朱色狂想
はい、おまけです。
本編とはあんまり関係ないです。そしてヒロインが一度も出てこないという。
それでも良い人はごらんください。
何故人を殺したんですか?
それは誰にも言える事じゃない。他人事じゃない。自分もそうなりかねないいつかそうしかねない出来事。
だから笑い事じゃなくて面白がる事でもなくて、少なくともその死に向き合わなければならない、私たちには。
ならば理解し共存しその裏にある意図を知るべきだと思う。そうしない限り何も学ばない何も変わらない。
聞こえてくる風の声。太陽の暖かさ。肌に触れる他人のぬるさ。溺れていく好意の闇。
何もしなければ何も変わらない。世界は常にただそこにあるだけだから。
「・・・・勘違いしてるみたいだから教えてやるよ。俺は別にまだ人は殺しちゃいねえ」
「そうなんですか?」
「さあ、どうだろうな?俺の知らないところで死んでるかもしれないが、まあ少なくとも意図的にはねえ」
「そうなんですか」
「ああ、そうなんですよ」
茜色に染まる町。少しだけ生ぬるい風が吹く屋上。
そこで彼はフェンスに体重を預け静かに空を見上げていた。
私はそんな彼の隣に立ち、同じように空を見上げる。
そこに広がっているのは雲ひとつない空。夕日と月とが同時に目に映る美しい景色。
「世界ってきれいですね」
「ああ、そうだな」
彼は笑う。人懐っこくて爽やかで暖かくて女の子ならちょっとドキっとしてしまうような素敵さで。
実際、アキヤ先輩に比べこの人はわかりやすいイケメンだった。人気者なのも頷ける。
少しだけ赤くなる顔を気にしながら目を逸らしフェンスに指を絡める。
「世の中手を伸ばして届かないものなんてねえな・・・・だってホラ、月と太陽だってこうして同時に拝めるんだぜ。しかもとんでもなく絶景で粋なもんだ・・・そういうもんさ、幻想的ってのは」
「そうかもしれませんね」
「それじゃ、そろそろ時間だし・・・ちょっくら行ってくるわ」
彼は立ち上がりいつもの笑顔で私の頭を撫でる。
それがいかにも子ども扱いでいつもいつもいつも気に入らなかった。
けれど少しだけ目を伏せて頷く。
きっと今日の彼は、大事な何かを成し遂げようとしているから。
振り返らない後姿を寂しく感じた。
それは哀れみだったのだろうか。
なんにせよ彼はアキヤ先輩にとって唯一の親友。
消えてしまいそうなその後姿を、私は儚いと感じていた。
「儚い、かあ・・・・」
人の夢。
そんなものなのかも、しれない。
⇒朱色狂想
私が高校生になるよりも前に、一度だけ高校の屋上に入れてもらったことがある。
勿論それは非合法的なものであり、一人の少年が勝手にそこに招き入れただけなのだが。
なんて、随分と前の事を思い出しているということは私も結構酔っているのかもしれない。
「はあ・・・・・ちょっと疲れたなあ」
自分の部屋で一人、真っ暗な天井を見上げながら両手を広げ畳に転がる。
汗をかいていて少し気持ち悪いシャツを指先で引っ張りながら目を閉じる。
「先輩・・・・・・かっこよくなってたなあ」
先輩が居なくなって三度目の春。
彼は約束どおりきちんと自分の足で戻ってきた。
その後のことはまあ色々あって大変だったけどとりあえず彼はまたここで暮らすという。
カナタさんは・・・どうするのだろう?このまま行けばまたルミアさんと一緒に世界を巡ることになる。
そうなったらアキヤさんと一緒にいる時間なんてないんじゃないか。
酔った頭でそうしてうだうだ考えていると少しだけ気分が悪くなってくる。
ああ、少しだけ、少しだけ。だから少しだけ部屋を出て外の空気を吸う。
夜の街。深夜の町。狭くてでも今まで広いと感じていたアパートの庭。
桜の木。冷たい空気。汗ばんだシャツに涼しく風が当たる。
みんな自分の部屋に引っ込んだ日付も変わった深夜。一人で居るのは私だけである。
「まあみなさん積もる話もあるだろうから別にいーですけどー・・・・」
寂しくないといえばウソになる。
でも色々となんというかこう、胸がもやもやするのも事実・・・。
手摺に身を預けため息を付いた。
どうしていままでの春で一番めでたいはずなのにこんなに憂鬱なのだろうか?
