婚約破棄寸前、私に何をお望みですか?
(これはどういう状況だろう)
私、セシリア・リッテルは沈黙のままに混乱していた。
「セシィは本当に素敵だねぇ」
耳をくすぐるように甘く心地良い声が、すぐそばで囁いてくる。
距離にして、ほぼゼロ。だって密着してるもの。
背後から肩に両腕を回しかけられ、バッグハグとはこれか、という状態で私にくっついているのは、昔年の婚約者、ベイジル殿下だ。
昨日まで、私を厭い、徹底的に避けてきた殿下の豹変ぶりに、ただただ硬直して、冷や汗を流す置き物と化している私。
そんな私たちが腰掛けるソファの正面に立ち、侍従長はため息交じりの言葉を落とした。
「と、言うわけで、殿下におかれましては、このような状態なのです。セシリア・リッテル公爵令嬢」
「は、あ」
極秘にして火急の用件。
朝から王宮に呼び出された理由が、ベイジル殿下の身に起きた珍事で、殿下ご自身が私を切望されているということで部屋を訪れた。途端、激しく懐かれてしまっている。今ここ。
「禁術、とおっしゃいましたか」
「さよう。いまこちらにいらっしゃる殿下の中には十年前の、八歳の殿下がお入りになっています」
「十年前?」
「はい。精神を入れ替える術でして。ですのでおそらく、昨日までの殿下は今日、八歳のお身体の中にいらっしゃるかと」
(つまり十八の殿下の精神は、過去の世界に行っているということ?)
王家に伝わる血統魔術で、本人にしか作用しない術だと聞いた。なら、術を行使したのは殿下自身。けれど理由が見当たらない。
「なぜ、そんな術を……」
私の疑問に、侍従長は力なく首を振る。
「"すべきことがある"と、置き手紙にはございました。それ以上のことはわかりません」
時間を超えた、過去の自分との入れ替わり。十八の殿下には自分の意志だとしても、入れ替わり対象となった八歳の殿下にとっては、予期せぬ出来事で。
彼は朝起きるなり、大パニックだったらしい。
異変に駆け付けた側近が"置き手紙"に気づき、必死で殿下を宥めはしたが、そんな周りにも殿下は慄き、大騒ぎした。
困ったことに王陛下と王妃殿下は外遊中で不在。十年間の人事異動で、見知った者たちや頼りにする乳母もおらず、怯え泣いた殿下は、私の名を何度も呼ばれたという。
(先代から仕える侍従長も、殿下との交流は殿下が本宮に移ってからだっけ。八歳の頃はまだ王子宮にいて、彼の中では"親しくない人"。──だから慌ただしく私に迎えが来たのね。子どもの頃、殿下と仲が良かったのは私だったから)
家格、年齢、何より相性が良いということで、私とベイジル殿下の婚約は結ばれた。
けれど互いに帝王教育とお妃教育が厳しくなり、一緒に過ごせる時間が減ると、ひずみが出てきた。
特にここ二年、"彼女"が現れてからは、更に。
(殿下に親しく近づかれるのは、久しぶりだわ)
子どもの頃はこれが日常だったけど、最近では王宮からの呼び出しなんて、婚約破棄の知らせかと身構えるほど、疎遠になっている。
青年の身体で、当時のように接してくる殿下に戸惑いつつも。
拒否出来なかったのは、ベッドでシーツをかぶって震えていた彼が、私を見るなり破顔して安心したから。
「セシィ? 本当に? わああ、なんて美人なんだ。昨日までのセシィもとっても可愛かったけど、十八のセシィは綺麗すぎて眩しいよ」
直球で褒められて、本当に面食らったのだ。
ずっと目さえ合わせてくれなかった、ベイジル殿下の変わりように。
事情を説明され、侍従の皆さんから救世主のように縋られてしまっては、見捨てるわけにはいかない。どれほど冷めた仲であろうと、私と殿下はまだ"婚約者"という間柄なのだから。
それに少し……、いいえ、内心とても懐かしく嬉しかった。殿下の柔らかな笑みが。
