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基本的に、恭成の寝起きは良い。寝つけなくなることも稀だし、朝は凡そ同じ時間に目を覚ます。冬場となれば、それはまだ日の出前で、曙を見るのが朝の日課だ。
本日も定刻通りに目を覚ました恭成は、ごそごそと起き上がり大きく伸びをした。本日もすっきりと前日の疲れを引き摺ることなく目覚めることができた。むしろ、調子がいいくらいだ。窓へ視線を転じれば、カーテンの隙間から射し込む光がいつになく明るい。半纏を着込みながら外を眺めてみると雪はすっかり止んでいて、町は見渡すかぎり真っ白になっていた。間もなく曙が始まって、きらきらと美しく輝くことだろう。
暫くその清しい風景を眺めていた恭成は、キンと冷たい空気に小さく身震いして窓辺を離れた。火鉢の火種を掘り出して炭を焼べたところで、ふと違和感を覚えて小首を傾げる。なんだろう、と辺りの様子を伺って、唐突に気がついた。
音が聞こえない。
耳を澄まさずとも、気の早い雀のさえずりが聞こえる。そろそろ起き出した人々の朝の生活音が、窓の外から、畳の下から微かに響いてくる。それらは毎日繰り返される、平穏な朝の風景だ。
ただ、さわさわと囁くような見えざるモノの声だけが聞こえてこないだけで。
思わず室内を見回した恭成は、布団に包まったまま俯せて、こちらを見ている葉髞に気がついた。彼はじっと恭成を見つめ、やや寝ぼけた声で唐突に切り出す。
「……おまえさ。寝つきが悪くなる時がないか?」
「そんなことないけど」
きょとんとして答えると、大儀そうに前髪を掻き上げた彼は、そのままの口調で重ねて尋ねた。
「それから。今朝は何か、いつもと違うことに気がつかなかったか?」
「……どうして?」
「気づかなかったなら、いい」
布団を跳ね上げ起き上がる。僅かに眉をひそめた恭成は、訝しげに友人を見つめた。
「何かあるの?」
「気にするな」
「気になるよ」
強く言い返せば、葉髞は無言のまま首筋を掻く。そして、重々しく言葉を吐き出した。
「どんな些細なことでもいい。何か変なことが起きたら、兎に角、俺の処に来い。理由とか原因とか考えるな。こっちの都合も考えなくていい」
この台詞に、今度は「どうして」という言葉を飲み込まざるを得なくなる。
伊達に長くつるんできたわけではない、彼の性格は充分理解しているつもりだ。どうやら彼には何か気に掛かることがあって、真剣に何かしらを危惧しているらしい。しかし表情や声からそうと窺えるものの、彼にはその内容を詳しく明かす気なぞないのだろう。こうなっては、どんなに問いつめたところで話してくれない。
「……わかった」
納得していないながらも素直に頷く。やはり彼はそれ以上語ることもなく、欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。
「眠れなかった?」
「いや。いつもはもう少し寝てるんだ」
手拭い借りるぞ、と眠たげな声が断って、ふらりと流しに立つ。顔を洗い始めた葉髞の背中に向かって「もう少し寝てれば」と投げかけると、彼はカランを捻って振り向いた。
「様子見に行かなきゃならんし、二度寝したら起きる自信がない」
「本当に自堕落に生活してたんだね、君」
呆れたように半眼を向けて、ため息を吐きながら立ち上がる。ぱたぱたと簡単に布団を畳むと、葉髞と場所を入れ代わった。
「朝御飯食べていきなよ。それくらいの時間はあるでしょう?」
「おう。悪いな」
軽く応じる様子に、先程までの雰囲気は微塵も感じられない。全く普段通りの彼だ。つまり、その何かが起きなければ問題はないと思っているのだろう。
軽く朝食をとった後、葉髞はゆっくりするでもなく「またな」とひらりと手を振って帰っていった。
◇◆◇
