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色からして随分と濃く苦そうな、熱々の煎茶をなみなみと注いだ大きな湯呑を兄の前に置いて、菊羽は呆れたようにため息をついた。目出度くも年が明けて新春だ、煩いことは言いたくないのだが。
「お正月だからって、どれだけ呑んだのよう」
「笊二人に寄ってたかって潰された人間を、少しは労ってくれ」
どこか精彩を欠いた様子で湯呑に手を伸ばした葉髞は、うんざりしたように嘆息する。櫛も入れていない頭髪は好き勝手に跳ねていたが、不思議と見苦しくはない。
「兄様って、お酒弱いのねぇ」
意外そうに言葉を吐き出して、彼女は盆を胸に抱える。兄が人並みに酒を嗜むのは知っていたが、こんな姿を見たのは初めてだ。
寝過ぎちゃったかしら、と菊羽が一日の昼近くに起きだしてきた頃、大人たちはこ難しい話をしながら酒宴を開いていた。聞けば、年明けからずっと呑んでいたのだと言う。
彼女の目には揃って平然と呑んでいるように見えたが、菊羽と入れ代わるように席を立った葉髞は、そこからこの時間まで丸一日、起きてこなかった。恭成の弁ではひたすら眠っていたそうで、普段より眠りが深い以外、取り立てて変化があったわけではないようだ。酔い潰れるにしても、なかなか醜態を晒さない辺り、彼らしいと言える。
「一晩で一升瓶四本空けた奴らに比べれば、誰だって弱いだろうさ」
煎茶の渋さに眉をしかめながら、明瞭さに欠けた口調で投げやりに答える。それに異議を唱えたのは、書斎から持ち出した書籍を抱えて居間へ顔を出した恭成だ。
「大袈裟だなぁ。三人で四本だよ?」
「俺は多分、一本も空けてないぞ」
「またまた、一本くらいは空けてたってば」
軽く笑い飛ばして、お茶漬けでも食べる? と小首を傾げる。
「食べるなら、用意するよ」
「あたしがやりますから、天野さんは座っててください。母様に持たされた荷物の中に、梅干と伽羅蕗があったけど?」
「伽羅蕗と胡麻で」
「はぁい。待っててね」
軽やかに踵を返し、台所へ向かう。それを見送った恭成は、苦笑を浮かべながら手近の椅子を引いて腰を下ろした。
「ごめんね? 強い人がいると、そっちに引き摺られちゃうみたい」
「琴姉も、あれで蟒蛇だからな」
「四日に、出かけるんだよね。大丈夫?」
平気だろ、と他人事のように言って、煎茶をすする。そして、ちらりと恭成を見た。
「おまえの方は、どうなんだ?」
「んん、どうなんだろう? たまに、廊下を歩いてる付喪神にびっくりするけど」
その付喪神から、あれこれ助言を貰えるのが、なんだか可笑しい。
そう笑う恭成に軽く肩を竦めて、葉髞は庭へ目を向けた。
「ここには、産土神と家守しかいないって話だったがな」
「棲んでらっしゃるのは、その二柱だよ」
庭の桜にいるのが土地神と化した桜の精で、家屋にいるのは棟上げの折に祀られた神様なのだと真琴に聞いた。この一帯は彼らの御蔭で歪みとは無縁の空間となっており、彼らの判断により障りとなるモノは侵入できないらしい。そういう意味では、騒がしいわりに恭成にも過ごし易い場所だと言える。
話しかけてくるあやかしものも、どうやら話好きで世話焼きが多いようで、噂話や狩り人ついてあれこれ聞かせてくれる。彼ら視点のそういった話は面白いし、色々と考えさせられることもあった。
「真琴さんからも、少しずつ色々習ってるし。視えることに慣れちゃえば、大丈夫じゃないかなぁ?」
「外に出た時、どうなるかわからないがな」
「え、脅かさないでよ」
「実際、住む所に困る人間もいるぞ」
あやかしものが視えるということは、その影響も受けるということらしい。葉髞が気取らせるなと言ったのも、その辺りを考慮してのことだ。
「慣れろと言ったがな、力の使い方を覚えれば、案外楽に過ごせるようになるぞ。過剰防衛もよくないな」
「難しいことを、さらりと言われても困るんだけど」
「まずは理解することだ。カミの力の一端を使うのだという自覚と」
「んん、真琴さんにも言われたんだけどさ。神様の力を借りるっていうと、真言とか、祝詞とか、そういうのしか思い浮かばないんだよね」
眉間にしわを寄せて唸る恭成に、葉髞はひょいと眉を持ち上げた。
「いいんじゃないか? それで。力に形と方向性を与えてやればいいんだからな。つまり、効果を明確に想像できるかどうか、ということさ」
