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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第41話:予測不能な明日へ

 朝の光が会場を満たし始めた頃、七人はまだ窓辺にいた。


 夜明けの感動が薄れたわけではない。ただ、太陽がゆっくりと昇りきった後に残ったのは、高揚ではなく、もっと静かなものだった。


 さて、これからどうするのか——という、現実の質感だ。


 最初に動いたのはソフィアだった。

 窓の桟に腰を下ろし、手帳を開く。以前の手帳とは違い、表紙には何の文字も青白い微光もない。どこにでもある、ありふれた革表紙の手帳だった。


 ソフィアはペンを手に取り、最初のページに日付を書き込もうとした。しかし、ペン先が紙の上で止まる。


「今日って、何月何日でしたっけ」


 これまではシステムが自動的に日付を表示してくれていた。今は何も教えてくれない。


「確か、二月だったような」

「三月だろう」


 カイルが近づいてきた。


「いえ、四月ですよ。卒業パーティーですから、春のはずです」

「待て。私たちは何周も繰り返している。季節感が狂っていて当然だ。もしかしたら五月かもしれない」


 ソフィアはペンを唇に当てて考え込んだ。


「それとも六月。あれ、始業式っていつでしたっけ」

「春だから四月のはずだ。いや、だがこの世界の暦がそもそも、向こう側と同じとは限らない」

「向こう側?」

「プレイヤーが住んでいる世界のことだ」


 カイルは眼鏡を押し上げ、少し考え込んだ。


「根源領域に触れた時、向こう側の知識が断片的に流れ込んできた。暦もそのひとつだ。だが、この世界に適用できるかは検証が要る」

「なるほど。とりあえず日付は空欄にしておきます」


 ソフィアは日付欄を空白のまま、その下に小さく書いた。


 『自由の1日目』


 カイルがそれを覗き込み、わずかに口の端を上げた。


「悪くない記法だ」

「ありがとうございます。それで、カイル様。これから、何を記録すればいいんでしょうか」

「決まっている」


 カイルは自分の手帳を取り出した。数式と図式で埋め尽くされたページの、最後の余白を示す。


「システムの暴走、プレイヤーとの戦い、そして解放。すべてを記録に残す。いつか誰かがこの記録を読んだ時、同じことが繰り返されないように」


 ソフィアの瞳が、静かに輝いた。


「それなら、得意です。なにせ解説役でしたから」


 その言葉に、少しだけ苦い笑いが混じった。システムに与えられた「解説役」という役割。けれど今、同じ能力を自分の意志で使うと決めた時、それは彼女自身のものになる。


 カイルはソフィアの隣に腰を下ろした。二人は並んで手帳を開き、何かを書き始めた。時折カイルがソフィアの記述を指差し、ソフィアが頷いて書き直す。研究者と記録者の、静かな共同作業だった。


 その様子を壁に寄りかかって眺めていたレオンが、ルカスに耳打ちした。


「なあ、あの二人、随分近いな」

「ええ。とても自然な距離ですね」


 ルカスは穏やかに微笑んだ。


「神の導きではなく、二人自身の意志で近づいている。素晴らしいことです」

「お前も、ちゃんと自分の言葉で祝福できるようになったじゃねえか」

「ええ。もう、台本はありませんから」



* * *



 会場の隅で、クレアは窓の外を見つめていた。


 朝日に照らされたその横顔には、もう不自然に整えられた光は当たっていない。髪は乱れ、ドレスには皺が寄り、目の下には隈ができている。片方の靴紐がほどけかけていることにも気づいていない。


