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静かな夜だった。その日は朝からしんしんと雪が降り続けていて、雪解けで露出していた暗い色の地面を、再び真っ白く覆い尽くしていく。
子供の頃から、雪の日は好きだった。雪はあらゆる音を吸収して、凛と冴え渡る空気は気が引き締まるようで快い。そんな日は、必ず囲炉裏端で祖父を囲んで民話を聞いていた。妖怪好きが高じて民俗学を志したらしい祖父は、そんな話をたくさん知っていて、幼い孫たちに良く話して聞かせていたのだった。兄のように民俗学を志はしなかったものの、恭成の知識の根幹は祖父の影響を受けた結果なのだろう。
この街へ移り住んでからは、本が祖父の代わりとなった。職業柄、書籍を入手しやすかったらしい叔母の書斎はたくさんの物語や図鑑で溢れ、それらは良い暇つぶしと知識の源泉になった。やがて書くことを志したのも、自然の流れだったのだろう。
まさか、それで生計を立てていくことになるとは思いもしなかったけれど。
少し遅くなる、と葉髞から連絡があったのは夕暮れ時。暇を持て余して原稿用紙を引っぱり出した恭成が、珍しくはかどる筆に気を良くして、五枚ばかり書いた頃だった。
となりから、物音がしたのだ。
妙に気を引かれて顔を上げる。久喜の部屋に面した押入を振り向くと、続けてばさばさと何かが傾れ落ちる音がした。
研究の資料でもぶちまけたんだろうか。
そう思った、次の瞬間。彼の耳は、喘ぐような引き攣った悲鳴を聞いた。
思わず腰を浮かして、目の前の窓を開ける。途端にさぁっと冷たい空気が入り込んで、髪の先まで凍えそうだ。雪はいつの間にか止んでいて、ふわふわとした新雪が下宿屋の庭を覆い尽くしている。他に何か聞こえないかと身を乗り出した恭成だったが、雪が真綿のように音を吸収してしまっていて、いつになく静まり返っているだけだった。半分ほどカーテンが引かれて灯りが零れ落ちる窓からは、中の様子を窺うことが出来ない。
「雄大さん、どうしました?」
いつものように窓越しに声をかけてみるが、照れくさそうに顔を覗かせるその姿はなく、のんびりと返ってくる隣人の声はない。ただ、某かの影がカーテンに映ってゆらゆらと揺れているさまだけが確認できた。確かに、何かがいる気配はするのに。耳が痛くなるような静寂が、無情にも辺りを埋め尽くしているだけなのだ。
まさか、具合を悪くして倒れたということはないだろうか。
そんなことを思いついて、窓を閉める。もしそうなら、様子を見に行かなければ。場合によっては、羽依子に声をかけよう。そう決意して踵を返そうとした瞬間、ざわりと背筋が総毛立った。
なんだ、今のは?
