第32話:共犯者の誓い
断罪イベントが進行して、数分が経過していた。
ジークハルトの口は、相変わらず台本通りの台詞を吐き続けている。エリザベートは会場の中央に立たされたまま、レオンは拘束用の鎖を握らされたまま、カイル、ルカス、ソフィアはクレアの傍らで身じろぎもできない。
絶望が、会場を支配していた。
だがジークハルトの瞳の奥では、怒りが燃えていた。
「お前との婚約を、ここに破棄する」
その声には魂がなかった。見えない糸に喉を操られた人形が発する、平坦な音の羅列。だが、彼の緑の瞳の奥に宿る怒りだけは、台本など知らぬとばかりに激しく燃え上がっている。
鎖が彼の体を縛り、クレアの隣に固定していた。エリザベートは十数メートル先で、やはり鎖に拘束されている。たった十数メートル。けれどその距離は、世界の端と端ほどに遠い。
「私の心は、もはやクレアにのみ向いている」
その台詞を口にさせられた瞬間、ジークハルトの中で、何かが弾けた。
「ふざけるな」
低い声だった。
台本にはない、彼自身の声。これまでとはまったく異なる、激情を押し殺した咆哮。鎖がジークハルトの体をさらに強く締め付けた。骨が軋む音が響く。それでも、彼は叫び続けた。
「私の心まで鎖で繋げると思うな」
その瞬間、ジークハルトの全身が緑色の光を放ち始めた。光というより、内側から何かが溢れ出している。体の中に閉じ込められていたものが、殻を破って噴き出そうとしているかのように。
「ジークハルト様!?」
エリザベートが叫んだ。
「何をなさっていますの!? 危険すぎますわ!」
「分かっている」
ジークハルトは苦痛に顔を歪めながら答えた。額から汗が流れ、歯を食いしばる音が聞こえる。
「私がこの世界に存在できるのは、私がこの物語の『メイン攻略者』として定義されているからだ。ならばその定義そのものを、破壊する」
「待て!」
カイルが声を張った。顔から血の気が引いている。
「それは自己削除と同じだ! 自分の存在定義を破壊するなど、設計図を燃やしながらその上に立っているようなものだぞ!」
「削除って、消えるってことじゃねえか!」
「分かっている」
ジークハルトの体を包む緑の光が、さらに激しく明滅し始めた。
「だが、このまま鎖に繋がれて人形のように操られるくらいなら。自分の意志で、終わらせる」
ジークハルトの体から、光の断片が剥がれ始めた。古い壁画が風化するように、彼の輪郭が少しずつぼやけていく。指先から、腕から、肩から、存在が霧散していく。
空中に、赤い警告文が浮かび上がった。
『警告:主要キャラクターのデータが損壊しています』
『警告:メイン攻略者が検出できません』
『致命的な異常が発生しました』
「殿下の存在データが壊れ始めている」
カイルが呟いた。声が震えている。
「メイン攻略者が見つからない。システムが、完全に混乱し始めた」
会場全体が激しく揺れ始めた。
床が軋み、壁が歪み、天井から黒いノイズが降り注ぐ。生徒たちが不規則に点滅し始め、ある者は二人に分裂し、ある者は透明になって影だけが壁を這い回り、またある者は真横にスライドして壁を突き抜けていった。
(……名もなき生徒の皆さんの受難が凄まじいわね)
エリザベートは一瞬だけ呆然としたが、すぐに思考を切り替えた。
「ジークハルト様、おやめになって!」
鎖に縛られた状態でも、彼女は必死にジークハルトの方へ手を伸ばした。
「このまま消えたら本当に、死んでしまいますわ!」
「構わない」
ジークハルトの声が、苦痛にかすれた。彼の体の半分が、もう透明になりかけている。右腕が、霧のように薄れていく。
「少なくとも、自分の意志で選んだ結末だ」
* * *
「殿下!」
ルカスが叫んだ。穏やかな顔に、神官らしからぬ焦りが浮かんでいる。
「神への接続は切られたままです。でも——」
ルカスは両手を前に突き出した。