 かつての「ヒロイン」だった少女のどこにも、寸分の隙もなかった頃の面影はなかった。だからこそ、初めて「クレア」という一人の人間がそこにいた。


 エリザベートが近づくと、クレアは振り返った。


「エリザベート様」

「まだここにいたの」

「はい。あの、考えていたんです。これから何をするべきなのか」


 クレアの声は小さかった。しかし、泣き声ではなかった。声の指示を待つのではなく、自分の中から言葉を探している。その不慣れな沈黙が、かえって人間らしかった。


「それは、あなたが決めることですわ。もうシステムはないのだから」

「でも私、ヒロインとしての役割しか知りません。笑って、微笑んで、誰かに愛されることしか……」

「なら、ヒロインをおやめになればよろしいわ」


 エリザベートの言葉に、クレアが目を見開いた。


「やめる?」

「ええ。何でもよろしいのよ。この世界には、もうシナリオがないのだから」


 クレアはしばらく黙っていた。


 その沈黙の中で、何かが変わった。泣き腫らした桃色の瞳に、ゆっくりと光が灯る。それはシステムが生成した輝きではなく、内側から生まれた、微かだが確かな意志の光だった。


「私……騎士に、なりたいです」


 小さな声だった。しかし、震えてはいなかった。


「ずっと守られるだけでした。声に従って、微笑んで、誰かが来るのを待つだけで。でも、もう待ちたくありません。今度は私が、誰かを守りたい」


 エリザベートは少し驚いた顔をして、それからふっと笑った。


「騎士。よりによって、最も泥臭い道を選びますのね」

「はい。泥だらけでいいです。微笑んでいるだけよりも、ずっといい」


 その言葉を聞いていたレオンが、壁から背を離して歩いてきた。笑ってはいなかった。むしろ、真剣な目でクレアを見ていた。


「騎士か」

「はい」


 クレアは身構えた。笑われる、と思ったのだろう。

 レオンは腕を組み、クレアを頭の先から足の先まで見た。


「体力はない。筋力もない。剣を持ったこともないだろう。足腰も弱い。はっきり言って、素材としては最悪だ」

「……はい」

「だが」


 レオンの口角が上がった。


「『自分で決めた』ってのは、素材の良し悪しより大事だ。俺が仕込んでやる」

「本当ですか!?」

「ただし甘くはしないぞ。まずは走り込みだ。会場を十周。話はそれからだ」


 クレアの顔がわずかに青ざめた。しかし、逃げなかった。


「やります!」

「よし」


 レオンはクレアの頭をぽんと叩いた。乱暴だが、不思議と優しい仕草だった。


「お前は良い選択をした」


 ルカスが静かに歩み寄り、クレアの前で膝を折った。


「クレア。あなたの選択を、祝福します」

「ルカス様」

「神の祝福ではありません。私自身の、祈りです」


 ルカスは立ち上がり、穏やかに微笑んだ。


「訓練で疲れたら、いつでも歌を歌いますよ。システムの聖歌ではなく、私が選んだ歌を」


 少し間を置いて、ルカスは窓の外に視線を向けた。朝日が差し込む庭園を眺める横顔には、これまでの穏やかさとは少し違うものが浮かんでいた。


「実は、私も考えていたことがあるんです」

「何だ?」


 レオンが首を傾けた。


「システムが消えた今、この世界には『神官』という役職自体が存在するのかどうか、正直分かりません。祈りの対象であった神がシステムの一部だったのだとすれば、私が信じていたものの大半は虚構だったことになります」


 ルカスの声に、悲壮さはなかった。

 むしろ、ずっと胸の内にあった問いをようやく口に出せた、という静かな安堵があった。


「けれど、ひとつだけ確かなことがあります。あの最後の戦いで、私はこの手で仲間を癒しました。祈りの言葉が本物かどうかは分からない。でも、仲間が癒えたのは事実です。そして、苦しんでいる人の痛みを和らげたいと願ったのは、シナリオではなく私自身の意志でした」


 ルカスは自分の手のひらを見つめた。


「だから、これからは教会の外に出ようと思います。街を歩き、人々の声を聞き、この手が届く場所で、誰かの痛みに寄り添う。神の名を借りずに、ルカスという一人の人間として」