突然襲われた奇妙な感覚に、戸惑うように足が止まる。その横で、がつんと何かが壁にぶつかる音がした。思わず首を竦め、慌てて部屋を飛び出す。直ぐさま隣室の扉に手をかけるが、鍵がかかっているらしく開かない。理由のわからない焦燥感に急き立てられ、恭成は扉を叩いた。
「雄大さん? 何かあったんですか、雄大さん!」
「天野さん?」
思わぬ方向から声をかけられて、心臓が跳ね上がる。振り向いた恭成は、階段を上がってきたらしい椿の姿を見つけて、ほっと息をついた。
「びっくりした、椿ちゃんか」
「どうしたんですか?」
「何の騒ぎだ」
椿の後ろから、葉髞が訝し気に姿を見せる。どうやら、訪ねてきた彼を椿が案内してきたところだったようだ。
「となりが、どうしたんだ?」
心無しか青褪めた恭成の表情に何かを感じとったのか、彼は大股に歩み寄る。そうして鍵が掛かっているのを確認して、様子を窺うように扉に耳を寄せた。
「よくわからないけど、さっき悲鳴が」
「物音はしないな……。合鍵は?」
すぐさま返ってくる言葉に、咄嗟に答えられない。
「……あぁ、そっか。ええと、管理人室に確か」
巧く働かない思考をなんとか動かして、それだけ答える。それを受けて、葉髞は椿を振り返った。
「椿さん」
「取ってきます!」
頷き、椿が階段を駆け下りる。その間に葉髞は真剣な面持ちで扉の鍵を確認し、扉に耳を押し当てた。
「聞こえたのは悲鳴だけか?」
「ううん、その前に物音が……」
それから、悲鳴。壁を叩く鈍い音。必死に記憶を辿るのに、理由のわからない焦りで気持ちが空回りして、思考が連動してくれない。
「久喜さん、どうされました? 久喜さん」
扉を叩いて呼び掛ける葉髞に倣って、もう一度呼び掛けようとした恭成は、この座りの悪い妙な感覚の正体に思い至って息を飲んだ。
「……そうか、さっきから聞こえてないんだ」
訝しげに視線を寄越した葉髞に、恭成は勢い込んでまくしたてる。
「ずっと、妙に静かなんだ。松山がいるからじゃなくて」
何かに怯えるような緊張感。停滞したまま動かない空気、ぴりぴりと神経に障るような圧迫感。息を押し殺すような、この奇妙な静寂は。
「あの影が来るときと同じなんだ」
「松山さん!」
階段を駆け上がってきた椿が、鍵を差し出した。その後に、顔色を白くした羽依子が続いている。葉髞が鍵を受け取って、すぐさま鍵穴に差し込んだ。軽い音がして開かれた、その扉の向こうから。
噎せ返るような、酷い臭いがした。
真っ先に目に飛び込んできたのは、畳に拡がる赤い色。その色を目にした途端、身体が竦んだ。
あか、赤、紅、朱、アカ。視界を刺激する鮮やかな色彩に、目が暗む。
ぐらり、と。足下が揺らいだような気がした。意識の端にざらつくような感覚が引っ掛かり、酷く気分が悪くなる。それと同時に、何かが奥底で蠢いた。
あぁ、前にもこんな。
こんな光景を。
あの鮮やかな洪水を。
足下を埋め尽くす、あれらを。
最後にあの子を、どこで見たんだろう?
椿が悲鳴をあげた。その声に、現実味を失いかけていた意識が引き戻される。
ずきずきと酷く痛むこめかみを押さえながら振り向くと、顔色を無くした椿が廊下にへたり込んだところだった。そんな彼女を支えるようにして、羽依子も慌てて膝をつく。
「松山さん、あの…?」
「そのまま動かないでください。けして中は見ないように」
固い声で指示をした葉髞が、軽く顔をしかめて室内に入る。はい、と強張った表情で頷く羽依子を一瞥した恭成は、そっと室内を一望できる位置へと移動した。
相変わらず雑然としていて、本に溢れた室内。戸棚に置かれた細々とした物たちが、物言わぬ主をじっと見下ろしている。
部屋の真ん中に、彼は倒れていた。
その傍に立った葉髞は、微動だにしない。それは、脈を取り生死を確認するまでもなく、一目瞭然の光景だった。
「三笠さん、警察に連絡を」