(この殿下に慣れてしまっては駄目。十年前の世界から戻られたら、きっとまた凍てつくような時間が待ってる)
私は、ベイジル殿下のことが好きだ。
けれども殿下には、別のお相手が出来てしまった。
ハフトン男爵家のマチルダ嬢。
彼女が現れてから私たちの距離は、途轍もなく開いてしまったのだ。
マチルダ嬢は、淡い桃色の髪が煌めく愛らしい少女で、彼女と出会った殿下は瞬く間に彼女に傾倒。
始めこそ殊勝にしていたマチルダ嬢も、殿下の庇護のもと次第に増長。ワガママに振舞うことが多くなり、決まり事や綿密に組まれた様々な予定を無視し始めた。
会議の時間直前に殿下をピクニックに誘ったり、公務を遮り突然舟遊びをしたいと言い出したり。当然、応じられるはずもない要求。さすがに殿下も断っていたが、後で埋め合わせるというカタチで付き合うため、側近たちは調整に追われるハメになった。
さらにマチルダ嬢は奔放で、礼儀を知らない。
自分より下位の者はもちろん、王宮の従事者まで横柄に振り回す。殿下付きの侍従や侍女は、男爵家のマチルダ嬢より高い身分の出が多い。近衛たちも然り。下位の令嬢が、上位者を見下す様は見苦しく、けれどもベイジル殿下は彼女を咎めない。
周囲からの懇願もあり、私自身も見かねてマチルダ嬢に注意すると、彼女は殿下に泣きついた。
「セシリア様が私を嫌って、虐めるの! 王宮の人たちがあたしに冷たいのも、セシリア様の差し金だわ!」
殿下は素っ気なく、私に言った。
「マチルダのことは、僕が許しているんだ。セシリアは関わらないでくれ」
以来彼とは、ろくに会話も出来ていない。
ベイジル殿下の僅かな自由時間は、すべてマチルダ嬢に充てられていたし、その後も彼女はあることないこと、私の悪口を殿下に吹き込み続けているようだ。
(私と殿下はもう、無理なのかな……)
日々を鬱々とした気持ちで過ごしていた。
だから、こんなに楽しそうな殿下を間近で見るのは、本当に久しぶりで──。
「落ち着かれましたか?」
向かい合わせに座して、遅い朝食兼昼食をとり問いかけると、ベイジル殿下はカトラリーを置いてナプキンで口を拭う。
「うん。文献によると、この現象は数時間したら元に戻るんだろう? なら今のうちに未来がどう変わったのか、いろいろ体験したいな。セシィ、案内してくれる?」
愛称呼びが、軽やかに耳に届く。
(いつから"セシィ"と呼ばれなくなったのかしら。──ああ、マチルダ嬢が現れてから、だったわね)
嫌なことを思い出してしまった。あの時も、酷く壁を感じたものだ。
殿下がこの状態だ。今日の予定はすべてキャンセルしたため、私たちは一日分の空き時間を得ている。
「では何からご覧になりますか?」
努めて明るい笑顔を作った私に、外遊びを提案して来たのは、さすがの中身八歳だった。
「まずは馬。僕の仔馬はどうなったかな。それから秘密基地に行こう。二人で埋めたドングリは、もう木になってる?」
目を輝かせて殿下が言う。
彼から差し出された手に、そっと手を乗せると、即座に握り返され、私と殿下は手を繋いで庭園へと繰り出した。
大きく力強い手に引っ張られ、厩を見た後、殿下が幼少期を過ごした王子宮まで連れられる。
小さな噴水のある裏庭が、いつも私たちの遊び場だった。秘密基地は奥の一角。
そこから敷地の端の林に抜けることが出来て、少し高い丘から広い王宮がよく見える。お気に入りの場所だ。
(ここに来るのは何年振りかしら)
思い出に浸っていると、横から殿下の声が弾ける。
「どんぐり、ちゃんと芽吹いたんだ。こんなに立派な木になってるなんて、すごいね?」
二人で埋めたどんぐりは、しっかりと育っていた。すごく懐かしい。
「少し休もうか? セシィ、足は大丈夫? 踵の高いおねえさんの靴だって、気づくのが遅れてごめん」
「えっ、あ、はい。平気です。履き慣れてる靴ですから」
