プロローグ
―プロローグ―
鳴り響いたのは、どこか機械的な音だった。
発生源は一つの大扉。高さ三メートルはあろう木製の大扉の鍵が解かれた音だ。
しかし、鍵は解かれたというのに、そのあまりの巨大さは来る者を迎えるのではなく、拒んでいるかのように見えてしまう。
つまりは。
眼前に立ち尽くしているのは扉ではなくて、ある種の壁のように見えてしまったのだ。
だが、その大扉は呆気ない程に簡単に外側へと開いて――
「えっと……世話師さん?」
戸惑うような拙い声を扉の前に立ち尽くす長身の女性、ステラへと届ける。
声を受け取ったステラは温かみを感じさせる茶色の視線を向けると。
そこには大扉を半開きに開き、小さな体を半分だけ覗かせた幼女がいた。この幼い少女がステラの主となる人なのだろう。
「はい。私です」
まずは問いに答えなければ、何も始まらないために淡々と答えるステラ。
おそらく第三者が聞いていたのであれば、冷たいと言われても仕方がない受け答えだっただろう。
だが、幼女は気にした様子もなく。
「私の名前は……桜。一条桜だよ」
金色に塗られたドアノブを握り締めながら、丁寧にお辞儀をすると共に自己紹介をした。
初対面の相手に挨拶をする。その目的のみに視野を当てるならば非の打ち所のない挨拶だった。
しかし、その挨拶を受けたステラはどこか複雑な心境だった。
その理由は事前の情報が正しいならば、桜の年齢は今年で五歳の筈だ。個人差はあるのだろうが、挨拶などまともに出来ずに口を閉ざしてしまってもおかしくはない年齢である。
それにも関わらず桜は拙さを感じさせる声を発しながらも、しっかりとステラの瞳に、深い緑を思わせる瞳を合わせて挨拶をしたのだ。
男性と比べても遜色ない長身の女性を見上げたならば、こちらが意図せずとも見下ろされるような視線を感じただろうに。しかし、桜は気にした様子も臆した様子もなく、幼い顔に好奇心の色を漂わせている。
鈍いのか、子供だからこそ臆さないのか。
それは分からなかったが、どうやら桜は眼前に立つステラが恐くないらしい。それは今後彼女の「世話」をする上ではありがたい事だと素直に思う。
先ほど「世話」という言葉を使ったが、ステラは彼女のメイドではない。むしろメイドという言葉は数十年も昔に廃れて消えてしまっている。そもそも現代社会において人に「仕える」という事が稀なのだ。廃れてしまうのは仕方がないと思う。
しかし。
完全に消えたかと言われれば、それも否定は出来ない。
なぜかこの世界には資産家などと呼ばれる「大金持ち」が存在するのだから。それは世界の総人口と比べれば、一握り程度の数であろう。しかし、実際には金を湯水の如く使ったとしても、使い切れないという程に財を抱えた人間というものが確かに存在するのである。
それが目の前で瞳を輝かせている黒髪の幼女だ。
正確に言えば、その父親である。桜は資産家の娘、つまりはお嬢様なのである。そして、自身は今日から彼女の「世話師」として働く事になる身だ。
――世話師。
それは執事とメイドを合わせたもの。そう言えば理解しやすいだろうか。執事がお嬢様の送り迎えをして、メイドが家事をする。そんな時代は等に過ぎていて、今は男性も女性も平等にどちらの仕事もこなす時代だ。ゆえに名前を分ける事なく、世話師として統一させている。
名前の由来は、看護婦が看護師になったのと同じような流れだというのが有力である。男性でも家事が得意な者もいるし、女性でも身辺の護衛を務めるにたる人物がいるのは確かな事。性別だけで区分けしていたのが、そもそも間違いだったのだと誰かが気づいたのだろう。
その誰かというのがどんな人物であるのかは分からないが、ステラからすれば一人で家事も護衛も務めたいと思っているために好都合だった。ただ一人のお嬢様に全力で仕えるには他人の手は極力排除したいのである。
「どうしたの?」