「坊主が野に下る、ってわけか」


 レオンが鼻を鳴らした。からかいではなく、認めるような響きだった。


「お前らしいな。堂々と悩んで、堂々と歩き出す」

「ありがとうございます。レオンに言われると、少し気恥ずかしいですが」


 ルカスは照れたように目を伏せ、それから仲間たちを見回した。


「皆さんのおかげです。台本のない言葉で語り合える仲間がいたから、私はようやく——自分の足で立てる気がしています」



* * *



 クレアが仲間たちに囲まれている光景を、ジークハルトは少し離れた場所から見つめていた。

 窓から差し込む朝日が会場を照らしている。雲の動きとともに明るさが変わる、本物の光だった。


 ジークハルトはエリザベートの元へ歩いた。


「エリザベート」


 エリザベートが振り返る。朝日が金髪を照らしていた。


「私は、長い間システムに操られてきた。クレアを愛するように命令され、君を嫌うように命令された。自分の言葉も、自分の感情も、すべてが偽物だった」


 ジークハルトは一歩近づいた。しかし、そこで足が止まった。


「正直に言えば、怖い」


 エリザベートは目を瞬いた。

 ジークハルトが怖いと口にするのは、これが初めてだった。根源領域でも、白い空間でも、消えゆく世界の中でも、彼はそんな言葉を使わなかった。


「君はシステムから、『王太子を愛する悪役令嬢』という役割を与えられていた。私を愛するのが、君の設定だったはずだ」


 ジークハルトは自分の手を見つめた。


「今、その設定は消えた。君はもう何の強制もなく、誰を愛するも愛さないも自由だ。なら、もしかしたら——」


 言葉が途切れた。王太子の威厳はそのままに、しかし声だけがかすかに揺れていた。


「もしかしたら、君の私への想いも、設定が作り出したものだったのではないかと。システムが消えた今、もう私を選ぶ理由がないのではないかと」


 エリザベートは黙って聞いていた。彼の緑の瞳がこちらを見つめている。その目には、世界の崩壊にも、消滅の恐怖にも見せなかった種類の不安があった。


「それでも聞きたい。聞かなければ、先に進めない」


 ジークハルトはまっすぐにエリザベートを見た。


「エリザベート・アルトマール。私は、君を愛している。これは設定ではない。私自身の意志だ」


 エリザベートの目が見開かれた。唇が小さく震える。


「ジークハルト様」

「だが、君はどうだ。システムが消えた今も、君の意志で、私を——」

「黙りなさい」


 エリザベートが遮った。声は震えていたが、目は真っ直ぐだった。


「設定ですって? わたくしが何十回も殺されながら、それでもあなたの隣に立ち続けたのが、設定のせいだと?」


 彼女は一歩、ジークハルトに近づいた。


「王妃にふさわしくあろうと魔術よりも統治を学んだのも。社交界であなたの名に恥じぬ振る舞いを磨いたのも。すべてが設定の産物だと、そうおっしゃるの?」


 ジークハルトは黙った。


「設定はわたくしにあなたを愛せと命令したのかもしれない。でも、努力しろとは命令しませんでしたわ。あなたにふさわしい人間になりたいと願ったのは、わたくし自身よ」


 エリザベートの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「それは、今も変わりませんわ」


 ジークハルトの表情が緩んだ。張り詰めていた肩から、力が抜けるのが見えた。


「そうか」

「ええ。だから、さっさと続きをおっしゃいなさい。わたくし、待っているのですけれど」


 ジークハルトは小さく笑った。それから彼はエリザベートの手を取った。


「システムが私にクレアを愛せと命令した。だが、私の心が本当に求めていたのは、君だった。ずっと。最初から」


 ジークハルトは片膝をついた。


「私と共に来てくれ。予測不能な未来を、一緒に歩んでくれ」


 エリザベートの目に光が溢れた。扇子を持つ手が小さく震えた。


 そんな内心の動揺を、エリザベートは一瞬も顔に出すまいとした。しかし唇の端が震え、瞬きが多くなり、悪役令嬢の威厳を保とうとする必死の努力が、かえって彼女の本音を曝していた。


