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空行く月の末の花橘  作者: アサミズ
片糸之章
5/25

 車窓の向こうを飛ぶように流れる景色を眺めつつ、恭成(たかなり)は疲れたため息を一つ零した。ゴトゴトと揺れる蒸気機関車の車内には、ちらほらと他に乗客の姿がある。

 結局、昨夜はあれから一睡も出来なかった。仕事を片付けながら夜を明かし、友人を訪ねてみようと決意したのだ。そうと決めたら、すぐに行動に移さなければ決意が鈍る。食欲は少しも湧かなかったが、朝食を無理矢理押し込んでから下宿を出た。

 おかしなことが起きている。

 そう、確かにおかしなことなのだ。まったく人間の理解を超えている。毎夜訪れる、あの影は何なのか。何の目的があるのか。なぜ、自分が襲われたのか。

 何かおかしなことがあったら、と葉髞(しょうぞう)は言ったが、ここまで突飛な出来事に対して、彼に何を期待したらいいのだろう。そう思うのだが、独りで抱え込むにはあまりにも辛い。

 それに、なんとなく。葉髞なら笑いもせず、馬鹿にすることもなく、きちんと話を聞いてくれるような気がしたのだ。今はとにかく、誰かに現状を吐き出すだけでもいい。独りで思い悩むのは御免だ。

 駅に降り立つと、たった一駅だというのに随分と雰囲気が異なって見えた。下宿から程ない駅前は、まだ古い日本の佇まいを色濃く残しているのだが、こちらは華々しい西洋建築の建物が軒を列ねている。どうやら、話に聞いていた以上にこの辺りは近代化を進めているようだ。石畳の舗装路を路面電車と一頭引きの辻馬車が行き交い、時折人力車も走っている。歩く人々の出で立ちも洋装が目立つようだ。

 住所を頼りに辿り着いたのは、四ツ辻の角に建つ、地上三階建ての模範的な西洋建築だった。大きく開け放たれた、装飾も見事な大扉を潜ると、そこはちょっとしたホールになっている。見上げる天井は高く、舶来製なのだろうか、シャンデリアが吊り下げられていた。

 奥には管理室と書かれた小さな扉と、左手には飾り硝子を填めた洒落た扉があって、こちらが噂のカフェーなのだろう。ぶら下げられた装飾看板には、装飾文字で花菱と書かれていた。中を覗き込んでみれば、落ち着いた店内にちらほらと人影が見えた。

 右手には木製階段があって、折れ曲がりながら上に向かって伸びている。元々の塗装もあるのだろうが、手擦れで飴色に磨かれた凝った手摺が、味わいのある風合いになっていた。その壁面には、目指す場所が上の階であることを示す、鋳物の看板が貼り付けられている。

 階上を見上げて一度深呼吸をし、恭成は緊張気味に一歩を踏み出した。ゆっくりと階段を上りきると、その右手に重厚な扉がある。躊躇いつつ呼び鈴を鳴らせば、待っていたかのようにすぐさま扉が開かれた。

 この時ほど、心底ほっとしたことは、いまだかつてなかっただろう。威風堂々とした友人の姿を目にした途端、足許から力が抜けていくような気がした。

「松山、あの」

「来てくれてよかった。何か視たな?」

 見透かしたような目がじっと見つめてくる。なんとなく居心地の悪さを感じて、恭成はぎこちなく頷いた。

「詳しく話してくれ。俺なら多分、助けてやれる」

 入れよ、と促されて素直に戸口を潜る。通された室内は、建物の外観と同様の徹底したモダンさだった。

 暗い色をした板張りの床に、淡い色の縞の壁紙。小洒落たアンティーク家具や書棚、程度のいい長椅子。少々雑然としているが、片付けられた室内には、きちんと生活の匂いがある。視線を転じれば、重量感のある立派な執務机が据えられており、こちらも使い込まれたいい雰囲気を持っている。部屋の隅には薪ストーブがあって、舶来製の小洒落た薬缶がほわほわと湯気を立ち上らせていた。

