殺人前夜(3)
冬空の下、いつの間に晴れたのか、雪雲は消え去り月明かりが僕を照らす。
足を止めることもしないままに走り続けた。
彼女の元へ急ぐ。
息も切れ切れに、ただ無我夢中で走り続けた。
どうして、こんなことになった?
『 わたし、人を殺しちゃった 』
彼女は言っていた。別段、特別なことが起きた訳ではないと。
それが当たり前であるように、淡々とした口調で言った。
『これからまた埋めに行かなきゃならないんだけど』
「なんで・・・・っ!なんで、そんなっ!!」
また埋めるってなんだよ。
なんでそんな普通の顔していられるんだよ。
ああ、僕は殺人鬼さ。どうせ一度人を殺しているから別にいい。
でも、でもおまえは・・・・・。
「おまえはまだ、誰も殺してはいないのに・・・・っ!」
どうして?何故?理解できない。僕はなにか大事なことを見落としていたのだろうか?
昼間会った時、彼女は三年前と変わらない笑顔で僕の名前を呼んでくれた。
それがなんでたった数時間でこんなことになっているのかわからない。
わからない。
わからない?
わからないのか?本当に?
「・・・・・違う」
それは違う。
「僕のせいじゃない・・・・・」
僕と彼女が、また出会ったから、こんなことになったんじゃないのか?
「ちがう・・・・・っ」
走りっぱなしで呼吸もままならない体を休め、電柱に背を預けて空を見上げる。
月はあの頃と同じように僕らの上にただ存在している。
それがただ、今は恨めしい。
責めるのなら僕を責めてくれ。許すのなら僕を赦してくれ。
どちらもしないのなら、僕を見ないでくれ・・・・。
「どうして・・・・・・・なんで・・・・・わからないよ・・・・・」
おまえは、おまえは、おまえは・・・・・・。
おまえはじゃあ、この三年間、一体どんな気持ちで・・・・。
どんな風に生きてきたんだ・・・・・?
過去を忘れようと、過去と向き合おうと、ただ無我夢中で生きてきた僕の三年間。
それはどこか満たされなかったけれど、でも意味のなかったことなんかじゃない。
だからもう僕は人を殺すことをためらうことができる。
なのに彼女はそれを当然のように執行した。
それがどういう意味なのか、僕にはわかる。
鋸を手にして月下笑っていた三年前の彼女と、
今の彼女は・・・・・なんにも変わってはいないということだ・・・・。
「じゃあおまえは三年間・・・・・・・・・・何をしてきたんだよ?」
無意味な時間を過ごしたのか?自分と向き合えなかったのか?
何故?
「・・・・・・・・・・・・・・・くそ・・・・」
そんなの会いに行けばわかることじゃないか。
もしかしたらいつもの悪い冗談かもしれない。
そうだ・・・・僕に会いたいからって、あんなウソをついて・・・。
『なんてね、実はやっぱり冗談でした』
彼女がイタズラっぽく笑う姿が容易に想像出来る。
「・・・・・バカか、僕は」
現状を認めろよ、アキヤ。
もう、どうにもならないんだ。もう、始まってしまったんだ。
祈ることをやめろよ、アキヤ。
僕はもう、逃げられない・・・・。
「はあ・・・・・・・」
出来る限り心を鎮めて彼女に会いに行こう。
世界中の誰が見ても彼女の存在と行いを赦せないというのなら、
僕以外の誰が、彼女を赦してあげられるのだろうか。
「・・・・・・・・・・・偽善だな」
自嘲するしかない。そうだ、僕は個人的な感慨だけで善悪のラインを低くしているだけだ。
嫌って言うほど思い知らされる。
僕は、酷く自分勝手で、何事に対しても自己完結して内へ閉じているだけの子供だ。
だからまた、おんなじ間違いばっかり繰り返すんだ・・・・。
でもだからって・・・・僕がダメだからって・・・・カナタまで同じ道を歩む必要なんかどこにもないのに。
「どうして殺したんだ、カナタ」
徐々に落ち着いてくる自分の胸に手を当てる。
僕たちは生きている。でも、死んでしまったらもう、何も出来ない。
殺してしまったらその人に謝ることすらもう・・・・・出来ないんだよ?