 その時。


「ちょっと待て」


 レオンの声が、横から飛んできた。


 ジークハルトが顔を上げた。


「……レオン。お前、以前からエリザベートに馴れ馴れしいとは思っていたが。まさか」

「絶対に違うから! とにかく水を差すつもりは全くない! だがな」


 レオンは腕を組み、真面目な顔で言った。


「指輪は?」


 沈黙。


「は?」

「指輪だよ。求婚なら指輪がいるだろう」


 ジークハルトの動きが止まった。片膝をついたまま、完全に硬直している。


「指輪」

「ないのか?」

「……ない」

「じゃあダメだ。やり直せ」

「やり直しとは何だ。今いいところだっただろう」

「いいところだからだ」


 レオンは肩をすくめた。


「せっかくシステムから解放されたのに、中途半端にやってどうする。自分の意志で、きっちりやれ」


 ジークハルトは膝をついたまま、困惑した表情でエリザベートを見上げた。

 エリザベートはこらえきれず、扇子の影から口元を覗かせた。笑いと、別のものが混ざった声で。


「ふふ。レオンの言う通りですわ」

「エリザベート」

「指輪がないなら、ご用意なさいな」


 エリザベートは目の端を指先でさっと拭い、わざとらしく澄ました顔を作った。


「それとも、悪役令嬢のわたくしには、指輪は不要だと?」

「そんなわけがない。君には最高の——」

「なら、行ってらっしゃいまし」


 エリザベートは手を振った。その手がまだ少し震えていることに、ジークハルトは気づいていた。


「すぐ戻る」


 ジークハルトは立ち上がり、会場を出ようとした。


「王宮の宝物庫に良い品があるぞ」


 レオンが背中に声を投げた。ジークハルトは振り返らずに片手を上げ、駆け出した。


 会場に残された一同は、しばらく黙っていた。


「これは間違いなく、シナリオにない展開ですね」


 ソフィアがぽつりと言った。


 カイルが小さく吹き出し、ルカスが穏やかに笑い、レオンが満足そうに鼻を鳴らした。クレアだけが状況を理解しきれず、きょとんとしている。


 エリザベートは窓辺に寄り、朝日の中で自分の手を見つめた。ジークハルトが握っていた手。まだ温かい。


「まったく」


 誰にも聞こえないほどの声で、エリザベートは呟いた。


「設定のせいかもしれない、ですって。あれだけ一緒に戦っておいて、よくもそんなことを」


 その言葉は、怒りのかたちをした、幸福だった。



* * *



 しばらくして、ジークハルトが息を切らしながら戻ってきた。手には小さな箱を握っている。額に汗が浮かび、金色の髪が少し乱れていた。


 エリザベートの前に立ち、再び片膝をついて箱を開く。中には深い青のサファイアが朝日を受けて静かに輝いていた。


「改めて。エリザベート・アルトマール、私と共に来てくれ」


 今度は、邪魔は入らなかった。


 エリザベートは微笑んだ。悪役令嬢らしい高慢さとも、システムに強制された作り笑いとも違う。ただ、嬉しくて表情を繕うことを忘れた一人の少女の顔だった。


「ええ。もちろんですわ」


 ジークハルトがエリザベートの指に指輪をはめた。サファイアの青がコバルトブルーの瞳と重なる。

 立ち上がった二人の間に、抱擁があった。静かで、短く、けれど確かな抱擁だった。


 レオンが手を叩いた。大きく、ひとつだけ。

 それに続いて、ルカスが穏やかな拍手を。カイルが控えめに。ソフィアが両手で。


 すると、会場の隅から別の拍手が聞こえた。


 振り返ると、いつの間にか生徒たちが目を覚まし始めていた。

 先ほどまで倒れていた者、テーブルの下に丸まっていた者、壁に寄りかかったまま眠っていた者。彼らがぼんやりとした顔で辺りを見回し、会場の中央で抱擁する王太子と公爵令嬢の姿を認めて、事情も分からぬまま手を叩いていた。