「なんだか外国の小説か、活動写真を見てるみたいだね。桃真さんの趣味?」

「まぁな。残念ながら、番茶くらいしか出せないぞ」

 座ってろ、と肩越しに言い残して部屋を出ていく葉髞に、思わず笑みが零れた。どんなにモダンな建物に住んでいようとも、彼の日本びいきは変わらないらしい。

 ソファに腰掛ければ、素晴らしい座り心地に少し感動する。間もなく、室内を眺めていた恭成の前に香りのいい番茶と茶菓子が置かれて、葉髞はその向かいに腰掛けた。

「それで、何があった? 具体的に話してくれ」

 至極真面目な面持ちで促され、恭成は僅かに姿勢を正す。そして、葉髞が訪ねて来た次の日から毎夜訪れる影のことを、思い出せる限り細かく語り出した。話しながら葉髞の表情を窺うと、彼は黙したまま僅かに眉をひそめている。その表情が、実質的な被害の話に及ぶと更に変化した。

「頚を絞められた?」

 予想外のことを聞いたと言わんばかりに反芻するその声音に、恭成は首を竦めて声を小さくする。

「無事だった、よ?」

「当たり前だ! しかも一週間……ッ」

「でも、その」

「さっさと来いよ!」

 ごめんなさいッ、と反射で応えて、深々とため息をつく葉髞の様子を恐る恐る窺う。

「ご、ごめん」

「俺に謝るのは違うだろ。他には、ないんだな?」

 頷いて、思わず頸を擦った。今もまざまざと思い出せる生々しい感触。あの影が、頭の中で夢の中のモノとすり替わろうとしている。

 夢の終わりに彼を嘲笑っていたのは、他ならぬ恭成自身だった。

「影でない方の姿は視えないのか?」

「うん、気配だけ。起こしてくれたのと追い払ってくれたのは、同じだと思う」

 抱き締められた感触は、小さな子供のようだった。あの甲高い声を思うと、同じと考える方が自然だろう。

「気配も、あれ以来しなくなったけど。今はいないのかな?」

「ここに入って、何かに気がつかなかったか?」

 唐突な問いに戸惑った恭成は、似た質問をされたことを思い出した。あの時は、警戒して濁してしまったけれど。ここの様子は、あの朝と限りなく近い。

「声がしない。すごく静かで、清々しい。松山が家に来た朝もそうだった」

「なんだ、やっぱり気づいてたのか」

 今度は正直に思ったままを告げると、葉髞は僅かに苦笑を浮かべる。

 それだけで彼も同じものを見聞きしているのだと確信して、恭成は目を丸くした。

「松山も、そうだったの? だって、そんな素振り少しも」

「俺は、結構前から気づいてたぞ。視えてるだろうな、くらいだったが」

「だったら、言ってくれたっていいじゃないか。あんなモノ、僕だけが見てるのかと」

「あやかしもの」

 落ち着いた声が喚きかけた言葉を遮って、悪戯っ気のある笑みを閃かせる。

「もしくは、国津神。おまえが視てるモノは、この国におわす八百万の神々だ」

 得意分野だろう、と愉快そうに付け加えた彼は、言葉を失った恭成を眺めて、ふと表情を改めた。

「ただし、おまえが良く知る神話や民俗学上のモノとは、少し違うな」

 世の中には無数のカミが存在していて、ヒトと共存している。それは日本民族の根幹に関わる思想の一つで、ヒトも彼らの分け御魂であり、その性質は常に善なるものだと考えられていた。一方的に支配され崇めるのでなく、共に自然の一部であり世界を構成する要素であるという考え方である。つまり、カミとは自然現象や構成物に他ならない。

 故に、日本人は酷く穢れを嫌う。それは正月の餅や、桃の節句の雛人形や、七夕の禊に見られるだろう。時節には必ず穢れを祓い、穢れを遠ざける様々な試みをし、常に霊性を受けるための努力をするのだ。

 しかし彼らの言う八百万の神々とは、そうしたヒトの思想から産まれ、形を得たモノを指すらしい。カミの発生は神代と言われる時代よりも前、稚拙ながらも信仰が始まった頃ではないかと考えられているようだ。だからそれらは、基本的に神話上の神々とは異なる名と性質を持っている。

 高天原より、国土を治める天津神。

 中津国で、ヒトと共にある国津神。

 彼らは小さな国土内で覇権を争い、住処を別けるに至った。現在ヒトが神様と呼ぶのは、大体が天津神だ。国津神はあやかしもの、妖怪と呼ばれる。彼らは支配を受ける側として零落し、カミと名乗れなくなったのだ。