いやそんなのはわかっている。私はここに居る誰ものことが大好きすぎるからだ。
そして先輩のことは・・・あ、あい・・・愛しちゃっているからだ・・・・。
だからもう何かして世界を変えるなんてことはしたくない。私は今の世界で十分だから、変わらなくていい。
変わることで誰かが傷ついて誰かが涙するのならそんな変化は必要ない。
そのために私は納得行かなくてもここで変化のない生活を・・・・・?
これ、誰の考え方だっけ・・・・。
「ツバキちゃん」
「わあっ!?何故気配を消して背後に立つんですか!?」
「え・・・・消してないけど・・・・それは僕が地味ってことなんだろうか」
「確かに地味ですけど」
先輩は苦笑しながら私の隣に立った。
その距離が予想以上に近くて胸がどきどきするので下を向いて顔の緩みを誤魔化した。
「どうしたんですか?こんな時間に」
「ああ・・・・どうもこうもね、カナタは寝ちゃったし・・・・僕は寝付けなくてね」
「カナタさんの寝顔を見ながら幸せにごろごろしてればいいじゃないですか」
「それはもう満喫したよ・・・・でもずっと見てると、その・・・・」
「・・・・・・・ああ・・・・・アキヤさんのえっち」
「すいません・・・」
まああの人のエロさは一緒に寝ている私のほうがよく知ってるし仕方ないか。
あれ?なんか変な文章だなこれ・・・。
「そういうツバキちゃんはどうしたの?あんなに飲んでたんだからすぐ寝ちゃうかと思ったけど」
「あー・・・・そうですね、そう思ったんですけどね・・・なんか寝付けないんですよ」
それはあなたのせいですよ、とは言わなかった。
「そっか・・・・なら、少し僕の話に付き合ってくれないかな」
「はい?」
「僕は・・・・・このままカナタと一緒に居るべきなのかと思ってね」
「何いってんですかここまできてまだそんなヘタレ発言ですか彼氏がそんなこと言い出したら彼女の九割が殺意抱きますよ・・・・」
「そ、そうなの?でも、カナタは今の生活がある。僕が関与してそれを壊すのはどうかなってさ」
ああ、この人は私と同じ事で悩んでいたのか、と思った。
そうなのだ。世界は一度完成して閉じきってしまったらそこに新しい風が入る余地はないのだ。
私や彼が自分の思う通りに何か出来ないのはやっぱりそれが三年と言う時間で完成してしまった世界だからだ。
かつて私たちは、特に彼は、自分の間違った世界を変えようと自ら変わろうと努力した。
結果変わった。変わったから今の私たちがある。カナタさんがある。
けれどそこにまた彼が居なかったことで、彼が日常とならなかったことで、別の日常が存在する。
そこにまた彼が割り込む、私が何かをするということは今のみんなが平和な日常を壊してしまうということだ。
それは・・・・よくない。気が引ける。なぜならみんながひどく大事だから。そういう風にはしたくないから。
「変なこと言うけど、さっき僕ら何もしなかったんだよね・・・・好きあっていて、久しぶりに会えたのにさ」
「何かしてたら問題ですけどね・・・ここの壁、薄いんですよ」
「知ってるよ・・・佐々木さんが料理中に口ずさむ『佐々木☆三分クッキング』がモロ聞こえてくるからね」
「でもなんで何もしなかったんですか?」