「殿下!」


 金髪の少年が叫んだ。制服のボタンが一つ取れている。


「ようやくですね! エリザベート様と、ずっとそうなると思ってました!」

「おめでとうございます!」


 そばかすの少女が両手を組んで叫んだ。隣にいた背の高い少年が、ぶかぶかの手袋を外しながら拍手している。眼鏡をかけた少女が友人の腕を掴んで揺さぶり、友人の方は寝癖のついた頭で何が起こったのか理解しようとしている。


「え、何、何が起こったの?」

「分からないけど、おめでたい雰囲気じゃない?」

「えー、でもクレア様は? ジークハルト様はクレア様と——」

「何言ってるの、空気読みなさいよ」


 まばらだった拍手が次第に広がり、やがて会場全体が祝福のざわめきに包まれた。状況を把握している者はほとんどいなかったが、誰もが生まれて初めて自分の意志で拍手をしていた。不揃いで、リズムもばらばらで、中には手拍子が裏返っている者もいたが、それがかえって耳に温かかった。


 ふと、エリザベートの足が止まった。


 目の前の金髪の少年を、見つめている。彼はこちらに気づいて、照れくさそうに頭を下げた。


「あなた、名前は?」


 少年はきょとんとした顔で答えた。


「フリッツです。フリッツ・ヴェーバー」


 フリッツ。その名前を口の中で転がした瞬間、エリザベートの胸の奥で何かが軋んだ。


 ——知らなかった。


 十九回の周回を繰り返しながら、この少年の名前を、一度も気にしたことがなかった。いつも壁際にいて、背景のように微笑んでいた彼に、「フリッツ・ヴェーバー」という名前があったことを。


「あなたは?」


 エリザベートはそばかすの少女に目を向けた。


「マリーです! マリー・ヘルマン。あ、あの、エリザベート様に名前を聞かれるなんて光栄です……」


 マリー。背の高い少年はトーマス・ブラント。眼鏡の少女はイーダ・カウフマン。寝癖の友人はアネッテ・リヒター。


 名前を聞くたびに、胸の奥の軋みが大きくなった。


 エリザベートは会場を見渡した。そこにいる数十人の生徒たち、かつて「名もなき生徒」と呼んでいた人々に、ひとりひとり違う名前があった。違う声があり、違う笑い方があり、違う癖があった。


(わたくしたちは覚醒していたはずだ)


 システムの支配に気づき、抗い、自由を勝ち取った。世界の構造を見抜き、根源領域にまで踏み込んだ。

 あれほどの覚悟で戦い抜いた自分たちが——同じ教室にいたクラスメイトの名前すら知らないことを、不思議とも思わなかった。


 それこそが、システムの最も深い支配だったのだ。


 「名前のある者」と「名前のない者」を分け、「重要なキャラクター」だけが世界の主人公であるかのように、認識そのものを歪めていた。エリザベートたちの覚醒すら、その歪みの内側にあった。


「ねえ、カイル」


 エリザベートの声が、低く静かに響いた。


「どうした」

「わたくしたち、おかしいと思いませんこと? 十九回も繰り返しておきながら、この方たちの名前を一度も知ろうとしなかった。覚醒していたはずのわたくしたちが、それを不自然だとすら感じなかった」


 カイルの眼鏡の奥で、瞳が鋭く光った。


「……おそらくシステムの認知制御だ。キャラクターフラグの立っていないNPCは、意識の焦点から排除される。私たちが覚醒した後も、その制御は残っていた」

「わたくしたちの目は開いていたのに、見えていなかったのね」


 ソフィアが手帳を握りしめた。


「私、何百回も『記録者』として会場の状況を記述してきました。でも一度も、この方たちの名前を書いたことがありません。『生徒たちが拍手した』——いつもそう書いていました。記録者を名乗りながら、記録すべき人々の名前を記録していなかった」


