交錯
百合香たちが暗黒の空間から脱出した時刻と前後して、氷魔皇帝ラハヴェ側近・ヒムロデは、何か言い知れない違和感を拭えずにいた。執務室で各エリア幹部からの定期報告に目を通しながら、何度も窓の外を睨む。
「遅すぎる」
そう呟いたのは、第2層の調査に出たエレクトラから、全く報告が入らない事に対してだった。
エレクトラは氷騎士と互角以上に渡り合える手練れであり、よほどの事がない限り、レジスタンスなどに遅れを取るとは、ヒムロデには考えられなかった。ヒムロデは、メイドの姿で控えている隠密をひとり呼び出した。
「エレクトラに限って滅多な事はないとは思うが、絶対という事もない。万が一の事態のため、水晶騎士カンデラを従え、5名ばかり待機していろ」
「お言葉ですが、ヒムロデ様。カンデラ様は水晶騎士にあらせられます。我々が指揮を執るのは畏れ多うございます。カンデラ様に指揮を取っていただくのが筋かと」
隠密の少女は、畏まりながらもそう進言したが、ヒムロデは微かに笑った。
「ふっ、奴は今、以前の失態で私に頭が上がらぬ。それに、汚名を濯がんとばかりに、また突飛な行動に出ないとも限らん。私の名において、奴の尻尾を握る役が必要なのだ」
それこそ、エレクトラのような実力者がカンデラの抑え役には適任なのだが、エレクトラほどの者はそうそういない。水晶騎士のひとりを側近として配置すればよいのだが、軒並み癖のある者ばかりなので、あまり身近でうろつかれたくない、というのも本音だった。
「あるいは第2層で何か、尋常ならざる事態が起きている可能性もある。現に、正規兵が十数名消息を絶っているが、レジスタンスの手練れの仕業という理解が間違っていた可能性もある。ひょっとすると、本格的な調査隊を編成する必要も出て来るかも知れん。ひとまず、カンデラに待機命令だけは伝えておけ」
「かしこまりました」
隠密は一礼すると、静かに執務室をあとにした。ヒムロデは、鈍色の空から差し込むオーロラの光に、その手を透かして目を細めた。
「あるいは、お前も私の前からいなくなるのか、エレクトラ」
冷たい掌を通して、虹色の光が差し込んだ。
◇
エレクトラは、困惑と憤りと屈辱を同時に浮かべ、百合香を睨んだ。
「敵に情けをかけられる謂れはない。どうしたい、だと?ならば、お前の剣で私の首を刎ねろ。お前ほどの者に引導を渡されるなら、望むところだ」
吐き捨てるエレクトラに、周囲のヒオウギやフリージアは呆れて溜め息をついたが、百合香は笑わなかった。
「ほんとうにそうして欲しいというのなら、お望みどおりにしてあげるけど」
「なら、さっさとやれ」
「けど、あいにく今の私に、そんな力はないの。こうして立っているのが限界」
それは、嘘でも冗談でもなかった。暗黒空間での激戦で、もうエネルギーを使い果たしてしまったのだ。それは他のメンバーも同様だった。
「サーベラスなら、首と言わず全身を、一撃で粉砕してくれるかも知れないけど」
「なっ…」
巨大なバットを肩に乗せて仁王立ちするサーベラスを、エレクトラはうんざりするような目で見た。当のサーベラスは首を横に振る。
「よせやい。こんな弱った奴にとどめを刺すなんてのは、俺の趣味じゃねえ」
「だそうよ。残念ね、あなたの期待には応えられそうにないわ」
うそぶく百合香に、エレクトラは力無い声で突っかかった。
「ならば私はこのまま立ち去る。お前の正体も含めて、全て城に報告してやる。覚悟することだなリリィ、いや、百合香」
その言葉に、リベルタは驚いて声をあげた。
「あなた、正体を知っているの!?」
「だから何だ。私は城の隠密、掴んだ情報は持ち帰る。阻止したいのなら、私を止めることだな」
そう居直るエレクトラに向かって、リベルタは即座に弓を構え弦を引いた。弱々しいエネルギーの矢が、エレクトラの胸を狙う。エレクトラは不敵に笑った。
「放ったとたん、お前自身が砕け散りそうだな、リベルタ」
「残念だけど、戻るというならあなたを生かしておくわけにはいかない」
「なら、さっさとやれ」
すると、ヒオウギがフリージアのナイフを取り上げて立ち上がった。
