクロ、ちょっと寄っていこうよ」

「ダメダメ。折角の良い気分が台無しになるじゃない。もう、泰造君ったら」

「オフクロ、知ってるんだ。あのオジサン」

「古い古いお友達。素敵なお店なんだけどね。あのギター道楽が、玉に瑕」

「面白そうじゃない。気持ち良さそうに唄ってるし」

「本人だけはね。ねえ、みゆき。お家帰って、二人でスパゲッティ作ろうか」

「うん」

「じゃあ、急いで帰ろう。お父さんもお腹空かして帰って来る頃だから」

 踵を返して母は駅へと向かって歩き出す。娘は物珍しそうに、店の中を覗い

ている。賑やかそうな雰囲気に名残りを惜しみつつ、先行く母の背中を追い駆

ける。

「お母さん」

「えっ」

「家に、テニスのラケット。あったっけ」

「あるわよ」


 月灯りに照らされて家路を急ぐ母娘の後ろ姿を、私ははっきりと覚えている。あの夜もそうだ。満天の星空に鮮やかな満月が優しく灯っていた。

 目映い星空を見上げ、ひとつ深呼吸をする男。平社員の片町周次くんが、私を引き開けそっと中へと入って行った。

 やっと現れた平社員に、勘太郎専務が顔を綻ばせた。のも束の間、眉間に皺寄せギッと睨む。時計を示して遅いの図。裏腹に片町くんの顔は何処かしら晴れやかだ。おそらく、世紀の一戦はジャイアンツに軍配が上がったのだろう。小さく手を上げ専務に挨拶を送った片町くんは、ミヤちゃんに近寄り囁いた。

「ミヤちゃん、珈琲焼酎。ロックで二杯貰える。強いお酒で神経殺すから」

 珈琲亭蚤の市に、ひと際大きな拍手が起こる。漸くにしてアンコールまで漕ぎ付けた客席の安堵感が、手拍子となって渦を巻く。苦痛に耐えた一時間、どうやら全員無事なようだ。もう少しの辛抱である。客席一丸となってこの難局を乗り切ろうではありませんか。

「アンコール、アンコール」

「アルコール」と言う馬鹿もいる。

 ステージの泰造は、得手勝手にやり遂げた達成感に顔を上気させている。全くもっていい気なのもだ。

「ハァイッ。という訳で御座いまして。鳴り止まないアンコール、義理でも嬉しく思う訳でありますが。んん、まあ、何だ。みんなももう知ってのとおりだけど。うちの宮崎みゆきくんが、今日を限りに蚤の市を卒業する訳です」

「ミヤちゃーん」「みゆきィ」「お疲れ様、ミヤちゃん」私の声も混じっているのは無論である。

「ミヤミヤミヤミヤ、言うんじゃないっ。コンニャロ―。まだ、俺のステージなんだからな」

「まだ唄うのかぁ、人殺しィ」「もう、こんな店来ないからな」

 気の良い野次を手で制し、泰造は少ししんみりする。

「もう何年になるかな。ミヤがこの蚤の市に来てから」

「七年、です」

「へぇ、早いなぁ。もうそんなになるのか。最初はどうなることかと思ったけどさ。チリッチリの蜂の巣頭でさ。今時積木くずしなんて、随分気合の入ったネエーちゃんだって思ったけど。良かったのか悪かったのか、この店にも慣れてくれて。常連さん達にも可愛がってもらえてさ。ミヤも随分、いい女になったもんだ。へぇ、七年か。今更、私の青春返せ、なんて言うなよな」

 しんみりさせないでくれ、泰造。私もこれで涙脆いのだから。

「淋しいよぅ、ミヤちゃん」「ミヤちゃん、行かないで」「愛してます、ミヤちゃん」

「ミヤが居るだけでさ。何か店の中が、パッと明るくなるみたいでさ。所狭しと行ったり来たり。踊ってるような足取りでさ」

「マスター、ライブ中に公然と口説くんじゃないぞ」「ミヤちゃんさん、辞めないで下さい」

「珈琲飲むよりシンナー寄越せなんて言ってたツッパリがさ。いつもニコニコ、笑顔で居てくれてさ。ミヤ、マスター心から礼を言うよ。長いこと、本当にご苦労さん。有難うな。この先ミヤが、何処に行きたいのか何をしたいのか、ってのはだ。まあこの後みんなで呑みながら、それぞれ話してもらって、だ。さあ、コンサートは〆ちゃうぞ」

