癒しの間
ガドリエル学園がある仙蒼区という地域では、唐突に発生した未曾有の豪雨で大混乱を来たしていた。ついこの間に梅雨明け宣言が出された後である。
『避難指示が発令されました 以下の地区にお住まいの方は指定の避難所に すみやかに…』
放送で避難指示がなされ、サイレンを鳴らした消防車が走り回る。側溝は溢れ返り、運悪く河川敷に停めてしまったらしい自動車が水没していた。
ガドリエル学園と市街地を繋ぐ、標高が下がった道路も水没しており、パトカーが陣取って迂闊な自動車が進入しないよう塞いでいた。
また学園のある町と市街地を結ぶ線路の橋が、流木によって変形してしまうという事態も発生し、ガドリエル学園付近の一帯は完全に孤立してしまっていた。
市内ではパニックが起きており、食料品の買い溜めに走る人間などが現れて、暴力沙汰にまで発展する例もあった。またある病院では、入院していた女性患者が病室から、洪水を恐れたのか連絡もなく逃げ出すといった事件まで起きている。
「連絡はつかないのか!?」
「駄目です!一切の通信が通じません。電話回線も、無線も、ネットもです」
自衛隊の通信機器を備えた車両内で、上官と隊員が声を張り上げていた。ガドリエル学園のある高台の地域が、厚い雲のような現象に覆われて、自衛隊も接近できずにいるのだ。
「水陸両用車はまだか!」
「それが、とっくに出動命令は下ったのですが、応答がありません」
「なんだと!?」
上官らしい人物は、通信車両の外に出て、雨に打たれながら不気味な空を睨んだ。
「何が起きていやがる」
自分で、その場の勢いで何かを考えるのと、人から言われるのとでは、同じ言葉や目的でも印象が変わる、というのは誰でも経験していると思う。
百合香は、「女神」ガドリエルから言われた事を、頭の中で繰り返した。
この巨大な城の主を封印して、城と魔物を全て消滅させる。
文章にすればとても簡単だ。携帯電話のSMSでも送れるレベルである。しかし、言うは易く行うは何とやら、ではないのか。
「とても簡潔だわ」
百合香はそう返すのが精一杯だった。
「それで、この城にはああいう化け物がどれくらいいるのかしら。うちの学園は、少子化の影響でついに生徒数が500人を切ったけど」
軽いパニックに陥ると逃避のためか、突然どうでもいい情報が飛び出る、江藤百合香とはそういう人物である。ガドリエルはそれには何の反応も見せず答えた。
『魔物の数は不明です。というのも、この城は常に「依代」となる建造物や都市、あるいは自然など、異なる条件や時代背景を、模倣して出現するためです』
「ちょっと待って」
今度は何だ。また知らない情報が出てきた。
「依代となる建造物って、どういうこと」
『この城は、あなたの学園を依代として具現化した、ということです。本来、彼らには特定の姿がありません。そこで、この世界に干渉する際には、常に依代となるものを模倣して、自らの姿をその都度創らなくてはならないのです』
百合香は、ガドリエルの言葉を試験勉強並みの集中力でどうにか理解しようと努めた。
「…まるで、過去にも同じ事があったような言い方ね」
『そのとおりです。最も最近のものは、あなた達の時間の区切りで言えば、飛鳥時代と呼ばれた頃に、この日本と呼ばれる国で起きました』
「はい?」
もう、百合香は自分の理解力に自信が持てなくなってきた。飛鳥時代って、聖徳太子とか中大兄皇子とか、蘇我ブラザーズとかがスマッシュ大乱闘していた、あの飛鳥時代か。
「…飛鳥時代の、どこで」
『この地です。その時代、同じように氷巌城が現れて、時の剣士や術師たちによって封印されたのです。それ以来、代々の術師たちが常に封印を監視してきました』
「そんなの、日本史で習った覚えはないけど」
『当然です。この城は現れる時、天変地異によってその姿が隠されるからです。完成するまで』
「完成するまで?」
また、不穏なキーワードが登場した。
「…この状態で、まだ未完成だというの」
『空を見ればわかります』
「!」
その指摘で百合香は、町や学園の周囲を閉ざすように現れた、あのオーロラを思い出した。
「あのオーロラは何なの」
『あれ自体は副産物に過ぎません。問題は、あなたの学び舎を含む一帯が、あなた方の言う"異常気象"によって、外界から隔絶されている事にあります』
百合香はハッとして頷いた。終業時刻のあのバス停前で、バスはおろか軽自動車の一台さえ通らなかったのは、何らかの原因で、外界からの行き来が出来なくなっていたためなのだ。