「お医者様は」
「必要ありません」
きっぱりとした返答に一瞬惚けかけて、羽依子は慌てて立ち上がった。椿に動かないよう言い聞かせて踵を返す。ちらりとそちらへ視線を向けて、恭成は再び室内を眺めた。
びしゃりと派手に畳へ広がる血の海を見て、これは敷き替えなければならないだろうな、とぼんやり思う。投げ出された四肢はてんでばらばらで、それどころか肩口から途中まで無惨に裂けていた。そして、あるべきところに彼の頭部は存在していない。首は何処だろう、と考えたとき、ずきりと頭の芯が痛んで顔をしかめる。
その間に室内を一瞥した葉髞は、人が隠れられそうな場所を調べ、窓へ目を向けた。カーテンを捲り、施錠を確認する。そのまま振り返って遺体を一瞥し、何かを探すように視線を走らせた。僅かに眉が動いたのは、何かを見つけたからだろうか。その一連の動きは妙に慣れていて、恭成は活動写真を目の前にしているような錯覚を憶えた。
果たして、これは本当に現実なんだろうか、と。
「……下手にいじらない方がいいな。椿さんは?」
注意深く戻ってきた葉髞が、静かに扉を閉ざす。大丈夫です、と消え入りそうな声で答えた椿だが、すっかり顔色をなくしていた。
「天野、おまえの部屋に上げていいか?」
「あぁ、うん」
どうぞ、と頷くのを確認した葉髞は、椿に断って軽々と細い身体を抱え上げた。開け放したままだった部屋に上がり込むと、そっと畳の上へ下ろす。恭成が水を汲んで差し出すと、彼女は大人しくそれを受け取って口をつけた。
「警察に話を聞かれると思うけど、もう少し頑張れるか?」
目線を合わせて尋ねる葉髞に、彼女はこくりと頷く。その頭をくしゃりと撫でて、彼はその手をそのまま恭成へ伸ばし、ぺちりと額を叩いた。
「おまえも酷い顔だぞ」
「大丈夫、倒れたりはしないから」
多分、と自信なさげに付け加えると、葉髞は苦笑を浮かべて立ち上がった。そのまま窓辺に立って外を眺めた彼は、何かに気づいたようで小さく舌打ちする。
「しまった、一言添えてもらえば良かった」
呟かれた言葉に、恭成は眉をひそめた。けれど、すぐに気がかりなことが浮かんで気分が沈む。
息を押し殺すような、あのぴりぴりとした静寂はいつの間にか消え失せていた。あの影に殺されたのかと思いたくなるが、警察は納得してくれないだろう。それに。
なぜ、久喜があんなふうに殺されなければならないのだ。
生身の人間が犯人だとして、怨恨だとは思いたくない。いいひと、だったのだ。彼は。
「誰が、あんなこと」
零れ落ちた言葉を聞き咎めて振り向いた髞は、小さく肩を竦めただけだった。
◇◆◇
間もなく警察が到着して、建物の中は急に慌ただしくなった。大勢の人間が忙しく立ち働くさまを、現実味を欠いた気分で眺める。椿は羽依子が引き受けてくれて、階下へと下りていった。おそらく、そちらで事情徴収となるのだろう。
恭成はと言うと早々に事情聴取を終えて、二階廊下に葉髞と二人並んで立っている状態だ。こんな所にいてもいいのかな、とちらりと思ったものの、咎められないのだから構わないのだろう。自分の部屋も捜査対象となっているのだが、気分はどこまでも他人事だ。
「天野。現実だからな」
となりでぽつりと呟く葉髞に、曖昧に頷く。理解はしているつもりなのだが、いつまでも意識にかかったままの膜が剥がれない。
「ごめん、なんだか思考が追いついていかない」
「しゃんとしろよ。あと、倒れないようにな」
そう釘を刺された時、事件現場から一人離れてこちらへやってくるのが見えた。
葉髞と同じか、それよりも少し高いくらいの長身。しかし、彼も及ばないほど厳つい体格に、少々草臥れた背広を纏っている。タイを絞めた襟元は緩く崩されていたが、それが妙に様になっていた。整わない短髪の下の眉は凛々しく、その眼光も鋭い。
