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空行く月の末の花橘  作者: アサミズ
片糸之章
4/25

「なんだか、顔色悪いですよ。ちゃんと食べてますか?」

 恭成(たかなり)が顔を見せた途端、諸岡(もろおか)が心配そうに眉根を寄せた。新聞社の記者室は相変わらず人が疎らで、諸岡と数人の常駐者の姿しかない。

 ちょっと寝不足で、と欠伸を噛み殺した恭成に、諸岡は小首を傾げた。手にしていた地図を適当に置いて、手近にあった椅子を引き寄せる。

「原稿ですか? あんまり無理しないでくださいね」

 曖昧に微笑んで、勧められた椅子に腰を下ろした。座ってしまうと眠気が緩やかに襲ってきて、うっかり舟を漕ぎそうだ。影が気になって眠れないのだと言ったら、果たして諸岡はどんな反応を見せるだろう。人の良い彼のことだから、自分のことのように怖がり、心配しそうな気もするけれど。

 そう、影だったのだ。はっきりとした姿を持たない、暗く澱んだ闇よりも尚、暗い影。

 そいつは毎晩訪れては、様子を窺うように戸口に立つ。それ以上近寄ってこないのは、こちらがじっと息を潜めていることに気がついているからだろうか。暫くすると、影は闇に溶け込むようにすぅっと消え失せる。初めて目撃した時のような威圧感こそ感じられず、今のところ実害はないが、兎に角眠れない。

 その姿を確認した翌日、幾人かの同類にそれとなく話をしてみたのだが、似たモノを見たというヒトはいなかった。彼らの勧めで魔除けの類いを用意してみたが、今のところは効果もないようだ。

「天野さん、お茶飲みませんか?」

 よいしょ、と立ち上がった諸岡を見上げると、彼はにかっと笑みを浮かべる。

「僕が飲みたいだけなんですけどね」

「有難う、いただきます」

 諸岡の気遣いを有難く受け取ることにして、恭成は何気なく暖気で曇った窓硝子のへ目を向けた。

 薄雲がかかり、どんよりとくすんだ色の空は寒々しくて、更なる寒気を容易に想像させる。灰色に沈んだ街並みを眺めてから室内に目を向けると、大きな薪ストーブが目に飛び込んできた。室内で火を焚くというと、田舎の囲炉裏端を思いだすが、この地方ではそういう家は見かけない。近頃見かけるようになったストーブも、個人宅で備えているところはまだないだろう。赤々と燃えるストーブの天板にはしゅんしゅんと湯気を噴き出した薬缶が乗っていて、諸岡はそれを取り上げて大きな急須に湯を注いだ。お茶飲む人ー、と声をかけると、ぱらぱらと手が上がる。それらを確認して配り歩いた諸岡は、最後に湯呑茶碗二つと急須を両手に持って戻ってきた。

「そういえば、天野さんの郷里はどちらですか?」

 なみなみと茶を注いだ湯呑を机に置きながら尋ねる。ふわりと香るのは番茶の匂いだ。よく炒られた葉なのだろう、青臭さがなく香ばしい。

「有難うございます。この街から北上した山村ですけど……、わかります?」

「そりゃぁ、随分雪に馴れてるみたいだし。僕なんか、朝からすっ転んでばかりですよ」

 うんざりと眉根を寄せる彼に軽く笑って、湯呑を手に取った。手にほこほこと温かい湯呑は、じんわりとかじかんだ指先をほぐしてくれる。

「こっちは、あまり降りませんからね。……そうだな、そんなに雪深くはなかったですよ。精々、今年のこの辺りと同じくらいかな。でも、今年はどか雪になってそうだなぁ」

 大変そうですねぇ、と相槌を打つ。その後ろで「どさり」と音が聞こえて、二人は揃って振り返った。すぐ近くの席に荷物を放り出したのは、諸岡の教育係を自認している先輩記者だ。本人は社会部に所属しているのだが、生来面倒見が良く、恭成も日雇い時代から世話になっていた人だった。