「さっさと唄えっ」「早くミヤちゃんと呑ませろ」「ミヤちゃん、呑も呑も」

 泰造がゆっくりと客席を見渡している。常日頃から蚤の市を愛してくれている仲間達の顔、顔、顔が其処にある。

 ミヤちゃんは私の胸に背中を預け、今までは当たり前であった蚤の市の風景に目を凝らしている。カウンターに遥さんと、母親である潤子さん。テーブルには迷コンビ、勘太郎専務と片町くん。原田が居る、イノさんも、夏っちゃんも。全ての名前を記す訳にはいかないが、此処に居るみんなが仲間なのだ。そして、真正面にギターを抱えたマスターの泰造が居る。

「あ、何か今夜、満月みたいだな」

 泰造の言葉に、全ての視線が私に注がれる。私を透かして空を見上げる。私はミヤちゃんの肩を抱き寄せ身体を開くのだ。ミヤちゃんは私の手を握ったまま、満月の夜空を仰ぎ見た。

「みんな見えるか。ホラ、まん丸いお月さんがさ、何だか笑ってるみたいだな。ミヤだけじゃなくって、此処に居るみんなだって、今日来られなかった奴等だって。五年後十年後、何処で何してるかなんて、分かんないもんな。どんな夢見て、どんな恋して、どんな酒呑んでんのか。それは誰にも分かんないけどさ。ああやってお月さんが笑ってくれてる夜はさ、みんなのこと、思い出そうぜ。みんなのこと、思い出したらさ、夢の途中でもいいから、またこうやって、みんなで会いたいな」

 此処に居る全員が、それぞれの七年間と、それからの未来を噛みしめている。

 ミヤちゃんの瞳から流れている涙は、きっと色んな味がしているのだろう。

「それじゃ、最後の唄だ。もう、アンコールすんなよ。草臥れたんだから、俺にも酒呑ませてくれよ」

「しないわよ、そんなもの」

 遥さんに全く同感。もう泰造の唄なんてどうでもいい。

 後ろ手に私を閉めたミヤちゃんの両手が、力強く握られている。吹き出す気持ちを、抑えることはないんだよ、ミヤちゃん。

「マスターも、蚤の市も。みんなのことが大好き。だいだいだいすきっ」

「みんなで唄おうか、最後にこの唄。平社員も、ムーちゃんも。ハルちゃんも、潤ちゃんもさ。ミヤ、お前も、な。今度みんなで会う時も、きっと月の綺麗な夜だと思うよ。さあ、みんな準備は良いか。行くよ。せぇーのぉーでーはいっ」

 今夜、珈琲亭蚤の市に集うみんなで唄う最後の唄。ミヤちゃんと過ごす最後の夜。有難う、泰造。素敵な夜を。素敵な仲間達を。

 どこからどう贔屓目に見ても、上手とは言えない泰造のギターに合わせて、私も一緒に唄わせてもらうよ。


 こんな夜には。

 

 仕事に明け暮れて、疲れ果てちまって

 終電でうたた寝の、そんな夜

 今年こそ合格だ、ガムシャラに勉強中

 寝る間も惜しんでる、そんな夜

 だけどみんな少しだけ

 耳を澄ましてごらん

 春を知らせる足音が、聞こえて来るから

 そうさ、春がやって来る

 ああ、春がやって来る


 想う気持ちが、はち切れそうなほど

 やたらと君が恋しい、そんな夜

 しこたま呑んださ、千鳥足ユラユラ

 終電さえ行っちまった、そんな夜

 だけどみんなほんの少し

 目を凝らしてごらん

 こんな街がキラキラと、光ってるから

 そうさ、春がやって来る

 ああ、春がやって来る


 だけどみんななんとなく

 口づさんでごらん

 春の風に身を任せ、漂いながら

 そうさ、春がやって来る

 ああ、春がやって来る


                              了。





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