第一印象は絵に描いたような鬼刑事だ。けれど浮かべる表情には何処か親しみ易さがあって、纏う雰囲気も不思議と柔らかい。おそらく、人柄が出ているのだろう。
子供に好かれそうなヒトだなと、何となしに思う。
「よぉ、耳が早いな」
そう軽く手を上げた刑事に、葉髞は苦笑を浮かべる。
「いえ。友人の所に遊びに来ていただけですよ。被害者の隣人の、ね」
「そりゃ災難だ」
軽く笑い、恭成へ会釈する。様子を窺うように会釈を返すと、横から葉髞に紹介された。
「こちら、叔父貴の友人だった円谷刑事。俺も、随分お世話になってる人だ」
「それだけ聞いてると謙虚に聞こえるな、ショウ。……こいつは、例のアレか?」
声を落として尋ねる。果たして彼は、鋭い視線を辺りに走らせた。
「気配は残ってますが。さて、どうでしょうか」
「変なところばっか、桃真に似てンだからなぁ」
苦笑を浮かべ、円谷はため息混じりに現場を振り返る。
「ッたく、久し振りに普通の事件かと思ってたんだがなぁ。まだ続くらしいな」
「叔父貴の台詞じゃないですが、それこそ巡り合わせというやつでしょう」
「おまえも言うようになったじゃねぇか」
にやりと笑った円谷は、僅かに眉根を寄せてぺちりと首の後ろを叩いた。
「どちらにしろ、こいつは例の猟奇殺人と同一犯だろう。首が残っていること以外、全く同じ手口のようだしな」
「そうですね。事件直後に踏み込めたのは収穫でした。期待するほど手がかりがなかったのは残念ですが」
「あの…?」
応酬を繰り返していた二人は、おずおずと挟まれた声に会話を中断した。注目された恭成は、気まずそうに首を竦める。
「ええと、まさか松山が捜査に協力してるとか、そんな小説みたいなことは……」
ないよなぁ、と思いながら尋ねてみると、果たして彼らは頷いた。
「あぁ、連続猟奇事件に関しては」
「ヒトでないモノが起こした事件なんざ、俺らにはどうにもなりませんからなァ」
「認めちゃうの?! て、今何か聞いちゃいけないことを聞いたような気がするんだけど、気の所為だよね!」
「ヒトには起こせないだろ、こんな馬鹿げた事件」
半眼を向けた葉髞を唖然と見つめ、円谷へ視線を向ける。少しだけ困ったような表情を浮かべた円谷は、「たまにあるんですよ」と付け加えた。
「あやかしものの事件って奴がね」
「地下組織って話しただろ。うちの母体と公的機関は裏で繋がってるんだよ」
最近は直接連絡貰うけどな、と平然と付け加えてくる葉髞に、思わず頭を抱えたくなる。
「なんだ? おまえ、友達にそんなことまで話してるのか」
「いえ。こっちの被害で、ちょっと相談を受けてて」
言葉を切った彼は僅かな思案の末、恭成へ視線を向けた。
「天野。あの件、話してもいいか?」
「関係あるかも、て松山も思ったんでしょう? わざわざ確認しなくても構わないのに」
「職業上、守秘義務があるからな」
改めて円谷に向き直った葉髞は、現場に居合わせる原因となった出来事について理路整然と順序だてて説明をする。それを黙って聞いていた円谷は、僅かに眉根を寄せた。
「そいつは、嫌な話だな」
「俺は、この線から探ってみます。何か出るかもしれない」
「そうだな。こっちも出来る限り協力する」
円谷先輩、と呼び掛けられて円谷が振り返った。断って離れる彼を何気なく目で追うと、白い布で覆われた担架が入れ代わるようにして運び出されていく。それがつい先程まで生きていたヒトなのだと思った瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
「倒れるなって言っただろ」
咄嗟に手を伸ばしてくれたらしい葉髞が、衣紋を引っ張り手を離す。
「無理言わないでよ」
ひたすら胃の腑が重くて、目眩が止まらない。ずるずると座り込んだ恭成の背中を軽く叩いた葉髞は、低い声で囁いた。
「雪花、何か気がつかなかったか?」
「妙な気配はしていたがの」