「……そうか。零落したとはいえ神様だから、魔除けは意味がないんだね」

「民俗学者、天野恭介氏も提唱していた説だろう? しっかりしろよ、孫」

 愉快そうに口許に笑みを浮かべて、葉髞は番茶をすする。うっかりしてました、と嘆息した恭成は、僅かに難しい顔で小首を傾げた。

「君にも見えてるのはわかったよ。助けてくれるっていうのはつまり、拝み屋をやってるってこと?」

「厳密には違うが、そう言った方がわかりやすいだろ」

「君の実家は、神社でも寺でもなかったと思うんだけど」

「宗教家ではないな、ちょっとした地下組織だ。俺たちは、狩り人と自称してる」

 かつての覇権争いに投入された戦力が、彼らの始祖だと言われているらしい。ヒトの身でありながら天津に組みして数多の国津を狩ったが、雌雄を決した後、あっさり切り捨てられたのだ。徒党を組み血脈を保ちながら時代を下り、その子孫たちはひっそりとヒトの世界で暗躍している。

「存外、国津神に関したお困り事は多いんだ。この探偵事務所も、元々そのつもりで作ったらしいからな」

「桃真さんも同類だった?」

「それどころか。松山は、神代から続く狩り人の家系だ」

 さらりとそう告げ、彼は室内を一瞥する。つられて、恭成も室内を見渡した。

 この建物へ足を踏み入れてから、耳につくわさわさとした囁きや、目の前を朧に横切る幻を見ていない。糸をぴんと張ったような静寂は、神聖な気配が加味されれば神社の境内にいるような錯覚を受けただろう。けれどそういった神域のような背筋の伸びる威圧感などあるはずもなく、ただただ居心地がいい場所だ。

「うちはちょっと変わっててな。俺の場合、傍にあやかしものが寄り付かないんだ」

「だから、こんなに静かなの?」

「おまけに、全く歪んでないだろう。外で見かけないか? 暗く凝ってる、影のようなモノなんだが」

 言われて、恭成は普段見慣れた町並みを思い出す。そういえば、時折影のようなものが其処彼処に燻っているのを視ることがあった。大体はすぐに溶け込むように紛れてしまうもので、そういうものなんだろうと気にも留めていなかった。

「あれ、歪みなんだ?」

「ヒトが生活する場所は絶えず歪んでいく。消えたように視えるのは正されるからだ」

 古い時代には、歪みの大きな場所を霊穴と呼んで奉っていたらしい。そういう場所では必ず、人智を超えた何かしらの事象が起こったからだ。それを、天津神は歪みや穢れだと称して酷く嫌ったらしい。その恩恵に預り強い霊性を持ったヒトが、神の名の元に支配者となることが多々あったからだろう。ヒトは神にはなれない、神を越えてはいけないのだ。

 逆に、国津神はある程度の歪みを許容する。こちらは、中津国へ留まる彼らにとっても、霊性を高められる限られた場所だからだ。彼らの多くがヒトの傍に棲むことを好むのは、それもあるのだろう。

「なんだか、国津神は大らかなんだね」

「在り方の差なんだろうさ。基本的に、天津神はヒトに関わらない。戯れに交わることもあるが、あくまで彼等は支配者で一方的だ。天津神の慈悲は、けしてヒトには向けられない」

「でも、国津神は違うんだね。ここが歪まないのは、松山が狩り人だから?」

 ふ、と。自嘲気味の笑みが口許に浮かぶ。

「いや。それは関係ないな。話を戻すが、天津神と違って、国津神はヒトに近しいんだ。その所為で起こる事象の解決を俺たちは引き受けている。ここは、その窓口の一つ。性質上、大っぴらに宣伝できないんだが」

