錬金術研究棟
氷巌城の構造に異常が発生しているとの報は、氷魔皇帝ラハヴェ側近ヒムロデのもとにも既に伝えられていた。
以前、死亡した人間の侵入者の百合香によって、人間界からエネルギーを吸い上げる構造体が破壊された際に、いくつかの構造見直しが実行された。それ以来、変更が加えられる事はなかったはずだった。
「見間違いではないのか。あるいは、私への申告が遅れているか」
第3層から執務室に報告に訪れた、厚い鎧に身を包んだ軍曹級の兵士に、ヒムロデは訊ねた。各エリアの守護である氷騎士には、それぞれの裁量で空間設計への変更が認められてはいるが、通廊構造の変更に関してはヒムロデの許可がいる。軍曹は言った。
「おそれながら、閣下と同様の可能性を我々も考えました。しかし確認を取ったところ、少なくとも第3層の各エリアを守護されている氷騎士、ならびに水晶騎士各位いずれも、わずかな改装以外は行ってはいない、と」
「なるほど。それで、異常とは言うが、具体的にはどの程度のものなのだ」
ヒムロデが改めて向き直ると、軍曹はわずかに竦み上がりつつ、虹色に光る氷のタブレットを提示した。四辺を装飾で囲われた板面には、ライムグリーンの光の粒子によって第3層の全体図が表示されているが、いくつかの区画が赤いラインで修正されていた。通路が分岐、あるいは閉ざされたり、空間が増えたりしている。
「これが、異常が起きている箇所ということか」
「さようです。ただしこれは現状で把握できている部分だけの大雑把なものなので、実際にはこれ以上の変化が起きている可能性もあります」
「それによって、何らかの被害は出ているのか?この城にとってだ」
いちばん確認したいことをヒムロデは訊ねた。
「被害というような被害は出てはいないようです。ただ、連絡通路が遮断されたり、といった不便は生じています。ひとつ気になるのは、城の躯体じたいも構造が変わっているらしい、との報告です」
「それはおかしい。氷巌城の骨格部分、躯体については我々には変更できないはずだ」
ヒムロデは、執務室のひとつの柱を拳で叩いてみせた。氷巌城全体を支える根幹となる柱や床、外壁などは特別な魔力によって錬成されており、通常の魔力によって生成される補修材、建材とは比較にならない強度を持ち、その構造変更は氷魔皇帝ラハヴェ以外には不可能である、とされている。
「ヌルダの試算によれば、人間どもの持つ核兵器とかいう玩具を、至近距離で100億発連続で爆発させて、ようやく表面を剥離させられる”かも知れない”、という強度だ。第2層で魔晶天使像2体が暴走したとの報告があったが、その際に壁や天井は崩落しても、剥き出しになった躯体はわずかに、表面に薄いヒビが入っただけらしい」
「おそれながら、どうもその躯体までもが、規模は不明ですが外側に向かって拡張している箇所がある、と」
訝るヒムロデに、軍曹はタブレット上の構造図の、外壁部分が外側に向かって拡大している赤いラインを示してみせた。
「本来なかったはずの空間が出来ている、あるいは壁がせり出してきて空間が圧迫された、という報告もあります。正直、我々には手に負えず、ヒムロデ様の指示を仰ぎたい、と」
「なるほど、わかった」
それまで長々と思案していたヒムロデは、頷いて手を叩いた。即座に、メイド姿の氷魔が傍らに現れる。
「フローライト、先に説明したとおりだ。水晶騎士カンデラおよび調査隊を従え、第二層に向かえ。途中、異変が確認された箇所についても記録と報告を忘れるな」
そこまで言って、ヒムロデは二三、思案したあと付け加えた。
「調査には錬金術師ヌルダも同行させろ。もし拒否したなら、カンデラに力ずくで連行させても構わん」
「承知いたしました」
それだけ言うと、フローライトと呼ばれたメイド氷魔は一瞬で、肩や脚が露わになった隠密の装束に身を変え、煙のごとくその場から姿を消した。残された軍曹は、怪訝そうにヒムロデの顔を伺う。
「ヒムロデ様、なぜ第二層へ?」
「私がわずかに感じた何らかの異変と、お前達からの報告を総合してわかった。第2層の、レジスタンスどもも立ち入らぬという謎の区域、そこに何かがある。調査に向かったエレクトラがいまだ戻らぬ」
「なんと、エレクトラ様が!?」
軍曹の驚きは当然だった。水晶騎士と互角ともいわれるエレクトラが、調査に出て戻らないというのは明らかに異常だった。ヒムロデは窓の外を睨み、振り向いて言った。
「エレクトラの件は余計だった。この件は聞かなかった事にしろ」
「ははっ」