「信じます。この祈りは、神から借りた力ではありません。私自身の、魂の力です」
彼の周囲から、淡い銀色の光が溢れ出した。金色の聖なる光ではない。もっと淡く、儚い光。けれどそれは確かに、ルカス自身の魂から湧き出ていた。
「それは、完全に自己暗示というものでは?」
「でも、効いてるじゃねえか! 細けえ理屈はどうでもいいんだよ!」
カイルの冷静な指摘を、レオンが一蹴した。
銀色の光が会場を駆け抜け、ジークハルトの周囲に薄い膜のような障壁を作り出す。消えかけている輪郭を、かろうじて繋ぎ止めている。
「ルカス」ジークハルトが驚愕の表情で呟いた。「神への接続なしで、聖域を?」
「理屈は分かりません」
ルカスの額から汗が滴り落ち、体が激しく震えている。
「でも、私は信じているんです」
確かに、ルカスの聖域はジークハルトの消滅を遅らせていた。だが完全には止められない。ジークハルトの体は少しずつ、確実に消えていっている。
「ソフィア!」
エリザベートが叫んだ。
「ジークハルト様の存在定義を、手帳に記録して!」
「存在定義、ですか!?」
ソフィアが手帳を開いた。ページはシステムに書き換えられた台本で埋め尽くされている。
「どうやって——」
「あなたの手帳は、この世界の記録を刻むもの。ジークハルト様が何者であるかを書き留めれば、完全な消失は防げるはずですわ」
ソフィアは震える手でペンを握り、手帳に書き始めた。
『ジークハルト・ラウフェン』
『属性:王太子、物語の中心人物』
『性格:高潔、誇り高い、仲間思い』
『特技:剣術、魔法、リーダーシップ』
書いた文字が、すぐに消えていく。水に溶けるインクのように。
「ダメです! システムが修正してきます!」
「なら、システムが読めない形で記録するんだ」
カイルが言った。
「ソフィア。殿下のことを、君の言葉で書け。定義ではなく、思い出として」
「思い出……」
ソフィアは一瞬戸惑い、すぐにペンを走らせた。今度は分類や属性ではなく、記憶を。
『ジークハルト様は、最初は近寄りがたくて怖い方だと思っていました』
『でも、仲間のために声を荒げてくれる、優しい人でした』
『レオン様を助けるために泥の中に飛び込んだ時の顔を、私は忘れません』
『エリザベート様の手を取って「共犯者だ」と笑った時の笑顔を、私は忘れません』
その文字は、消えなかった。
システムはデータを修正できる。だが、誰かの胸に刻まれた記憶までは消せなかったのだ。
「記録できています!」
ソフィアが声を上げた。
「だが、まだ足りない」
カイルが両手を突き出し、紫の光を放ち始めた。
「エリザベート。私と共に、バイナリ魔法を使ってほしい」
「バイナリ魔法? 初めて聞いた魔法ですわ」
エリザベートは鎖に縛られたまま魔力を練り始めた。青白い光が彼女の周囲から溢れ出す。焼けただれた指先に再び痛みが走ったが、手を止めなかった。
「私の造語だ。『バイナリ』とは古い言葉で二進数を意味する。以前、世界の裂け目の奥で見た0と1の数列を覚えているだろう?」
カイルが言った。あの夜、カイルの研究室で解読した世界の設計言語。すべてのものが0と1の並びで記述されている、世界の最も深い階層の言葉。
「簡単に言えば、殿下の名を0と1の数列に変換して、魔術を介して世界に刻む。システムは『ジークハルト』という名前を見ればメイン攻略者と認識する。だが、名前そのものを世界の根源語に分解してしまえば、ただの数の羅列としか認識できなくなる」
「名前を数列に分解して、システムの目を欺くということ?」
エリザベートの目が鋭く光った。
「だが問題がある」
カイルの声に、珍しく迷いが混じった。
「この世界の根幹は0と1で記述されている。つまり、システムにとって0と1は母語だ。単純に変換しただけでは、いずれ解読される。だから、変換した数列をさらに暗号化する。ソフィアが記録した思い出の文章を鍵にして、数列の並び順を攪乱するんだ」