わからないのか、カナタ?
僕たちは間違ったんだ。
浅く積もった雪道を走り出す。
もう少し、彼女にどんな言葉をかければいいのか、まだ分からない。
思い出すのは大体決まって三年前の事だ。
僕は、リュウジのことを思い出していた。
⇒殺人前夜(3)
「善悪と言うものを二分するボーダーラインを引くとして、お前はどこにそれを引く?」
夏休みも終わり、二学期が始まってしばらくしたころ。
木々は紅葉に染まり始め、もうすぐ秋も深まってくるだろう。
別棟にある図書室の窓からそれを眺めながら、彼はそんなことを言う。
リュウジ。僕の友達。
彼は僕とは正反対と言ってもいいような存在だった。
成績優秀容姿端麗運動神経抜群。
誰とでもすぐ仲良くなれて、誰とでもすぐに理解し合える。
少なくとも僕はそんな風に彼のことを見ていた。
事実関係は、どうあったにせよ。
「それって質問としてどうなんだ?『どこに』って言われてもなあ」
読みかけの本から目を離し、少しだけ考えてから答えた。
「強いて言うなら、『善』と『悪』の間に一本、縦線を引くよ」
「そういうことじゃねぇだろ。善悪というもんはすでにそれでひとつの単語だしな」
「ばらしたって文字として意味を持つんだから、別にばらしていいと思うけど」
「まあそれもそうか・・・・言葉遊びならそんな返答もアリだけどな、実際そう上手くはいかねえわな」
彼もまた、読みかけの文庫本を閉じてぼんやりと虚空を見つめている。
何か考え事でもあるのだろうか?彼は時々要領を得ない質問をする。
僕がどんな返答をしたところで彼には関係がないのだろう。
問いかけるという行為は、基本的に何かを知りたいから行うものだ。
だから、彼自身の中で何かが解決するとしたら、それは結局彼が自分で答えを出すことに他ならない。
秋の涼しい風が吹き込む窓。
僕らはよくこうして放課後の夕暮れ時、なんでもないことで時間を共有した。
僕がいて、隣には彼がいる。
特に図書室はお気に入りだった。
僕らはお互い、別々の本を勝手に読んで、それから勝手に帰った。
彼には僕以外にも友人と呼べるものが多く存在した。
僕は彼以外に友人と呼べるものがひとつも存在しなかった。
その差は当然大きくて、僕は彼といる時間より一人でいる時間の方が多かった。
彼はよく誰かに一緒に帰ろうと誘われていた。
自分自身、気分屋だとは思う。
彼もまた、気分屋だった。
その日もクラスの女子からの誘いを断って、彼は当然のように僕の肩を叩いた。
『付き合えよ』 と。
会話は途切れていた。別に、言葉を常に交わしている必要を僕らは感じない。
そこに君がいて僕がいれば、それは時間を共有していると言えるから。
それでも僕は、なんとなく、意味なんてない、質問をした。
「何読んでるの?」
「・・・・・ん?あぁ・・・・・ブラックジャック」
有名な漫画家が書いた名作の文庫本バージョンだった。
そういえば彼はその本をたまに読んでいたような気がする。
「どんな話なの?」
興味は特になかったが質問する。
彼はそれを一笑し、それからあきれたように肩をすくめる。