一種の制限だな、と付け加えて茶をすする。
「雪花はあれ以来か?」
「うん、まだ寝てるみたい。なんとなく、前みたいな弱々しさは感じないかな?」
何かを言いかけた葉髞が、ふと口を噤んだ。お待たせ、と盆を持った菊羽が戻ってきて、葉髞の前に茶漬け茶碗を置く。てきぱきと食べるための準備を済ませた彼女は、恭成の前にも湯呑茶碗を置いた。有難う、と湯呑の中を覗き込むと、ふわりと桜が咲いている。
「桜茶?」
「母様の荷物の中に入ってたんです。桜には早いですけど、新春だもの」
華やかでいいじゃないですか、と咲う。葉髞が大人しく手を合わせた丁度その時、ふらりと真琴が顔を出した。
「あら。漸くお目覚め?」
だらしないわねぇ、と笑う彼女を無視して、葉髞は茶漬けをかっ込む。気にした様子も見せずやってきた真琴は、恭成の手許を覗き見て表情を動かした。
「桜茶? いいわね、風流で」
「真琴姉様もいる?」
「お願い。戸棚にまだ花びら餅があるから、あれも持っていらっしゃい」
再び菊羽が台所へ向かうと、真琴も空いている椅子へ腰かけた。そして、恭成が持ち出してきた書籍へちらりと目を向ける。
「翻訳物の探偵小説?」
「あぁ、ちょっと面白そうだったので。真琴さんの蔵書ですか?」
「いいえ。古い物なら、父だと思うわ。桃真も読んでたみたいだけど」
もう勉強は止めたの? と愉快そうに尋ねられて、恭成は困ったように小首を傾げた。
「いろいろ疑問が出てきちゃって。ヒトが著したものは、やっぱりヒトにとって都合がいいんですよね」
「だから言ったでしょう? 教科書だって」
くつりと笑って、真琴は中庭へ視線を向ける。そちらには相変わらず桜の木精がいて、愉しげに庭に遊ぶモノたちを見ている。
「一つの出来事でも、主観が違えば幾つもの物語が生まれるわ。それはヒトの世界でも同じでしょう?」
「えぇ。だから、生きてるヒトやモノの話を聞いた方がいいかなと思って。自分で咀嚼して取捨択一した方が有意義だと思うから」
「新年から、難しそうな話」
僅かに眉根を寄せて、戻ってきた菊羽が口を挟む。真琴の前に湯呑と、菓子器に盛った花びら餅を置いて、小首を傾げた。
「お酒飲みながらも、そんな話してたわよね?」
「あの時は政治経済よ。あんたが起きてきた時は物価と、近代化が齎した利潤と弊害についてだったかしら」
「それと、時事問題ですね」
「おまえら、そんな話してたのか」
真顔で口を挟んだ葉髞に、恭成が意外そうに視線を向けた。
「あれ。松山も加わってたじゃないか」
「……飛んでるな」
ふと遠い目をして嘆息する。
「仕事の話までは、憶えてるんだが」
「えええ、嘘。あれだけしっかりきっぱり話してたのに。辻褄もあってたし。うわー、感心して損した」
「そういえば、桃真が言ってたわね。葉髞は面白い酔い方をするって」
なるほどねぇ、と唇の端に笑みを浮かべて、真琴は頬杖をついた。
「ねぇ、恭成くん。今度は禅問答にしましょう。有難い御高説が聞けるかもしれないわ」
「いいですね、それ。面白そう」
やめてくれ、と渋い顔で湯呑を呷った葉髞は、残っていた煎茶の渋さにますます顔をしかめた。
◇◆◇
新年四日の朝、恭成たちは揃って真琴の家を出た。商家の初荷が華々しく馬車に積まれているのを横目に、路面電車の線路を突っ切る。
少し前まで、この街にも鉄道馬車が走っていたのだという。帝都に倣い近代化を進める昨今、街灯もアーク灯へ変えようかとの案も出ているらしい。しかし、このままでは夜がどんどん侵食されて、昼間のようになってしまうと難色を示すお年寄りも多いそうで、まだ当面は瓦斯灯に活躍願うのかもしれない。電燈の明るさも便利だけれど、やはり火の燃える赤い光や揺らぎの方が好きだな、と恭成は思っている。
「平気か?」
低く唸りをあげる電車に揺られながら、小さな声で葉髞が尋ねる。真琴の家へ担ぎ込まれて以来、初めて外に出たのだ。一応覚悟していたものの、今のところ不快に感じていない。大丈夫だと頷くと、彼はそれ以上聞くことはせず車窓へ視線を流した。
気の良いあやかしものたちが言うには、あまり意識し過ぎない方がいいらしい。
彼らは以前からヒトの世界にたくさん紛れ込んでいて、彼らなりに生活しているのだという。中には役目を持ったモノもいるし、気ままに過ごしているモノもいる。
さて。見てくれこそ違うが、我らは同じくここに在るのだ。ヒトとどう違うね?
