百合香と瑠魅香
水晶騎士、アメジストのカンデラが図書館に通っているという噂が、皇帝側近・ヒムロデの耳に入るのに、そう時間はかからなかった。
いつものように執務をこなす合間に、ヒムロデはメイド姿の秘書に訊ねる。
「小耳にはさんだ話だが、カンデラが図書館に足繁く通っているとの噂はまことか」
回ってきた書類に「了承」のサインをして手渡しながら、ヒムロデは興味深げに訊ねた。ちなみに彼ら氷魔が用いるペンは魔法の一種で、筆跡がまるでインクのように紙面に残る仕組みになっている。
「まことのようです」
必要最小限の言動を心がける秘書は、それだけ答えた。
「根っからの武官のあやつが、珍しい事もあるものだ。侵入者がいなくなって、いよいよ暇になってきたか」
ヒムロデは笑う。
「地上侵攻の計画が本格化すれば、通ってもいられなくなろうがの」
ひととおり執務を終えたヒムロデは、秘書が礼をして退出するのを見届けると、脇に従える別なメイドから、紅いワインが半分ほど注がれたグラスを受け取り、傾けた。
「もはや水と変わらぬな」
自嘲するように呟くと、まだ残っているグラスを置き、小さな溜息をついてヒムロデは執務室の奥へ姿を消した。
その噂の張本人カンデラは、自分なりに氷巌城の歴史を文書にまとめ始め、いよいよ研究者の様相を呈してきていた。
といっても、彼の関心の中心は、かつて錬金術師ヌルダも相対したという、謎の金髪の女剣士についてである。
「うーむ」
今日も図書館の奥で帯出禁止の歴史書を紐解くカンデラは、真っ白な氷の紙の上にペンを横たえ、何やら唸っていた。
「いくらページをめくっても、いずこにも記されておらんな」
目当ての情報にどうしても行き当たらないカンデラは、諦めて本をパタンと閉じた。
「ヌルダの奴は前回、その金髪の女剣士にバラバラにされたと言っていたが」
カンデラはその戦いのあとで生まれた氷魔であるため、そのような記憶は当然ない。ヌルダが金髪の女剣士と闘ったのは、彼の話と書物から大雑把に得た情報を照らし合わせると、やはり人間の暦で言う、約12500年ほど前の事になるらしかった。
「そのような過去に、人類が発達した文明を持っていたのか?文明といえるような文明は、せいぜい5000年そこらの歴史しかないと思っていたが」
カンデラは、対決した百合香の姿から、過去にも現れた謎の黄金の女剣士を想像してみる。金色の髪に金色の鎧、そして炎を放つ金色の剣。全てが、この凍てついた城とは相反する。
そこでカンデラは、今さらながら単純かつ最大の謎に行き着いた。
「ヌルダの奴めも指摘していた事だが…そもそもあのユリカと名乗った女剣士は、ただの人間だったのか?ただの人間が、この氷巌城をなぜ、凍て付く事なく平然と歩き回れたのだ」
そんな事は通常ではあり得ない。過去の氷巌城にも、何らかの手段で乗り込んできた人間はいた。しかしそれはあくまで魔法などの補助があっての事で、何の対策もなしに永続的に城内を歩き回れる人間などというのは、およそ想像がつかない。
あれこれ考えてみるものの武官であるカンデラは、それ以上考える事が自分には難しい課題である事は理解していた。
「…ヌルダの奴に相談するのは気が進まん。といって、ここの司書もあまり虫は好かん」
研究に協力してくれそうな者は、誰かいないか。カンデラは考えたすえ、一人の氷魔を思い浮かべた。
「そうだ、奴がいた。しかし、面識はさほどないな…」
しばし考えたすえ、カンデラはひとり頷くと立ち上がる。
「話だけはしてみるか」
書物を棚に戻し、自分のレポートを束ねると、カンデラは静かにその場を立ち去った。
『おお、久々に見る愛の巣だ』