「自分で読めよ。こと物語に関しては、所詮オレの主観的感想に過ぎないからな」
そりゃそうだ。
他人が作った物語と言うものは、見る人知る人によって感想なんて変わるものだろう。
ひとつの事柄にはそれぞれ無数の意味があり、無数の解釈がある。
そんなことはわかっている。僕が聞きたいのはそんなことではない。
彼はそれがわかっているくせに、なるたけ遠回りに僕の質問を曲解する。
「そうじゃなくて、おまえがそれを読んでどう思うか、ってこと」
「ははは、そりゃあそうだな、まあ、オレから見たってこいつは面白いぜ」
けらけらと、軽快に笑う。
彼は結構な酷評家だ。面白くないととことんそれを指摘する。
逆に言えば少しでも面白いと思える部分があれば、それを評価した。
独善的で主観的な解釈を彼は何よりも好む。
「人助けのすばらしさを感じるね。主人公のキャラクターに、興味を抱く」
ぺらりと、またページを捲って言葉を続ける。
「ただ無闇に人助けをしているわけじゃない。そこにはいろんな考えがある。この医者は、ただ人助けをすればいいってもんじゃねえってことを、ちゃあんと理解してやがる。ただまあ、ヒーローにはなれねぇだろうがな」
「ふうん」
「まあ、面白いところはそこじゃねえけど」
「じゃあ、どこ?」
「さあ、それは自分で考えるんだな」
低い声で笑うと、パタンと本を閉じて机の上に投げ出した。
なんともお行儀の悪いやつである。
「あーあ、なんつーか、退屈だな、アキヤよお」
「え?何が?」
「ん〜・・・・なぁ、最近となりの席の女子と仲よくねえか?」
「えっ」
カナタのことだろうか?って、仲のいい隣の女子っていうとそれしか思い当たらないけど。
それにしたって教室ではあいつ僕のこと知らん振りだし・・・・。
どこからそんな情報を拾ってきたんだか。
まあ、交友関係の広いこいつのことだ、別におかしくはないけど。
「仲がいいかどうかは微妙だけど。僕らあんまり口利いたことないし」
「あ?そうなのか?おいおい、なんだそりゃ、こう、もっとガーっといけよ!!!」
よくわからない身振り手振りで『ガーッ』の勢いを表現している。
というかなんか、こいつ勘違いしてないか?
「好きなんじゃねえのか、その女のことが」
「出た・・・・ねえ、どうしておまえたちってそう、すぐ好きとか嫌いとかに結び付けたがるわけ?」
「お前たちって・・・怖いな、オレ以外にここに誰かいるのか?びびるぜ」
「いやそうじゃなくて・・・・」
そういえば最初会った時、カナタもそんな勘違いをしていたような気がする。
そんな勘違いなどと可愛いもので片付けられるほど生易しいものではなかったが。
「ま、なんにせよ人間ってのは変なところできっちりしてるからな。相手に対する感想なんて大まかに言っちまえば好きか嫌いかどっちかみてーなもんだろ」
「そんなもんかな?僕はそうは思わないけど」
「思わないのはお前だけだろ?誰だって誰かを敵か味方に二分したがるもんさ」
「自分と関わっていない人間なんて山ほどいるのに」
「そういうことじゃねえ。要は、自分が心を許してもいいかどうか、決めあぐねてんのさ。常にな」
なんだそりゃ?