「お帰りなさい、高田(たかた)さん」

「お疲れ様ですー」

 口々に言う二人に、高田はふと疲れた顔を上げる。

「あぁ、天野さん。コラムですか? ご苦労さまです」

「いえ。お疲れですね、何かありました?」

 そう小首を傾げた恭成に「えぇ、まぁ」と頷き、高田は足を投げ出すように椅子に座って紙巻煙草を取り出した。諸岡が気を利かせて灰皿を押しやる。

「おぉ、悪いな。……例の猟奇事件の続報ですよ。今朝方、また出たと聞き付けて、今まで現場に行ってたんです」

「また? 全く同じ手口なんですか?」

「えぇ。同一犯なのは間違いないでしょう。縦に裂かれて、首斬られてましたよ」

 ちょん、と自分の首を斬るように手を水平に振って、ため息をつく。よほど壮絶だったのだろう、心無しか顔色も悪いようだ。その様を想像したらしい諸岡が、顔色を青くして「うへぇ」と呻いた。

「首?」

 眉をひそめた恭成に、高田は「あぁそうか」と呟いて姿勢を僅かに正す。

「奴さん、毎回毎回被害者の首を持ち去ってるんですよ。何で斬ったんだか、よくわからん感じなんですが」

 どうやら引き裂かれているというのも、首を斬ったついでに裂けてしまっているといった様子らしい。

「あまりに残忍だっていうんで、警察の方から過剰な表記はしないように言われてるんですよ。猟奇事件っていうのも、最初は伏せたかったらしいんですがね。カストリに素っ破抜かれたそうで」

「そう……だったんですか」

「斬り落とされた首はどこにも見当たらず。これはまぁ、毎回のことなんですが。今回は身元を特定できる物もないって、ぼやいてましたからねェ」

 紫煙を吐き出し、「警察も大変ですよ」と顔をしかめる。人心地ついたのか落ち着いた様子の高田とは対照的に、諸岡はますます気味悪そうに身震いした。

「何が目的なんでしょうねぇ? 狙われてるのって、若い男ばかりじゃないですか」

 ふと、高田は意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「次辺り、おまえが襲われるかもな。気をつけろよ」

「やめてくださいよぅ! 恐怖小説の法則を知らないんですか!? そういうことを言う人が次に襲われちゃうんですからね!」

「ははは、生憎と俺は『若く』ないんでな。しかし、天野さんも気をつけてくださいよ。天野さんのコラム、好評なんですから。何かあったら新聞の売り上げに関わる」

「そんな、大袈裟な」

 苦笑を浮かべて応じた恭成に、高田はふと真面目な表情を見せて僅かに声を低くした。

「いや、冗談でなく。今度の被害者の住まい、天野さんの下宿から、さほど離れていないんですよ」

 ここだったかな、と諸岡の机の上に広げられていた地図を指す。その辺りは古くから長家が多く集まっている場所で、学徒向けの寮形式の下宿屋もあったはずだ。そう言うと、高田は「それです」と頷く。

「その下宿屋に住んでいた、大学生です」

「あれ? さっき、被害者の身元が特定できないって言ってませんでしたっけ?」

 首を傾げた諸岡に、高田は苦笑を浮かべる。

「出来る物が見つからないって言ったんだ。他から手がかりが出たんだよ」

「他っていうと?」

「下宿人が行方不明だと、管理人が警察署に駆け込んできたんだ。真面目で一本気な男だったらしくてな。突然の失踪の理由が、とんとわからないらしい。荷物はおろか、財布も全くそのままで。まぁ、事件に巻き込まれたんだと考えるのが自然だろう。警察も身体特徴やらをみて、およそ間違いないだろうと考えてるようだ。これで頭が出れば完璧か」

「嫌だなぁ、物騒で」

 地図にぐりぐりと丸をつけた諸岡は、何かに気がついたのか、小さく唸って首を捻った。そうして、高田へ視線を向ける。

「高田さん。同一犯だとして、随分おかしな犯人ですよね」

「何がだ?」

「だって、ほら」

 ばさりと地図を掲げ、高田の方へ突き出した。

「一番最初は奉公先の庭でここ、二番目は東へ進んだ雑木林の中、今度のは確か、南西へ進んだ河原でしたよねェ?」

 とんとんと印を付けた場所を指先で叩き、「だけど」と先ほど高田が指した下宿にペケを打つ。更に、もう一つ別の建物にも小さくペケを打った。

「二番目と三番目は、別に下宿で犯行に及んでもいいはずなのに、わざわざこんな遠くまで連れ出してるんですよ」

「どこかからの帰り道かもしれないだろう? 現場を見たが、人通りも疎らで、殺しには都合がよさそうだったぞ」

「そこがおかしいんですよ!」

 びしっと指を突き付け、諸岡は一件目の印をとんとん叩く。

「ここなんか、庭先ですよ? 人目云々の前に、わざわざ忍び込まなきゃならないし、脱出しなけりゃならない。あまりにも危険すぎるじゃないですか。この被害者だって、まったく外出しない人ではないんだし」