「どけ、リベルタ。あたしがやる。こんな、わからずやのバカに、もう付き合っていられるか」
リベルタを押しのけると、ヒオウギは何の迷いもなく、ナイフをエレクトラの喉元に突き付けた。
「言い遺す言葉があるなら、聞いてやる」
「そんなものはない」
「わかった」
軽蔑するでもなく、憤るでもなく、ヒオウギはナイフを突き出した。だが、その腕を横から出て来た巨大な手が、がっしりと掴んで止めた。
「あっ!」
「やれやれ、どいつもこいつも…」
心底呆れたように首を振るのは、サーベラスだった。指でナイフを取り上げると、礼拝堂の外に放り投げてしまう。
「何すんだ!」
「やかましい!」
地獄の番犬のような鋭い咆哮に、全員が怯んで黙り込んだ。
「首を刎ねるだの何だのと、寝覚めの悪い事ばかり並べ立てやがって!」
そう言うとサーベラスは、リベルタの弓も、エレクトラの湾曲した剣も何もかも、全員の武器を取り上げると、礼拝堂の外に向かって放り投げてしまった。抗議の声をあげる間もなく、サーベラスは出口の前に座り込み、エレクトラはじめ全員を睨みつけた。
「そんなに殺し合いがしたけりゃ、好きなだけするがいい。ただし、武器が欲しけりゃ俺をどかして取りに行け」
そう言い放つサーベラスに、立ち向かえる気力と体力がある者は、ひとりもいなかった。サーベラスは先の戦闘による負傷の名残りこそ見えるが、そもそも持ち合わせる耐久力とパワーが違う。今の百合香やエレクトラでは、サーベラスの指一本も動かす事はできそうにない。もはや全員が限界を迎えている百合香たちは、諦めたようにその場に座り込むしかなかった。
百合香は、癒しの間に至るゲートをこの礼拝堂で探せないかと考えたものの、エレクトラがどういう行動に出るかわからないため、まだその事を伏せておくために黙っていることにした。当のエレクトラは、瓦礫の隅の崩落してきた平板に座り込んで、難しい顔をしている。エレクトラに気を許せないリベルタ達も同様だった。ダリアだけ、どうすればいいのかわからず、オロオロしていた。
『百合香、あなた大丈夫?』
黙ってみんなのやり取りを聞いていた瑠魅香が、百合香の中からぽつりと訊ねた。百合香は壁に背中をもたれたまま、弱々しく応える。
「さあね。このままじゃ死ぬかも」
『それ、私も困るんだけど』
声色に切迫感はないが、事態はわりと深刻である。百合香が死ねば、それに引きずられておそらく瑠魅香も死ぬ事になるのだ。
不意に、百合香の全身が紫色のオーラに包まれると、瑠魅香が表に出て来た。百合香の負担を和らげるためだろう、と誰もが考えたその時、瑠魅香は突然、エレクトラに向けて杖を突き出した。
「ごめんね」
言うか言わないかのうちに、エレクトラの全身に紫に光るスパークが走り、エレクトラは一言も返す間もなく、気を失って倒れてしまった。ダリアは啞然としているが、リベルタ達は一瞬動揺を見せつつ、すぐに理解した。
「みんな、悪い。私達だけでも、先に回復してくる。…癒しの間へのゲートが見つかれば、だけど」
瑠魅香は、自信なさげに礼拝堂の外を見た。百合香は瑠魅香が表に出て来た際に、再び限界を迎えて眠りについてしまっていた。
氷巌城内に点在する、謎の女神(便宜上)ガドリエルによって維持される百合香の隠れ家、癒しの間。ただしそこに至るための、ゲートと呼んでいる特殊な条件のエネルギーポイントは、場所が不確定でその都度探さなくてはならない。それでも、瑠魅香はまずそこに行くのが最優先だと考えた。リベルタが頷く。
「いいよ。まず、あなた達だけでも回復してくれれば、こっちも助かる」
「ごめん。エレクトラのこと頼むね」
瑠魅香は、申し訳なさそうにエレクトラを椅子に寝かせてやった。ヒオウギが吐き捨てる。
「こんなわからず屋、瓦礫の下にこのまま埋めちまえばいいんだ」
悪態をついてはいるものの、何となくエレクトラに対して、心の底から敵意を向ける事ができない。それは、この場にいる全員が想っている事だった。
「癒しの間ってのがどんな所なのかは知らないが、こいつにその事を知らせるわけにはいかないって事だろ、瑠魅香」