 レオンが拳を壁に押し当てた。


「……くそ。俺も同じだ。守ると決めた世界にいる奴らの名前も知らねえで、何が騎士だ」


 ルカスが静かに目を閉じた。


「私たちは自由になったと思っていた。でも本当の自由は、この方たちの名前を呼べるようになった今日から始まるのかもしれません」


 エリザベートはフリッツに向き直った。


「フリッツ。今まで、ごめんなさいね」

「え? な、何がですか?」


 フリッツは目を白黒させた。公爵令嬢に謝られる理由がまるで分からない、という顔だった。


「いいえ、何でもありませんわ」


 エリザベートは首を振り、会場を見渡した。

 フリッツ、マリー、トーマス、イーダ、アネッテ。そしてまだ名前を知らない人々。全員が自分だけの顔を持ち、自分だけの名前を持つ、生身の人間だった。


 かつて背景に過ぎなかった人々が、今朝、名前を取り戻した。

 それはシステムからの、最後の解放だった。


 レオンは壁から背を離し、まだ拍手を続けているフリッツの方へ歩いた。


「おい、フリッツ」


 名前を呼ばれた少年が、びくりと肩を跳ねさせた。


「は、はい!」

「お前、さっきから一番でかい声出してるな」


 フリッツの顔が赤くなった。しかしレオンは笑わなかった。乱暴に、けれど確かに、少年の肩をぽんと叩いた。


「よく通る、いい声だ。覚えたぞ」


 それだけ言って、レオンは仲間たちの方へ戻った。フリッツは呆然としたまま、マリーと顔を見合わせた。


 ジークハルトはエリザベートの手を取ったまま、生徒たちの拍手に小さく頷いた。

 その仕草には、かつてシステムに操られた時の形式的な王太子の礼はなかった。ただ照れくさそうに、しかし確かに嬉しそうに。


「レオン。ありがとう」


 エリザベートはジークハルトの腕に手を置いたまま、レオンを見た。


「何がだ」

「指輪のこと。おかげで、きちんとした形になりましたわ」

「礼を言われるようなことじゃねえよ。当然のことをしただけだ」


 レオンは少し照れくさそうに頭を掻いた。


「ただし、これからが大変だぞ。王宮に戻ったら、国王陛下に報告しなきゃならん」


 その言葉に、ジークハルトの顔がわずかに強張った。


「そうだな。父上に——」

「クレアとの婚約は白紙、エリザベートとの関係を改めて申告。政略婚の枠組みも見直し。やることは山ほどある」

「分かっている」


 ジークハルトは頷いた。しかしその表情に、もう迷いはなかった。


「だが、まずは王宮の状況を確認するのが先だ」

 カイルが眼鏡を光らせた。


「王宮の人間も全員システムから解放されている。かなりの混乱が起きているはずだ」


「行きましょう」

 エリザベートがジークハルトの手を握った。


「一緒に片づけましょう」



* * *



 七人が会場を出ると、王宮の廊下が朝日に照らされていた。


 見慣れた廊下だった。美しいタペストリー、整然と並んだ花瓶、磨き上げられた床。何も変わっていないように見える。

 しかし、何かが違った。


 最初に気づいたのはレオンだった。


「おい。なんだ、この気配」


 廊下の奥から、足音が聞こえてくる。規則正しくあろうとして崩れかけている足音。


 角を曲がって現れたのは、老執事のセバスティアンだった。普段は寸分の乱れもない燕尾服の襟が片方だけ立ち上がっており、白い手袋の右手にはなぜか泡立て器が握られている。


「ジークハルト殿下! ああ、殿下! よくぞお戻りくださいました!」


 セバスティアンは泡立て器を持ったまま完璧な角度で一礼した。その動きがあまりに自然で、誰も泡立て器に突っ込めなかった。


「何が起きた」


「まず厨房でございます。厨房長のハインリヒが今朝目覚めた途端、『実は俺は踊りたかったんだ』と申しまして。鍋を振りながらステップを踏んでおります。もう三着の制服がソースまみれでございます」