「いやめちゃめちゃ押し倒したかったけどすんごい我慢した・・・・・・」
「なんで!?ていうかぐっすり爆睡なカナタさんもどうなんだろう・・・・」
「カナタにとっては押し倒されるのトラウマかな、とも思って・・・・あ、いや・・・・なんていうか・・・・・彼女を傷つけたくないっていうか・・・・いや、言い訳だよな・・・・・ごめん」
「謝るのは私にじゃなくてカナタさんにじゃないんですか」
情けない先輩の姿に思わず笑ってしまう。
この人はこういう人だ。だから仕方がない。こういうところも含めて私は好きになったのだから。
ようやく彼は恋愛を始めたのだ。嫌われたくないとか好きだとかそんなことを今十代前半の子供のように考え始めたのだ。だからヘタクソで仕方なくてそれでいいのだと思う。
けれどそんなラブラブな所を見せ付けられるのは正直につらい。胸がずきずき痛む。
同時に私がこの人をこのままこれからも支えてあげたいと思う。それもまた言い訳なのだろうか。
「とりあえず押し倒しちゃえばいいんですよ、どうせ拒みやしませんから」
「・・・・そうかなあ・・・・・それはそれでどうなんだろうなあ・・・・」
「女の子の方に言わせるのもどうでしょうね」
「それもそうなんだけど・・・・はあ・・・・・・ねえ、ツバキちゃん」
「はい?」
顔を上げると彼はそう、三年前と変わらない寂しげな笑顔で夜空を見上げていた。
その横顔に思わず頭の中の思考がさっぱり消え去って見入ってしまう。
「僕らは今きっと、幸せなんだろうね・・・・・」
それはきっとそうなのだろう。けれどどうなのだろうか?
彼は今でも様々な罪と後悔を背負って生きている。それはもう一生消え去ることはないだろう。
でも、そんなのは残酷すぎるのではないか?
人を殺した記憶は永遠に消え去ることはない。それはどうしても消え去るものではない。
その罪も、誰かに裁かれない限りどうにもならない。裁かれても、どうにかなるものでもない。
そうなのだ。だからこれから一生苦しむしかないのだ。自分の中で罪との折り合いをつけるしかないのだ。
だから幸せになることは難しいのだ。そんなのはわかっていたことなのだ。だからどうしようもないのだ。
「・・・・・・・・・先輩は・・・誰かのために生きたいんですか?」
気づけばそんな事を口にしていた。
「そうやってまた誰かの罪も背負って生きていくつもりなんですか?」
何故そんなことを言おうと思ったのかはわからない。
「それじゃまた同じ事の繰り返しですよ・・・・・そりゃ、世界を変えるのは酷く恐ろしくて億劫ですけど」
何故正面からこんなことを言ったのかわからない。
「でもそんな生き方してたらいつかぜったい壊れちゃいますよ!!!」
何故こんなにも必死になっているのかわからない。
チャンスだと、思ったのかもしれない。
なんにせよ私は声を張り上げる。
「私なら・・・・」
これ以上言ってはいけない。
「私なら・・・・・先輩を守ってあげられます・・・・・幸せに、してあげられます」
喉がからからだ。汗が滲む。先輩の驚いた表情が崩れない。
胸がずきりと痛む。それを強引に隠すように、彼の胸に飛びついた。