「うん。百合香にとってはエレクトラも、みんなと同じなんだと思う。…仲間になれるなら、その方がいい、って。そもそも、どうして戦わなくてはならないのか、って百合香はいつも葛藤している。身体を共有している私にはわかる。どうして人間と氷魔、あるいは人間どうし、氷魔どうしで争うんだろう、って」
それは、間接的にではあるが初めて伝えられた、百合香の気持ちだったかも知れない。聞いている誰一人、返す言葉がなかった。
「百合香にしてみれば、この氷巌城は自分たち人間の世界をめちゃくちゃにした、許せない存在のはずだよね。それなのに百合香は、そこに存在する私達に対して、友情を見出そうとする。これって、凄いことだと思うんだ」
瑠魅香は、エレクトラの身体に回復魔法をかけてやろうかと一瞬思案したが、ヒオウギがまた騒ぎそうなのでやめておく事にした。そのときエレクトラの首がわずかに動いたので焦ったが、首の座りが悪いだけのようで、姿勢を直してやると瑠魅香はドアに向かった。
「サーベラス、みんなをお願いね。すぐ戻って来る」
「ああ」
「とりあえず、そろそろ武器は返してあげたら?」
苦笑いしながら、瑠魅香はサーベラスの肩をぽんと叩いて、若干ふらつく足取りで何度か行き来した通路に出た。
◇
瑠魅香は自らの魔法でゲートを探ってみたものの、通路のどこにも見当たらなかった。もう魔法もろくに使う気力がなく、万が一ここで敵に遭遇したら終わりである。サーベラスに助けを求められる範囲を外れるのはまずい。
「仕方ない」
瑠魅香は広報官ディウルナから預かっているペンを取り出すと、平たい壁面に猫のマークを描いた。水色に光るラインが一瞬、ピンク色に光る。これは、呼び出しを確認したという「向こう」の合図だった。
しかし、いつもならせいぜい5分も経たず現れる筈の影が、一向に姿を見せない。瑠魅香は首をひねった。
「迷ってるのかな」
もう体力の限界で氷の通路にへたり込んでいると、ようやく待ちかねた影が猛スピードで現れた。
「申し訳ありません!」
それは神速の土下座だった。レジスタンス「月夜のマタタビ」のメンバー、探偵猫オブラは、風のような速度で現れるや否や瑠魅香の太腿の手前に五体投地した。若干ドリフトして、尻が斜めを向いている。
「別にいいけど、まあ何か申し開きがあるならどうぞ」
「それがですね」
パフォーマンスのわりに大して申し訳なくもなさそうな口調で、オブラは遅れた理由を話し始めた。
「通路が変わってる?」
瑠魅香は、オブラの説明を繰り返した。オブラによると、瑠魅香の呼び出しマーカーの発信源を追って潜伏中のアジトから飛び出したものの、それまで記憶にあった通路が大幅に変化しているのだという。
「氷巌城の構造が変わるのは、べつに珍しくもないでしょ?少し前にも、微妙に変化があったのは確認してるわよ」
「今まで確認されているのは原因不明な一部の例外を除いて、城側が意図的に補修や改造を行ったケースです。たとえば百合香さまが魔導柱を破壊した際に、防衛力強化のために壁が増えた時のような」
それは、まだリベルタ達と出会う前の出来事だった。地上からエネルギーを吸い上げるための柱のひとつを、百合香が怒りに任せて斬り崩してしまったのだ。
「あの時と違うってこと?」
「そうです。規模が違います。何かこう、城の基本構造そのものが変わったような…」
「うーん」
そこで、瑠魅香はふと思い出した事があった。
「ちょっと待って。オブラ、あんた達もアジトで、例の鳴動が起きた事は知ってるのよね」
「もちろんです。サーベラス様がしびれを切らして飛び出したのも、それが原因ですから」
「なら、城の構造が変化したのは、あの鳴動と前後してるんじゃないの?」
瑠魅香の指摘に、オブラはハッとして目を見開いた。瑠魅香はついでなので、礼拝堂で額縁の氷魔、アルタネイトとの戦闘から、聖母像の鳴動、謎の異空間での戦い、城の隠密エレクトラとの遭遇について説明した。それを伝えるだけでも、オブラを呼び出した意味は大きい。
「そんな事が起きていたんですか…」
