首のない天使
ある美術家の個展が開かれるとのことで、博物館の学芸員である私は夜遅くまで作品の展示のチェックと点検をしていたりしていた。
夜の収蔵室は、いつも呼吸をしている。 湿った空気が、棚と棚のあいだをゆっくりと行き来し、 誰にも触れられていないものたちの匂いを、静かに混ぜ合わせていた。
私はそこで、首だけの作品と出会った。
いや、"作品"なのだろうか?その首はどうも息をしているように、寝ているかのように「置かれて」いた。 安物の木製台座の上に、まるで最初からそこにいたかのように。 血の跡も、断面もない。 首の下は、最初から存在しなかったという顔をしている。
美しい、と私は思ってしまった。
額のかたちは整い、唇は薄く、 閉じられた瞼の影は、まるで眠っている人間のそれだった。 だが眠りとは違う。 それは「起きることを前提としない静けさ」だった。髪の毛は黒く長く伸びていた。
私は手袋をしたままやってはいけないことだと分かってはいたが、髪の毛に触れたのだ。まるで生きている人間のようだ。絹のような柔らかさもある。こんな作品を作れるなんて、さすが巨匠だなと感心していたときだった。
私は首に被っていた埃を布で取り除いた。
首の、瞼がピクリと動いたような気がした。
私は気のせいと思ったが、もう一度、首の髪の毛をさらりと触れた。
――静かな良い夜だね
声は、耳からではなかった。 頭蓋の内側を、指でなぞられるように響いた。
私は声を出さなかった。 驚きもしなかった。 ただ、首の後ろが、ゆっくりと冷えていくのを感じていた。
——君は、私を欠けていると思うか。
問いかけは優しく、ねっとりとしていた。 甘いというより、腐りかけの果実に似た調子だった。
私はその状況が恐ろしくて自分の首を小さく振ることが精一杯だった。
——そうか。
首だけのそれは、目を開けた。
瞬きをしない。 だが確かに、こちらを見ていた。 瞳の奥に、私の首が映っているのが分かった。
——君のそれは、重そうだ。
私は、その言葉を否定しなかった。 否定できなかった、のかもしれない。 確かに、私の首は重い。 頭を支え、言葉を通し、息をするたびに存在を主張する。 あるというだけで、責任を要求してくる部位。
——それはね、生きているからだ。と私は心の中で返事をした。
だが、その言葉を声にする前に、首だけのそれが囁いた。
——君は、物を大事に扱える人だ。
私は、思わず首の後ろを押さえた。
——雑に置かれたものを
ただ仕事をしていただけだ。 そう言い聞かせても、胸の奥が、かすかに熱を持った。それは褒め言葉ではない。だが、理解だった。
私はその夜、逃げるように収蔵庫から出た。冷や汗が大量に流れ出た。"あれ"はなんだ。あんな作品なのか?
——また来るだろう。
別れ際、首だけのそれはそう言った。
私は否定しなかった。 その必要が、もうなかった。
首があるという事実が、その夜から、私にとって恐怖、興味の対象になった。
二日目の夜、私はまた引き寄せられるかのように収蔵庫に来てしまった。"あれ"が気になったのだ。やはり"あれ"は安物の木製台座のところに転がっていた。
"あれ"は私が来た気配を感じたのか目を開けた。首だけのものが私に語りかける。
――今晩は月が綺麗だね。
…かすかに唇の口角が上がったように感じた。
私は意を決して、"首"に話しかけた。
「あなたは誰?」
言葉は震え、声は小さかった。
首だけの"それ"は、しばらく沈黙した後、静かに答えた。
——私はここにある。
「……寂しくはないの?」
私は、そう聞いてしまった。
作品に向ける言葉ではないと分かっていながら。 首は、少しだけ沈黙した。
——寂しい、という言葉は身体がある者のためのものだと思っていた。
――だが、君を見ていると それが欲しくなる。 私は、無意識に首の髪を整えた。
絡まった部分を、指で梳く。
——君は、触れるとき、傷つけないように注意深くしている。