「それは……そうだろうね」

 見世物扱いになるのがオチだと口をつぐんでいた己を振り返り、相槌を打つ。

「しかし、おまえには最初から言うべきだったな。まさか、殺されかけるまで来ないとは思わなかった」

「僕だって、まさかあんな目に遭うとは思わなかったよ」

「契約してたのがせめてもの救いだな。それがなかったら、確実に死んでたぞ」

「契約?」

 なにそれ、と訝しげに眉をひそめた恭成に、葉髞は軽く眉を持ち上げた。

「いつでもいい。おまえの身を保護すると、何かが約束しなかったか? その時に、代償をを求めてきたはずだ」

「何かって、例えば?」

 そうだな、と呟いて。葉髞は僅かに目を細める。

「蜘蛛。別のモノに化けていたかも知れないが」

 土蜘蛛は知っているだろう? と話を向けられて、恭成は小首を傾げた。

「妖怪の? それとも、日本書紀?」

「その間の子だな。国津神と一纏めにするが、通常はそれから更に付喪神と土蜘蛛へ二分するんだ。土蜘蛛は、望みを叶えてくれる。それが契約」

 冷めかけた茶をすすり、葉髞は言葉を次ぐ。

 一人、もしくは一家系に対して、一度に契約できるのは一柱。なにかしらの代償をヒトが払う代わりに、土蜘蛛に望みを叶えてもらう。

 それが、契約の仕組みだ。それも狩り人が関与する事象の一端で、基本的に本人が結んだ契約には関知しない。救済対象となるのは、契約者本人が死亡後も、契約が継続されている場合。それによって不都合や不利益が生じる場合だ。

「契約内容が守護である場合、子供の頃の他愛もない約束なんてこともあり得るな。ヒトの言霊は強いんだ。些細な一言も契約となりかねない」

 憶えはないか、と促されて、恭成は思索を巡らせた。あれこれと記憶を辿れば、取り留めもないことばかりが思い出されてくる。どれも他愛のない出来事だ。

 けれど。

「……あれ? なんだろう、欠けてる……?」

 ふと零れ落ちた言葉に、訝しげに葉髞が眉をひそめた。

 そう、憶えていないのだ。古い記憶になればなる程、ぽろぽろと虫食いのように不自然な欠けが生じている。どうやら、幼い頃の印象的な部分だけを憶えている、というわけでもないらしい。些細な前後の会話を憶えているのに、突然空白が表れるのだ。酷いものでは半日程、ごっそりと欠けてしまっている。

 特に、妹に関する記憶の欠けが激しく、殆ど憶えていないことに愕然とした。些細なあれこれは憶えているのに、話した内容や、一緒に遊んだはずの出来事の殆どがわからない。

「どうして……?」

 憶えていないのか。何故、今まで疑問にも思わなかったのか。呟いた瞬間に頭の芯が鋭く痛んで、思わず顔をしかめる。その時、何処からともなく甲高い声が響いた。

「余計なことをするでないわ!」

 え、と恭成が顔を上げると、目の前に座る葉髞が小さくため息をついた。その唇が、やっと出てきたな、と言葉を紡ぐ。

「余計と言うがな。このままではおまえの手に余るぞ。その責任は取れるのか?」

 うぐ、と言葉に詰まるその声は、恭成の背の辺りから聞こえる。しかし、振り向いても誰かがいるわけではない。おまけに、その声には聞き覚えがあった。

 そうだ、起こしてくれたあの声。

 心中にそう呟いた時、彼女は癇癪を起こしたように声を荒げた。

「えぇい、小賢しい! 兎に角、引っ掻き回すでないわッ、うつけ者が! 部外者が口を出すでないッ」

「部外者? それはおまえもだろう。それとも」

 今まで恭成が見たことのないほど、厳しく鋭い眼光が恭成の後ろを見据えている。

「この件に、おまえも関わってるのか? 違うと言うなら、正体を明かせ。天野を護っているのは、契約内容とは関係ないのか?」

 説明する気はないか。そう促され、小さなため息が漏れた。そして、肩に小さな手が触れる。僅かな重みが肩にかかり、振り仰いだその視界の先に艶やかで奇麗な黒髪が見えた。

 恭成の背中からまさに抜け出してきたのは、小柄な童女だった。薄花桜色の地に四君子柄の中振袖を纏い、鶸色の帯を胸高に締めている。長く背に垂らした緑の黒髪を、顔にかかるだけを小さく髷に結わえた桃色の紐。年の頃は十歳前後だろうか。白い顔は整っていて、大人になれば大層な美人になるだろうと思われた。