ヒールに気付いた殿下が、心配そうにのぞき込んで来て、その優しい声音に泣きそうになる。
(そう。ベイジル殿下は本来こんな方だった)
マチルダ嬢が来るまで、常に気遣ってくれていた。忙しくても、手紙や花を届けてくれて。
(ダメ、泣いてしまう。話題を変えなきゃ)
私は取り繕った笑顔で、話を振った。
「あの、殿下。殿下が知る世界から十年経ってらして、お互いとても変わったと思うのです。私がセシリアだと信じてくださった理由を、お聞きしてみても?」
ぱちくりと殿下が目をしばたかせる。
「そんなこと? すぐわかったよ。だってセシィは驚くと、まばたきの回数が増えるでしょ」
「えっ」
「今朝、僕を見て、驚いて。話しを聞いて、驚いて。反応がずっと"セシィ"だった」
「そうでしたか?」
「うん。自分で気づいてなかった? 他にも嬉しい時、困った時、セシィがどんな顔をするか、僕はセシィのことならよく知ってる。だっていつも見てたから」
一呼吸区切って、殿下が私を見つめてくる。
「……だからいま、セシィが悲しんでいることも、わかるよ」
ドキリ、と心臓が跳ねた。私、気持ちを隠せてない?
「どうしてそんなに泣きそうな顔をしているの。もしかして未来の僕は、セシィに寂しい思いをさせてる?」
「そ、れは。そんなことありません。殿下にはいつも良くしていただいていて──」
「無理してる。嘘もわかるんだよ、セシィ」
「──っっ」
「ね、セシィの悩みを話して。いつ元の世界に戻ってしまうかわからない僕では力になれないかもしれないけど、未来の僕に、キミの助けになるよう、よーく言い含めておくから」
"何ならお仕置きもしておくよ"。
そう言って殿下は腕をまくり、自分を打とうとしたので急いで止める。
「い、いけません、殿下。そんなことをなさっては」
「どうして? 将来の奥さんも守れないようなダメ男なら、ちゃんと叱っておかなきゃ」
切なさが胸にこみあげる。昔の殿下はこんなにも、私を大切にしてくれていた。
これが現在の殿下のお言葉だったら、どんなに良かったことか。
「"奥さん"にはなれないかもしれません。殿下の花嫁は、別の方がなるかも知れなくて」
「ええっ。なんで? イヤだよ!」
目に見えて殿下が焦っている。今の、十八の殿下の、端正なお顔で。
「僕のことが嫌いになっちゃった? それとも誰か、他の人を好きになっちゃったの?」
強い痛みが胸を刺す。
「他の方を好きになったのは……、殿下です」
「僕? あり得ない! 十年経とうと二十年経とうと、ううん、何年経っても。僕には死ぬまでセシィだけだって、誓ったんだから」
"信じられない"という風に、殿下は言うけれど。私だって、殿下を信じていたのに。
「──人の心は変わってしまうのですわ、殿下」
ポロリ、と頬を伝った涙に、殿下が息を飲む。
「セシィ……」
(どうしよう。八歳の殿下を傷つけてしまったかもしれない。このまま元の時代に戻られたら、私と殿下の間に"しこり"が出来てしまうかも知れないわ)
幼い頃の大切な思い出を、築く前に自ら壊してしまったかも知れない。
「あああ、セシィ、泣かないで。どうすれば──」
その時だった。背後から、最も聞きたくない声が、棘を含んで責めてきた。
「これはどういうことですか? ベイジル様、あたしとの約束を破られるつもりですか?」
「マチルダ嬢! どうしてここに?」
「ベイジル様に会いに来たら、セシリア様と出かけたと聞いたからよ。ふぅ、さんざん探したわ」
(だからといって王子宮の奥にまで……。きっと日頃、殿下がマチルダ嬢を優遇してるから、兵たちも彼女におもねったのね。迂闊に通してしまうなんて)
驚く私の横で、殿下が小さく「えっ、誰?」と戸惑っている。
(! そうか。この殿下はマチルダ嬢を知らない。八歳の殿下は、私が守らなくちゃ!)