「……まぁ、言われてみればそうだな。じゃぁ、おまえはどう思うんだ」

 促され、諸岡は腕を組んで唸る。

「わざわざ移動してるンですよ。そこに注目するべきだと思うんです」

「つまり諸岡さん案では、一件目は移動する必要がなかった、ということですか?」

 そうです! と恭成の合の手に力強く頷き、二件目の印を指先で叩く。

「ここじゃなきゃいけなかった。一件目も、その場所でなきゃいけなかった。ずばり、何かを示そうとしてるんです!」

「小説の読み過ぎだ」

 呆れたように高田がそう口を挟んだが、あからさまに馬鹿にした様子はない。そういう考え方もあるな、くらいには思っているのだろう。

「仮に、そうだとしてだ。随分と自己顕示欲の強い犯人像だな。それで? 名探偵はどう結論付けるんだ」

 そうですね、と勿体つけてみせた彼は、「図形だと思うんです」と自信満々に言い放つ。

「まだ三点ですけど、こんなに離れてるんですよ。文字なら、もっと近接してなきゃ解らないじゃないですか」

 そう印を指し、どうです? と目をキラキラさせて二人を見る。確かに、そうした事件は皆無ではないし、報道され易い題材であるうえに華々しく見えることから、模倣されることもある。

「少し前に、放火犯が『火』って描きながら犯行を重ねた事件がありましたよね。そう考えると……」

「ありですよね!」

「図形ねぇ、」

 ふっと紫煙を吐き出し、高田はこりこりと首筋を掻いた。

「三角、四角、丸。多角形もありか? 今のところ、三角形を描いているな」

「四角……菱形ならこれくらい、なのかな」

 地図上をなぞり、恭成は小首を傾げる。

「辺が等しいと考えるなら、ですけど」

「丸だと考えると、もっと大きいですよね! ほら、この辺りの町名がこう……大体網羅されますよ」

 ぐるりと地図上に指で円を描く諸岡に、高田は呆れたような声をあげた。

「おいおい、これで丸と言うのは無理があるだろう。まだ半円にもなってないぞ」

「う〜ん、いい考えだと思ったんですけど」

 先走り過ぎたかなぁ、と首を捻った諸岡は、ふと気付いたように一点を指す。

「あ。丸だと考えると、天野さんの下宿も円周上にありますね」

「本当ですね。へぇ」

 相槌を打った恭成は、更にそこから線をなぞり、とある一点で止める。

「更に行くと、諸岡さんの家ですね」

「おぉ、本当だ」

「うひゃぁ!」

 大仰に感心してみせた高田の横で、諸岡が頭を抱える。予想通りの反応に声を立てて笑った恭成は、「大丈夫ですよ」と地図から視線を外した。

「諸岡さん、この土地の人でしょ。一件目と二件目の被害者は他所の土地から来た人だったから……。諸岡さんの案の通りなら、多分、そういうのもこだわるんじゃないかな」

「そういえば……。天野さん、人が悪過ぎますよう!」

「妙なことを先に言ったおまえが悪い。自業自得だろうが」

 文句を言うな、と軽く窘め、高田は興味深げに「ふむ」と唸った。

「しかし、そうだな。今度の被害者も下宿屋の青年なら、全員他所の土地から来てることになるなぁ」

「しかも、変な風聞のない人ばかりでしょう? そもそも、犯行自体が既に人間業ではないですよね」

 どうなってるんだろう、と呟いた恭成に、高田は軽く肩を竦めてみせる。

「人間が犯人でないのなら、妖怪ですかね? オカルト雑誌が喜ぶでしょうよ」

「実際に年に数件は、どうにも不可解な事件事故が起きますよねー」

 訳知り顔で何度も頷く諸岡に苦笑して、意外なことにな、と相槌を打つ。

「何かしらのトリックでも使ってるんでしょうが……、解明できなければ、ただただ不思議なだけです」

 これもその部類でしょう、とため息でもつきたげな様子で言って。高田は名残惜しそうに短くなった紙巻煙草を揉み消した。

 