 彼女は奇麗な形の眉を不愉快そうにひそめてソファの上に下り、恭成の袂を掴んで、となりにちょこんと腰掛ける。

「これはまた、予想外に可愛いのが出たな」

「……まったく、随分と居心地のいい場所だの」

「あぁ、御蔭様でこちらもいい迷惑だよ」

 皮肉を軽く流した葉髞に対して、彼女は斜に構えて不機嫌そうに突き放した。

「これ以上、干渉するな。恭成の為にならぬ」

「だから、そんなことを言ってる事態じゃないだろう。第一、干渉してるのは俺じゃない」

「同じことじゃ」

 つん、と顔を背けた童女に、葉髞はうんざりしたような表情を浮かべた。

「あぁ、くそ。だからカミサマってのは嫌なんだ」

「喧しいッ、そなたの手などいらぬわ!」

「偉そうに、それでこのザマか? 好い加減に力不足を認めろよ」

「何を無礼な、その小賢しい口を噤め! わらわに向かってよくも」

「それだ。おまえの神格は? ヒトに擬態できる割に、随分弱々しいな。土蜘蛛ではないと思うんだが」

 突き付けられ、童女は口を噤む。そして、諦めたように長く息を吐いた。

「……元、天津じゃ」

「貶められたのか?」

「自ら下った。わらわのことなど、この際そなたには関係なかろう」

 眉根を寄せ口を尖らせた童女に、葉髞は小さく肩を竦めた。

「それもそうだな。ところで本来、付喪神は契約しないはずだろう。どういうことだ?」

「契約の体裁はとっているが、確かに契約ではないな。従属しておる」

「名付けか。おまえの名は? 俺は松山だ。松山葉髞」

 ふと、童女が口を噤んだ。そして、視線を逸らす。

「そなたに答える道理はないの」

 小憎たらしい声音でしれっとそう答えた途端、葉髞は眉根を寄せた。真顔で恭成へ視線を向け、ふと表情を動かすと軽く嘆息した。

「天野。呼べなくて不便だから、答えるように言ってくれ。でなきゃチビって呼ぶぞ」

 後半を童女へ向けて言い放つ。途端に眉を跳ね上げた彼女は、大きく息を吸い込んだところで、恭成の視線に気づいて思いとどまる。どうやら、視線だけで意図を察したらしい。

「く、生意気な!」

「それはこちらの台詞だ。因みに、撤回はしないぞ」

 吐き捨てる童女へ半眼を向けて言い放つ。この様子では間違いなく実行しそうだ。

 しかしこれは、妖怪が名を付けた人間に従属するというやつと、同じことなのだろうか。

 こちらに尋ねてこなかったのは、困惑具合が見てわかるくらいに、顔に出ていたのだろう。彼女の姿に憶えはないし、契約したと言うがその課程など少しも憶えていない。

 もしかしたら、欠けてしまっている記憶の何処かに、彼女との思い出があるのかもしれないけれど。

「……だ、そうだから。ごめんね、僕も憶えてないんだ。教えてくれないかな?」

 申し訳ない思いで促すと、彼女は横目にちらりと恭成を見上げる。そして、渋々といったふうに口を開いた。

「……キラ」

 聞き憶えのある音に耳を疑う。再び恭成を見上げた彼女は、口許へ仄かに自嘲気味の笑みを浮かべた。そして、真直ぐ視線を上げて、葉髞を見据える。

「雪の花、と書いて、雪花だ」

「雪の結晶か。さすが天野だな、子供の頃からいい趣味してる。経緯……は、聞いても答えないんだろうな?」

「それこそ、答える道理はないの」

「じゃぁ、せめて他のことは答えてくれ。天野の他には?」

 この問いの意味は恭成には解らなかったが、雪花は理解したようだ。すぐに答える。

「親には現れておらぬ」

「現れるって何が?」

 口を挟むと、葉髞は「才覚のことだな」と軽く答えた。

「ヒトならぬものを見聞きする才は、血筋で受け継がれるものなんだ。松山のように続いている所もあれば、枝分かれした末に薄れていった筋もある。おまえはどちらなのか、ということさ」

 怖い、と言った妹。何か善くないものがある、と。

 夢の中で見たあの小さな姿を朧に思い出して、つきりと頭の芯が痛んだ。

「妹も、僕と同じだったのかも」

 雪花が、軽く眉根を寄せて恭成を見上げた。思案する様子を見せた葉髞は、視線を上げて確認する。

「妹の話は、聞いたことがなかったよな」

「小さいうちに他界したんだ。こっちに越してくる前のことだったから」

「身体でも弱かったのか?」

 思う所があったのか、そう尋ねる葉髞に、恭成はかぶりを振った。

「神隠し、だって」

 そう、確かそんな騒ぎだった。

「兄さんは、事故にでも遭ったんだろうって言ってたけど。その時のことは、あまり憶えてないんだ」

 もともと小さな村のことだ、色々な噂が飛び交っていた。村から出た形跡もなく、ある日こつ然と姿を消した幼子。村人総出で何日も山を捜索し、川を浚ったが、結局履物一つも見つからなかった。