「全層に通達しろ。異変の原因が判明するまで、各エリアを動かぬようにと。レジスタンスどもの捜索も中止する。もしレジスタンスが侵入してきた場合、殺さずに捕らえ、異変について知っている事がないか吐かせるのだ。何も知らぬのなら、人質にして活用するなり、殺すなり、各エリアの裁量に任せる」
その、文字通り氷の眼光に軍曹は再び竦みあがったが、立ち上がって一礼した。
「かしこまりました」
軍曹が立ち去った執務室で、ヒムロデはかつて、氷魔皇帝ラハヴェから聞きかじった事を思い出していた。
「陛下が以前仰せられた、あの話と関連があるのか……?」
それは、人間の侵入者によって一部構造が破壊され、修復の進捗を皇帝に報告した時のことだった。ヒムロデは氷巌城内の細かな変更について訊ねた際、皇帝ラハヴェから返ってきた答えに軽く驚いた。
「氷巌城の大まかな構造は、過去に顕現した氷巌城の基本構造に倣い、かなりの部分は自動的に生成させたものだ。何もかも私の裁量というわけでもない。細かな部分についても、各エリアを守護する水晶騎士、氷騎士達に任せておけばよかろう」
それは何気ないようでいて、けっこう大きな話ではないか、とヒムロデは思った。氷巌城全体をゼロから氷魔皇帝ラハヴェ自身で設計したわけではない、ということだ。
もっとも、此度降臨された陛下が、過去の歴代氷魔皇帝の創りあげた城を踏襲されたとしても、それ自体はなんら不思議ではない。だが、ヒムロデがさらに驚いたのは次の言葉だった。
「ひょっとしたら氷巌城は、私の手を離れてひとりでに成長し始めるやも知れんな。いずれ私の手に負えぬ事態になったら、お前に任せる、ヒムロデ」
笑い混じりに言ったそれは、皇帝のいつもの冗談だろう、と思った直後に、ヒムロデの脳裏をよぎったのは、伝説の氷魔ガランサスのことだった。
ガランサスの正体は判然としない。それを封印したはずの錬金術師ヌルダは、かつての戦闘で魂にダメージを負い、正常な人格や本来の容姿と、記憶を失っている。だが、あらゆる伝承、伝聞が一致して伝えるところでは、ガランサスは時の皇帝の支配を無視し、敵味方関係なく活動していたという。あげく城の構造にまで影響を及ぼしていたという話もある。
それは皇帝が言うところの、『手に負えぬ事態』とは言えないのか。ガランサスの伝説が真実であるならば、結局ヌルダもガランサスを消滅させる事はできず、錬金術で封印する以外になかったのだ。
いま、あらためてヒムロデは考える。第二層の謎の区域で起きているらしい異変は、そこにガランサスが封印されていることを示しているのではないか。だとすれば、いま起きている謎の異変が、ガランサスと関係している可能性はないか。
飛躍している考えだろうか。しかし、伝え聞いたガランサスの情報と、いま起きている異変は、いくらか重なる要素がある。
「ガランサスが復活したということか…?」
辿り着いた可能性を、ヒムロデは自分自身で一笑に付す事ができなかった。エレクトラが帰還しない、という事実がそれを不気味に裏づけていた。
◇
フローライト率いる隠密五名に従い、カンデラとその配下の兵士一〇名が、調査隊として第二層に向けて出発した。第三層の通廊が変化している様子に、カンデラも驚かざるを得ない。
「いったい、何が起きているのだ」
例によって図書館で調べ物をしていたカンデラは、得た知識のなかに何かヒントがないか考えてみた。だがそれは、フローライトの声で遮られた。
「カンデラ様、我々の指揮のもとで動かれるのは不本意かと存じます。ヒムロデ様よりのご下命ゆえ、ご容赦を。いざという時は指揮権をカンデラ様にお返しするように、と命じられております」
「気にするな。俺とてこの非常時に、図書館で呑気に読書していたのだ。調査に関してはお前達の指揮のもとで動く。もし大規模な戦闘になれば、俺が指揮を引き継ぐ。それで問題ない」
カンデラの、ある意味では鷹揚な性格は、ひとつのエリアを預かる指揮官としては必ずしも評価されるものではなかったが、ひとりの武人としてみた場合は融通がきくため、案外信頼されていることを本人は知らなかった。だが、時として功を焦る、あるいは判断を誤る悪癖はヒムロデに指摘されたとおりで、本人がそれを自覚してもいた。
「さて、厄介な奴を呼びつけるとするか」
第三層、錬金術研究棟のある一帯に入ると、フローライト率いる調査隊はその異様な光景に、思わず足を止めた。
「なっ、なんだ」
カンデラが一歩前に出て、広い通廊を見渡した。そこでは錬金術師ヌルダの部下の、白衣をまとった薄気味悪い氷魔研究員十数名が、奇妙にねじくれた姿勢で床に倒れていたのだ。しかもよく見ると、研究室の壁や扉は内側から破壊されており、内部からはもうもうと、冷気をともなう粉塵が流れ出ていた。
