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彼女にとって、月夜の散歩はただの日課だった。気ままに歩くため決まった順路はないのだが、夏は水辺を選んで渡り歩く。ヒトのように寒暖で活動を制限されるわけではないが、気分の問題だ。夏の鬱蒼とした草いきれも嫌いではないが、やはり水辺の涼しげな空気は気分がいい。長く人の世に紛れていると、思考も人間臭くなるようだ。
さらさらと葉擦れの音も涼やかな竹林の奥には、確か小さな泉があるはずだ。
思えば、このところの中津国は随分と騒々しくなってしまった。繰り返される権力闘争、その末にあるのは容赦のない略奪と搾取だ。疲弊してゆく土地とヒトは、均衡を崩して病み始めている。こんな明らかなことでさえ、権力者たちにはわからないのだろうか。力に溺れる愚かさは、見ていて気分が悪くなる。
「……おや。珍しいな」
ぱしゃり、と。水が跳ねた。聞こえた声に視線を上げると、目に映るのはぽっかりと開いた場所に鎮座する水鏡。降り注ぐ月光が反射して、銀色に眩い光が跳ねている。
泉の縁の苔むした岩に腰かけて月を背負った人影は、興味深そうに彼女を見ている。その白い爪先は水面を掻いて、幾つも波紋を拡げ続けていた。
「こんな時間に散歩に出るのは、私だけかと思った」
結わえることなく背に垂らしたままの豊かな黒髪が、岩の上まで流れ落ちる。色白で目鼻立ちのくっきりとした美貌と、簡素ではあるが見事な織りの小袖を見るに、身分の高い女童のようだ。しかし、見渡してみても他に人影はない。
こんな夜更けに、子供一人で……?
その不審さに、僅かに眉根を寄せた。
「供はいないのか?」
率直に尋ねれば、澄んだ高い声がころころと笑う。そして、ふと目を細めた。
「若衆のようだが、貴様は何者だ? よもや、浦辺の者ではあるまいな」
浦辺と言えば、この辺りを統べる領主の氏だ。それを呼び捨てる剛毅さに、ふと興味が湧く。足を向けると、僅かに緊張したのがわかった。月明かりの下へ姿を晒せば、娘は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。冷やかしを口にする表情は愉快そうだ。
「なかなか凛々しいな、姫」
「さて。比売と呼ばれたのは遥か昔だ。血腥く怨嗟が渦巻く時世故か、ヒトならざるモノを視る者も多くてな。絡まれるのも鬱陶しいのさ」
「ほう、あやかしの姫君なのか」
ますます愉快そうに笑う娘は、諦めに似た表情を浮かべた。
「では、姫も私を喰いに来たのだろう? 残念ながら、喰われてやるわけにいかないが」
「なんのことだ?」
きょとりと目を瞬かせて尋ねると、娘は困ったように首を傾げる。途端に、大人びて見えた白い面が、年相応の幼さを垣間見せた。
「違うのか? 奴等は大概、蜘蛛の形をしているが。そういえば、姫のように麗しい女人姿は初めて見たな」
「それはおまえの魂が上質だからだろう。良くも今まで無事だったものだ。あぁ、それで娘姿をしているのか」
そう指摘すると、娘は呆気に取られた顔をして、弾けるように笑い転げる。
「なるほど、あやかしの姫にはお見通しか!」
「おまえほど鮮烈な魂なら、容易に知れる」
「それは、誉められてるのか?」
訝しげに首を傾げたものの、すぐに気を取り直して言葉を次いだ。
「そういう意味ではないな。私は隠れねばならぬのだ」
そうか、とだけ頷く彼女を見つめ、娘はふと口許を笑み歪ませる。
「聞かぬのか」
「聞いてなんとする。わたしには関わりのないことだ」
それもそうだな、と軽く笑った娘は、岩から飛び下りて小袖の裾を一払いした。そして、竹林を抜けた先を指し示す。
「私は、この先の尼寺に厄介になっている。気が向いたら訪ねてくれ。退屈でならぬのだ」
「尼寺……」
世事を思い至って、娘の正体に気がつく。そこに住まわれている姫は、一人しかいない。この地の民に最も知られ、憐れまれている悲劇の姫だ。
気が向いたらな、と答えた彼女に「待ってる」と一言残し、娘は颯爽と歩き去った。その小さな背中を見送って、ふと唇の端に笑みを乗せる。
あれが深窓の姫とはな。
噂とは宛てにならないものだと苦笑して、彼女も踵を返した。どうやら、暫くは退屈せずに済みそうだ。