風のヒオウギ
「何事か」
執務室にいた皇帝側近ヒムロデは、かすかに氷巌城に走った振動に気付いて椅子を立った。
「エレクトラ」
「はい」
「何か、城に異変が起きた」
執務室の窓から眼下に見える、氷巌城上部をにらむ。一見する限りでは、特に何も異変が起きたようには見えない。だが、ヒムロデには広大な城のどこかで起きた、正体不明の波動のようなものが感じ取れた。この冴えがあるからこその、氷魔皇帝ラハヴェ側近ヒムロデである。
「レジスタンスどもが何かしでかしたやも知れぬ」
ヒムロデは、エレクトラと呼ばれた長髪のメイド姿の氷魔に命じた。
「任せたぞ」
「かしこまりました」
そのごく簡潔なやり取りでエレクトラは命令を全て理解し、恭しくお辞儀をすると、一瞬でタイトスーツのような装束に姿を変えた。両腰にはわずかに湾曲した、特殊な形状のショートソードが提げられている。
エレクトラは無言で、音も立てず執務室をあとにした。
「美しくも不気味なやつよ」
ヒムロデは苦笑しながらワインのボトルを持ち上げたが、栓を抜こうとして、すぐにボトルをテーブルに戻した。
「必要もない、味もわからぬ物を、飲んでももはや意味もないか」
そうつぶやくヒムロデは、かすかに寂しさのような表情を、瞬きにも満たない一瞬浮かべてまた机に戻った。
◇
瑠魅香は、とてつもない長いまどろみの中にいるような、夢の中にいた。そこは百合香が通うような学校の教室で、人間の女子生徒達と瑠魅香は談笑していた。しかし、それが夢の中の光景なのが自分でわかる。これは正しい意識ではない。そう思ったとき、教室の奥からよく知った金髪の少女が近づいてきて、瑠魅香に叫んだ。
『瑠魅香!』
内側から聴こえる声に、ようやく瑠魅香は意識を取り戻した。瑠魅香は覚醒した時、そこがそれまでリベルタ達と居た空間とは、異なる場所である事に気付いた。
「うっ」
瑠魅香は左肩が痛むことに気付いた。どうやら、倒れた時に打ったらしい。
「…百合香?」
『良かった、やっと起きてくれた。私が表に出ようとしても、あなたの意識が身体をロックしてるせいで出られないしさ』
「それはごめん」
『この仕様どうにかなんないのかな』
百合香はそうぼやくが、どんな仕様なのかは百合香に憑依している瑠魅香もよくわかっていない。起き上がりながら、瑠魅香は周囲を見渡した。暗い空間だ。それまでの壁面じたいの輝きや、埋め込まれた光る晶石で視界が確保された空間とは違う。
杖に灯りをともすと、空間の様子がハッキリした。そこは、よく整えられた礼拝堂のような広間だった。壁面は華美ではないがそれなりに意匠が施され、天井はアーチ状になっている。壁には、真っ白な羽根をもつ、美しい天使の少年の絵がかけられていた。
「他のみんなは!?」
瑠魅香は、自分以外だれもいない事に気付いて叫んだ。周囲には長椅子や教壇があるだけだ。
『わからない。いないみたいね』
「捜さないと…けれど、どうして私達こんな所にいるんだろう」
『うん…あっ!』
百合香が叫んだ。
「なに?」
『瑠魅香、ここ…あの礼拝堂だよ!』
「えっ!?」
瑠魅香はまさかと思い、うしろを振り向いた。するとそこには、見覚えのある首なしの天使か聖母の像が立っていた。足元に意味ありげに置かれた、3つの少女の首も同様である。つまりここは、ダリアと出会ったあの礼拝堂ということだ。
「どっ、どういうこと?」
『わからない…とにかく、異常なことが起きたのは確かよ』
「とにかく、みんなを捜そう!」
そう言って走り出そうとした瑠魅香を、百合香は止めた。
『待って、瑠魅香。状況をよく確認するべきよ』
「そんな悠長に構えてらんないでしょ」