そうにんまりと笑ったのは、蛙のあやかしものだった。それは確かに、と笑ってから、なんとなく肩の力が抜けたようだ。気にし始めたらキリがない。自身以外はすべて他のモノなのだ。最後には道行くヒトまでも気にする羽目になってしまう。己にとって害悪を抱くモノと、そうでないモノの区別がつけばいいのだ。そう開き直ってしまえば、真琴の家で良いモノばかりと接していた御蔭もあってか、彼らを見極めるのはとても容易く思えた。特に、葉髞と一緒にいると反応差が面白い。
事務所へ戻った二人は、溜まっていた郵便や新聞を始末して再び街へ繰り出した。向かうのは、羽依子が指定した場所だ。これに関しては、二人の意見は一致している。
籠目の中心、ククリ姫の首塚だ。
「今更だけど、時間の指定ってなかったの?」
「聞いてない。いつでも構わないんだろうさ。こちらも、待つのはやぶさかではないし」
都合のいいことに新年を挟んだからな、と葉髞は懐中時計に視線を落とす。路面電車が来るまでに、まだ時間があるようだ。
「新年って……」
どうして、と尋ねかけた恭成は、すぐに気づいて納得する。新年を迎えるにあたり、各家庭で先祖にあたる年神を迎えるために家中を浄めるし、滞在中の年神に煩わしい思いをさせないように三が日は慎ましく過ごすのが習わしになっている。おそらく、歪みも出来難くなるのだろう。
停留所に辿り着いて間もなく、電車が滑り込んでくる。車内は適度に混雑していて、務めへ向かうらしい人の姿が殆どを占めていた。
路面電車を下りて暫く歩いた先、神社の跡地は相変わらず俗世から隔絶された風情でひっそりとしていた。無機質に沈黙した鳥居は与えられた役目に忠実に、敷地を辺りから切り離しているように見える。絶えず日の当たらない場所なのだろうか、一部にそのまま雪を残していたが、大半は溶けて黒い地面を晒していた。そこに敷詰められた石畳は、蛇行しながら奥の土台へと伸びている。首塚に備えられた物だろうか、先程から鼻先に線香の匂いが届いていた。
「……嫌な感じだな」
ぽつりと葉髞が呟く。確かに、以前訪れた時と、雰囲気が違う気がした。
目の届く範囲に羽依子の姿はない。どちらともなく敷地内へ足を踏み入れた途端、視界が一変した。ぐわり、と世界が歪み、ぴんと高い音が耳を貫く。二人が放り出されたそこは、左右反転した無彩色の世界だった。手入れもされず草が生え放題の敷地と、その枯れ草の中に埋もれるようにして蛇行する苔むした石畳。その様相は、先程までとまるで違っている。
「え、ここ。もしかして、狭間に落とされた?」
「やられた」
舌打ちした葉髞が、警戒したように辺りを見回す。そして、参道の途中に忽然と現われた人影へ、自然と視線が集中した。
ぐねぐねと蛇行する参道。その途中に、黒っぽい紬を纏った羽依子が立っていて、にこりと笑う。彼女は笑みをたたえたまま、懐へ手を差入れた。取り出されたのは、見覚えのある素焼きの盃が二枚。袂を押さえてそれを差し出した彼女は、唇の端を引き上げた。
「お手並み拝見」
白い指先から、するりと盃が落ちる。地面へ吸い込まれるように落下したそれは、実に呆気無く、儚い音を立てて砕け散った。
途端に、ざわり、と大気が震える。
警戒したように身構えた彼らは、背後から猛然と膨れ上がってきた気配に、咄嗟に左右へ飛び退った。同時に、びしり、と鈍い音がして、彼らが立っていた場所を影が押し潰す。すかさず袂から数珠を引っ張りだした恭成は、手早く印を切った。
「緩くとも、よもやゆるさず縛り縄。不動の心あるに限らん」
するりと雪花が抜け出して、牽制の火矢を放つ。伸び上がった影は、這い上がり絡め取るモノを振り払おうと渦巻いた。その影の中心へ向かって、葉髞が手を伸ばし、何かを掴む。そしてそのまま、石畳へねじ伏せた。