資料探しと銘打って古本漁りに出掛けた恭成は、久し振りに心置きなく本に囲まれて一日を過ごした。仕事柄、馴染みの店を数件確保していてハシゴするのだが、最後に立ち寄るのはいつも同じ、この界隈で一番の品揃えを誇る店だ。
その店は細い路地を抜けた先、慣れぬ者は確実に迷う場所にひっそりと存在している。
今回はなかなか面白いものを幾つか見つけたのだが、如何せん先立つものが心許ない。目星をつけたもの数点の取り置きを頼むと、すっかり顔馴染みとなった店主は「これが最後の商いになるかもしれない」と笑った。どうやら、若旦那に跡を託して隠居することを決めたらしい。これからは奥の倉庫でのんびり読書をして過ごしますよ、と笑う店主に見送られて帰途についた頃には、辺りはすっかり夕焼け色に染まっていた。
薄く積もった雪は踏み固められ、溶け始めている。この様子では、もう暫く時雨の世話になった方が良さそうだ。残された足跡も、二の字を幾筋も残している。
時折見かける雪だるまは、所々土が混じってしまっていたけれど、精一杯大きな物を作ろうと頑張る子供の姿が浮かんで微笑ましかった。この地方の子供たちにとって、この冬の積雪は大歓迎なのだろう。
下宿まで戻ってくると、塀の上に小さな雪兎が幾つも並んでいた。これらは椿の作品だろうか。南天の赤い目がこちらを見下ろしていて可愛らしい。石畳の上の雪は奇麗に掻かれているが、こちらは羽依子だろう。手伝ってから出掛けるべきだったかと玄関扉を開くと、丁度ホールに椿と羽依子がいて、二人は同時に顔を上げてにこりと笑った。
「お帰りなさい、天野さん」
奇麗に揃った声がなんだか可笑しくて、恭成は小さく笑い声を零しながら履物を脱ぐ。
「ただいま帰りました。すみません、雪掻きを手伝ってから行くべきでした」
「いいえ、今日は久喜さんが手伝ってくださいましたから」
にこりと笑った羽依子は、思い出したように小さく笑い声を零した。その横で、椿もくすくすと笑っている。
「天野さん、塀の上の雪兎、見た?」
「あぁ、可愛いのがいっぱい並んでたね」
「あれね、久喜さんが作ったんだって!」
えええ、と目を丸くした恭成に、椿は「可愛いでしょう?」ところころ笑い声を立てた。
「てっきり、椿ちゃんだと思ってたよ。ところで、こんな所で何してたの?」
「羽依子さんのお手伝い」
すぐさま答えた椿の横で帳簿に何やら書き込んでいた羽依子は、帳簿を恭成へ差し出しながら空欄を指してみせる。
「年末ですもの、今のうちに頼んでしまわないと。天野さんはどうします?」
示す先を辿ると、炭屋の御用聞きのようだ。例年ならば充分足りる量を備蓄しているが、ここ数日の冷え込み方を考えると、普段より多く使うと考えた方がいいだろう。
「そうですね、お願いします」
「はい、畏まりました」
「これで全部よね」
筆を走らせる羽依子の手元を覗き込み、椿が小首を傾げる。
「えぇ。今年は寒いもの、燃料代も嵩むわね」
小さくため息をついて、羽依子は恭成を振り仰いだ。
「天野さんも大変でしょう。今年もこちらに残られます?」
「はい。そのつもりです」
「それなら、また御節を差し入れさせてくださいな。一人分を作るよりも、たくさん作った方が美味しいもの」
「いいんですか? 有難うございます。助かります」
「いいなぁ。羽依子さんの伊達巻き、美味しいんだもの」
年初めに、恭成の部屋でつついた御節を憶えているのだろう。羨ましそうな椿の様子に、羽依子は小さく声を立てて笑った。
「また、天野さんの処に入り浸るんでしょう? 天野さんにお渡しするお重に、たくさん詰めておくわね」
やった! と手を叩いた椿を微笑ましく眺めて、羽依子は恭成に会釈し管理人室へ戻っていく。それを見送り階段へ足を向けたところで、椿が「あのぅ」と声をかけた。
「天野さん、お忙しいですか?」
「コラム書かなきゃならないけど、どうして?」
「もしお邪魔じゃないなら、天野さんのお部屋で宿題やってもいいですか? 解らなかったらすぐ聞けるし、独りでじっと勉強してるの、落ち着かなくて」