  ◇◆◇


「天野さん、眠れてる?」

 椿が心配そうに顔を覗き込んできて、恭成はふと現実に引き戻された。あぁ、と意味もなく声をあげ、頷く。

「うん。どうして?」

「……ほんとうに?」

 小首を傾げた彼女は、鉛筆を置いて頬杖をつく。いつものように宿題を見てやっていたのだが、いつの間にか上の空になっていたようだ。

「お仕事、大変なの?」

「ううん、そうじゃないよ。……お茶にしようか」

 立ち上がり、茶箪笥から急須と茶筒を取り出した。

 夜中に例の影が訪れるようになってから一週間、ここのところ眠りが浅いのは確かだ。うつらうつらしては目が覚め、覚め。御蔭で疲れが抜けないのか、上の空になることが多い。新聞社からここまでの道中を憶えていない辺り、少し重症かもしれない。

「今日はもう帰るから、早めに休んだら?」

「平気だよ。そんなに酷い顔してる?」

「してるから言ってるの!」

 眉を跳ね上げて声を荒げる。そうして、彼女は困ったように小首を傾げた。

「なにか、心配事?」

「御蔭様で、特にないよ」

「夜遊び……は、しないよねぇ。天野さんだし。悪いおねぇさんに誑かされるとか、なさそうだもん」

 眉根を寄せて、うむむと腕を組む。その様子が可笑しくて、恭成は愉快そうに唇へ笑みを乗せた。

「へぇ、そういうふうに見える?」

「あたしがそういう商売の人だったとして、絶対に天野さんはカモにしないし、出来ないと思う」

 だって、後が怖いもん。

 軽く口を尖らせて、椿は僅かに眉をしかめる。

「逆に、その気になればおねぇさんの一人や二人、軽く引っ掛けられるでしょ? 母さんの御墨付きなんだから」

「残念ながら、引っ掛けたことはないなぁ」

 くつりと笑うと、椿は軽く眉をひそめた。

「ほら。そういう所が、なんだか得体が知れない感じ。天野さんって、わかってるからやらない人だと思うの。……ところで、話を戻すけど」

 今、物凄く眠いんでしょう? 

 呆れたように半眼を向け、椿は頬杖を外した。

「いつもより言い方が意地悪になってる。天野さん、わたしや羽依子(ういこ)さんには、絶対そういう言い方しないのに」

 いったん言葉を切って、深々とため息をつく。そうして、彼女はきゅっと眉根を寄せて、きつい口調で捲し立てた。

「人の厚意は、素直に受け取ればいいの! どうして男の人って、つまんない所で意地張るんだろう。そういうの、全然恰好良くないから」

 しかつめらしく説教をする椿を前にして、似たようなことを自分も最近言ったなぁ、と内心苦笑する。

 恭成の場合は、いい歳して怖くて眠れないと言うのも恥ずかしいよなぁ、というだけなのだが、傍から見れば同じなのだろう。きっと、恭成が椿の立場でも同じことを言うに違いない。実際、葉髞にはそう言ったのだし。