癒しの間に戻るなり、瑠魅香が手を広げて半透明の姿で歩き回った。泉の女神ガドリエルは今はいないようである。
「意味わかってるの?」
さっそく百合香のツッコミが入る。
『よくわかってない』
「それでいい」
疲れた身体を引きずるように歩きながら、百合香は呟いた。イオノスとの激戦で受けたダメージは相当だったらしく、歩くたびに背筋に痛みが走る。
『百合香、私がいなくて泣いてたんじゃないの?』
「誰がよ」
『強がっちゃって』
ふふふ、と瑠魅香は笑う。
『あのリベルタって子たちもレジスタンスなのね』
百合香に振り向いて、瑠魅香は訊ねた。
「そう。リベルタはかなりの力を持ってるみたい。あのイオノスってのが身体を乗っ取った、ストラトスっていう氷騎士に師事してたらしいわ」
『氷騎士ジュニアか。そりゃ強いはずだ』
「まあ、サーベラスを含めた3人がかりでも勝てなかったけどね。あのイオノスって奴は」
いつものようにベッドに仰向けになり、百合香はようやく身体を休められることに心から安堵を覚えた。
「瑠魅香、ありがとね」
天井を見ながら、ぽつりと百合香は言った。瑠魅香はその横に腰掛けて微笑む。
『なあに、突然』
「あなたが来てくれなきゃ、やばかった」
『どうかしら。あなたって、土壇場で大逆転させるの得意じゃない』
「限度ってものがあるわよ」
百合香は笑う。
「…もっと、強くならないとな」
『え?』
瑠魅香は、百合香の呟きに首を傾げた。
『十分強いじゃない』
「ううん。イオノスには、私の最大の技も完全には通じなかった。…まだ、私には力が足りない」
根っからのスポーツマンである百合香は、自分の実力がまだ及ばない事を自覚していた。
「正直に言うね。現段階では、瑠魅香の魔法の方が、私より強いと思う」
『まさか』
そんな事あり得ない、とでも言うような口調で瑠魅香は返すものの、百合香は首を横に振った。
「ううん。本当よ」
『考えた事なかったな、どっちが強いとか』
「…どっちが強い弱いの話じゃなくてね」
百合香は、少し間をはさんで重いトーンで言った。
「このままだと、先に進めるのかなって時々思うんだ」
『なるほど』
それは瑠魅香も同じ思いだった。二人で同時に考え込み、癒しの間に静寂が訪れる。
「…強くなる方法、あるかな」
そう語る百合香の声色には、いくぶん真剣な鋭さが含まれていた。
『マグショットに稽古つけてもらったら?修行オタクなんでしょ、あいつ』
「マグショットか」
『そういえば姿が見えないけど、あいつどこ行ったの?』
言われて、そういえばと百合香も思う。マグショットは現在、どこにいるのか。
「この層で野暮用がある、って言ってたけど」
氷巌城第二層のとあるエリアの通路で、甲高い雄叫びと、鈍い打撃の音が響いていた。
「ホアタァ!!!」
最下級の自動人形、ナロー・ドールズの群れが、放たれた衝撃波で蹴散らされ、無数の塵芥と化して壁に叩きつけられ、床に散乱した。
「雑魚もこれだけ大挙されると面倒だな」
倒した敵の残骸を見下ろすのは、ジャージを着た片目の猫拳士、マグショットであった。
「さきほど、強烈なエネルギーの衝突を感じたが、さては百合香とサーベラスか」
二人の事がそれなりに心配ではあるが、もし深刻な事態であれば、オブラがマグショットを探して飛んでくるはずなので、ひとまず大丈夫だろうと考えることにした。
「奴はどこにいる」
マグショットは、ナロー・ドールズが歩いて来た通路に入ると奥を睨んだ。
「奴が、こんな役にも立たん雑魚どもを好んで配備するとは思えんが。城に命じられて仕方なく、といった所だろうな」
再び、ナロー・ドールズの残骸を横目にマグショットは歩き出す。