「オブラ、あんたに頼みたいのは二つ。まずは癒しの間のゲートを探すことと、今言った情報をアジトにいるマグショットやティージュ、グレーヌ、ラシーヌに伝えること」
ふだん飄々としている瑠魅香から真剣な顔で言われると、オブラも引き締まった様子で姿勢を正す。
「わかりました!」
「例の空間でみんなエネルギーを使い果たしちゃったからね。どのみち、しばらく動きは取れない」
「瑠魅香さま、ともかく今はご自身の回復を優先してください。百合香さまが全快するだけでも、状況は大きく異なります」
オブラの意見はもっともだった。オブラは瑠魅香にその場に留まるよう言うと、一瞬で消え去ってしまった。
ほどなくしてオブラが発見した癒しの間へのゲートは、なんと瑠魅香が探りを入れた通路の、床面すれすれの低い位置にあった。
「これは猫でなきゃ気付かないわ」
「どうも、ゲートの位置も微妙に変化する性質があるようです。なぜ、こんな仕組みなのかはわかりませんが」
言われてみると、今まで何度も行き来している癒しの間も、なぜそんな空間が存在するのか、いまだ謎ではあった。だが、そんな疑問について考える気力すら、今の瑠魅香にはない。
「オブラ、ありがとう。助かったわ」
「何でもありません。戦う力のない僕にできるのは、これくらいです」
「そういう考え方は良くないな。あんた達には、私達にできない事ができる。自信を持ちなさいな」
瑠魅香はオブラの肩を叩いた。なんとなく、初めて出会った時を思い出す。オブラも気持ちを改めたのか、背筋を伸ばして敬礼した。
「ありがとうございます。それでは、僕はこれで!」
いつも以上に軽快に、オブラは通路の奥に消えて行った。瑠魅香は微笑むと、ゲートに杖を向ける。癒しの間の出入りは、以前ガドリエルから教わって瑠魅香も行えるようになっていた。空間の裂け目のようなゲートに、瑠魅香の姿はひとすじの光となって吸い込まれていった。
だいぶ訪れていなかった気がする癒しの間は、何も変わってはいなかった。ゲートをくぐって正面にある泉には、珍しく女神ガドリエルがすぐに現れた。
『姿を見せないので心配していました』
「ごめんね。なかなか予想外のことが連続したもんでさ」
瑠魅香が一連の出来事を伝えると、普段あまり表情に変化がないガドリエルも、さすがに困惑しているようだった。
『暗黒の異空間、ですか』
「そう。そこに現れた真っ黒な、私達自身の複製に襲われた。ガドリエルは何かわかる?」
訊ねられたガドリエルは、申し訳なさそうに俯いた。
『私には、それに関する知識はありません…単に私の記憶が欠落している、という事以上の問題に思えます』
「なにそれ。ガドリエルの記憶の範囲外ってこと?」
瑠魅香は訝しげな目を向けた。ガドリエルが何らかの記憶喪失に陥っており、自分が何者かも定かでない事は聞いている。だが、それを差し引いても理解できないということか。
『断定はできませんが、何かとてつもなく深い謎のようです』
「例の、ガランサスっていう氷魔については?」
『そのような氷魔がいたらしい、という微かな記憶の断片はあります。ですが、それが事実だったとして、今回の異空間と関連があるのかは、私には何とも言えません』
例によって、ガドリエルの情報は曖昧なものだった。瑠魅香は傍らに浮遊する、眠ったままの百合香の精神体を見た。ここに来た影響なのかわからないが、姿は学校の制服に戻っている。しかし肌は白く、髪は銀色のままだった。
「百合香、そのうち起きてくるよね」
『どうやらエネルギーを使い果たしているようです。この空間にいれば、いずれ回復するでしょう』
「じゃあ、私も眠るとするわ」
瑠魅香は、百合香をガドリエルに預けてベッドに歩いていった。考える事が多過ぎる。敵はどれだけいて、誰が何を企んでいて、氷巌城には何が起きているのか。リベルタ達には申し訳ないが、今はこの百合香の身体を寝かせる事が全てに優先された。
「おやすみ、百合香」
柔らかなベッドに横たわると、瑠魅香自身も疲労が一気にのしかかってきて、意識は眠りの中に落ちていった。