冬休みの宿題なんですけど、と上目遣いに見上げる。おそらく、文系科目に不安要素があるのだろう。理系科目なら、彼女は久喜を頼りに行くのだ。
「いいよ、持っておいで」
にこりと笑んで促すと、「はい!」と元気に頷いて、椿はくるりと踵を返した。そのままぱたぱたと部屋に駆け込み、すぐに両手に宿題の山を抱えて飛び出してくる。
「また、すごい量だね。夏休み前の悪夢再びというか」
夏季休暇前もそうだったのだが、休暇に入る数日前に大量に宿題を出すのが、彼女の通う高等女学校の方針らしい。その時よりは少ないとは言え、抱えられた宿題を前にすると、女学生も大変なんだなぁと思う。
果たして、椿は異国人のように肩を竦めてみせた。
「規律が乱れないように、だって。休みだからって浮かれるだなんて、良家のお嬢様は随分いい御身分なのね」
「そういう言い方はしないの」
僻っぽく聞こえるよ、と窘めると、椿は軽く口を尖らせた。
「それにしたって、この量は酷いと思うでしょう? まだ和裁と洋裁もあるんだから!」
善良な庶民にはいい迷惑だと、うんざりした面持ちでため息をつく。
並んで二階に上がると、毎年のように閑散としている。この時期になると、他の住人は忘年会と称して留守がちになるのだ。全く帰ってこない人もいるし、日付が変わる前にきちんと帰ってくる人もいる。
部屋の鍵を開けて荷物を置いた恭成の横で、椿はいつものように卓袱台へ宿題を積み上げた。その山を前にうんざりとため息を零す彼女に苦笑を浮かべながら、恭成は電灯をつけて火鉢に炭を入れる。
一応都会の括りに入れられているこの街には、電気や瓦斯など近代化の象徴とされる諸々の設備が整備されていた。しかし、その恩恵に与る人間に貧富の差が生じているため、快適とは言い難いかもしれない。恭成のように万年貧乏人ともなると、昔ながらの暖房器具に頼るしかなかった。
それでも、まだこの下宿屋は過ごしやすい方だと言えるだろう。洋館造りでぴしりと隙間なく作られた建物は、気密性が高く熱が逃げにくい。ただし、夏は日本家屋のような風の逃げ道がないので、茹だるような暑さになることがままあるのがいただけない。
「それじゃぁ、質問があったら遠慮なくどうぞ。ただし、なるべく自力でやるんだよ」
そう言いおいて文机につき、原稿用紙を引張り出す。気のない返事をした椿は、教科書を広げて頬杖をついた。
「そういえば、天野さんって学校の成績はどうだったの?」
「それなりかな。他人様に教えられるくらいには、点数は取れてたと思うけど」
「上の学校に行こうとは思わなかったの?」
全く行く気がなかったと言えば嘘になるが、積極的にこれ以上の知識を溜め込む意欲も湧かなかった。その一番の要因は経済状況だろう。
恭成が郷里を離れたのは、尋常小学校修了後すぐだった。諸々の事情で、隣県に住む母方の叔母の元へ預けられたのだ。
彼女は、その頃まだ珍しかった職業婦人として颯爽と働いていた女性で、考え方も信条も先進的だった。その彼女の「きちんとした知識は必要」だという教育方針に基づいて、中学校まで行かせてもらったのだ。縁談の話が来た折に彼女の元を離れたものの、叔父となった人にも随分可愛がってもらっている。
二人とも恭成の成績を喜んでくれていたし、その気があるなら高等学校や大学の費用も出してあげようと言ってくれていた。しかし、中学校までは甘えることにしたが、それ以上はさすがに気が退けたのだ。
そもそも、義務教育でもない高等小学校から中学校までの七年もの間の学費を出してくれただけでも、いくら感謝しても足りない。勿論、奨学金が受けられるようにしてやろうかと教諭にも言われたが、その頃には既に日雇いで新聞社の手伝いをしていて、あまり興味をそそられなかった。