「……それだけか」


「いえ。庭師のヘルムートが突然、花壇の前で朗読を始めまして、まだ止まりません。薔薇に語りかけているのか、薔薇の気持ちを代弁しているのか判然としないのですが、とにかく仕事が全く進みません」


 ルカスが思わず口を開いた。


「薔薇の気持ちを代弁?」


「はい。『ああ我が棘よ、汝は我を守る鎧にして、我を孤独にする牢獄なり』と。なかなかの名調子でございます」


 ソフィアがペンを止めて顔を上げた。記録すべきかどうか、真剣に迷っている表情だった。


「それから」


 セバスティアンは一瞬口ごもり、覚悟を決めたように言った。


「国王陛下が、玉座で逆立ちをなさっておいでです」


 沈黙が落ちた。


「……なんと?」


「『一度、逆さまから王国を見てみたかった』と仰せです。侍従長が止めに入りましたが、陛下は『うるさい、今ちょうどいい角度なんだ』と仰せになり、そのまま——」


「そのまま?」

「お冠が落ちました。三回」


 ジークハルトの額に、うっすらと汗が浮かんだ。


「父上が」

「はい」

「逆立ちを」

「はい」

「玉座で」

「左様でございます。しかも御自分の記録を更新しようとなさっておられまして。先ほど侍従が『二分を超えました!』と報告しておりました」


 レオンが口を開きかけた。ジークハルトが振り返り、静かに、しかし断固として言った。


「笑うな」

「いや、笑ってねえよ」


 レオンは唇を噛んでいた。肩が震えている。明らかに笑っていた。


「笑っているだろう」

「笑ってない。感動してるんだ。国王陛下の自由を」

「感動する場面ではない」


 カイルが眼鏡を押し上げた。


「予測はしていた。システムから解放された直後、これまで抑圧されていた自由意志が一斉に表出する。いわば、反動だ。おそらく王宮中で同様のことが起きている」

「王宮中で、この騒ぎか」


 ジークハルトは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。王太子の顔に戻っている。

 けれどその瞳には、かつてシステムに操られていた時の空虚さはなかった。自分自身の判断で、自分自身の責任を引き受けようとする人間の目だった。


「行くか」


 エリザベートがジークハルトの隣に並んだ。


「まずは陛下を玉座に正しくお座らせして。それから厨房長を止めて——いえ、踊りたいなら厨房の外で踊っていただきましょう。庭師には仕事の合間に詩を詠むよう説得して」

「やることが多いな」

「当然ですわ。長い間シナリオで動かされてきた世界が、一晩で正常になるわけがありませんもの」


 エリザベートは扇子を閉じた。


「でも、これはシステムの修正力に任せるのではなく、わたくしたち人間が、自分たちで片づける仕事ですわ」

「ああ」


 ジークハルトが頷いた。


「誰かに命令されるのではなく、自分で決めて動く。初めてのことだが」

「初めてで結構。わたくしだって、悪役令嬢としての手引書は持ち合わせていませんわよ」


 廊下の奥から、また何かが倒れる音がした。続いて誰かの笑い声と、別の誰かの怒鳴り声。自由を手にした人々が、不器用に、しかし懸命に「自分で決める」ことに取り組んでいる音だった。


 七人は廊下を歩き始めた。


 先頭はジークハルトとエリザベート。半歩後ろにレオンとカイル。ルカスとソフィアが続き、最後尾でクレアがおぼつかない足取りでついてくる。


 その隊列は、システムが配置した「ヒロインと攻略対象と悪役令嬢」の定位置ではなかった。誰が命じたわけでもなく、自然にそうなった並び方だった。


「ソフィア」


 歩きながら、エリザベートが振り返った。


「記録してちょうだい。自由の一日目に起きたこと、すべて」

「もう書いています」


 ソフィアは歩きながら手帳を開いていた。ペンが走る音が、足音に混じる。


「『自由の一日目。フリッツが叫び、マリーが泣き、執事がメレンゲを作り、厨房長がタンゴを踊り、国王陛下が逆立ちをした。混沌としているが、全員が名前を持ち、全員が生きている。以上、記録者ソフィア・アーカイブ。解説役ではなく、一人の人間として』」