「おい、貴様らどうした!」
カンデラは、倒れている長髪の女研究員の肩を揺すった。なにやら目を回して気絶しているが、生きてはいるらしい。
「ヌルダ、何事だ!?」
もうそれ以外に原因はない、とカンデラは研究室に踏み込んだ。フローライト達はカンデラの後から、恐る恐る謎の器具の破片が散乱する室内に足を踏み入れた。
「げほっ、げほん」
いつもの甲高い、ともすれば素っ頓狂な、ヌルダの咳払いが聞こえてきた。
「器官を持たぬ氷魔が咳き込むな。何があった」
煙が晴れてようやく姿を見せたヌルダの、白衣が肩からずり落ちた姿を見ても、カンデラは失笑さえしなかった。
「わけのわからん研究で失敗でもやらかしたか」
「人聞きの悪い。わしは常に真剣じゃ」
「ふむ」
ヌルダが一見すると単なるマッド・サイエンティストのようでいて、ヌルダなりには城に仕える姿勢があるらしい、とカンデラは知っていた。テーブルの上を見ると、散乱した透明な容器の破片に混じって、何やら真っ黒な鉱物のような破片が散らばっている。それをカンデラが指でつまもうとしたとき、ヌルダの声が響いた。
「たわけ! それに触れるでない!」
「うおっ!?」
カンデラやフローライト達は、身体を引きつらせてテーブルから距離を置いた。ヌルダは、先が平たいピンセットのような道具で黒い塊を拾い上げると、筒状の容器に放り込んだ。
「このところ、城内に奇妙なエネルギーが発生している。その際、ワシの保存しているこのサンプルが、共鳴するような現象をみせた。元はお主の頭くらいある塊だったが、共鳴とともに破裂しおったせいで、研究室もこの有様じゃ」
「なっ、何だと!?」
カンデラは一歩踏み出してヌルダに迫った。
「それは、第二層で起きているらしい異変と関わりがあるのか!?」
「ほう。なぜそう思う?」
カンデラの見識の鋭さに一瞬感心したふうな素振りを見せたヌルダだったが、単にヒムロデから第二層の調査を命じられたからだ、と説明されると、肩をすくめて小さな丸椅子に腰掛けた。
「これは、氷巌城が顕現した際に復元された、ワシの研究棟に保管されておった、正体不明のサンプルだ」
「これは何だ?黒い鎧をまとった氷魔などもいるが、そんなものではない。ここまで漆黒の物体が、氷巌城にあるのか?」
「お主も知っておろうが、ワシは過去の記憶の一部がない。あの金髪の女剣士に、頭を叩き割られたせいでの」
それはヌルダが言うところの、一万数千年前に遡る過去の出来事だった。当時の氷巌城に攻め入ってきた金髪の女剣士に、ヌルダは敗れたらしかった。
「おかげで過去の記憶は曖昧じゃ。このとおり、自分の顔さえ思い出せん」
ケタケタと気味の悪い笑声を上げ、ヌルダはボルト締めされたドクロの頭を指さした。
「したがって、その塊が何なのかも正確にはわからん。ただし、氷魔が生み出す氷魔鋼、氷魔石とは、別物である事だけはハッキリしている」
氷魔鋼、氷魔石とは、魔力によって氷を精錬することで生まれ、氷魔の身体やその装備、氷巌城の躯体や壁面などを構成する、鉄鋼の数億倍の強度をほこる素材のことである。最下級のナロー・ドールズであっても、人間の兵器では傷ひとつ与えられないとされている。
「うかつに触れるでないぞ。何が起きたのか、わからんからの」
「ヌルダ。その物体に絡むかどうか不明だが、ヒムロデ様からの命令だ」
「なぬ?」
「フローライトの指揮のもと、俺はこれから第二層へ、異変の調査に赴く。お前も同行せよとのお達しだ」
それを聞いたとたん、ヌルダは全身で拒否の意志を表した。
「なんでわしが、いちいち第二層くんだりまで降りねばならん! たわけ!」
「たわけはお前だ! いつもいつも、ヒムロデ様の命令に逆らいおって、本来ならば軍法会議ものだぞ!」
カンデラが、通廊の奥に向かって「おい」と声をかけると、屈強な正規兵が数名わらわらと踏み込んできて、ヌルダを拘束してしまった。四肢をホールドされたまま、ヌルダは金切り声を張り上げた。
「やめろ、貴様ら! 何の権限があって! わしは水晶騎士にして錬金術師ヌルダであるぞ!」
「権限なら、ヒムロデ様の命を受けたこちらにある! おとなしく同行してもらうぞ!」
カンデラの指示でヌルダは両腕両足を縛られ、氷巌城の補修部材のように正規兵に担がれてしまった。その騒ぎで、気を失っていたヌルダの部下の研究員たちが目を覚ました。
「ヌルダは借りていくぞ。終わったら元の場所に戻しておく」
それだけ告げると、カンデラは再びフローライトに指揮を預け、ヌルダの抗議の声とともに通廊の奥へ消えていった。残された白衣の研究員たちは、他にする事もないので、荒れ果てた研究室の片付けを始めた。