私は殿下を庇うように、マチルダ嬢の前に出た。
「ずいぶんなご挨拶ですこと、マチルダ・ハフトン男爵令嬢。殿下とどのようなお約束をされたか存じませんが、あなたに断わる謂れはないし、突然声をかけてくるなど、無礼では?」
「ふぅん、偉そうに。セシリア様、あたしが王子妃になったら、アンタを傍使いとしてこき使ってやろうかしら」
「なっ」
「王子妃? なんだお前は! 僕の妃になるのはセシィだ」
(!)
マチルダ嬢の言葉に、後ろから殿下が反応してしまった。
殿下の心が、八歳の殿下と入れ替わっていることは、王宮内のごく僅かな者しか知らない秘密。
気づかせるわけにはいかない。
とりあえず、彼女を追い払わないと。手段を模索してると、マチルダ嬢が薄く笑った。
「あら? ベイジル様、いいの? あたしにそんなこと言って」
「──?」
彼女の態度に違和感を覚える。
(たかだか男爵令嬢が、なぜこうも強気なの?)
その答えは、マチルダ嬢から明かしてきた。
「まあいっか。そろそろ面倒臭くなってきたし、さっさと術を発動させちゃおうかなぁ?」
「術ですって?」
「ふふっ、なぁんにも知らないセシリア様。アンタの命はあたしが握ってるの」
「なんの話?」
「あたし、十年前の花祭りのパレードでアンタを見かけて妬ましくて。私はしがない男爵令嬢なのに、アンタは将来、王妃サマ。生まれだけで人生が決まっちゃうなんて、こんな不公平なことある? だからアンタに呪いを仕込んだんだぁ」
ケラケラと、マチルダ嬢が笑う。
「呪いを、仕込んだ……?」
「そーよ。花祭りで、同年代の子どもたちから花を受け取ったでしょう。その中に黒い花があったの覚えてる?」
ハッとする。
確かに祭りで黒い花を貰ったことがある。見慣れない花で、見てると何だか気分が悪くなって、悪いと思いつつも早々に処分した記憶があった。
「あれ、ウチの部族の呪いの花だから。受け取ったら、呪いが指から流れ込む。解呪方法はないわ」
「!?」
殿下にマチルダ嬢が接近し始めた頃、彼女の素性を調べたことがある。
彼女はハフトン男爵が、旅の踊り子を身ごもらせて生まれた娘だ。外聞のため男爵夫人の子とされているが、実母は移動を常とする少数部族ロフスの民。異国の民である彼らは、踊りに占い、伝統細工、独自の技をたくさん持つという。特殊な呪いがあってもおかしくない。
マチルダ嬢は男爵が引き取ったが、旅団はとっくにこの国を去っている。
(待って。私に仕込まれた呪い。ベイジル殿下を振り回す彼女……)
内容を整理する暇なく、マチルダ嬢の饒舌さは続く。
「アンタたちに再会するには、あたしのデビュタントまで数年間待つ必要があったけど、おかげで呪いもイイ具合に育ってて。アンタ時々、原因不明で倒れてたでしょ? あれ、そういうことなの」
得意そうに、彼女が言う。
「呪いのせいってこと……?」
何度か公務に支障を来し、殿下に伝えたこともあった。婚約者同伴の会食とか、迷惑をかけてしまったこともある。
「アンタの呪いをあたしが握ってるって王子サマに話したら、あっさりあたしの言いなり。何でも言うこと聞いてくれるんだもの、快感だったわぁ」
つながった。殿下の態度が。
「まさか私の命を盾に、今まで殿下を脅していたの?」
「そうよ。あたしと結婚してくれなきゃ、セシリア様の命を刈り取るって。妬けるわよね。アンタ、彼に馬鹿みたいに愛されてるの、腹立たしいわ」
「!!」
それで殿下が私を遠ざけていたのだとしたら。
「なんて、ことを……」
「"それでも王子妃になりたい"、あたしの執念を称えて欲しいわ」
「称えれるわけないじゃない。ひとを呪い、ひとを脅し、そうして得た地位に何の価値があるの!?」
「恵まれてるアンタには、分かんないだけよ!」
マチルダ嬢の目が、狂気に揺らぐ。
「王子サマもそう。のらりくらりと躱されて、待たされ続けてたけど。そろそろ婚約破棄くらいしてくれなきゃ」
