第27話:喝采なき開演
その瞬間、会場が変わった。
シャンデリアの光が一斉に膨れ上がり、真昼の太陽を閉じ込めたかのような眩さが会場全体を灼いた。エリザベートは咄嗟に扇子で目を庇う。光が強すぎて、扇子の隙間からでさえ瞼の裏が赤く焼ける。
「……眩しすぎませんこと?」
「プレイヤーが何か使ったようだな。照明の輝度設定が崩壊している。本来の三倍の光量だ」
カイルが眼鏡を手で覆いながら分析した。
「三倍って、目が潰れるだろ」
レオンが顔をしかめた。
そして、音楽が流れ始めた。
最初の数小節は美しかった。ヴァイオリンの甘美な旋律が、会場を優雅に満たしていく。
だが、すぐに何かがおかしくなった。
弦の音の合間に、低い唸りのような不協和音が割り込んできたのだ。ワルツの旋律と、世界の悲鳴のような警告音が交互に重なり合い、優雅な舞踏会の裏側で建物が軋んでいるかのような不穏な二重奏が会場を満たす。
「二つの音が重なっている」
カイルが即座に分析した。
「一つは舞踏会用のワルツ、もう一つはシステムの警告音だ。祝いの調べと、世界が限界を訴える声が同時に鳴っている」
「ワルツと警告音の二重奏なんて、前衛的にも程がありますわね」
エリザベートは扇子を下ろしながら呟いた。
音楽が唐突に途切れ、三秒の沈黙の後、逆再生で流れ始めた。ヴァイオリンの旋律が引きつった呻きのように歪み、低音弦が地の底から這い上がるような不気味な響きを放つ。
「……お化け屋敷みたいですね、これ」
ソフィアが身をすくめた。
「お化け屋敷に失礼ですわ。こちらの方がよほど趣味が悪いもの」
エリザベートが返すと、音楽はまた唐突に正常に戻った。ただし、テンポが二倍速になっている。優雅なワルツが、駆け足の行進曲のように忙しなく鳴り響く。
「誰がこの速さで踊れるんだ」
レオンが呆然と呟いた。
「おそらくプレイヤーの側には正常に聞こえているのだろう」
カイルが言った。
「音の不具合はこちらだけだ。プレイヤーにとっては、美しい舞踏会の音楽が流れている」
「つまり、俺たちだけがこの壊れた音を聞かされてるってことか」
「そういうことだ」
続けて、床が変調を起こした。
石畳の表面が鏡のように滑らかに変質し、眩い光を反射し始めたのだ。上からはシャンデリアの三倍光量、下からはその反射光。六人は、光の箱の中に閉じ込められたような格好になった。
「床も天井も光って、影が消えていますわ。舞台装置の中に放り込まれたみたい」
(プレイヤーにとっては「美しく演出された会場」なのでしょうけれど……)
エリザベートは自分の足元を見ながら溜息をついた。
こちら側では光量が暴走して、ただの拷問器具になっている。プレイヤーの強引な介入と、エリザベートたちという「バグ」が掛け合わさると、こういう地獄が生まれるらしい。
さらに、薔薇の花びらが舞い始めた。
天井から降り注ぐはずの花びらが、床に落ちる前にふわりと浮き上がり、逆さまの雪のように天井へと昇っていく。そして天井にぺたりと張り付いたかと思うと、数秒後にぽとぽとと落下し、また昇る。上昇と落下の無限ループ。行き場を失った花びらたちが、会場の中を永遠に彷徨っていた。
「演出用の重力制御が暴走している」
カイルが天井を見上げた。
「花びらに与えられた『優雅に舞い降りる』という命令と、バグによる重力反転が干渉し合って、どちらにも落ち着けなくなっている」
「花びらも迷子ですか」
ソフィアが少し同情するような目で空を見上げた。
「迷子だな。完全に」
会場の中央で、クレアがくるりと回った。
白いドレスの裾が花のように開き、その回転には息を呑むほどの優美さがあった。この瞬間をずっと待ち望んでいたかのように、クレアの桃色の瞳が歓喜に輝いている。回転が止まると、ふわふわとした栗色の髪が一拍遅れて揺れ、クレアは自分の舞いに満足したように小さく息をついた。
