さながら埋火の如く
新緑が美しい時節、羽依子はいつものように境内を掃き清めていた。姫塚にある菊理神社が再建されたのは、今から数十年前になる。現在は松山家の管理下に置かれ、羽依子が禰宜として常駐していた。
キラキラと木漏れ日が落ちる参道は、相変わらず蛇行している。ここには、まだククリ姫が封じられているということになっているためだ。今では御霊神社として書籍にも掲載されるほど、そこそこ名の知られた神社となっている。参拝客も疎らながら、途絶えたことはない。
嘗て彼女が手を借りたヒトビトは老境に至り、旧い友が今後どうするのか気になるところだ。彼女の神躰は未だ遠く離れた地にあり、契約が切れればかの地へ戻されることになるだろう。
ちりりん、と鈴の音が響いた。
ふと顔を上げた先に、小さな黒猫がひょこひょこと歩いてくるのが見えた。
「いらっしゃい、万稀」
「おはよー、羽依子ー」
りんりんと鈴が鳴る。首につけた赤い繻子のリボンと黄金の鈴は彼のお気に入りらしく、以前自慢げに見せにきたほどだ。勝手気ままな猫の性情そのままに、橘の精は毎日を過ごしている。
「今日も一人で散歩?」
「ううん、今日は案内役」
ふるふるとかぶりを振った彼の声に、別の声が追い縋った。
「万稀ー。あれ? こっちでいいのか?」
ああ、ここか。呟いたらしい少年が、鳥居の向こうに姿を見せた。その姿を視た途端、ざわりと背筋が粟立つ。
「遅ーい。こっちこっちー」
声を張り上げた黒猫に軽く眉を持ち上げて、彼はちらりと羽依子を見た。そして、なにか得心したふうに頷いて、こちらへやってくる。
「先に行くなよ、まったく。案内になってないだろ」
軽く眉根を寄せて文句を言う少年なぞ何処吹く風で、黒猫は羽依子を見上げた。
「羽依子、これが次期松山当主」
「三笠さん、ですよね? 初めまして、松山圭太です」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げた少年は、珍しそうに境内を見回す。
「天野先生に聞いてた通りだな。凄い蛇行してる」
面影はない。それは当り前だ。しかし、変わらず整った面の子供は、懐かしい鮮烈な魂をそのまま抱えている。
「お幾つになられます?」
ふと口をついて出た質問に、彼ははにかんだように笑った。
「今年で十五になりました」
なかなか伸びなくて、と少しだけ拗ねたように付け加える。どうやら、少々低い背丈を気にしているらしい。
「まぁ。大丈夫ですよ、お祖父様はお背が高いもの。さぁ、御用件を伺いましょう」
くすりと笑みが零れて、羽依子は社務所の方へ促す。
「いえ、あの。挨拶をしてこいと、祖父に言われただけですから」
「わたしについて、お聞きになったことは?」
「ええと、こちらの禰宜でいらっしゃると」
「わたしが、ヒトでないことは?」
え、と意外そうに目を見開く。その様子が可笑しくて、羽依子はころころと笑い声を零した。
「やはり、どうぞ。きちんとお話致します。この神社の成り立ちから、じっくりと」
「……お願いします」
ぺこりと頭を下げた影で、苦々しげに「じぃちゃんめ」と呟く声が聞こえる。先に立って歩き出した足下に、ちょこちょこと黒猫が並んで歩いて、ひょいと羽依子を見上げた。
「なんだか嬉しそうだね?」
うふふ、と笑みを零して、彼女はそのままはぐらかす。
嘗て、元服までは生きていたかったと切なく笑った子供がいた。残念ながら彼は、望むように生命を長らえさせることは出来なかったけれど。
今度こそ幸せな人生であれば、と願いかけた彼女は、すぐにそれを打ち消した。
末期の時、彼は言っていたではないか。羽依子の手を取り、晴れやかに笑って。
愛しいものをたくさん得た、しあわせな人生だった、と。
〈了〉