そんな動機が認められるわけないし、私利私欲のために王族を脅し、公爵令嬢を呪うなんて、一族連座の大罪だ。
「セシリア様に欠格事由が出来れば、破棄も容易いかしら。とりあえず、呪いの力でアンタの喉と両手を壊してやるわ!」
マチルダ嬢が右手を突き出す。途端に足元に異国の陣が浮かび、文様が光った。けど。
「キャアアッ」
叫んだのはマチルダ嬢だった。
いつの間にか私を包み込むように抱いた殿下が、低い声で相手を見据えている。
「呪いは解いた。術は発動しない」
「へっ? ああっ。い、痛い、身体中が、すごく痛いわ!」
身体をよじるマチルダ嬢の肌に、蜘蛛の巣のような黒い筋がいくつも浮かび上がっている。袖口からのぞく手、首筋、そして顔までも。
「しくじった呪いは、術者に跳ね返る。お前の望んだ呪いだ。自分で味わえ」
「そんな馬鹿な、この呪いは解けな──、あああ、痛い痛いィィィ」
転げ回るマチルダ嬢に対し、全身で怒りを発している殿下。そんな彼を、たくましい腕の中から見上げた。
「ベイジル殿下……?」
「待たせた、セシリア。呪いを解くため過去に飛んだが、まさかこんな窮地に陥ってるとは。くそっ、八歳の僕は役立たずだな!」
そう吐き捨てる、私をセシリアと呼んだ、この殿下は。
十八歳の、ベイジル殿下だ──。
十年前の過去から戻ってきた殿下の、行動は早かった。
私を安全な場所に保護した後、マチルダ嬢とハフトン男爵家に逮捕令が下る。
マチルダ嬢の呪いの証拠は、彼女の全身に浮かび上がった呪式。そして家宅捜査からもゴロゴロと呪具が出て来た。
ハフトン男爵は「せっかく引き取ってやったのに、役立たずめが!」と娘を罵ったが、自身も政敵を蹴落とすためにマチルダ嬢を使って呪術を利用していたことが判明。余罪を追及したあとで、極刑が科せられることになった。
王子が脅され従ったという事実は、周囲への影響を考え伏せられたが、マチルダ嬢が私を呪ったという点は強く糾弾。彼女には父親と同じ、厳罰が下される。
夫に利用された男爵夫人は、離婚済みだったことを加味され刑を逃れたが、他に少しでも関与した者は容赦なく牢に繋がれる騒ぎとなった。
貴族たちは、ここ二年の殿下の様子を、男爵家を探るためのハニトラだったと推測したらしい。特に何か言う者も出ず、事態は速やかに収束に向かった。
王子自らハニトラって。私が物申したいわ。
「セシリアを危険から遠ざけておきたくて、今まですまなかった」
殿下の私室で、彼は私に頭を下げる。誰も見てない場所だから、今の私たちに格式や儀礼はない。
「相談してくだされば! 私でも何かお力になれたかもしれないのに」
「だってキミは向こう見ず……ン゛んッ。勇猛果敢な性格だから、マチルダ嬢に特攻を仕掛けそうで。そんなことになったら、とっくに"呪い"を発動させられてしまっていただろう?」
殿下がしょんぼりと言う。
"セシリアを失ったらと思うと、想像しただけで怖かった"と。
「ま、あ。いくら私でもそんな無謀は──」
「"しない"と言える自信があるかい? 子どもの頃、秘密基地に出た毒蛇に、木の枝一本で立ち向かっていったのに。あの時だって僕は、肝が冷えたんだ」
「うッ。そんなこと、まだ覚えてらしたのですか?」
「セシリアとの思い出は僕の宝物だよ? 忘れるはずがないじゃないか」
するりと私の髪をひとすじ絡みとり、殿下が私を見つめてくる。
「セシリアがいないと僕は生きていけない。だから時間がかかっても安全で、確実な手段を取るしかなかった」
過去に戻った殿下は、マチルダ嬢が私に"呪い"をかける前に阻止した。
それでも彼女が呪いを発した事実は消えなかったので、呪いの残滓が跳ね返り、現在のマチルダ嬢は健やかな肌を喪失。息をするのも絶え絶えだったようだから、処刑の時まで苦しむことになると思う。
十八歳の殿下は、八歳の小さな身体で、激しく奔走したようだ。
でも、こんな術があるなんて、無敵では?