だが、クレアの回転が生んだ風が、迷子の花びらたちを巻き込んだ。花びらは渦を巻いて加速し、勢いのまま天井に叩きつけられる。ばしっ、ばしっ、ばしっ。乾いた音が連続して響いた。
クレアはまったく気にしていなかった。
もう一度、くるりと回る。今度はドレスの裾を両手で軽く持ち上げ、少女が初めての舞踏会で覚えたての舞を披露するような無邪気な仕草で。
また花びらが天井に激突する。ばしばしばしっ。それでもクレアの瞳には花びらの暴走が映っていないかのようだった。歪んだ音楽も、暴走する照明も、すべてが彼女の中では「完璧な舞踏会の一部」なのだろう。
(きっとあの子の世界では、今も美しい夜が流れているのね)
エリザベートは扇子の陰からクレアを観察した。
崩壊しかけた世界の中で、彼女の周りだけが不自然なほど鮮明に保たれている。花びらが天井に激突しようが、音楽が逆再生されようが、クレアの瞳にはそれらの異常が映っていないのだ。
「皆様、今宵は素敵な夜になりそうですわね」
クレアが言った。両手を胸の前で組み、首をわずかに傾けて。
目の前の紳士たちに精一杯の愛嬌を振りまく、物語のヒロイン。背景では二倍速のワルツが駆け抜け、花びらが天井にぶつかり続けているというのに。
(不気味、と思うけれど……少しだけ哀れでもあるわね)
クレアには、この世界の綻びが見えていない。見えないように作られているからだ。台本通りに話し、微笑み、踊る。たとえヒロインであっても、やはりそれは一番残酷なことのようにエリザベートには思えた。
* * *
クレアが三人に視線を向けた瞬間——それは来た。
「ぐっ」
ジークハルトの足が、意志に反して一歩前に出た。カツン、と靴音が鏡面の床に響く。
「来たか」
カイルの足も勝手に動いた。表情は冷静だが、額にうっすらと汗が浮いている。
レオンは剣の柄を掴もうとしたが、手が勝手に離された。
「くそっ……また、これか」
三人の身体が、見えない糸に引かれるようにクレアへと向かって動き始めた。
奇妙だったのは、その歩き方だった。ジークハルトは必死に抵抗しているのに、足取りは舞踏会の主役のように優雅で、背筋はピンと伸び、歩幅も腕の振りも完璧に揃っている。
「なんだ、この動きは。私の意志で歩いていないのに、身体は完璧な王太子を演じている」
ジークハルトが呻いた。
「おそらくシステムが動作を補正している」
カイルが自身もまた不自然に端正な足取りで歩きながら説明した。
「舞踏会に向かう攻略対象は、優雅でなければならない。だから歩き方が強制的に上書きされているんだ」
レオンも同様だった。普段の荒っぽい身のこなしが嘘のように、王城の儀式に参列する近衛騎士のような規律正しさで足を運んでいる。
「俺、こんなに姿勢よく歩いたことねえぞ」
「普段は猫背だからな」
ジークハルトが苦々しく言った。
「殿下、今それ言います?」
三人は笑えない冗談を交わしながら、ゆっくりと、けれど確実にクレアへ近づいていく。
その時だった。
会場の床に、青白い光が滲み出した。エリザベートたちが事前に仕込んでおいた精神防護の魔法陣だ。
石畳の隙間から光の線が走り、複雑な幾何学模様を描いて会場全体に広がっていく。鏡面化した床がその光を反射し、天井にも逆さまの魔法陣が映し出される。上下二重の光の紋様が、会場を青白い繭のように包み込んだ。
同時に、会場の片隅で、ルカスが両手を合わせた。
「聖なる光よ。我が友の心を、守りたまえ」
ルカスの祈りから、柔らかな金色の光が溢れ出した。それはエリザベートの魔法陣と重なり合い、青白い光と金色の光が螺旋を描いて融合する。
ジークハルトの足が、わずかに遅くなった。
「効いているわ。強制力が、少しだけ弱まりましたわ」
エリザベートが呟いた。
ジークハルトの表情に、ほんの僅かだが余裕が戻る。完全に自由になったわけではない。けれど、精神的な圧迫が和らぎ、自分が自分であることを辛うじて握りしめていられる程度にはなった。