「私と付き合ってくださいっ・・・・・・アキヤ先輩」
信じられないくらい高鳴っている胸の音。
触れただけで今までの良識全てが崩れ去ってしまいそうなくらい、彼を奪いたい衝動に駆られる。
私なら、私なら、私なら・・・・・彼を人殺しの世界になんかつれていかなかった。
私なら、彼と一緒にずっとどこまでも全て受け入れて愛し続けることができた。
それはずっと、もう六年も七年も前から同じことだ。そのときからずっと感じていたことだ。
そうだ、先輩を愛した時間ならカナタさんにも負けていない。私は彼の事が好きだった。ああ、でも、
これはきっと、酔っているから仕方ないんだ。
まだ私が中学生だった頃、先輩の姿を求めて高校に行ったことがある。
勿論入ることは出来ないし見つけることが出来るはずもないと思っていたところ、何故か都合よく校門の前で誰かと話しているところに遭遇した。
そのときの彼は私が知っている彼とは違い、あのピリピリした雰囲気は消えていてどこか穏やかな表情だった。
後の知ることだったが、彼と話している少年こそが衣川リュウジ。彼の唯一の親友だったのだ。
私はその姿を見て言いようのない切なさを感じた。同い年だったらあそこに立っているのはきっと自分なのにと。
しかし私はそのときまだ地味で意見も口に出来ない卑屈な少女だった。だからそれを見てみぬフリをした。
「おい、そこ行く少女」
明るい声に振り返る交差点。リュウジさんはポケットに片手を突っ込み手を振りながら笑っていた。
それが、私と彼の出会いだった。
リュウジさんは先輩とは全く違うタイプの人間だった。いや、違うようになってしまったのだろう。
もしも先輩があの頃と同じピリピリしていて強気な性格のまま突っ走ったらこうなったのかもしれない。
何はともあれそんなどこか先輩とは違うのに同じ空気を持つ不思議な少年、それが彼の印象だった。
それから私は彼と何度か話をした。彼の方から話しかけてくるのだから仕方がない。
例えば街角で。それが平日であるとは限らない。休日、ばったり出会うこともあった。
彼はいつも一人だった。一人じゃない時もわざわざ私のために一人になった。
そんな彼のことが不思議だった。決して好きだったわけではない。ただ興味があった。
あのアキヤ先輩が友達になれた人物。私もまた、手を取り合うことが出来るのかもしれないと。
彼と出会う時、空はいつも何故か茜色だった。
だから彼の記憶は、月でも太陽でもなく、茜色の空だった。
「・・・・・・んて、何いってんですかね・・・・・・・・・・ははははっ」
そんなことを何故今思い出したのかは判らない。ただきっと私の中にある切なさの記憶なのだろう。
先輩の胸から離れると自分でも気づかないうちに涙が零れていた。それが止められなくて俯いた。
「うあっ・・・・なんで・・・・こんな・・・・ううっ・・・ぐすっ・・・・・あぁぁぁっ・・・・!」
両手で顔を覆う。罪悪感とか、後悔とか、色々な思い出と人の顔が頭に浮かんでわけがわからなくなる。
ああ、どうして人はこんなに罪深い生き物なのだろう?何かを得るためには何かを蹴落とす必要がある。
その蹴落とすものまで大事だったらじゃあ人は一体何が出来るというのだろう?