自力で日銭を稼ぐようになって、労働の大変さを知った今では、本当に有難いし恵まれていたのだと思っている。叔母へ学費を返すことも考えたが、結局実行はしなかった。もし彼女にそう告げたとして、おそらく受け取らないだろう。
保護者が子供に金銭を使うのは当り前。有難いと思うのなら、けして恥じない生き方をしなさい。
堂々とした態度でそう言って、生意気だと額に指弾を貰うのが関の山だ。
「農村の次男坊が、中学校に通えただけで充分だよ」
結局それだけ告げると、彼女なりに納得したのか相槌を打つ。
「松山さんも、成績よかったんですか?」
「僕と比べちゃ、彼に悪いよ。首席で卒業したんだから」
文武両道と持て囃されても煩がり、首席卒業の証書をくるくる丸めつつ「ばかばかしい」と呟いていた姿を思い出して、恭成は苦笑を浮かべた。教諭たちから見れば、随分扱い辛い生徒だったことだろう。彼こそ当然のように高等学校への進学が薦められていたが、「行かない」の一言で一蹴してしまっていた。
「末は博士か大臣か、なんて言われてたけど。どっちも興味なかったみたいだね」
「それで、探偵さんになったんでしょう? なんだかもったいない」
「僕も最初はそう思ったけどね。でも、天職ってあると思うんだ。学校の先生になりたいって言ってた奴は、無理だって言われてた大学まで行っちゃったし。何故か西洋菓子の職人になってた奴もいるし。松山はあれで良かったのかもね」
「大変だー、て言いながら、なんだか楽しそうでしたもんね。いいなぁ、あんなふうに人生を楽しんで生きたいな」
「そのために、今頑張ってるんでしょう?」
「そうでした。さて、と。勉強は無駄にならないって、久喜さんも言ってたもの。今やれることを精一杯やらなきゃね」
よし、と小さく気合いを入れた椿は、山と積まれた教科書の一番上に手を伸ばして所定の頁を広げると、意気込んで鉛筆を手に取った。
◇◆◇
夜も更けて、簡単に夕食を取った後も鉛筆を走らせている椿の前に湯呑を置いてやる。筆記帳を覗き込めば、粗方書き込まれているようだ。
勤勉さは椿の美点の一つなのだが、そろそろ部屋に戻って雑事を片付けなければ、明日起きるのが辛くならないだろうか。折角頑張っているのに、これで遅刻でもしてしまったら本末転倒だ。
そろそろ終わろうか、と促しかけた時、扉を叩く音がした。続いて聞こえてきた声は、椿の母親のものだった。
「ごめんね、恭成くん。椿来てないかい?」
「お帰りなさい、明里さん」
扉を開けると、四友柄も見事な黒の裾模様を纏い、島田髷を結った芸妓が立っている。一本独古の白い献上は小粋で、惚れ惚れするほど恰好良い女性だ。仕事帰りらしい彼女は、室内を覗き見てしかつめらしい表情を浮かべる。
「こら、椿! あんたねぇ、恭成くんに迷惑はかけるなって言ってるだろう」
「え、もうそんな時間?」
びくりと振り返った椿は、慌てて帯から懐中時計を引っ張り出した。そして、拍子抜けしたような表情を浮かべる。
「まだ九時前じゃない。母さん、今日は早かったんだね?」
「もう九時前、だろう。あんたも年頃の娘になるんだから、いつまでも甘えてるんじゃないよ。恭成くんも、迷惑だったら放り出していいからね?」
「僕は大丈夫ですよ。でも、椿ちゃん明日も学校だよね」
はぁい、と素直に返事をして、筆記帳を閉じ伸びをする。その様子を微笑ましく眺めて、恭成は明里を振り返った。
「丁度、お茶を淹れたところだったんですけど、明里さんもいかがですか?」
「そう? それじゃぁ、お言葉に甘えて」
こだわりなく頷いた彼女は、部屋に上がり込んで椿の横に腰を下ろす。たったそれだけの何気ない所作でさえ、大層見映えのする人だ。
いつの時代も女郎や芸妓は流行の先端で、彼女たちの装いは常に女性たちの手本となるのだそうだ。だから、明里はいつも毅然としているし、彼女が使う小物は、世の女性たちが容易に真似できる物を選んでいるらしい。そんな母親を見て育っている椿は、口調こそ下町の子供らしいが、その所作は大変見映えがするのだ。