「ルカス、助かる」
だが、ルカスの顔色は蒼白だった。額に大量の汗が浮かび、祈りの声も次第に掠れていく。
エリザベートの魔法陣とルカスの祈りが重なって初めて、システムの強制力に拮抗できる。裏を返せば、どちらか一つでも途切れれば、三人は一瞬で引きずり込まれるということだ。
(……綱引きですわね)
魔法陣に魔力を吸い取られながら、エリザベートはぼんやりと思った。
エリザベートとルカスが綱の片方を握り、プレイヤーがもう片方を握っている。そして三人は、その綱の真ん中で引き裂かれそうになっている。
エリザベートは扇子を閉じ、両手で魔力の制御に集中した。彼女の額にも汗が滲んだ。魔法陣の維持には絶え間ない魔力の供給が必要で、気を抜けばすぐに綻びが生じる。
けれど、システムの側も黙ってはいなかった。
エリザベートの魔法陣に対抗するかのように、床の一部が脈動し始めた。石畳の表面が赤く灼熱し、溶岩が地表に滲み出したかのような熱が足元から立ち昇る。
最初に異変に気づいたのはルカスだった。
「っ……!」
祈りの姿勢を保っていた彼の足元が、真っ赤に灼けた。反射的に飛び退き、祈りの集中が途切れる。金色の光が一瞬揺らいだ。
「ルカス様!」
ソフィアが声を上げた。
「大丈夫です。ただ、床が」
ルカスは片足を浮かせながら体勢を立て直そうとしたが、別の床面も赤く灼け始める。彼は祈りを続けながら灼熱を避けるという、二つの不可能を同時にこなさなければならなくなった。
「システムが温度制御を暴走させている」
カイルが分析した。その声にも緊張が滲んでいる。
「魔法陣とルカスの祈りを妨害するために、足場そのものを攻撃してきたんだ」
灼熱は拡がっていった。カイルの足元、ジークハルトの足元、レオンの足元。次々と床が赤く脈動する。三人は強制力で引きずられながら、同時に灼ける床を避けなければならないという二重の苦痛に晒された。
ジークハルトは歯を食いしばり、灼熱を踏んで前に出た。靴底が焦げる匂いが鼻をついた。
「足が灼ける。だが、止まるわけにはいかない」
抵抗するのか、それとも引きずられるままにするのか。どちらにしても足元は灼けている。王太子としての優雅な歩行が強制される一方で、灼熱に歪んだ足取りがそれを乱し、奇妙にぎくしゃくした動きになっていた。
レオンは舌打ちしながら、灼けていない石畳を選んで飛び移った。騎士の反射神経で何とか凌いでいるが、強制力が足を引っ張るたびに体勢が崩れる。
「こんなの、踊りにもなりゃしねえ」
その光景を見たエリザベートは、扇子で口元を覆った。
笑いそうになったのではない。いや、正確には、笑いたいのか泣きたいのか分からなかった。
灼ける床を避けながら、意志に反して優雅に歩かされ、それでも懸命に抗い続ける三人。その姿は滑稽で、無様で、そして——どうしようもなく、眩しかった。
「ふふ」
小さく笑い声が漏れた。
「エリザベート様?」
ソフィアが魔法陣の光の中から心配そうに見た。
「いいえ、大丈夫ですわ。ただ思っただけ」
エリザベートは扇子を下ろし、不敵に微笑んだ。
「わたくしたち、本当に不格好ですわね。神に挑むと大見得を切っておきながら、床の熱さに右往左往して。足元の火に踊らされている」
「その通りだ。だが、不格好でもまだ私たちは立っている」
ジークハルトが、灼ける床を踏みながら笑った。
「まだ立ってるぜ、一応な」
レオンも汗だくの顔で笑った。
「完璧な英雄など、つまらないものですわ」
エリザベートは扇子をパチンと開いた。
「足掻きなさい、皆様。不格好に、無様に、それでも倒れずに。それがわたくしたちの戦い方ですわ」
ルカスが、灼熱を避けながらも祈りを再開した。声は掠れていたが、その言葉に込められた力は衰えていない。
「足掻く、ですか。神官としては、少々品がない表現ですが」