「誰だって裏切られたくねえし、裏切りたくもねえ。ま、自分が裏切るってことには鈍感なくせして、誰もが裏切られたとかそういうことにはやたら敏感に反応するしな」
「そんなの勝手な言い草じゃない?人が『私は裏切りません』なんていってるところみたことないよ」
「そこが人間関係のおもしれぇところだ。個人個人で勝手に解釈して相手を決め付けるんだからな」
かはは、と乾いた笑いを浮かべてリュウジは楽しそうに笑っていた。
なんとも性質の悪いやつである。そこは笑って楽しむべきところなのか。
「人間関係にも百人いれば百通りの解釈がある。そこが人間のおもしれぇところだ」
「そうかな・・・・・僕はそんな理屈を聞いていると気が滅入ってくるんだけど・・・」
「だろ?だから、あんまり言いたくねえんだ」
何のことだかわからないその言葉にしばらく首をかしげる。
するとリュウジは『もう忘れたのかよ?』と笑って、
「個人の感想は所詮そいつの中にある世界に過ぎねえだろ?」
「あ、うん・・・・それが?」
「だから、オレ自身の感想を聞いたところで、そういうことなんだと鵜呑みにしちまうお前には、『どんなものの感想だって本当は伝えたくはねえ』んだよ」
「それって、さっきの本のこと?」
「ああ。他人に答えを求めるのは実際ラクチンな上速攻だし、手段としちゃ上等だ。だがそんな他人任せに得た答えを自ら手にしても、なんら面白味もねぇだろ」
「あー、うん・・・・つまり自分で考えなきゃだめってことだよね」
「そういうこっちゃ。どーも、今のご時勢の人間様は自分で全てを判断するってことをしねえ」
やれやれと肩をすくめて、世の中の批判モードに入った友人を眺める。
彼は楽しそうに、時に真剣に世の中のことを批判していた。
それは彼が彼なりに考えた結論だった。
だからそれは彼の中では真実で、僕にとっても耳を傾けるに足る言葉たち。
そんなものですら僕は輝きを感じる。
彼が人と人との関わり方やその『在り方』に魅力を感じるように、
僕は、他人が紡ぐ意思や言葉に魅力を感じていた。
特に彼の言葉はなんというか、こう、胸に迫るものがある。
彼は常に煌きの中にその身を置いていた。
まるで手の届かない存在でありながら、いつも僕の隣に平然と居座る異端な存在。
彼のことを友達だと思うのに、時間はかからなかった。
僕と彼が他人と言うものに求めているものは言葉は違えど同じものだと言っていい。
いや、言葉すらただ言い方を変えただけのものにすぎない。
要するに僕たちは他人に興味を持つと同時に自らを客観的に捕らえることを目的としている。
僕が彼を魅力的な人間だと感じるように、
彼もまた、僕の中の何かに魅力を感じていたのだろう。
これはちょっと主観的なことで申し訳ないのだけれど、人間ってのは結局自分勝手なものだと思う。
それが悪いとは言わない。でも、それを認めるかどうかでその人格の『ランク』のようなものは変わってくるものだと思う。
間違った場所を間違いだと認識できるかどうかで人はそれを改めて行けるかどうかが大きく違ってくるわけで。
そこを行くと彼は面白い人間だった。
あらゆるものを、光も闇も分け隔てなく愛し、ひっくるめて面白いと笑い飛ばしてしまう。
彼のような人間が現実に存在しているという奇跡に僕は言葉すらなくす。
人間、結構ゲームやドラマやマンガのような人物は探せば存在するものだが。
そんなところに登場するかどうかもよくわからないこのひねくれ者は奇跡のような存在だと思う。
仮に僕という人物を中心とした物語がひとつ書き上げられたとしても、
彼はきっと、重要な登場人物になるに違いなかった。
「おい、人の話はちゃんと聞けばかやろう」
「え?あ、ごめん」
腕を組んだまま不機嫌そうにリュウジがこっちをにらんでいた。
人の話をちゃんと聞かない人間を彼は嫌う。
で、僕はその人の話をちゃんと聞かない人間だった。
だからまあ、なんというか、彼には嫌われて当然なタイプのはずなのだが。
それでも彼はお構いなしに話を続けた。
彼は理解している。僕は彼の嫌いなタイプの人間であると。
その上で僕に興味を抱き、僕に関わろうとする。
さっき彼は『人は他人を好きか嫌いかでしか判別しない』と言った。
いまいちそれは僕には理解できない。
でも、その理論が正しいのだとしたら、彼は僕のことをどう思っているのだろう。
彼が僕のことを好む理由がよくわかならない。
でも彼が僕のことを嫌う理由ならいくつかある。
もし仮に彼が僕のことを嫌っているとしたら、それはすごいことだ。
彼は自分でちゃんとそれを理解した上で、嫌いな人間と一緒にいようとしている。
それは自分自身で否定したものとより理解しあおうという、無謀な試みだからだ。
仮に彼が僕のことを好んでいるとしたら、それはそれですごいことだ。
自分が嫌いだと公言する部分を孕んだ人間を、好きだと思えるのだから。
「おいこのやろう!オレをなめてるのか!!」
「ひでぶ!」
突然けられた。
何事かと思って目をぱちくりさせていると、襟首を掴んでぐいっと引き寄せられる。
「てめえは何度も言わなきゃわからねえのか?オレ様の崇高な話を無視するんじゃあねえ」
顔は笑ってるけど、絶対怒ってる。
彼は僕に対して容赦なく怒る。
それは怒ったところで僕らの関係が変わらないと彼が信じている証だと思った。
そんな何気ないことですら僕は彼との絆に安堵する。
僕たちはこれからもきっとひでぶあべしっ!!!