「珍しいですね、こんなに早く帰ってこられるなんて」
茶箪笥から新しい湯呑を取り出して尋ねると、明里はひらりと手を振ってみせた。
「今日の客が、早々に無礼講にしちまったのさ。そうなるとあたしはお役御免だからね」
「勿体無いなぁ。わざわざ明里姐さんを呼んだのに」
こんな客ばかりなら楽でいいよ、と笑い飛ばす。差し出された湯呑に礼を言って手を伸ばした彼女は、寛いだ様子で番茶をすすった。
花柳界の明里姐さんと言えば、この界隈では有名な三味線と唄の名手だ。不見転が少なくない中、芸事一本で名を馳せる者は稀で、おまけに明里は見目もいい。名だたる旦那候補たちに見向きもせず、ただ一人と決めた旦那に操をたてる姿に憧れる女性も多いらしく、ブロマイドの売り上げも高いのだそうだ。
「それにしても、最近の若い子は碌に舞えやしないねぇ」
嘆息して、軽く眉をひそめる。
「今日のお座敷、酷かったの?」
「今日が、じゃぁないけどさ。一人、ここ一年ばかりで伎倆上げたって子の噂を聞いてね。そういう子が増えりゃ、あたしも楽なのに」
そろそろ師匠業に専念したいんだけどねぇ、とぼやく。そして、意味ありげな視線を恭成へ寄越した。
「恭成くん、幇間やらないかい? 見目も好いし、あんたの伎倆なら十分食っていけるよ」
「あはは、まさか。明里さんの顔に泥を塗りかねないので、遠慮します」
「謙遜するんじゃないよ。宝の持ち腐れって、こういうことなんだろうねェ。唄で玄人女も口説ける伎倆だってのにさ。貴重なんだよ、そういうのは」
呆れたように苦笑する母を見て、椿は小首を傾げる。
「父さんみたいに唄に惚れて通う人って、珍しいの?」
「そんなことは、ないんじゃない?」
僕も明里さんの唄は好きだよ、と付け加える恭成に「ありがと」と笑った明里は、頬杖ついてため息を落とした。
「それが、そうでもなくてね。ひたすら唄だけ聴きに来たのは、後にも先にもあの人だけ。酒肴に手もつけず静かに聴いててさ、最後にあたしへ一献くれるの。いいオトコだった」
「残念。わたしも会いたかったな」
拗ねたように口を尖らせた愛娘に苦笑を浮かべ、明里は手を伸ばしてその髪を撫でる。
「あたしも、見せてあげたかったよ。生まれてくるの、楽しみにしてたから」
あの手の顔は短命なんだろうねェ、と切なく呟いて、明里は恭成へ視線を向けた。そのまま、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あんたの友達に、松山っているだろう?」
「え、はい」
「あの子の叔父さんがね、あたしの旦那に生き写しだったんだよ。あの人が死んで、一年くらいだったか……。初めて見た時は、心の臓が止まるかと思った」
嘘ッ、と素頓狂な声をあげたのは椿で、目を丸くしたまま母親に詰め寄る。
「松山さんって、その叔父さんと似てるの? わたし、昨日会ったよ!」
「おや。何年ぶりだい、訪ねてきたの」
「四年……、くらいかな。あんまり似てませんよね?」
記憶の中にある松山桃真は、長身痩躯で、眉目秀麗を体現したような人物だった。ということは、話に聞くだけの椿の父親もあのままなのだろう。もしかしたら、彼より穏やかで優しい雰囲気の人物なのかもしれない。松山探偵は、まるで抜き身の刀のような強靱さを伺わせる人物だったから。
「そうさね、雰囲気は似てるけど。桃真さんのこと、知ってた?」
見知ってる程度ですけどね、と肩を竦めて、恭成は興味深そうな表情を浮かべた。
「本当にあるんですね、生き写しって。血縁じゃないんでしょう?」
「まったく関係ないよ。それに似てるのは見てくれだけ、あんないいオトコが二人といてたまるもんか。そりゃぁ、桃真さんも面白い人だったけどさ」
くつくつと愉しげに笑う。そうして、彼女は唇の端を引き上げて意味ありげに笑った。
「縁は切れないって言うけど、本当だねェ。そういうのが、我が身を助けてくれるのさ」