『落ち着いて。あの聖母像をよく見るの』
何のことだ、と瑠魅香は訝りつつも、百合香に言われたとおり、礼拝堂の奥に鎮座する首なしの聖母像を見上げた。
『何か違和感がある。どこかわからないけど』
「違和感?」
瑠魅香は、百合香の指摘にしたがって聖母像を見た。ゆったりしたローブと、なめらかな手、細い首、不気味に微笑む口もと。
「ん?」
瑠魅香は聖母像に近付こうとしたが、百合香が忠告した。
『気を付けて』
「うっ、うん。でも百合香、この聖母像、前に見たとき、口もとなんてあったっけ?」
『あっ!』
違和感を感じた百合香も、ようやくその理由に気付いた。そう、以前見た時にあったのは喉の部分だけで、そこから上の頭部はなかったのだ。
『そうだ、そこは覚えてる。この聖母像に、顎から上はなかったんだよ』
「再生してるってこと?」
ごく単純に瑠魅香はそう考えたが、それも不気味な話だった。見たところ、これは本当にただの彫像であり、ロードライトの所にあった魔晶兵の上位版、魔晶天使などとは違う。それが逆に不気味だった。
「気味が悪いな。壊しておこうか」
『あんたってわりかし物騒よね』
「人のこと言えるの?」
瑠魅香は身の丈ほどもある杖を取り出し、不気味な聖母像に真っ直ぐに向けた。全身に満ちた魔力が杖の先端に収束すると、紫色の輝きが礼拝堂を照らす。
「いくわよ」
『任せる』
「いい加減だね!」
聖母像の胴体ど真ん中めがけて魔法を放とうとした、その時だった。瑠魅香の杖から、いっこうに魔法が放たれない事に百合香は疑問を呈した。
『どうしたの?さっさと撃てば』
「ゆっ、百合香、なんかこれ、まずい」
『えっ?』
「まっ、魔力が…」
つぎの瞬間、瑠魅香はがくりと膝をついてしまった。だが、杖は聖母像を向いたままである。そして、発動するはずの魔法はいっこうに発動せず、紫に光る魔力が杖から聖母像に向かって移動するのが見えた。
『瑠魅香!?』
「まずいよ…魔力が吸い取られてる!」
『なんですって!?』
「うああっ…!」
杖を握った瑠魅香の腕は、まるで磁石に吸い付けられたスプーンのように聖母像を向いたまま、動かす事ができなかった。そして杖を通して、瑠魅香の身体からは魔力が間断なく、聖母像に吸収され続けている。
「ぐっ…あっ」
次第に、瑠魅香から力が失われていく。しかし、意識が朦朧とし始めているにもかかわらず、腕は聖母像に吸い付けられたままだった。
『瑠魅香!』
「ゆ…り…」
『瑠魅香ーっ!』
瞬間、百合香は強引に瑠魅香と精神を交替した。だが魔法を発動している最中だった事が影響したのか、精神が入れ替わった直後、百合香は魔力に弾かれてしまう。
「あぐっ!」
顕現した百合香は魔力との反発で後方に大きく弾き飛ばされ、長椅子に叩きつけられた。
「うっ…」
打ち砕かれた長椅子の破片に手をついて立ち上がると、百合香は全身の力が弱まっているのがわかった。どうやら、瑠魅香だけでなく百合香のエネルギーも、同時に吸い取られてしまったらしい。
『ゆっ、百合香…』
「あの彫像がやばいのね。なら、私の剣で破壊する」
百合香の胸に虹色の光球が現れ、その中から一本の白銀の剣、聖剣アグニシオンが出現した。百合香はしっかりと両手で構えると、エネルギーは込めずに聖母像に突進した。
「うりゃあああーっ!」
だが、3歩ほど踏み出したところで、驚くべきことが起きた。百合香の身体は、見えない力に阻まれて停止してしまったのだ。いくら脚を踏み込んでも、力が入らない。
「なっ、なに!?」
『さっきと同じだよ!』
「こんなもの!」
百合香は、全身に力を漲らせた。礼拝堂が、巨大な引力の力に大きく揺れる。
「うおおおーっ!」