「い、いひゃい・・・・」
「話を聞けつってんだろうこのミジンコウニが!!!」
机にガンガン頭をぶつけられ、その後ポイっと投げ飛ばされた。
さらにその後倒れた僕の頭をグリグリと上履きで踏みつけながら笑う。
「これ以上お仕置きが必要か?あぁ?」
「ごめんなさい・・・・・でもさリュウジ、ひとつだけいいかな?」
「なんだ?いいわけならきかねえぞ」
「うん、それはいいけど」
僕は周囲の様子を気にしながら苦笑する。
「ここ、図書室」
「あ」
リュウジはようやく僕らに集まっていた周囲の利用者からの『迷惑』視線に気づいたらしく、
おずおずと足をどけると僕を引っ張り起こし、
「もっと早く言え・・・・」
「言ったら怒られると思ったからさ」
「ほおう、覚えておけよこのタヌキ」
ひどい。まるで僕がはめたみたいじゃないか。
・・・・・・・・鋭いな。
ぺこぺこ頭を下げながら謝るらしくないリュウジを見ながら笑っていた。
そんな秋の日の夕暮れ時。
今はもう戻れない、まだリュウジの笑顔があった日々。
「よく来たね」
月明かりに照らされた彼女の顔。
夜の闇によく響く澄んだ声に意識が現実に引き戻される。
夜道を全力疾走してきたせいか、電話を貰ってからまだ数十分しか立っていない。
呼吸はもう落ち着いていた。気持ちも静まっている。
もう一度息をゆっくりと吐き出して、僕は問いかけた。
「死体は?」
彼女の部屋の中、それはポツンと転がっていた。
今日の昼間、僕は彼の事を見ていた。
彼は、当たり前のようにカナタの背後に立っていた。
金髪の少年。歳は僕らと同じか、下か・・・・。
なんにせよそれは首に突き刺さったカッターナイフと床に広がった血痕で現実味を失い、
冷たい体がさらに生気すら皆無とし、
そして醜くゆがんだ表情が何よりも痛々しかった。
「・・・・・・・・・殺したのか」
「んー、まあね」
無表情にカナタは答えた。そんなの聞くまでもないと僕もわかっている。
彼女も聞かれるまでもないと思ったのだろう。ただベッドの上に腰掛けてうっすらと微笑んでいる。
彼が死んでしまっている事実を確認すると、彼の開いたままのまぶたをゆっくりと閉じてあげた。
それだけで不思議なことに、彼は少しだけ安らかに眠れているような錯覚を覚える。
それが偽善であり、なんの意味も持たないことはわかっているけど。
そうでもしてあげなきゃ、消えてしまった命に、申し訳がないから・・・・。
「風呂場に運ぶよ」
「うん?」
「僕が解体する」
「どうして?」
「彼をここから運び出すのにこのままじゃ邪魔だ。大き目のゴミ袋とかあれば持って来て」
「・・・・・・・・・・・・・・あるけど」
「じゃあそれで。あとこれも持って来て」
僕がここに来るのに持ってきた唯一の荷物。
黒い布が巻かれた、鋸。
三年前、彼を分解したそれは、まだ人を捌くのに必要なだけの切れ味を保持していた。
当たり前だ・・・・僕は何度もこれを手入れした。
これを今まで手放すことが出来なかったのはなぜか?