「人生訓ですか?」
「体験談だよ、有難く聞きな」
ころころと笑った明里は、番茶を飲み干して「さて」と立ち上がった。
「ご馳走様。お暇するよ、椿」
「はぁい。ご馳走様でした、天野さん」
両手に教科書を抱え込んで、母親の後に続く。廊下まで見送りに出た恭成は、「おやすみなさい」と母子を送り出してから、扉を閉ざした。
◇◆◇
ふと目が覚めたのは、まだ夜明けまで遠い時間帯だった。空に雲がかかっているのか、星明かりすらも届かない室内は、墨を流し込んだような闇色に沈んでいる。どうしてこんな時間に目覚めたのかと様子を伺うが、しんと静まり返った空間には物音ひとつ聞こえない。
誰かが帰ってきた物音でもしたのだろうか。
おそらく、日付が変わって間もない頃だ。住人たちにはそれぞれに玄関の鍵も渡されていて、普段は明里くらいしか使用しないが、この時期ならば使用者も増えるようだ。大方、その開閉音を拾ってしまったのだろう。
ぼんやりと予想をつけて、もう一寝入りしようと布団を被り直す。次の瞬間、ざわりと背筋が粟立った。
何かがいる。
そう思った瞬間、眠気が吹き飛んだ。現実感が乏しい夜の世界、上も下もわからなくなるくらい曖昧に溶け込んだ常の闇。その中にある、何か異質なモノ。
身じろぎ出来ないまま様子を伺うと、それは扉の前に立ち、こちらを見下ろしているようだった。背中に感じる視線の圧力に息が詰まる。
じっと耐えていた時間は、さほど長くはなかっただろう。けれど、その気配が霧散した途端、全身から疲労感が溶け出した。ほっと脱力したその額を、すぅっと冷たい空気が撫でていく。そうして、漸く気がついた。
「……音」
急いで起き上がり室内を見回してみたが、闇に慣れてきた目が薄ぼんやりと沈黙に沈む世界を映すだけだった。犬の遠吠えはおろか、いつも何かしら聞こえている囁きも今は聞こえない。何かに怯えるような、息を押し殺した沈黙が空気を震わせているだけで。
今のは何だ?
あんなモノは知らない。彼が常に目にするモノたちは、必ずどこかに愛嬌があるのだ。あれらとはまるで違う、薄ら寒い気配。過去一度も遭遇したことがない、底知れない恐怖感を煽る何か、だ。
そのまま眠る気にはなれなくて、布団から抜け出し半纏を羽織る。扉を確認すれば鍵はかかったまま、そもそも開閉の音は聞いていない。やはり、あれは実体のあるモノではないのだろうか。ためらいながら鍵を開け、そっと廊下を覗いてみる。空気が停滞したような重さの中、久喜の部屋の扉が見える。その先の廊下の突き当たりには共同の物置があるが、そこまで確認に行くのは躊躇われた。扉を大きく開いて、廊下の反対端を窺う。
そこにも、こっくりと濃い闇が広がっているだけだ。
廊下の端の方は、闇に埋もれてしまって全く見えない。窓の外には、果てのない闇。暗がりに慣れた目でもその先を見通すことは出来なかった。大きな音を立てないように気をつけながら扉を閉ざす。慎重に鍵を掛けて、室内を振り返った。そうして、漸く安堵したような吐息を零す。ここにはもう、異質な物は存在していない。
……おまえさ。寝つきが悪くなる時がないか?
不意に葉髞の言葉が耳の奥に響いて、鼓動が跳ね上がった。
もしや、彼は先程のモノを見たのだろうか。だから、あんな言葉が出たのでは。
まさか。
すぐさま考えを打ち消して、半纏を脱ぎ捨て布団に潜り込む。少しの間に冷えてしまった身体にため息をついて、眠ってしまえと目を閉じた。
同類は、解る。理屈ではない、何となく解るのだ。社会に出て、世間には同じようにヒトでないモノを目にしている者が他にもいるのだと知った。あっけらかんとそのことを明かす者もいれば、必死に隠す者もいる。付き合いは長いが、彼からそんな話を聞いたこともなければ、気配すらなかった。恭成と同類ではないはずだ。
取り留めもなく考えを巡らせ、打ち消し、その日はとうとう寝つけなかった。