百合香は叫ぶ。だがそのとき礼拝堂に、いや百合香たちの精神に直接、何者かの声が響いた。
『だめだなあ、そんな事されちゃ』
それは、美しい少年の声だった。
『お姉さん、あなたの力はもう僕のものだ。まったく、信じられないよ。あなたのような存在が、まるで示し合わせたように僕のもとに来てくれるなんて』
突然聴こえはじめたその声の主が何者なのか、百合香にはわからなかった。だが、その正体は即座に判明した。
『お姉さんの身体は美しい氷の彫像にして、僕のもとに永久に飾ってあげる。人間のように醜く老いる事もない』
「いっ、いったい…何者なの…姿を見せなさい!」
『姿?いやだなあ。最初から見せていたじゃないか』
どういうことだ、と百合香は訝しんだ。この礼拝堂には、自分たち以外いなかった。一体どこに誰がいたというのか。だが、それに気付いたのは瑠魅香だった。
『百合香、あれ!あの絵だ!』
「なっ…」
瑠魅香に言われて、百合香は壁に目をやった。聖母像に向かって右手に、たしかに絵がかけられている。そしてそのとき気付いた。笑っている。絵の中の天使が。そう、この敵は絵の中にいる存在だったのだ。
『ようやく気付いてくれた?僕は最初から見ていたんだよ。あなたが入ってきた時からね』
「いったい、あなたは何者なの!?」
『さあね。考えてごらんよ。うん、その苦しむ表情も美しい。死なせる前に、ぞんぶんに愉しませてもらおう』
「ふざけるな!」
激昂した百合香は、強引に力を爆発させた。アグニシオンから発された衝撃波が、百合香を縛っていたエネルギーを打ち破る。
『おっと。まさかこの束縛を破るとはね』
「出来損ないの絵ふぜいが、偉そうにしないで!」
百合香はアグニシオンを振りかざし、絵に接近した。だが、接近しようとした瞬間、ふたたび目に見えない束縛が、百合香の全身を縛り上げる。
「うああっ!」
『おとなしくしていてくれるかな。そんなエネルギーで騒がれると、あいつが目覚めてしまうじゃないか』
「なっ…」
いったい何の話だ、と考える余裕は百合香にはなかった。いったい、この絵の中で不気味にほほ笑む天使は何者なのか。そう思う間もなく、ふたたび百合香の身体から、エネルギーが吸い取られて聖母像に流れ始めた。
「ぐっ…あっ」
『百合香!』
瑠魅香が叫ぶ。しかし、瑠魅香もまた再び顕現するだけの力は残されていなかった。このままではまずい。
『百合香!アグニシオンを戻して!』
「えっ!?」
『ガドリエルに教わった魔法、あれを使ってみる!』
「なっ、なんのこと?」
『いいから!早く!』
瑠魅香に急かされ、百合香は慌ててアグニシオンを再び自分自身の中に戻した。アグニシオンは光となって、胸に吸い込まれて消える。
『いくよーっ!』
次の瞬間、百合香の胸から炎の鳥が飛び出して、壁の天使の絵に向かって一直線に飛翔した。それは、百合香が意識を失った際に瑠魅香が用いた、アグニシオンと一体化する魔法だった。
炎の鳥が壁面に到達すると、激しい爆発音がして、次に剣に戻った瑠魅香が弾かれて飛んできた。百合香は一瞬肝を冷やしたが、すぐに鮮やかな手つきで剣の柄を掴む。
『ナイスキャッチ!』
瑠魅香の声はアグニシオンから聞こえた。百合香はリベルタ達から聞いてはいたものの、その光景を見るのは初めてである。
「あなた今、アグニシオンの中にいるの!?」
『そう!』
喋るたびに、柄の赤い宝石が光る。なんだか微妙に安っぽいな、と百合香は思った。
「それで、あいつは倒したの!?」
『わからない!』
瑠魅香が壁面に激突したことで、もうもうと粉塵がたちこめた。この様子では、あの薄い絵は額縁ごと破壊されてしまっただろう、と百合香は思った。だが、粉塵が晴れて現れたのは、まったく予想もしていない光景だった。