 だから、皆は神隠しだと。

 あの子供は、神の花嫁になったのだと噂したのだ。天野家は、そういう家だったから。

「それ以上、無理に思い出そうとするな」

 小さな手が恭成の手の上に置かれ、雪花はかぶりを振る。

「それは、天野が原因だからか?」

 葉髞の問いに、雪花はキッと睨めつける。

「ヒトが忘却する術を持っているのは何故か、考えたことはあるかや?」

「足踏みする為だろう。何かを悟れば、別の何かを忘れる。でなきゃ人間の進化はもっと早いだろうな」

「ただの怠惰と一緒にするでないわ。ヒトの心は脆い。忘却は自己保身の要だ」

「思い遣りがないって言いたいわけか」

 カミサマに言われるとは思わなかったな。

 そう苦笑して、葉髞は「それはすまなかった」と素直に謝罪を口にする。

「天野も、悪かったな。考えが足りなかった」

「ううん、僕は別に。そもそも、憶えてないことだし」

 何を言われても少しも引っ掛かってこないのだから、自分には関わりのないことを聞かされているくらいの感覚しかない。

「無礼ついでに確認させてくれ。確かにそれと今回の件に関わりがないと、断言できるんだな?」

 見据える目を昂然と受け止め、雪花は堂々と胸を張った。

「無論じゃ」

「わかった、信用しよう」

 あっさり引き下がった葉髞は、仕切り直すように「まずは」と切り出した。

「あれが何かを見極めるべきか。天野。もう一度、下宿を訪ねていいか? 今度は、きちんと痕跡を見たい」

「あの影の?」

「あの時は実害もなさそうだったし、何よりおまえが気づいてなかったからな。そのまま流したんだ」

 もう少し、しっかり確認するべきだった。そう零して、雪花を振り返る。

「ところで、おまえはいつから気付いた?」

「危険を感じて呼び覚まされたのは、昨夜じゃ。それ以前は、眠っていたから判らぬが。姿は見せておらなんだやもしれぬな」

「そう言える根拠は?」

「今の恭成でも、視ることは出来る。あれが以前から姿を晒してうろうろしていたのなら、視ていたはずじゃ」

「視えても、気配は判らないのか?」

 そう眉根を寄せる葉髞に、雪花は小首を傾げる。

「ふむ。元々恭成は、己に害がなければ、視て視ぬ振りをする性質があるからの」

 つまり、あの時は害がなかった。言外にそう言われ、葉髞は更に顔をしかめる。

「以前は無害だったモノが突然有害になったとでも言うつもりか? そんな馬鹿げた」

「同じ物差で測るでないわッ、うつけもの!」

 すかさず噛み付き、雪花は冷ややかに目を細めた。

「そなたら狗と違って、不必要に狩りなどせぬわ」

「元飼い主にそう呼ばれるのは、釈然としないな」

 苦笑を浮かべ、軽く肩を竦める。

「ところで天野、ここ暫くの予定はどうなってる?」

「いつも通りに、コラムを書くくらいかな」

 独り身の下宿暮しだ、羽依子を手伝うことはあっても年末準備に奔走することもないし、毎年のように静かにのんびり年末年始を過ごすだけだろう。

 席を立った葉髞が、壁の日めくりに手を伸ばして捲った。そうして、執務机に置かれていた手帳を確認する。

「これからと明日は、こちらに予定が入ってる……が。夜に一度張りたいな」

 呟いて、パタンと手帳を閉じた。

「明日の夜、泊めてもらっても構わないか?」

「うん。ごめんね、仕事があるのに」

「構わんさ。こちらも好きでやってるんだ、気にするな。それに、今日明日の仕事が片付けば、暫く何も入ってないから暇なんだ」

 それまで頼む、と真剣な目で見つめられ、雪花は僅かに目を細めた。

「わらわが恭成を護るのは、当然のことじゃ」

「それもそうだな」

 苦笑を浮かべて葉髞が応じる。微かに笑みを浮かべた恭成は「妙なことになったなぁ」と内心吐息していた。

 そう。この時までは、どこか他人事だったのだ。

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