静寂の春
バウキスとピレーモンという神話の話をご存じだろうか。ある町はずれにバウキスとピレーモンという老夫婦が住んでいた。その老夫婦のもとに見るからにみすぼらしい旅人二人が訪ねてきた。老夫婦二人は嫌な顔一つせずその旅人を甲斐甲斐しく迎え入れた。しかし実はそのみすぼらしい旅人二人は人間ではなく神だったのだ。神々は見た目で差別することなく快く旅人を迎えた老夫婦に褒美を与えることにした。夫婦が住んでいた家を見事な神殿へと変え、そこの神官へとしたのである。
老夫婦は神々へと望みを言った。それは夫婦がお互いの死を見ないように同じ時刻に息を引き取らせてほしいというものだった。
いよいよ老夫婦の寿命が来た。その老夫婦は寿命が終わる際に美しい木々へと変わるようにされていた。夫婦は互いに感謝の言葉を述べながら寿命を迎え、物言わぬ木となったという話である。
「私、明日にでもBP手術を受けようと思うんだ」
友人の女性は私にそう告白した。
「そうか。元気でやれよ」
手術を受けるのは個人の自由だ。止める理由もないのでとりあえず励ましておいた。
友人と会った帰り道、私は街道に木々が植えられた道へ出た。
普段ならその道は歩かないのだが私は何となく歩いてみたくなった。
夕暮れ時の日差しが木々の葉に遮られ、光と影が迷彩状のコントラストを道路に映し出している。光が当たる部分はほんのり暖かく、影となっている部分は若干冷たい。その二つの矛盾する感覚が心地良いものであった。
そよ風が吹き、木々の無数の葉がざわざわと揺れる音がした。その音につられて木々の頭上を見た。木々に植えられている人々も心地よさそうな顔をしていた。
「良い日和ですね」
私は木々の一人になんとなく話しかけてみた。
「ええ。木々になってからより日和を感じられるようになりましたよ」
木々は涅槃の境地にいる仏のような微笑みで話を返してきた。
「人間だったころはこんなの感じられませんでした。いいえ、感じる余裕もなかったという方が正しいのかもしれません」
葉が風でざわざわと揺れるたびに木々は心地よさそうにする。私でいうと背中の真ん中あたりを撫でられているような感じなのだろうか。人間の体では例えようのない感覚なのだろう。
「人間のころは鬱陶しかった雨も、木々になってから心地良いものと知りました。晴れの日も雨の日も雪の日も、自然の心地よさを全身で感じることができるのです」
発する声もおよそ人間が発するものとは思えないほど穏やかなものだった。これも手術による恩恵なのだろう。
「あなたもいずれ手術を受けるのですか」
木々は相も変わらず穏やかな声で喋りかけてきた。
「はい、そうしようと考えているところです」
否定するのも悪いので相槌を打っておいた。
「なるべく早く受けることをお勧めしますよ」
木々の人は変わらず優しい笑みだった。
近年、発明されたBP手術は先のバウキスとピレーモンの神話から取られている。その老夫婦の最期の如く、人間の体をまるごと樹木へと移植し、穏やかに一生を過ごすという手術だ。
聡明な読者ならご存じであろうが現実の世界にも樹木葬というものがある。遺骨を埋めた墓地に木々の苗を植えそれを墓標とするというものだ。それにより死者の魂は新たに木々として輪廻を回るのだ。それらが発展したものと考えれば、このBP手術は突拍子もないものとは言えないだろう。
BP手術を受けた人間は心も穏やかになり和やかに日々を過ごすことができた。木々となったことで寿命も延び自然と一体となり生きていくことができた。世界中の人間がその手術を受けることを望んだ。ハリウッドスターや国会議員、軍人さえもその手術を受けた。
世界の有権者たちの多くが手術を受けたことにより、国際情勢も静かなものとなっていった。国同士のいがみ合いはなくなり、世界中の多くの場所で起きていた戦争、紛争もなくなっていった。長いあいだ問題とされていた宗教戦争、人種差別、自殺、人間同士の憎みあいも少なくなっていった。
生身の人間の数はだんだん減っていった。それに反比例するかのように木々となる人々はどんどん増えていった。人間が減り、緑が増えた。騒がしくせわしなかった世の中はとても静かなものとなっていった。
明け方の公園に私は来ていた。理由はない。なんとなくである。
冬もそろそろ終わりを迎えそうだ。風の中にほのかな暖かみがある。
「おじさん何してるの?」
椅子に座ってぼーっとしていると見知らぬ少女に声をかけられた。あたりを見渡しても親のような人はいない。こんな時間に少女一人は不自然だった。
「お嬢ちゃんこそ何してるの?お父さんとお母さんは?」
「どっちも木になっちゃった」
どうやら子供を置いて手術を受けたそうだ。
「お嬢ちゃんは手術受けなかったの」
「うん。お母さんは受けなさいって言ったけど、わたしは受けたくなかったから」
この時世に珍しい子もいたものだ。小さな子でも手術を受ける子は珍しくはない。
「ヒトが少なくなってきたね」
少女は私の隣に座った。この明け方の静けさは時間のせいではない。
「でもまだ人はいるよ」
鳥たちが起きたのか、さえずりと羽ばたきの音が聞こえてくる。
「残された人々が新しい世界を作る」
明け方の冷たい風に木々の葉が揺れる。公園には少女と私の二人だけだ。
「あっ、見て。あの木」
少女が木の頭上を指さした。
「おはなのつぼみができてるよ」
静かな街の向こうから太陽の光が差し込んできた。
今年も静寂の春がやってくる。