「僕が悪かったよ、ごめん。少し寝不足なんだ」

 諦めて素直に非を認めると、椿は途端に表情を改めた。明らかに眉尻を下げて、こくりと首を傾げる。

「ここで眠れないのなら、うちに来る? 今日は母さん戻らないから。わたしは羽依子さんの所に泊めてもらうし」

 気にしないで、と言おうとして、椿の言い方に引っ掛かりを憶えた。思わず心配そうな椿の顔を見つめる。

「ここ……って、どうして?」

「あ、ええと」

 あからさまに狼狽えた彼女は口を噤み、僅かに目を伏せた。そして、躊躇いがちに言い添える。

「環境が変わったら、少しは違うかなと思って。わたしも、嫌な夢とか見た時は、枕の位置を変えたりしてみるの」

「嫌な夢? 恐い夢とか?」

「色々、怖い時もあるし、悲しい時もあるし。人に聞いてもらうと、少し安心するかも。怖かったって、一人で丸まってると余計に怖くなっちゃうもの」

「そうだね。そうなのかも」

 相槌を打ち、ふと思い出したのは葉髞のことだった。けれど、この程度のことで煩わせるのも気が退ける。

 結局、椿の申し出だけは丁重に断って、早々に休むことにしたのだった。


  ◇◆◇


 気がつくと、恭成は郷里を歩いていた。噎せ返るような濃い緑の香がたち込める薄暗い森の中の、御社へと続く細い道。葉がさざめく鬱蒼とした森は、頭上に大きく枝を張り出していて、今にも襲いかかってきそうだ。

 それらを見上げていた恭成の腕へ、小さな手がしがみついた。その時になって初めて、となりに童女が歩いていることに気がつく。

 赤い長着に山吹の兵児帯を締めて、長いお下げ髪が背中に揺れている。見上げてくる顔は、幼くして亡くなった妹の顔だ。

 慌てて自分の身体を見下ろすと、藍の長着を着ているようだった。丈は膝の少し下、肩揚げと腰揚げをされたそれに、浅葱の兵児帯を締めている。素足に草鞋履きで、見下ろす手脚が細くて頼りない、子供の姿なのだ。

 何処からか漂ってくる薄ら寒い気配に、思わず後ろを振り返る。まるで彼らを追い立てるように、すぐ後ろへ迫っている暗く澱んだ闇は、身を竦ませるには充分だった。見上げてくる妹の顔に不安が過る。

──こわい、行くのいや。向こうに善くないのがいるよ。

 間もなく森の出口に差し掛かった。眩しく目を刺す光に顔をしかめた次の瞬間、ぎゅっと腕にしがみついていたはずの、妹の小さな手の感触が忽然と消えたことに気がつく。慌てて辺りを見回してもその姿は見つけられず、彼女がいた痕跡など跡形もなく消えていた。

 突然、幕を落としたように辺りが真っ暗になった。後ろから乱暴に肩を捕まれて、小さく悲鳴をあげる。

 振り返った恭成は、そこに亡くなった祖母の姿を認めて、唖然と立ち尽くした。しかし、彼女の顔があるべき処には闇がかかり、その表情を窺うことが出来ない。

──見てはいけないと言っただろう、いけない子だねェ

 およそ祖母らしくない、荒んだ口調が恭成を打った。老人のものとは思えない強い力で腕を引かれ、転びそうになる。

 構わず引き摺るように歩いた祖母は、暫く進んだ先で恭成を乱暴に突き倒した。

 ついた両手の下には、冷たい板の間の感触。部屋を照らす赤い光は、電燈でなく蝋燭だ。僅かに隙間を覗かせる、閉ざされた板戸が視界の端に映った。

 先程までなかった板壁が四方にそびえ出来上がった小部屋に、彼は祖母と二人閉じ込められている。

──悪い子には、お仕置きをしなきゃいけないね

 くつくつと忍び笑いが零れた。後ろ手で祖母がぴしゃりと板戸を閉じる。停滞した空気の中で鼻につくのは、濃い血のにおい。

 唖然と見上げる恭成の意識を、鮮明に響いた声が叩いた。

──見るな!

 それは、声なき声で盛んに喚き立てる。戸惑い辺りを見回すが、そこには彼と祖母しかいない。座り込んだまま逃げ場を探すように彷徨わせた手が、ぴちゃりと生暖かいものに突っ込んだ。それが持つ滑りで指先が滑る。びくりと見下ろす目に、鮮烈に飛び込んだのは。

 生々しい、赤い色。

 ぎくりと心臓が跳ね上がった。ひくりと引き攣った喉元へ乱暴に手がかけられて、そのまま押し倒される。尋常でない力で喉を締め上げる祖母は、けらけらと笑いこけた。

 頭から冷水を浴びせられたような感覚が全身を駆け抜ける。殺される、と悟った途端、ざわざわと胸の奥で様々な感情が渦巻いた。

 そろそろと伸ばした手が真っ赤に染まっているのを目にしてしまい、手首を掴んだ手に巧く力が入らない。そうしている間にも、ぎりぎりと容赦なく締め上げる加害者の手が、懇願も悲鳴も握り潰していく。

 そんな中、ぽつり、と。声が聞こえたのだ。

──どうしてあの子は……。

 なぜ耳に届いたのか。不思議に思うくらい小さく、どこか物憂げな。知っている、誰のものでもない。けれど、不思議と聞き覚えのある、声が。

──どうしてあんな子が、生まれてきたんだろう。

 わんわんと反響して空間を埋め尽くすように拡がるその声を聞いた途端、目の前が暗くなる。

何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ

 際限なく繰り返される叫びに気が遠くなりかけたその時、別の声が耳元で喚き立てた。

──……り、恭成! このままではわらわにも手が出せぬ、目を醒ませッ!