葉髞の問いに、密やかな声が答える。恭成はちらりと自分の肩を見た。
「気づいてたなら、教えてくれてもいいのに」
小さく抗議の声をあげた恭成に、雪花は悪びれた様子もなく答える。
「わらわとて、そなたに拘束されている身じゃ。そもそも我らは万能ではない。斯様なことになろうとは、予想だにしておらぬよ」
「無関係だと思うか?」
「さて。答えられぬな」
僅かに迷いが声音に出る。おそらく、雪花も困惑しているのだろう。
「僕の所為、かなぁ。やっぱり」
思わず呟くと、大仰なため息が旋毛に落ちてくる。
「変な所で気負うな。あの人が亡くなったのがおまえの所為なら、先の被害者全員、おまえの所為ってことだぞ。顔も知らない人間の死に、責任が持てるのか?」
「極端だね」
「おまえが言ってるのは、そういう極端なことだ。作家のくせに日本語の用法間違うな」
不機嫌そうなその言い種に瞬いて、恭成は口許を緩めた。そして、勢いよく立ち上がると軽く葉髞の背中を叩く。
「ごめん。有難う、心配してくれて」
そうこうしているうちに、円谷は会話に区切りをつけたらしい。こちらを振り返り、手招きをする。
「ショウ、現場見るだろう?」
はい、と頷いて、葉髞は恭成を振り返る。
「平気ならおまえも来いよ」
「え、部外者が入っても大丈夫なの?」
「厳密に言えば、俺も部外者だぞ。今回はお互い、第一発見者という有難くない肩書きがあるがな」
ひょいと肩を竦めてみせて、いいから来いよと促す。
「元の部屋の状態を知ってるのは、おまえだけだろ」
葉髞の後に続いて移動すると、部屋の前で円谷と話していた刑事が、恭成に気がついた。心配そうに小首を傾げて、こそこそと囁きかける。
「災難でしたねぇ。大丈夫ですか? 気分悪いとかないですか。顔色あんまり良くないし、無理は禁物ですよ」
有難うございます、と頭を下げて、不思議そうに首を傾げる。
「……咎められないんですね?」
「だって、松山くんの知り合いで、こういうの解るヒトなんでしょう? 僕もさすがに慣れてきましたけど、初めはびっくりでしたからねぇ。ちょっとヒトより勘が鋭いってだけで、先輩と組まされちゃって」
北村、と円谷が重々しく遮る。
「無駄話してる暇があるなら……」
「あーはいはい。わかってます、ちゃんと仕事してますよ! ていうか、公文書の方どうしましょう?!」
どうやっても辻褄合いませんよー、と頭を抱える。葉髞を見ると、彼は小さく肩を竦めてみせた。
「表向きに、こういう事件は『ない事』だからな。尤もらしく現実の事件として記録を残すんだ」
「じゃぁ、処理されないの?」
「裏帳簿もちゃんとありますよ。鬼やら狐狸がわんさか載ってますがね。さて、きっちり仕事をしてくれよ、松山探偵」
円谷が促して、事件現場へ足を踏み入れる。実際に入ってみると、そこは廊下から見た以上に凄惨を極めていた。
たくさんの書類と書籍が傾れを起こしていたが、思ったほど荒れていない室内。被害者が身体をぶつけて崩れたといった様子だ。そのあちこちに飛び散った、赤い飛沫。ふと気を引かれて壁へ目を向けると、白っぽい色の壁に跳ねて飛び散る血痕がある。
ぐしゃりと盛大に飛び散ったその染みに、部屋を出る直前に聞いた激突音について、あまり嬉しくない答えを貰ったような気がした。
なるべくそれらを見ないように歩き、恭成はふと違和感を覚えて室内を振り返る。なんだろう、と内心首を傾げながら、さわさわと神経に引っ掛かる妙な違和感を辿ってみると、窓際から離れた本棚に行き着いた。
「天野?」
どうした、と尋ねる声に曖昧な返事をして、本棚に近づく。そして、ふと床に転がっている物に目を止めた。久喜の部屋にあるのが似つかわしくないそれに、恭成は強く気を引かれる。
「これかな」
「盃ですか」