全身が恐怖で震えた。自分で言っておいて、この一言のせいで誰かが傷つくと思うと怖くてたまらなかった。
「ごめんなさ・・・・ごめんなさい・・・・ごめんなさいごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・っ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ツバキちゃん」
先輩の声。抱き寄せられる暖かい体。大きな腕。
顔を上げるとそこには先輩の顔があった。
「ごめん」
「え?」
何の抵抗も出来ないまま唇を奪われていた。
突き放そうとする腕を強引に押さえられ引き込まれ、身を乗り出し不自然な姿勢で拘束される。
体を動かすことも抵抗することも出来ない。というか、心は正直だ。抵抗なんかしたくない。
強引すぎるキスが終わると先輩はそのまま通路に私を押し倒し、覆いかぶさるように地面に腕を付いた。
「せ、先輩・・・・・?」
「うん?」
「な、何をする気ですか・・・・・・」
「さあ、なんだろうね?」
「な、なんだろうねって・・・ひゃあっ!?」
首筋を指が撫でる。全身が汗ばんでいるのがいやというほど判る。
先輩の手はスカートに伸びて太股から徐々に上へ、なぞるような動きで指を這わせる。
この状況が非常にまずいということがひしひしと伝わってくるのに抵抗出来ないでいる私がいた。
二度目の口付け。今度は先ほどより強引ではなく優しく合意的に。何度も啄ばむように唇を触れ合わせる。
「って、っていうか・・・そ、そ、外なんですけど・・・・っ!?」
「関係ないよ」
いやあるから。
恥ずかしさと嬉しさと罪悪感で全身がわけのわからない火照りに覆われていく。
先輩の指が下着にかかり、それが脱がされようとした時だった。
「だめえっ!!!」
私は何故か全力で先輩を突き飛ばしていた。
鉄の手摺に後頭部を強打した先輩は頭を抑えながら倒れている。
「な、な、何考えてんですか・・・・・・・・・・っ!!!ばっかじゃないんですか!?」
「だから最初にごめんって言ったじゃないか・・・・・」
「謝ればいいってもんじゃないでしょ!?」
「ツバキちゃん・・・・声大きいよ」
「あ・・・・・・・・・」
さらに顔が赤くなりなんともいえない気持ちになり、大きくため息をついて先輩を見る。
「・・・・・・・・どうしてあんなことを?」
先輩は倒れた上体を起こし、通路に座ったまま月を見上げた。
「ツバキちゃんなら拒むと思って」
「なんですかそれ・・・」
「いや・・・・だから君は、自分の幸せより結局は他人を選んじゃう・・・そういう子なんじゃないかな」
「あ・・・・・・・・・」
微笑んでいる。暖かく。いつでも同じように。
変わらないから。きっと変わらない人がいてくれるから。だから周りの誰かは安心して前に行ける。
そういうものなのかも、知れない。違うかも、知れない。でもいまは、それでいい。
「そういう優しい子だから凄く苦労すると思う。でも自分の好きな事を好きなようにやっていいんだよ。せめて君がそうして自由にする何かを、僕は制限したりしないから」
「・・・・・・・・・・・でも・・・・」
「うん、君がもし僕と付き合いたいっていうのなら、正々堂々、お断りさせてもらうよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
判りきっていた結果だった。
最初から付け入る隙なんかなかった。それにこれで世界は壊れないしずっと続いていく。
これでよかったんだ。こうするほかになかったんだ。自分の気持ちも終わらせなければ先に進めない。
だというのに、どうして。
「うううううう・・・・・」
こんなに胸が痛むのだろう。
先輩は黙って抱きしめてくれる。
そんなの逆効果だ。涙が止まらなくなってしまう。
そんな私に彼はこう言った。
「泣ける時は泣けるだけ泣いたほうがいいよ・・・・・経験論だけどね」
長く続いた私の初恋は終わりを告げた。
囚われていたとは思わない。それは沢山の素敵な出会いと変化をくれたから。
だから、これで本当に終わりだ。
先輩と再会した時も、この桜の木の下だった。
私が高校に入学しこのアパートに暮らしていることを彼は知らなかった。
驚いた表情で庭に棒立ちしている先輩と庭先を掃除していてばったり目があってしまった私。
そんな再会。そしてそこは世界で一番大切な思い出の場所になった。