余計なことを考えるのはやめよう。実際、役に立つのだから。
「のこ、ぎり・・・・」
「そう、のこぎり」
死体を担ぎ上げて僕は微笑む。
「あの時使ったやつだよ。覚えてる?」
彼女は何の表情も浮かべないまま、それをぼんやりと見つめていた。
それから顔を上げて、言葉に出来ないような、不安そうな表情で、僕を見る。
それに僕は穏やかに微笑んで回答とする。
「大丈夫だよ」
風呂場に移動すると僕は死体をそこに置いて上着を脱いだ。
カナタは僕の後ろをらしくないほどしょんぼりしたままついてくる。
まるで悪いことをしてしまった子供が親に怒られるのを恐れているような、そんな態度。
僕は鋸を受け取ると、とりあえずそれを洗面台の上において袖を捲くった。
さて、どうしたものか・・・・とりあえず持ち出せるくらいの大きさにするのが最低条件だが。
「ねえ、どうして?」
唐突に彼女が口を開いた。震える声で『どうして』と、僕に問う。
「どうして怒らないの?」
どう返事をするべきか。
彼女は怒ってほしいのだろうか?それとも怒らないでほしいのだろうか?
理由がわからないからたずねているのだろうけれど、僕自身そんなのはわからない。
諦めのようなものがあるのは確かだ。僕は彼女が人を殺しても仕方ないと思っているのかもしれない。
けれど同時にこんなことは二度とあってはならないと思っていたはずだった。
ここに来るまでにそんな思考を何度も繰り返して、出た結論は・・・・。
「怒ってないよ」
死体を実際に見て、僕はあの頃の気持ちを少しだけ思い出した。
こうなってしまったらもう怒るとか怒らないとか許すとか許さないとかそういう問題ではない。
どうやってこの状況を清算するのか。ただその一言に尽きる。
こんなところで問答している暇も本当ならばない。一刻も早く行動を起こすべきだ。
彼女は僕の言葉を信じられないといった様子で目を見開いて聞いていた。
もしかしたら怒ってほしかったのかもしれないな、と今更ながら思った。
「・・・・・・・・・・・・・覚えてる?僕が三年前、リュウジを殺してしまった時」
「・・・・・・・?」
「おまえは彼を分解している僕を見つけて、手伝ってくれたね」
「・・・・・うん」
「そのときおまえは、僕のことを怒らなかった・・・・怒らなかったんだよ、わかるか?」
カナタは人を殺してそれを分解してなかったことにしようとしている僕を見て、
あろう事かその犯行を手伝うという暴挙に出た。
そして彼女は、僕に向かって笑ってくれたんだ。
「僕におまえを叱る資格はない。だから、僕はお前を許すことしかできない」
俯いたまま何も言わない彼女を、僕は気がつけば抱きしめていた。
三年前の彼女が僕にそうしてくれたように。
「大丈夫、僕は殺人鬼だから。こんなのへっちゃらだし、気にもしないよ」
ウソだ。僕は殺人鬼でなんかいたくない。
「だから・・・・・・・大丈夫さ」
大丈夫なわけない。こんなのもう二度と嫌だって何度も思ったじゃないか。
今までだって、何度も後悔した。
人を殺すということはその業を一生背負うということだ。
逃げ道なんかないし、いいわけも出来ない。
だから僕はこの少年を解体して、また殺人鬼になる。
全ての人間らしい気持ちをかなぐり捨てて彼を分解しなければならない。
だから、もう今更、何か言われても、なにか、いっても、意味なんか、ないだろ。
とりあえずこれが終わるまで待っていてくれないか。
今はただ、
彼をどう壊すか・・・・そんなことしか考えられないから。
「カナタは見てなよ」
鋸を手に取った。
「後は僕がやるからさ」
シャワーからお湯が流れる音がする。