しゃがんだ恭成の後ろから、円谷が覗き込んでくる。土色をしたそれは、少々無骨な印象の物だった。手に取って見るまでもなく素焼きの陶製で、実用性なぞ皆無だろう。
「おかしいなぁ。こんなの、この間お邪魔したときは、なかったんだけど」
訝しげに首を捻った恭成に、横から覗き込んできた葉髞が訝しげに眉をひそめる。
「見落としたわけじゃなく?」
「うん。一見乱雑なんだけど、きちんと系統立てて物が置かれてるんだって。この区画は、研究資料と人から借りた物が置かれてたはずだから」
腑に落ちないなぁ、と呟き、恭成は葉髞を見上げた。
「それに雄大さん、下戸なんだよ」
「確かか?」
「うん。全然呑めないって言うのを明里さんが面白がって、今年のお正月に呑ませたんだ。お猪口一杯で潰れちゃった」
「失礼、その、明里さんというのは?」
円谷が口を挟み、恭成は振り仰いで「すみません」と苦笑する。
「鳩山椿さんの母親で、鳩山明里さんです。芸妓をしてらして、普段から芸名で呼んでたもので」
「ん? そいつはもしかして、水上屋の明里芸妓ですか」
そうです、と頷いてみせると、後ろの方で「えええ」と悲鳴が聞こえた。
「あんなに大きな子持ちだったんですか!」
「残念だったな、北村」
冷やかすように振り向いた円谷へ、北村は苦笑を浮かべる。
「いやいや、俺にはあんなそうそうたる顔ぶれの旦那候補と張り合う気は、元からありませんって。確かに、ブロマイド持ってたりしますけどー」
ごにょごにょと決まり悪そうに付け足す北村へにやりと笑った円谷は、申し訳ありませんと恭成へ向き直った。
「天野さん、その話は他には?」
「この下宿の人なら、みんな知ってますよ。今年のお正月は、みんな残ってましたから」
その後が大変で、と軽く肩を竦めてみせて、沈黙したままの葉髞に気づき小首を傾げる。
「どうしたの?」
問いには答えず暫く黙考した後、葉髞は円谷を振り返る。
「確かこれは、ずっとここにありましたよね?」
「あぁ。写真も撮ってたはずだぞ」
「天野。この間というのは、正確にいつかわかるか?」
尋ねられ、記憶を探る。
「……一週間ちょっと前、かな。松山がうちに来た、その前日。椿ちゃんも一緒だったよ」
「円谷さん、ここ暫くの猟奇殺人被害者の身辺に、同じ盃がなかったか調べられますか?」
向き直った葉髞が尋ねると、円谷の表情が変わった。
「こいつが手がかりってわけか? だが、今までの現場では見つかってないだろう」
「可能性です、断言はしません。出来れば、遺品も確認してくれませんか」
「わかった。確認してみよう」
盃を拾い上げた円谷へ、お願いします、と念を押す。そして、恭成を振り返った。
「他に、気になる所はあるか?」
「んん、特には。書籍とか書類は、流石に全部把握してないから、なくなっててもわからないし」
他に不審な物も増えていない。そう言うと、葉髞は恭成を促して廊下へ出た。
「もういいの?」
「最初に踏み込んだ時、ざっと見てるしな。それに、大した痕跡は残ってない」
真剣みを帯びた葉髞の横顔を眺め、恭成はしみじみとため息をついた。
「……なんだか、大事になっちゃったね」
冗談が本当になっちゃったなぁ、と嘆息する。聞き咎めた葉髞に新聞社でのやり取りを話して聞かせると、果たして彼は軽く眉をひそめた。
「現場の規則性、か……。なるほど、そこは考えなかったな。しかし、おまえが変な罪悪感を持ってるのは、その所為か?」
「そうなのかなぁ?」
「そうなんだろう。まぁ、取り敢えずそれは棚上げだ。気にするな」
この先が問題だろう、と促されて頷く。その考えには異論はない。
円を描く意味は何か、接点は何か、本当に無作為なのか。
この近辺には大きな工場もないし、出稼ぎ目的の人間も少ない。圧倒的に地元民が多い土地で、被害者全員がこの土地の出身ではないという点は、偶然にしては出来過ぎてる。
情報が少ないな、と呟いて葉髞は軽くため息をついた。