少し進んで、マグショットは通路の装飾が変化している事に気付いた。それは、第一層で最後に相対した氷騎士、バスタードのエリアで見た、華やかな装飾にやや通じるものがあった。
さらに進むと、今度は通路の両サイドに凹んだスペースが設けられ、華麗な装飾の置き台と花瓶に、氷でできた百合の花が生けてあった。
「間違いない。奴の趣味だ」
マグショットの歩速が、にわかに速くなった。しかし、さらに奥へ進んだ所で広い空間に入ると、マグショットはピタリと足を止め、周囲の気配に神経を尖らせた。
そこは広い四角形の空間で、周辺と中央に和泉があり、中央の泉には水瓶を肩に抱えた女神の象が据えられていた。さらに、泉に挟まれた円形の通路には、四本の柱が天井まで立っている。
「……」
マグショットは目を閉じて、空間全体の気配を読む。そして、何かを感じ取ると、空中に両腕を一閃させた。
左右に分かれた空気の刃が放たれると、それは女神象の背後に向けてブーメランのように弧を描いた。象の陰に空気の刃が到達すると、鈍い音とともに悲鳴が空間に轟いた。
「ギャァア!!!」
何かが砕け散り、泉に落ちて水しぶきが起きた。マグショットはゆっくりと、女神象の背後に回る。泉には、何か既視感のある格好をした氷魔がバラバラになって沈んでいた。
「…似ているな」
それは、第一層の氷騎士・紫玉に傀儡として操られていた、オブシディアンによく似た仮面とスーツをまとう個体だった。ただしオブシディアンと異なり、マジシャン風のハットは被っておらず、ディウルナのような丸い頭部が何となく不気味だった。
「こうも容易く気取られるあたりからして、オブシディアンよりだいぶ格下ではありそうだが」
聞こえよがしに、マグショットは空間全体に向かってそう言った。
「全部で4体か。出て来い」
さしたる構えも取らず、まるで隙だらけの様子でマグショットは周囲を見回した。
「さすがです、マグショット様」
「その感覚、いささかも衰えてはいないご様子」
「我が主もお喜びになりましょう」
「我々に倒されなければの話ですが」
柱の陰にから一体ずつ、今倒した個体と同じような容姿の氷魔が、音もなく姿を現した。
「ふん、相変わらず慇懃な奴らだ。千数百年前も気障な格好をしていたが、今回もまた人間の趣味を拝借したというわけか」
「あなたもまた、相変わらず無味乾燥な出で立ちがお好きなようだ」
「それを言うならお前たちなど、オブシディアンと同じような姿をしていても、奴の足元にも及ぶまい」
その言葉に、4体の氷魔はピクリと反応した。
「まさか、行方不明のオブシディアン様と相まみえられたと?」
「奴は最期まで強かった。紫玉に操られていなければ、俺とてただでは済まなかったであろう」
「なっ…!」
4体の仮面氷魔は、にじり寄るようにマグショットを囲む。
「オブシディアン様の仇であれば、尚更ここで死んでもらわねばなりません」
「俺は奴に止めなど刺してはおらんが、まあ仇の代わりを務めてやってもよい」
「貴様!!」
4体の氷魔はマグショットの言葉に激昂したのか、一斉に踊りかかってきた。寸分違わぬタイミングで、空を裂く手刀がマグショットを襲う。
しかし、マグショットの姿は一瞬で消え、4つの手刀は空を切った。
「!」
どこだ、と4体の氷魔は周囲を見渡す。しかし、マグショットが移動したのは別な方向だった。
「ここだ」
女神象の水瓶の上に、マグショットは立っていた。
「きっ、貴様――――」
氷魔が再び構えを取った時、マグショットは既に空に舞っていた。氷魔たちが驚く間も与えず、脚にエネルギーを込める。
「狼爪断空脚!!」
マグショットが空中で水平に脚を一閃させると、鋭い旋風が巻き起こって4体の氷魔を襲った。
「うがっ!」