「外の世界はどうなっているの」
『私にもこの場所から、全てを見通す事は出来ません。なぜなら、あなたの知識で言うところの”結界”によって、空間が隔絶されているからです。ですが、少しだけ状況を覗いて見た時、とてつもない大雨で混乱している様子が見えました。川も氾濫していたようです』
こちらとはだいぶ状況が違うようだが、異常事態が起きているのは同じらしい。そして、百合香たちの学園がある高台の周囲は、過去に何度か豪雨で増水し、孤立した事がある。おそらく、水で道路が遮断されているのだろう。いや、その前に結界なんてものが張られているなら、そもそも増水に関係なく、誰も入って来られないのかも知れない。
「…それも、この城の影響?」
『間違いありません』
百合香はぞっとした。学園やその周辺のみならず、もっと広い範囲にまでその影響は及んでいる、というのだ。
「さっき、城の"完成"って言ったわよね。どういう意味?」
『文字通りの意味です。城が、目的達成のために稼働できる状態になる、ということです』
「目的?」
『そうです。この城は、城を拠点として世界を凍結させるために造られるのです』
ガドリエルの説明は淡々としているが、けっこう洒落にならない話なんじゃないのか、と百合香は思った。
「…要するに、世界中が学園みたいに凍結するってこと」
『そのとおりです』
「何のために?」
『彼らが住み良い世界を創るためです』
百合香は、思わず吹き出した。何の冗談なのだろう。
「その…さっき言った、氷魔とかいう連中にとって、ということね」
『そうです。彼らは極低温のエネルギー体で、熱を嫌うのです。そのため、何度も世界を凍結させようと、時の始めから試みてきたのです。実際、それが成功した時代もありました』
「成功した?」
『気候の研究者に訊いてごらんなさい。原因不明、説明がつかない氷河期が過去に地球で起きている事を、彼らは知っているでしょう。そのいくつかは、自然のサイクルによる氷河期ではなく、氷魔によって引き起こされたものなのです』
そんな事を言われても、検証のしようがない。百合香は、腰掛けたままガドリエルを振り向いて訊ねた。
「そんな情報、知ったところで何の意味もないわ。それより、この城の魔物を一掃しろって言ったわよね」
『はい』
「私にそんなこと、できると思うの?」
『現状でそれが可能なのは、あなただけです』
百合香は、鼻白んで問いかけた。
「なぜ、私なの!?この剣や、鎧は何!?私は、病気でリタイアした元バスケット部員よ。理由がわからない」
一気に百合香は捲し立てる。ある意味では、それが最大の疑問だった。
『理由を言葉で説明しても、あなた自身に納得する準備が整っていなければ、混乱するだけでしょう。だから百合香、今はこれだけを覚えておきなさい。まず、その剣はあなた自身の心から生み出されたものであること。そして、もう一つ』
ガドリエルはひと呼吸置いて言った。
『私は、あなたの味方です。今は全ての力を使う事ができませんが、可能な限り、あなたに力を与える事を約束します』
百合香はそう言われると、暫しの間沈黙したのち、ぽつりと言った。
「…わかったわ」
金色の剣を持ち上げ、眺める。あれだけの戦いを繰り返してきたのに、小さな刃こぼれ一つ見えない。
「あなたが導いてくれてなければ、今頃命がなかったのは確かだもの。信用してないわけじゃない」
『ありがとう、百合香』
「ところで、ひとつだけお願いできるかしら」
百合香は立ち上がると、身なりがよく見えるよう両腕を拡げ、ガドリエルを向いて訊ねた。
「この鎧のデザイン、恥ずかしいんだけど」
城の基底部よりさらに下層、つい先刻百合香が氷の剣闘士たちと激戦を繰り広げた闘技場に、深い青の外套を纏った何者かが立っていた。床や壁の亀裂を、注意深く観察しているらしい。細い体のラインは女性を思わせるが、顔はフードで隠れていた。
「……」
右手に持った小さな指揮棒のような杖で、壁面の亀裂を細かく確認する。亀裂の断面の角が、明らかに熱で融けて丸くなっているのを、フードの何者かは見逃さない。
亀裂を調べ終えたのち、その何者かは闘技場全体を見渡したあと、その場を歩き去った。
鎧のデザインが、肌の露出が多いという百合香の訴えに、ガドリエルは素っ気なく答えた。
『申し上げにくい事ですが、その鎧をデザインしたのは百合香、あなた自身の意志です。私の力では、あなたの意志まで曲げる事はできません』