どうやら言葉を返さなかった事を不思議に思ったのだろう、桜が小さな頭を傾げる。
それに伴って、まるで濡れているのではないかと見間違えるように艶やかな黒髪が揺れる。育ちがいいだけはあって、女性であるステラでさえ溜息が出てしまう程に綺麗だった。
「いえ……桜お嬢様の育ちの良さに感動しておりました」
さすがにこれ以上黙っている訳にはいかないステラは、とりあえずは当たり障りのない言葉を返す。
すると。
「桜でいいよ。それに敬語は、いや!」
桜は頬を風船のように膨らませて抗議をした。
その姿はまさに歳相応だった。
(なんだ……やはり子供なんだ)
英才教育を施されて、人らしさ、子供らしさを失っているかと思ったが、そんな心配などする必要はなかったらしい。この子はまだ真っ直ぐに育つ可能性を持っている、その事実はステラを安心させるには十分だった。
そして、自身がどう接するべきかを決める事が出来た。おそらく迷ったのは数瞬の間だっただろう。
「分かった。私の名はステラ。ステラ・クロスフィールド……あなたの『世話師』だ」
胸の内をしっかりと固めたステラは彼女の想いに応えるように言葉を紡いで、温かな茶色の瞳を優しげに細める。お嬢様の怒りが収まる事を祈って。
「うん。そっちの方がいい。よろしく、ステラ」
どうやら効果は抜群だったらしく、桜の膨らんだ頬はすっかり元通りに戻っていた。それだけでなく、桜はステラの腰にも満たない小さな体を預けてくれた。
といっても、抱擁と呼ぶよりは両足に巻きついているような恰好なのだが。
だとしても、この小さな幼女が自身を認めてくれたのは嬉しかった。もしかすれば真っ直ぐな言葉と想いを届けさえすれば、この少女は応えてくれるのかしれない。だが、真っ向から拒絶されるよりかは幾分かましなのは言うまでもない。
「あなたとは上手くやれそうだ」
仕える人物が幼女だと聞いて内心では不安もあったが、両足から伝わる温かさは本物だろう。この胸に確かな熱が込み上げてきたのだから。
「うん。かっこいいお姉さんで嬉しい。私は母様が……いないから」
しばらく伝わる柔らかさと温かさを感じていると、桜は消え入りそうな声で囁いた。
注意しなければ聞き漏らしてしまいそうな小さな声だったが、事情を知っているステラは見逃さない。そもそも彼女を支え続ける仕事をするのだ、どんな些細な事でも見逃してはならない。
それが世話師という仕事だ。
だが、如何に自身を磨き、彼女に尽くしていても叶わない事もある。それは彼女の母親の代わりになる事だ。桜がステラにそれを求めるかどうかは分からないが、求めたとするならば答えられる自信はない。今年で十七歳になったばかりの小娘が、母親の代わりなど無理な相談なのだから。
だからこそ、ステラは――
「母親にはなれないが……全力であなたに尽くそう」
桜の細い肩に壊れ物を扱うようにそっと手を置いて、はっきりと胸の内を語る。
今は言葉の意味が分からなくてもいい。でも、この場ではっきりと伝えておかなくてはいけないと思ったから。
桜はどう答えていいのか分からなかったのだろう。両足へと巻きつけた両腕に力を込めるだけで、何も言う事はなかった。
でも、やはり寂しいのだろう。その手を離す事はなかった。
(今日くらいはいいか)
もうしばらくは動かないと判断したステラは、姿勢はそのままで視線を今日から住み込みで働く事になる館へと向ける。
(圧倒されるな。でも……やるだけだ)
自身が住んでいる住宅地とは別次元を思わせる世界。
だとしても、自身はここで働くと決めたのだ。ならば臆する事も、迷う事もないのだ。
まだステラは不要だと言われていないのだから。
再び胸に揺らがない決意を刻み込んだ時に。
ようやく立ち直った桜が――
「ありがと。行こう――父様に挨拶しないと」
名残惜しそうにその身を放すと同時に提案した。
その一言がステラの新しい日常の始まり。そして、二人が進む最初の一歩でもあった。