とりあえず、四肢が邪魔だな。
たぶん考えただけじゃなく、そのままそんなことを口にしたと思う。
まるでそれが当然であるように、僕は鋸を腕の付け根に押し当てて、
押し当てて、
どれくらいあれから時間が経ったのか・・・・・。
まどろんだようにはっきりしない思考と感覚の中、僕は地面に座っていた。
シャワーから水が流れ出る音と、排水溝に流れていく赤い色の何か。
視界の端に見える、いくつかのゴミ袋。
黒いそれの中身は見えないけれど、きっと僕はやりきったのだろう。
とにかく全身が重い・・・・・酷く、疲れている・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・・ぁ・・・・」
両手は赤く染まっていた。この感触を僕は知っている。
忘れるはずなんかない。これでもう、絶対に、二度と、忘れられなくなっただろう。
シャツも、ズボンも、何もかも、赤く染まっていた。
洗面所にある鏡を見ると、そこには立派な殺人鬼の姿がそこにはあった。
僕は実際に彼を殺したわけじゃない。
でも、命を奪う=殺す、ということより、
人としての形を壊す=殺す、ということのほうが、
僕にとって何倍もの労力を必要とすることだった。
これから深夜になるまで待って、僕らは次の行動に移らなければならない。
このマンションにはカタナ以外にも多くの住民が住むだろう。
マンション・・・・ああ、あの血痕をなんとかしないと。
ふらつく足取りでリビングに戻ると、そこでは雑巾で血痕を片付けているカナタの姿があった。
彼女は僕の方を見ると、申し訳なさそうにぽつんと、
「ありがとうね」
そんなことを口にした。
僕は彼女に微笑み返すことが出来ただろうか?
とにかく今は、気分がさえない・・・・。
倒れるようにベッドの上に座り込んで、それから本当に倒れた。
ああ、こんな血まみれでこんなところに寝たら、また面倒なことになる・・・・・・。
でも、ひどく・・・・つかれたなあ・・・・・。
月明かりが窓の向こうに見える。
それは僕の罪をただ明らかにして哂うためだけにあるように見えた。
ベッドの枕元から声が聞こえる。
「・・・・・・・・・これで、昔とおんなじだね」
彼女はそれを嬉しく思っているのか、哀しく思っているのか。
なんにせよ、そんな言葉に僕はどんなことを考えたのか。
だめだ、眠い。
眠いよ、リュウジ・・・・・・・・・・。
「かな、た・・・・・・・」
枕元にいるであろう彼女に手を伸ばす。
彼女は僕の汚れた手を、やさしく両手で包み込んでくれた。
それに酷く心が落ち着いて、ゆっくりと目を閉じる。
僕は明日から、また新しいバイトを探して・・・・。
・・・・・・・・・なんだっけ?
もうよく思い出せない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕は夢でも見ているのだろうか。
そうであれば、どれだけ救われるだろうか・・・・・・・・。
リュウジ、ごめん。
僕は、人殺しだ。
薄れていく意識の中、ただひたすらに僕は謝っていた。
謝ったところでもう絶対に声なんか届くはずもないのに。
自分で殺したくせに。
ただただ、謝り続けていた。
許してほしいわけじゃない。叱ってほしいわけじゃない。
ただ聞いてくれた、そんな彼の存在が今は恋しい。
わからないのか、カナタ?
僕たちは、間違ったんだ。
間違えてしまった人間は、どこで間違いを挽回出来るのだろう?
わからないよ・・・・・リュウジ。
わからないよ・・・・・・・・・・・・・。
どうでもいいけど、一日過ぎるのに時間かけすぎだと思います、俺。