「申し分のない記録ですわ」

「ありがとうございます」


 ソフィアはペンを唇に当てて、少し考えた。


「……あと一行、追記してもいいですか」

「どうぞ」

「『この記録には、続きがある。ただし、その内容は誰にも予測できない』」


 エリザベートは微笑んだ。


「素敵な一文ですわね」


 廊下を進むにつれて、王宮の喧騒が近づいてくる。誰かが歌っている声、食器が割れる音、大勢の足音、笑い声、怒鳴り声。システムに管理されていた世界が、手探りで「自分で動く」ことを覚え始めている混沌の音だった。


 その音を聞きながら、クレアが小走りで前に出てきた。


「あの、エリザベート様」

「なあに」

「私、この先、きっとたくさん転びます」

「そうでしょうね。レオンの訓練は容赦がないと評判ですもの」

「でも……」


 クレアは、不器用に、しかし自分の力で笑った。

 口角の上げ方がぎこちなく、片方だけが先に上がって、慌ててもう片方を追いつかせるような、ちぐはぐな笑顔。かつてのあの、誰もが見惚れる微笑みとは似ても似つかない。


「自分で転ぶなら、それでいいです」


 エリザベートはその笑顔を見て、少し目を見開き、それから静かに頷いた。


「——そうね。そのとおりだわ」


 廊下の突き当たりに、大扉が見えた。その向こうが玉座の間だ。扉の隙間から、何やら騒がしい声が漏れている。おそらく逆立ち中の国王を止めようとする家臣たちの声だろう。


 ジークハルトが立ち止まり、振り返った。


 六人の仲間と、一人の元ヒロインが、そこにいた。


「いいか、これからかなり大変なことになる」

「存じておりますわ」

「正解の選択肢も、やり直しもない」

「ええ。何が起こるか、誰にも分かりませんわ」

「それでも——」


 ジークハルトは大扉に手をかけた。


「私たちの物語だ。自分たちで書く」


 扉が開いた。

 朝日が差し込む玉座の間は、案の定、壮絶な混沌の渦中にあった。


 玉座の上で逆立ちしている国王の姿が目に飛び込んでくる。冠は床に転がり、ローブが重力に従って顔に被さっている。その周囲を侍従たちがおろおろと取り囲んでいたが、誰一人として陛下に「やめてください」と言い切れずにいた。なにしろ彼ら自身、今朝初めて「自分の意志で言葉を選ぶ」という経験をしているのだ。


 エリザベートはその光景を見渡して、深く息を吸い、扇子をパチンと開いた。


「おーほっほっほ!」


 玉座の間に響き渡る高笑い。


 効果音はつかない。「ぐぬぬ」という情けない終わりもない。ただ一人の少女の、自由で、少し呆れたような、それでいてどこまでも晴れやかな笑い声。


「さあ、参りましょう。この素敵な混沌を片づけるのは、わたくしたちの仕事ですわ」


 悪役令嬢エリザベート・アルトマールは、仲間たちと共に、混乱の中へ歩み出した。

 左手の薬指で、サファイアが朝日を受けて小さく光った。


 窓の外では、鳥たちが気ままな軌道を飛んでいた。ある鳥はまっすぐに、ある鳥は寄り道をしながら、ある鳥はうっかり木の枝にぶつかりそうになりながら。

 かつて決められた経路を正確にたどっていた翼は、今朝からは自分の好きな方角を探して、ばらばらに、不格好に、しかし確かに羽ばたいている。


 不確実で、不揃いで、再現不可能。

 結末の書かれていない物語が、今、始まる。

ここまで読んでくださったあなたも彼らの共犯者です。ありがとうございました。

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