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
ぎちり、と影が硬直した。それを確認して手を離した葉髞は、軽く手を払う。
「俄連携が、巧く嵌まったな」
「思ってたよりも使えるね、密教系って」
ぱちぱちと拍手が響いた。振り向いた彼らは、さり気なく重心を移して笑みを浮かべたままの羽依子へ向き直る。
「お見事です」
「どういうつもりですか、三笠さん」
「先日、折角溜め込んだ通力を粗方削られてしまいましたものね。壊せばここへ……神躰の元へ戻ると確信しておりました」
倒れ臥すモノへ歩み寄った羽依子は、無造作に影を振り払った。ふわりと溶け込むようにして消え去ったその場所に、豪奢な袿の娘が忌々しそうに顔を歪めている。それを冷たく見下ろして、羽依子は一言吐き捨てた。
「紛い物が」
「おのれ番人、うぬらに我の無念がわかるものかッ。報復して何が悪い、我は」
「何に対する報復だ」
遮る言葉の端々に、ひやりと背筋を凍らせる凄みを潜ませながら、羽依子は淡々と言葉を重ねる。
「わたしの友は、晴れやかに笑って逝ったのだ。恨み言など欠片も残してはおらぬよ。おまえのそれは、つまらぬ妄信に過ぎない。真実を知らぬから、紛い物しか出来ぬよな」
あの子は立派な男の子だったよ、と。唇の端に笑みを乗せた彼女は、踵を返して社を望んだ。
「天野さん、この壁を壊すことは出来ますか?」
振り返った表情は、普段の羽依子に戻っている。
「壁……、ですか?」
「こことは別の階層に、わたしとそれの神躰を封じているのです。今のわたしは和御魂に過ぎませんから、封じられた先へ戻ることが出来なくて」
「あなたは、やはり国津神なんですね?」
にこりと奇麗に微笑んで、彼女は葉髞へ視線を向ける。
「二十年前、不慮の事態で封がこじ開けられてしまったのを、松山の子供に閉じ直してもらいました」
神社焼失の際、神躰を捨てて逃れた荒御魂は、まんまと逃げ失せて姿を消した。その際、封の要が一つ壊されたが、偶然知り合った桃真の手で補強がされて事なきを得た。
神躰を一緒に封じてしまった羽依子と同様に、荒御魂も神躰の元へ戻ることが出来ず、印の外へも出られない。しかし、簡単に破られないようにと広範囲に及んだ印の中では、その影すらも見つけだせなかった。時代が下り、さまざまなモノがそこかしこに棲んでいた所為もあるのだろう。
「あとは、ご存知の通りです。まさか、こんなことになるなんて」
「あなたは、無造作に盃を割っていましたね。割る条件は、なんだったんですか?」
円谷を慌てさせるほど思いきり叩き付けても割れなかった代物だ。ただ落としただけの彼女に、どうして割ることが出来たのだろうか。当然の疑問に、羽依子は仄かな笑みを浮かべる。
「全てに影響を及ぼしているわたし自身か、柱となった血族の持つ力です」
「だから、喰ったのか。それでは、神社の盃が割れたのは?」
「そちらは、推測でしか答えられませんが。件の騒動に関わった誰かが、あの拝み屋を祖としていたのでしょう」
印の中心はここ、と。ほっそりとした指を持ち上げて、社の土台を指し示す。
「ここにわたしは封じられて、社を護っていました。長い歳月を、ずっと。あの日までは」
御霊を始末出来る人物を見つけるまでの番人を頼みたい、と。
自身を拝み屋と称した男は、彼女に持ち掛けたのだった。神格や力関係で言えば、御霊よりも彼女が上となる。けれど、彼女では御霊の始末が出来ない。
それならば、彼女を封印の要の一つに置いてしまえばいい。