その言葉に、喉が詰まった。 私は誰かを傷つけた経験はない。それは相手が傷つくのが恐ろしいからだ。だが、それを見抜かれたことはなかった。
「……あなたは、欲しいものはないの?」
——君との時間。
——君が、ここにいるという事実。
それは告白に近かった。 だが、重すぎず、逃げ場を残していた。 私は逃げなかった。
首だけの"それ"の瞳の奥には、何か深いものが潜んでいるように感じた。
その夜、私は"首"の存在が何を意味するのか、考え続けた。
私は昼間、学芸員として来館したお客様に作品の説明をしたり、作品の手入れなどを行った。私は気づいた。首だけの"あれ"は作品や展示物にはないことを。
私は上司に収蔵庫の首だけの"それ"について聞いてみた。
上司の答えは、
「あれは昔奇妙な作品ばかり作る作家の自信作だったんだよね。その作家がこの博物館に記念に置いていくって置かれてあるんだけど、運営側の指示でずっと収蔵庫にしまってあるんだよね。よくできているから怖いよね。」
ということだった。私は首だけの"あれ"が本物の人間の首であるという可能性が消えたことに安堵した。
その夜も私は首だけの"あれ"のもとへ行った。行くことが習慣になってしまっていた。
「こんばんは、今晩も月が綺麗ですね」
この間首が言っていたことをそのまま真似してみた。
"首"はゆっくりと瞼を開けた。
――満月は欠けた。
首だけの"それ"は無表情に答えた。私なりの冗談だったがあまり"首"には響かなかったようだ。
「あなたは私を待っていたの?」
私は自分でも驚くほど"それ"に対してフランクに接することができるようになっていた。
――そうだ。
その答えに私は甘美な感情を覚えてしまった。耐えきれなくなり、私は良くないことをしてしまった。
「もし……」
私は、首を両手で包みながら言った。
「もし、あなたに身体があったら 私は、あなたを抱きしめていたと思う」
首は、初めてはっきりと微笑んだ。
——それは、いらない。君の腕は
——すでに、私の居場所だ。
私は、その言葉を拒めなかった。
これは犯罪だ。
逸脱だ。
狂気だ。
それでも、 愛されているという感覚だけが、異様に正確だった。 だから、私は首をバッグに入れた。
首をエコバッグに入れて隠すように持ち帰った。
――それでいいんだよ。
首は私との逃避行を喜んでくれた。私はそれがうれしくてたまらなかった。
自分の家は私一人で暮らしているため、"首"との共同生活は簡単だった。
私は首を愛おしそうに抱き締めた。
――私も君を愛す
「私もだよ」
その夜、私は首と共に眠りについた。夢の中で、私は広大な草原を歩いていた。風が吹き抜け、草がささやくように揺れていた。首は私の腕の中で軽やかに浮かんでいた。
夢の中で、首は私に語りかけた。
——君は、何を求めているのか。
私は答えを探したが、言葉が見つからなかった。ただ、首と共にいることが心地よかった。
——君は、私を必要としているのか。
その問いに、私は頷いた。首は微笑んだように見えた。
——それなら、私はここにいる。
目が覚めると、私は首を抱きしめていた。現実の世界でも、首は私のそばにあった。
その日から、私は首と共に過ごす時間が増えていった。日常の中で、首は私にとって欠かせない存在になっていた。
ある日、私は首に尋ねた。
「あなたは、私と一緒にいて幸せですか?」
首はしばらく沈黙した後、静かに答えた。
——君がいる限り、私は幸せだ。
その言葉に、私は胸が温かくなるのを感じた。
私と"首"との奇妙な共同生活が始まった。
布団に入ると、首はすぐ近くにあった。
——君は、まだ戻れる。
その言葉に、私は首を振った。
「戻る場所が、もうないの」
私は作品を盗んだ罪悪感から学芸員の仕事を辞めた。私には頼るべき親も兄弟も実家もない。
——私とともにいよう。
「えぇ、いつまでも一緒に」
私は首に口づけをしようとしたが、やめた。理由はこの美しい首に私の唾液をつけることに抵抗を感じたからである。
私は口づけの代わりに美しい首の髪を手櫛をして撫でた。
なんと美しい首であろう。




