聖なる夜にこんばんは
今年もこの季節がやってきた。
街にはきらびやかな装飾が施され、そこかしこから楽しげなメロディーが聞こえてくる。
もはやどれがどの歌かもわからないほどに重なった音は、視界に溢れるイルミネーションの明かりと相まってこの季節特有の浮遊感を生み出している。
「もうクリスマスかぁ……」
少し呆れたような声色で小さく呟く。
別にクリスマスが嫌いなわけではない。むしろこの独特な空気感を味わうのは大好きだ。
でも、特にクリスマスに思い入れというのがあるわけでもない。
何故なら自分はキリスト教徒ではないし、家族もこういった行事にはわりと淡白だったし、彼女もいないからだ。
自分にとってクリスマスというのはあくまで当日までの雰囲気を楽しむものであって、いざその日になっても特にやることがない。
それでも一応、気分を味わうためにこうしてケーキを買いにきたわけだ。
街の大通りをぶらぶら歩いて、適当な店を見つける。
木造造りの、温かみのある店だった。
茶色とクリーム色で統一されたドアをゆっくりと押し開けると、しゃらんしゃらん、と鈴の音が小さく響いた。
いらっしゃいませー。ショーケースの向こうで女性店員がこちらに笑いかける。
それを一瞥すると、逃げるようにすぐさま視線をショーケースのケーキに移した。
こういう人付き合いは妙に苦手だ。いや、相手は仕事なのだから人付き合いですらないのかもしれないが、やはり何となく緊張してしまう。これが彼女の出来ない理由だな、としみじみ思った。
ショーケースの中には色とりどりのケーキが所狭しと並べられている。
頭に栗をちょこんと乗せたモンブラン、きらきらと光るイチゴのタルト、雪のような粉砂糖を纏うロールケーキ。
そのケーキ今追加したばかりなんです。不意に頭上から声が聞こえた。女性店員のものだ。
顔は上げないまま、そうなんですか。と素っ気ない返事をする。
お客さん運がいいですよ。と続けて言う彼女に、曖昧な笑いで辛うじて対応した。
「これ、ひとつください」
指差したのはごく普通の、イチゴが乗ったショートケーキ。
はい、ありがとうございます。彼女はそう言ってケースからケーキを取り出し、丁寧に箱に入れる。
それを受け取り、ありがとうございましたー、という声を背に受けながら足早に店を後にした。
外は冷える。
早く家に帰ってのんびりしたい。そう思うと足も自然と早くなり、気付けばもう賑やかなあのメロディーも耳に遠くなっていた。
住宅街に入るとさっきまでの喧騒は消え、辺りはしんと静まりかえる。まばらに飾ってあるネオンの光が闇に慣れた目には眩しい。
一瞬、目の前を何かがよぎった。ほこり?と思って空を見上げる。雪だった。
今までのクリスマスで雪が降ったことなんてなかったのに、一人暮らしを始めて最初のクリスマスで降るなんて皮肉なもんだなぁ、とそんなことを思った。
ふと、何か音がした気がして足を止める。耳を澄ましてみたが何も聞こえない。気のせいだったか。
そう思い再び歩き出すと、また聞こえた。
耳を澄ます。今度は確かに聞こえる。聴くことに意識を集中させなければ静寂に吸い込まれてしまうほどの小さな音。まるで金属が擦れ合うような高くて細い音が微かに、確かに聞こえていた。
いつもだったら、怖がりな自分はさっさと通り過ぎてしまうだろう。
だが今日は違った。何故かその音が気になって仕方なく、無意識的に音がする方向へと歩いていた。
音の出所と思われる路地。そこには、雪に濡れてすっかりぐちゃぐちゃになったダンボールが一つ、路肩に置かれていた。
中を覗きこむと、毛布が一枚入っていて、その真ん中辺りが不自然に膨らんでいる。
あぁ、呼んでいたのはこの子か。自然と手が毛布へ伸びる、とそこで気付いた。
毛布が動いていない。そういえばここに来たときから鳴き声もしなくなっていた。
急いで毛布をめくると、中には小さくうずくまる子猫が一匹。目は閉じられ、短く揃った黒い毛は雪で湿ってぺたりとしてしまっている。
半ば祈るような気持ちでその子を抱き上げた。動いてる。目ではわからないほど微かだが、小さな胸はそれでも必死に呼吸している。
嬉しさで胸がはち切れそうだった。この子が生きていてくれた、それだけで自分は世界で一番幸せなんじゃないかとすら思った。
だがのんびりはしていられない。今は辛うじて息をしているがそれもこの寒さではいつまで続くかわからない、ということを脳が認識するよりも早く自分の足は再び街へ向かって走り出していた。
息が苦しい。
クリスマスに男が一人、手にケーキの箱を引っ掛けて、腕には子猫を抱き、息を荒げて必死に走る姿はさぞかし滑稽だっただろう。
しかしそんなことはどうでもよかった。物珍しそうな目で見てくるカップルや楽しげなショーウィンドウを横目にひたすら走った。きっと箱の中のケーキはぐちゃぐちゃだろう。それでも構わない。
朦朧としてくる意識の中でずっと考えていたことがあった。
「病院の帰りにこの子にもご馳走を買ってあげよう」
何故そう思ったかはわからない。
ただ、捨てられてしまったこの子と出会えたのが自分で本当に良かったと心の底から思うのだった。