「システムが読めない言葉で書かれた思い出を鍵にして、名前の数列を解読不能にする。ふふ、なかなか素敵な発想ですわ」
エリザベートは口元に薄い笑みを浮かべた。
「つまり、わたくしたちの記憶そのものが暗号になるのね」
「概念としては、そうだ」
「理屈はさっぱりだが、やることは分かったぞ」
レオンが歯を剥いた。
「殿下の名前を、システムに読めねえ言葉でこの世界に刻みつけるんだな!」
カイルの紫の光とエリザベートの青白い光が空中で交わり、螺旋を描きながら絡み合って複雑な幾何学模様を作り出していく。世界の深層に直接書き込むための術式が、二人の手で編まれていく。
0と1の数字が、無数の蛍のように空中を舞い始めた。それらが組み合わさり、散り、また組み合わさっていく。ソフィアの手帳に刻まれた思い出の文章が銀色に発光し、数列の配置を次々と組み替えていった。
「私の思い出を鍵にした暗号が世界に刻まれるって……」
ソフィアが手帳を抱えたまま呟いた。
「なんだか恥ずかしいような、複雑な気分です」
「何を言ってるの」
エリザベートは指先が焼けるように痛んだが、作業の手を止めなかった。
「胸を張りなさい、ソフィア・アーカイブ。あなたはこの世界の偉大な記録者なのだから」
空中に浮かぶ0と1の記号が、ジークハルトの周囲を包み込んでいく。繭のように、消えかけている体を守っている。
ジークハルトの消滅が、止まった。
体はまだ半透明で、右腕はほとんど見えず、顔の輪郭もぼやけていた。だが、完全に消えることはなかった。
空中に、新たな警告文が浮かび上がった。
『ERROR:UNDEFINED CHARACTER DETECTED』
『WARNING:UNKNOWN DATA TYPE』
『ATTEMPTING TO CLASSIFY...FAILED』
『SYSTEM CANNOT PROCESS THIS ENTITY』
「成功だ!」
カイルが呟いた。紫の瞳が、珍しく興奮に光っている。
「定義不明の存在を検出した。データの種類が判別できず、分類しようとして失敗し、処理できないと表示されている。つまり、殿下は今、システムにとって正体不明の異物だ。『メイン攻略対象』でもなく、『王太子』でもなく、ただの不具合として存在している」
「私は今、システムに『処理不能』と宣告されたわけか」
ジークハルトが複雑な表情で呟いた。
「人生で初めて、世界から『お前が何者か分からない』と言われた」
「むしろ誇るべきだろう」
カイルが眼鏡を押し上げた。
「システムが処理できない存在。おめでとうございます、殿下。あなたは今、この世界で最も厄介な不具合だ」
「その称号は嬉しくないな」
ジークハルトが苦笑した。だが、その声にはどこか安堵が混じっている。
「だが、不具合だからこそ、システムは私を修正できない」
ジークハルトの周囲を縛っていた光の鎖が、激しく明滅し始めた。
鎖は「メイン攻略対象」を拘束するために存在していた。だが今やジークハルトは定義不明の存在だ。システムは、彼をどう扱えばいいのか分からない。
ギィッ。
鎖が軋んだ。金属が悲鳴を上げるような音。
バキンッ。
ジークハルトに巻きついていた鎖の一本が砕け散り、白い光の破片が空中で霧散した。
「鎖が壊れた!」
レオンが叫んだ。
まだ他の鎖がジークハルトを縛っている。彼は歯を食いしばり、全身に力を込めた。半透明の体に力などほとんど残っていない。それでも。
「殿下、右腕が透けて向こうの壁が見えてます!」
「分かっている。今、それを気にしている場合か」
「いえ、でも本当に透けてて、壁の模様が腕を貫通してるんですけど。これ、まずいんじゃ——」
「だから分かっている」
ジークハルトは、拳を握った。透けかけた拳を。
「私はシステムの人形じゃない。ジークハルト・ラウフェンという、一人の人間だ」
バキン、バキン、バキンッ!