「えっ!?」
百合香は叫ぶ。天使の絵の前面には、それまで聖母像の足もとに置かれていた、氷魔少女の三つの首が浮かんでいたのだ。しかも、その前面には魔法の障壁が張られており、絵は無傷だった。
「そっ、そんな!」
『驚いたよ、まさかあんな技を隠し持っていたとはね。ふうん、君はその人の中に間借りしている氷魔というわけか』
絵の中の天使は、瑠魅香が何者であるかを一瞬で見抜いたようだった。ここまで容易くそれを見抜いた相手はほとんどいない。いったい何者なのか。
『けれど、僕に力を吸収されたいま、もう抵抗する術はないだろう。ほかの、バカな氷魔どもに切り刻まれる前に、僕が氷の彫像にしてあげるよ』
「こっ、こいつ…」
絵の前に浮かぶ三つの首の目に、青白い光が満ち始めた。何が起きるのかわからないが、このままではまずい、という事はわかる。百合香が、力の失われた脚で必死に後退を始めた。
『きれいな顔で、往生際の悪い人だね!』
三つの首の目から、今にも百合香向けてエネルギーが放たれる。その瞬間だった。背後でドアが開く音がしたかと思うと、なにかが三つの首に向かって飛来した。
「えっ!?」
それは、とっさに張られた障壁によって弾かれてしまう。だが、それによって百合香は間一髪のところを救われるかたちになった。
「リリィ!じゃなかった、百合香!」
その声の主は、氷の扇を持ったショートヘアの氷魔少女、ヒオウギだった。さらにその後ろには、及び腰でショートソードを構えるダリアの姿もある。ヒオウギは、閉じた扇で肩をトントン叩いてニヤリと笑った。
「ひょっとして危ないところだった?」
「何言ってるのかしら。これから反撃しようと思ってた所なのに」
「ふうん。それはお邪魔したわね。じゃ、頑張ってね」
そう言って立ち去ろうとするヒオウギに、百合香と瑠魅香は叫んだ。
「大ピンチ!助けて!」
『いいとこに来た!』
身もふたもない懇願に、ヒオウギは吹き出しながらズカズカと礼拝堂に踏み込んできた。
「最初からそう言やいいんだ、カッコつけてんじゃないよ。で?その気味の悪い生首か、敵は」
『おや、君はだいぶ遠くに飛ばしたはずだったけどね。まだ僕のコントロールが不完全だったのかな』
絵の中の天使は、やや不満げな様子でそう言った。ヒオウギが額縁の中を睨む。
「なんだ?てめえは。絵の中に隠れていやがるのか」
『さあね。そんなの知る必要はないだろう。だって君はここで死ぬんだから』
すると、三つの首がヒオウギを取り囲むように、素早く回転を始めた。百合香が叫ぶ。
「気をつけて!こいつは得体の知れない力を持ってる!」
「ああ?」
ヒオウギは一切怯む様子を見せず、回転する首を睨んだ。
「面白い。仕掛けて来い」
言い終わるか終わらないかのうちに、三つの首からヒオウギめがけて光線のようなものが放たれた。百合香があっと声をあげる。だが、驚くべきことが起きた。光線はヒオウギを通過して、床を直撃したのだ。
「えっ!?」
ヒオウギの姿は、すでにそこになかった。百合香が驚いていると、なんとヒオウギは弾かれて飛んだ扇の所に、いつの間にか移動していたのだった。
『なんだと』
初めて、絵の中の天使が苛立ちのような声を聞かせた。ヒオウギは間髪入れず、二本の扇を開いて三つの首に向ける。
「フェザー・ミストラル!」
百合香との対戦で用いた突風が、三つの首を直撃する。首は破壊こそされなかったものの、その風圧で激しく壁面に叩きつけられた。ヒオウギは不敵に笑う。
「あたしは風のヒオウギ。甘く見るなよ、天使の坊や」
空を裂くかのような鋭い視線が、絵の中の天使を真っすぐに見据えた。