金色の光がふたたび溢れる。
「今は、それが一番正しい祈りかもしれません」
* * *
画面の向こうでは、苛立ちが募っていた。
断罪イベントの前哨戦として、攻略対象三人がクレアに歩み寄る演出のはずだった。それなのに、三人の動きが異様に鈍い。画面の中のキャラクターたちは確かにクレアへ向かっているが、水の中を歩いているかのように遅い。
課金アイテムが次々と投入された。
『強制好感度アップ』
『イベント加速』
『完全操作モード』
画面がタップされるたびに、微かなラグが走る。処理が重いのか、それとも。
* * *
会場の空気が、さらに重くなった。
三人の身体にかかる力が、一段、また一段と増していく。エリザベートの魔法陣が明滅し、ルカスの祈りの光が薄れた。
「ぐっ……!」
ジークハルトが膝を折りかけた。レオンの腕の筋が浮き上がり、カイルの眼鏡が汗で曇る。三人とも、限界が近かった。
だが、それでも倒れなかった。
床は灼け、強制力は増し、身体は言うことを聞かない。それでも三人は、歪んだ足取りのまま、クレアに向かって歩き続けていた。抵抗しながら。足掻きながら。
一方クレアは、その光景を微笑みながら見つめていた。
三人が一歩ずつ近づいてくるのを、クレアは本当に嬉しそうに待っていた。頬がほんのりと上気し、花飾りの下で栗色の髪が揺れるたびに、小さく首を傾げて期待に満ちた眼差しを向けてくる。
舞踏会の相手を待つ令嬢の、飾らない喜び。三人が苦悶の表情を浮かべていることも、床が赤く灼けていることも、音楽が壊れていることも、彼女の世界には存在しなかった。
「さあ、皆様」
クレアは両手を広げた。指先までしなやかに伸ばされた、踊りの誘いの仕草。その動作には、初めて好きな人に手を差し伸べる少女の、不器用な一途さがあった。
「私と共に、この夜を楽しみましょう」
——楽しむ。
エリザベートは、その言葉を噛みしめた。
(あの子は本気でそう言っているのね)
この世界が崩壊しかけていることも、三人が苦しんでいることも、すべてが「楽しい舞踏会」としてクレアの中では成り立っている。それこそが、ヒロインという存在の、完璧な輝きの裏側にある空洞なのだと、エリザベートは理解した。
三人が、ついにクレアの目の前まで来た。あと数歩で、手が届く距離。クレアは変わらぬ微笑みで三人を迎えようとしている。
エリザベートは魔法陣の維持に集中しながら、仲間たちに声をかけた。
「レオン、カイル、ジークハルト様。あと少しだけ耐えてちょうだい。プレイヤーが断罪の合図を出す、その瞬間まで」
三人が頷いた。声を出す余裕はもうない。だが、その目にはまだ光があった。折れていない意志の光。
ジークハルトの手が震えている。レオンの額から汗が顎を伝って落ちる。カイルの眼鏡の奥で、分析者の瞳が鋭く光る。三人とも、限界の、さらにその先にいた。
その瞬間だった。
画面の向こうで、「断罪イベント開始」の合図が押された。
会場の空気が、一瞬で凍りついた。
音楽が止まった。二倍速のワルツも、歪んだ警告音も。花びらが空中で静止した。床の灼熱が消えた。時間そのものが息を止めたかのような、完璧な静寂。
クレアは、その静寂の中でも微笑み続けていた。だがその微笑みは、もはや舞踏会を楽しむ少女のそれではなかった。何かを待つ表情。台本の次の行を、耳を澄ませて待つ女優のような、空白の微笑み。
エリザベートは、その静寂の中で息を整えた。深く吸って、ゆっくりと吐く。扇子を閉じ、コバルトブルーの瞳で仲間たちを見渡した。
灼ける床を踏み抜いたジークハルト。汗まみれで笑うレオン。曇った眼鏡の奥で冷静さを保ち続けるカイル。声が掠れても祈りを止めなかったルカス。すべてを記録し続けるソフィア。
全員、ぼろぼろだった。けれど全員、まだ立っていた。
そして——断罪が、始まった。
会場が、白い光に飲み込まれた。