「じゃあ、私自身の意志でデザインし直すわ!どうやればいいの!?」
百合香は下着まがいの鎧のデザインを手でなぞった。
「そもそも、こんな肌がむき出しで、防具としての役割を果たせるわけ?」
『百合香、ひとつ覚えておいてください。何度も言いますが、その鎧はあなたの意志が具現化させたものです。つまり、あなたの意志の力が大きく、強くなれば、身にまとう物もより強靭なものに成長させられます。その剣が成長したのを、あなたは目の当たりにしたはずです』
そう言われて、百合香はハッとした。
「そ…そういえば」
今さらだが、百合香は剣のデザインがまたしても変化している事に、今になって気付いた。何か、細かい装飾が追加されている。
『聖剣アグニシオンは、持ち主の成長に合わせてその姿を変えます。そして、その成長にふさわしい鎧もまた創造されるのです』
「じゃあ、この露出が多い鎧は…」
『まだ成長が足りないという事です』
ずいぶんハッキリ言う女神様だな、と百合香は思った。
『ですが、心配は要らないでしょう。すでにあなたは、大きく成長する可能性を示しました』
「成長って、どういうこと?同じようにあの化け物たちを倒していけばいいって事?」
『破壊によって得られる成長はありません。成長すれば、破壊することの意味を常に考えるようになります』
なんだか、前に読み散らかして捨てたスピリチュアル本みたいな事を言われても、納得がいかない。
『百合香、いま城はあなたの行動によって緊張状態にあります。もし今出て行けば、とたんに敵は大挙してくるでしょう。今は、この場所で心身を休めてください』
「そういえば、この空間は何なの」
鎧の事は諦めた百合香は、天井を見渡して訊ねた。
『私が、あなたのために創った空間です。あの城からは完全に隔絶されており、少なくともここにいる限りは絶対に安全です』
それは百合香にとっては、非常にありがたい話だった。ここに来るまで、心が休まる瞬間はなかったのだ。正直、こうして話し相手がいる事だけでも安心感がある。
「この空間にはどうやって来られるの?というか、どう行き来すればいいの」
『話せば長くなるので細かい説明は控えますが、私と繋がる事ができる”時空の裂け目”とでも言うべき場所が、この世界にはいくつか存在します。この城の中でそれがどこにあるかは、私にもわかりません。ですが、それを見付けたら、先ほどと同じように扉を開けてください。そこは、あなただけが出入りできる秘密の扉です』
「そんなの、どうやって見付けたらいいの?」
『さきほど、あの巨大な剣闘士を倒した時を思い出してください。私の持つエネルギーは、彼らのエネルギーと反発します。彼らのエネルギーが空間に散乱した時、私と繋がる”ゲート”のエネルギーがわずかに反発し、先ほどのように場所がわかるはずです』
なんとも確実性の薄い話だな、と百合香は思った。つまり、その場所を見つけるためには敵を倒さなくてはならない、ということだ。それでも、身体を休める場所がある、という期待は百合香に大きな安心をもたらした。
「ガドリエル、私はここから、どうすればいいの」
『城の全容がわからない以上、うかつに動くのは考えものでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、城の内外の状況はしばらくの間、変わる事はありません』
そう言うと、ガドリエルは部屋の奥を示した。そこには、天蓋のついた寝台が据え付けてある。
『眠りなさい。私も、しばし眠りにつきます』
「あなたも?」
『実は、こうしてあなたとコンタクトを取るだけで、今の私には精一杯なのです。いずれ、もう少し自由に接する事ができるようになるでしょう』
よくわからないが、ガドリエルも何らかの制限を受けているらしい。ということは、何気なく会話しているようでいて、けっこうエネルギーを消耗しているのか。
『この部屋にいるだけで、よほど大きく傷つかない限り、あなたの体は癒されるでしょう。食事を摂る必要もありません』
「…あっ、ちょっと」
『くれぐれも、無理はしないでくださいね』
そう言ったきり、ガドリエルはすうっと消え去ってしまった。
「ちょっと、ガドリエル!」
もう一度呼んでみるものの、返事はない。もう眠ってしまったようだ。
百合香は困り果てた。大問題に気付いたのだ。
「ここ、トイレあるの!?」