 甲高いが耳障りではない、幼い女の子の声だ。その声の持つ力強さに意識を引き戻された彼は、唐突に気がついた。


 そうだ。これは、夢だ。


 ふ、と。加害者が嗤った気がした。気がつけば彼らを囲んでいた壁はなく、底の見えない闇が一面に広がっていた。加害者の姿も既に祖母のものではなくなっており、顔を覆い隠していた影がふわりと胸元まで落ち込んで、闇に溶けるように紛れて見えなくなっている。

──そう、夢だ。

 憶えのある声で、そいつは嗤う。ざらざらと耳障りな声が鼓膜を叩いて、心に無数の引っ掻き傷を作っていくような錯覚を憶えた。

──よく見破った。褒めてやるよ。尤も、自力じゃ無理だったろうけどな。

 馬乗りになっている体格は同じくらい。闇から伸びた腕は白く細く、視界の端に藍色が見えた。

──でも、本当はわかってるんだろう?

 一変して、妙に優しげな声で囁いたそいつは、喉元を押さえたまま、ゆっくりと上体を倒してくる。はらりと艶やかな黒髪が一房、顔の横に落ちて頬を擽った。右手を外して首筋を撫で、指先が頤を滑り、優しげに頬を撫でる。

──まだ逃げられると思ってるの? いいよ、精々足掻いてみせろよ。

 顔を寄せたそいつは、唇の端をつり上げてにやりと笑む。闇が取り払われ露になったその顔を目にした途端、恭成はざっと青褪めた。

──どうせ、逃げられやしないけどさ!

 くつりと喉の奥を引き攣らせ、身体を起こすと喉を仰け反らせて嗤う。けらけらと笑うその姿が、暗闇に溶け込むように掻き消えた。けれど、喉を覆う圧迫感は更に現実味を増し、ぎりぎりと締め上げる指の感触が、生々しく喉に食い込んだ。

「…………っ、は……、」

 うっすらと開いた目に、覆い被さる影が見えた。急激に意識が現実に引き戻されて、今まさに直面している事態に混乱する。ただ頚を開放したい一心で、恭成はその何かを引き剥がそうと手を伸ばした。掴んだモノには、具体的な温度や質感が感じられない。

 そこにある、なにか。

 酸欠になりつつある脳は、それを意味あるものとして捉えることが出来ない。ぎりりと爪が食い込むくらいきつく握りしめ、引き剥がそうと力を込める。

 その時。

 ぱんッと、そのなにかが弾けた。手の中にあった影が崩れて形を失い、呆気無く霧散すると、頚を覆っていた痛いくらいの圧迫感が消える。酸素を求めて暴れ回っていた肺が、盛大に空気を吸い込んだ。激しく咳き込みながら慌てて起き上がり、荒い息のまま辺りの様子を窺ってみる。

 カーテンの隙間から、細く銀色の月明かりが差し込む室内は、青く青く闇に沈んでいた。停滞する空気と震えるような沈黙の余韻は残っていたが、ただそれだけだ。

 ここに、不自然な気配は感じられない。

 ほっと全身の力を抜いたとき、恭成の背中を愛おしむように何かが抱きしめた。ぎくりと身体を硬くした途端、その気配はすぅっと消えてしまう。振り返ってみても、そこには誰も見出せず、沈黙が世界を支配しているだけだった。そうして、手にまざまざと残るあの質感を思い返して、ゾッと背筋を凍らせる。

 例えるならば、影そのものを掴み取ったような。

 月明かりが射し込む窓、かたかたと風に揺れ音をたてる硝子。それらを見つめ、一つため息を零した恭成は、もう睡眠を貪る気になれなかった。

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