私の問いに、殿下が答える。
「この術が"禁術"と呼ばれるには理由がある。"過去戻り"は、寿命を削って使う術なんだ」
「え!?」
「でも僕は、一分一秒でも長くキミと一緒に居たい。だから寿命を使う方法を却下して、術に必要な魔力を蓄えることにしたんだが……。まさか二年もかかってしまった」
魔力量がずば抜けている殿下で二年。常人なら、一体何十年かかることか。
下を向いた殿下が、不安そうに尋ねて来た。
「二年もキミを苦しませた。許して貰えるだろうか」
その様子が捨てられた子犬のように哀愁を誘い、甘いと分かっていつつも私は謝罪を受け入れた。私を助けるためだったし。
「二度としないと約束ください。次からはきっと打ち明けて」
こんなこと、もう二度とあって欲しくないけれど。
「そして以前みたいに"セシィ"と呼んでくださったら、許して差し上げます」
「ああ、有難う! セシィ」
殿下から笑顔に向けられ、踊りだしそうなほど心が歓喜した。
(くっ、私ってば殿下のこと好き過ぎでは?!)
自分でも悔しい。
それに八歳の殿下に呼ばれるのも嬉しかったけど、十八歳の殿下に呼ばれるほうが、やっぱり格別な想いがする。
気恥ずかしくて、私は殿下を睨んで誤魔化すことにした。
「でもしばらくは、私が二年間どれだけ辛かったか、聞いていただきますからね」
「あ、ああ。反省しながら、しっかりと聞こう」
こんな軽口も久々で、心からホッと安堵する。そう言えば……。
「八歳の殿下は、無事元に戻られたでしょうか」
私の疑問に、殿下が顔をしかめた。
「戻ってるよ。八歳時の体験として、僕の記憶に追加されたから」
(なるほど。あれ、なんで殿下、不機嫌?)
「あいつ、僕の許可なくセシィに触れ回って。僕だってこの二年、すごく我慢してたのに」
(ぇぇぇ……)
殿下が殿下に嫉妬しているけど、どうにもならないことなのでは?
「しかもあいつ、ちょっとの隙にセシィにキス──」
「えっ? してませんよ?!」
殿下の記憶が捏造されてる?
私と八歳殿下は、キスなんてしてない。
大慌てで否定すると、恨めしそうに殿下が言う。
「してたじゃないか。手遊びのキス」
「? ああっ。あれですか?」
東国で使われてる指文字。
親指と中指、薬指の先を折り曲げて形づくり、それらを二つ触れ合わせるとキスを意味するという。
「指文字を覚え合ってただけで」
「キスだ」
「殿下?」
「だから──、僕たちは大人なキスをしよう」
「ふぇっ?」
(どういう理屈なの?!)
思ってる間に、殿下の指先が優しく私の頬に触れる。それだけでもう、すごく熱くて。近づく殿下を私は止めることが出来なかった。
脈打つ心臓が、甘やかな音楽を奏で始める。
激しくなる旋律に身を任せて、ベイジル殿下と私の距離はゼロを過ぎた。
殿下、大好き。
婚約破棄寸前、殿下は私を望んでくれた。私もずっと、あなただけを望むわ!
お読みいただき有難うございました!
すみません、今回は悪役がホント胸糞になってしまい、朝から申し訳ないです。
5月23日が"キスの日"と知り、急ぎ書いてみたのですが、キャラがなかなかキスしてくれなくて、"キスの日"過ぎた短編です。
キスさせるためだけに頑張りました! なので他の部分は"ゆるふわ設定"です。深く考えずにお楽しみいただけると嬉しいです(;´∀`) なお私は8歳殿下in18歳も書きたかった(笑)
お話、お気に召していただけましたなら、お星様で応援くださると励みになります。よろしくお願いします!∩(*´∀`*)∩♪