それから私たちは沢山のことを話した。
リュウジさんが死んだ理由。彼が何を望んだのかは私にはさっぱりわからないままだった。
ただ、彼とはもう二度と出会う事が出来ないという一つの事実だけが、空虚に心に響いていた。
死んでしまったらもう会うこともできないんですよね。
そう呟く私の隣で先輩は悲しそうに空を見上げていた。
今もそう、けれどあの頃とは違う。
ひとしきり涙を流した私は赤く腫れた目を擦りながら立ち上がる。
先輩もまた、打ちつけた後頭部のたんこぶを押さえながら立ち上がった。
「僕はやっぱりカナタとは一緒に行かない。もう少しここで自分の生きる道を探したいんだ」
「そうですか・・・・」
「あいつとは、たまに会えればそれでいい。毎日一緒に寝て起きて生きていけたらどんなに幸せかと思うけど、幸せに溺れて生きていけるほど僕らは美しくなんかないしなによりそれを僕がまだ受け入れられないから。でもね・・・・」
先輩は苦笑しながら、あの頃の誰かのように私の髪を撫でる。
「いつかそんな幸せを受け入れられる日が来ると僕は信じているから」
「・・・・・・・・・・・そう、なれたら・・・・いいですね」
くしゃくしゃと、何度も私の髪を撫でる。
子供扱いされているようでいやだったその大きな手は、いつしか暖かく心を許せるものに変わっていた。
世界は変わっていく。今はまだ停滞していて穏やかな変化だとしても、いつかきっと・・・・。
「さよなら、ですね・・・・・・先輩」
「え?」
「私・・・・・・・ここを出て行きます」
前々から決めていたことだった。ただ踏ん切りがつかなかっただけで。
先輩は少しだけ寂しそうに微笑むと、いつものように月を見上げて言った。
「いつでも遊びに帰っておいで」
「と、きれいにまとめたいのは山々なんですけど、下着が汚れたので帰ります・・・・」
「はい、すいません・・・・」
私たちは変わっていく。
多くの罪を抱え多くの矛盾を抱え世界を抱えそうして生き続けていく。
その先にどんな変化があるのかわからない。今ある世界が大事で身動きが取れないこともある。
それでもまだ何が起こるかなんてわからないし、まだ終わってなんかいない。
だって、世界はまだ・・・・・続いているんだから。
私を見送るみんなの声。
手を振ってくれる仲間たち。
いつかまた、ここに訪れる時、私はどう変わっているのだろうか。
そしてまた、いつかここに誰かが訪れる時・・・・・・その人にどんな変化が待っているのだろうか。
さようなら。またいつかここでめぐり合うために。
さようなら。愛しかった六年間。
さようなら。罪を背負って生きる人。
さようなら。
「・・・・・・・あの〜、誰か居ませんか?」
声が聞こえる。部屋で横になってTVを見ていた私はエプロン姿のまま部屋を出た。
アパートには一本の桜の木がある。そこで多くの人が出会い、別れていくように。
立っていたのは少女だった。まだ子供・・・高校生くらいなのだろう。少し慌てた様子で私に視線を向ける。
「あの、わたし・・・今日からここで暮らすことになってるんですけど・・・・」
「ああ、はいはい、聞いているわ。それじゃあこれから一緒に仲良くやっていきましょうね」
「は、はい・・・・よろしくお願いします・・・・」
挙動不審に慌てて握手に答える少女。その初々しさに思わず笑みがこぼれる。
「大丈夫よ?ここに居る人たちはみんないい人ばかりだから。それに何か困った事があれば力になるわ」
「え・・・・あ、ありがとうございます・・・」
「とはいえ、ここには今四人しか人が住んでいないのだけれどね。一回に宝くじを当てて世界一周したことがあるおじいさんが一人。二階には職業不明の男の人が一人。そしてちょっと素敵でカッコイイ殺人鬼さんが一人」
「さ、殺人鬼!?」
「冗談よ、ふふふ・・・・そして私、管理人の美女さんよ」
「はあ・・・・あの・・・・?」
「あ、そうだ・・・うっかりしてたわね、最初に名乗るべきだった・・・私は・・・・・・」
桜の花びらが舞い散る度に思い出す。あの頃の季節を。
久遠の月を書いてから既に三ヶ月が経過しました。
いきなりでっち上げた作品だというのに多くの人に読んでもらえてむしろ驚きですが感謝感激です。
こんなおまけをでっちあげたところでお礼になるとは思いませんが、最後まで読んでくださいまして誠にありがとうございます。
それではこの話は完全に完結です。その後のことは、ご想像にお任せいたします。
それでは。