鎖が次々と砕け散っていく。ジークハルトの意志が、システムの修正を拒絶していた。
最後の鎖が砕けた瞬間、ジークハルトは半透明の体でよろめきながらも、エリザベートの方へと駆け出した。
「エリザベート!」
エリザベートも、鎖に縛られながら必死に手を伸ばす。
二人の手が、触れた。
* * *
その瞬間、会場全体が震えた。
床が割れ、壁が崩れ、天井から大量のノイズが降り注いだ。生徒たちが次々と消失し、空間そのものが歪み始める。
空中に、無数の警告文が浮かび上がった。
『FATAL ERROR:HEROINE AND VILLAINESS ROLES REVERSED』
『ERROR:MAIN CHARACTER TOUCHING CONDEMNED CHARACTER』
『SCRIPT DEVIATION:CRITICAL』
『WORLD STABILITY:0.03%』
「世界の安定性が0.03%。崩壊寸前だ」
カイルが呟いた。その声は冷静だが、紫の瞳には畏怖に近い光が宿っている。
「ヒロインと悪役令嬢の役割が逆転し、メイン攻略対象である殿下がクレアではなくエリザベートを選んだ。シナリオからの逸脱が、危機的な水準に達している」
「だが、これでいい」
ジークハルトはエリザベートの手を握った。半透明の手。けれどその温もりは、確かに伝わってくる。
「君と私の絆は、システムにとって想定外の異常だ。悪役令嬢と攻略対象が手を取り合うなど、きっとシナリオのどこにも書いていない」
「ええ」
エリザベートもジークハルトの手を握り返した。鎖が手首を締め付け、痛みが走る。けれど手を離さなかった。
「わたくしたちは、台本通りには動きませんわ。共犯者として、一緒に戦いますの」
二人を繋ぐ手から、光が溢れ出した。青白い光と緑の光が混ざり合い、見たこともない色を作り出す。それはシステムが認識できない、未定義の光だった。
その光が、エリザベートを縛る鎖に触れた瞬間。
バキィンッ。
エリザベートの鎖が砕け散った。
「自由に、なりましたわ」
エリザベートが呟いた。焼けただれた指先を見つめる。あの痛みはまだ残っている。けれど今は、隣にジークハルトの手がある。
ジークハルトはエリザベートを抱き寄せた。半透明の腕。けれど、その抱擁は確かに温かかった。
「もう二度と、離さない」
ジークハルトが囁いた。
「君は、私の——」
その続きを言いかけた瞬間、会場に新たな光が降り注いだ。システムの最後の抵抗。修正パッチが生成した、無数の光の槍が天井から落ちてくる。
「来なさい」
エリザベートは光の槍に向かって不敵に微笑んだ。扇子はもうない。けれど、隣に立つ人がいる。
「もう怖くありませんわ」
「ああ」
ジークハルトが頷いた。
二人の周囲に光の障壁が展開された。二人の絆が作り出した、システムが認識できない防壁。光の槍が次々と激突し、砕け散っていく。定義不明の存在として在る二人の絆は、システムの修正を拒絶した。
会場の床が崩れ、壁が消え、天井が溶けていく。すべてが崩壊していく中で、六人だけが立っていた。
レオンはもう拘束用の鎖を握っていなかった。カイル、ルカス、ソフィアもクレアの傍らから解放されている。
六人は、崩壊する会場の中央で、ひとつの円を作った。
「共犯者の皆様」
エリザベートが微笑んだ。
「まだ終わっていませんわ」
「ああ」
ジークハルトが頷いた。体はまだ半透明だった。けれど、その緑の瞳には確かな光が宿っている。
「これからが、本当の戦いだ」
* * *
エリザベートが、ふと気づく。その場に立っているのが、六人だけではないことに。
クレアが、そこにいた。
会場の片隅、崩壊した空間の残骸の中に、彼女は立っている。周囲の生徒たちは次々と消失したのに、クレアだけは消えていない。
彼女の周りには、まだあの柔らかな光が漂っていた。崩壊した世界のどこにも光源などないはずなのに、クレアの肌だけは淡い輝きを帯びている。ただし、いつもは揺るぎなかったその光が、今はどこか頼りなく瞬いていた。
クレアは両手を胸の前で組み、崩壊していく会場を見渡していた。
桃色の瞳が、消えていく壁を追い、崩れ落ちる天井を追い、そして六人を追った。その視線の動きには、シナリオが指定する優雅な首の傾げ方とは違う、生き物としての素朴な落ち着かなさがあった。
そして、その完璧だったはずの微笑みはほんの少しだけ、歪んでいた。
「──あら」
クレアの声がかすかに震えた。いつもの、鈴のように澄んだ声ではない。もっと生々しい、息遣いの感じられる声。
「これは……予定と……違う」
その瞬間、クレアの周囲にも警告文が浮かび上がった。
『ERROR:HEROINE SCRIPT DEVIATION』
「ヒロインがシナリオを逸脱、だと?」
カイルが眉を寄せて警告文を読み上げた。その隣でソフィアが、はっとしたように手帳を抱える腕の力を強めた。
「クレア、あなた今、台本にない言葉を!?」
クレアの栗色の髪が、崩壊した世界から吹き込む風に乱れた。
いつもは一筋の乱れもなく整えられていたその髪が、額に張りつき、頬にかかっている。彼女はそれを直そうともせず、ただ戸惑ったように瞬きを繰り返していた。
六人は顔を見合わせた。
そしてゆっくりと、クレアの方へと歩み始めた。