「ぐわあぁ―――!!」
巻き起こった空気の刃の渦は、柱や女神象もろとも氷魔たちの全身をバラバラに切断し、その残骸は泉や床に、無慈悲に打ち捨てられたのだった。
「言葉に激昂し我を忘れるとは、愚か者どもめ」
そう吐き捨てると、マグショットは振り返りもせずその空間を後にして、その奥へと続く通廊に足を踏み入れた。
「百合香、お前がさらなる高みへ登りたいのであれば、怒りを超えた心の境地に至らねばならんぞ」
くしゅん、と百合香がクシャミをしたのは、瑠魅香のリクエストで再び、トマトとニンニクのスパゲティを作るための材料を切っている時だった。
『風邪ひいたんじゃない?百合香』
「…風邪って何なのかわかってる?」
『なんか時々、学園の子たちが言ってるじゃん。風邪で休んだ、とか何とか』
どうやら瑠魅香は、学園で生徒たちがする会話から、だいぶ大雑把に単語の意味を解釈しているらしかった。百合香は刻んだニンニクやタマネギ、ベーコン等をフライパンに入れて炒めながら、風邪というものを瑠魅香に説明する。
『ふーん、病気か。人間ってホントに厄介なものね』
「あなたがなりたいって言ってるのが、その厄介な生き物なのよ。やめておく?」
『うーん』
百合香が手慣れた様子で、ゆでたスパゲティをフライパンに投入するのを眺めながら瑠魅香は言った。
『でも、百合香がそうやって元気にいられるんでしょ』
「あのね。病気っていうのは甘く見ちゃ―――」
そこまで言って、手が止まる。
百合香は、肺炎にかかったせいでバスケットボールの道を断念せざるを得なくなった事を思い出していた。しかし、今なぜかこうして百合香は、肺炎にかかる以前の健康体を取り戻している。一体それはどういう事なのか。そして、仮に元の学園生活に戻れる時が来るとして、その時もこの健康状態は維持されているのか。
良くない想像が頭を駆け巡ったその時、百合香は瑠魅香の声で我に返った。
『百合香、フライパン!』
「え?あっ、やばっ」
百合香は慌ててフライパンを動かす。まだ焦げてはいない。ほっとして、ソースが絡められたスパゲティをお湯で温めた深皿に入れた。今回は自分が食べる分も考慮して、分量多めに作ったのだった。
「よし、できた」
『食べたい!』
「ちょっと待ってね、味見するから」
少しだけ、出来立てのスパゲティを口に入れる。我ながら完璧だ、と百合香は一人で頷いた。
「はい、どうぞ。瑠魅香復活のお祝い」
そう言うと、百合香は瑠魅香に身体を明け渡す。現れた黒髪の女子高生、瑠魅香は喜んでフォークにトマトソース色のスパゲティを巻いた。
「うーん、何度味わっても美味しい」
『それはどうも』
瑠魅香が以前のように美味しそうにスパゲティを頬張る様子を、百合香は嬉しそうに眺めた。
『今度、違う味のスパゲティも作ろうか。ボロネーゼ、ペスカトーレ、ボンゴレビアンコ、カルボナーラ…』
「何それ、言葉の響きからしてもう美味しそう!」
『ふふふ。…って、ちょっと!もうそんなに食べたの!?』
百合香が深皿をのぞくと、すでに半分が瑠魅香の胃袋に納まったあとだった。
『代わって!わたしの分!!』
「えー、あたしのお祝いなんでしょ」
『お祝い終了!!』
「なによ、それ――あっ!!!』
百合香は強引に瑠魅香を押しのけて、自分の身体に戻る。外に出された瑠魅香は、恨めしそうに百合香が食べる様子を睨んでいた。百合香は当たり前のように瑠魅香を横目で見る。
「わたしが作ったんだから」
『じゃあ、こんど私が作る!やらして!』
「…大丈夫かな」
はたして瑠魅香に料理はできるのか。百合香はその様子を想像しながら、また以前と同じやり取りが戻ってきてくれた事に、少しだけ涙を浮かべた。