明朗にそう告げた拝み屋は、狡猾な笑みを浮かべたのだった。彼女の承諾を得た後、拝み屋の行動は賞賛に値する迅速さだった。指示通りにあるべき場所に埋められた要石と、それぞれに対応した盃。選ばれた、柱となる人々。
中心で御霊の神躰を抑え込むのは、国津神の神躰だ。
その地には鎮守と称して神社を建てさせた。そうして封印の管理人となった乳母を残して彼らは各地へ散り、管理人は更に国津神に名付けて、言霊の鎖で縛り付けた。
彼が、彼女を羽依と呼んでいたから。それに子を足して、羽依子。
乳母は間もなく還俗して子を成し、一族の中から代々力のある者を管理人として育て上げ役割りを果たしてきた。
その彼らも、近代化の中で急速に力を失い、里を最後に途絶えてしまったけれど。
「面白くなかったのは、確かです。誰も彼を知らないから、あんな粗悪な紛い物が生まれてしまった。けれど、御霊ではどうすることも出来ませんでした」
問いかけるように葉髞を見る恭成の視線に、彼は心得たように付け加える。
「御霊は、穢れの塊なんだよ。概念は説明しただろう?」
「ええと、国津神では打ち消せないってこと?」
「わたしは初めから国津神でしたから、穢れを浄化できません。天津の御威光から生まれた方ならば、例え堕ちても関係ないでしょうね」
ちらりと雪花を見遣った羽依子に、なるほどな、と呟いて。葉髞は僅かに目を細めた。
「だから、話す気になったんですね? こいつには雪花がいるから」
「それも勿論。でも、いずれはあなたにお願いするつもりでした」
「俺では、狭間に下りられませんよ」
「松山の女性なら、下りられるのでしょう?」
ですが、と羽依子は恭成へ視線を向ける。
「天野さんにお願いした方が、早そうですものね」
お願いします、と丁寧に頭を下げられて、恭成は戸惑ったように葉髞を振り返る。
「ええと、どうすればいいとか、わからないんだけど?」
「菊羽は、金の網目が見えるって言うな。それを擦り抜けるんだそうだ」
「無意識なのかも知れぬが、わらわが中津国へ出る時は、そなたにも引き上げてもらっておるのだ。それと同じ、あまり深く考えるな」
雪花が恭成の袂を引いて、言葉を添える。
そもそも狭間とは、幾層もの空間の重なりだという。それぞれが別の神の領域であり、何らかの理由や手段で介入しない限り、一つの空間に同時に複数の神は存在していない。つまり、別の場所にある羽依子の気配を探せばいいということだろうか。
浮かぶのは、幾重にも折り重なる襞。その中に、憶えのある気配を見つけて掴んだ。途端に、ぱんッと何かが壊れる音がした。砂が風に吹かれるように、黄金色の粒を撒き散らしながら描き変わっていく。
そして、景色は一変した。
相変わらずの、無彩色の風景。けれど、ぐねぐねと曲がった参道は奇麗に掃き清められていたし、無惨に土台が晒されていたはずの場所には社が建っている。
「……派手に壊したの」
ぽつりと雪花が呟いて、羽依子がころころと笑う。
「え、あれ? 壊した、の?」
「構いませんよ。わたしが壊せと言ったのだし、どうせ必要のないモノですから」
参道を歩いていく羽依子に続いて進んだ恭成たちは、社の前で立ち止まった。見上げれば一枚板の扉には符が貼られていて、羽依子はそれを指して葉髞を振り仰ぐ。
「開けられますか?」
「少し、下がってください」
社を一瞥して階段を上った彼は、扉に軽く手を添える。途端に、符の端が燻り、一瞬で燃え上がった。さらさらと消し炭が落ちるのを確認して、無造作に開け放つ。
「好い加減な仕事に見えて、なかなか厳重だな」
「彼は当時から、優れた狩り人でしたよ」
おっとりと羽依子が相槌を打って、社に上がる。その後に続いた恭成は、社の床に黒々と髪を広げて横たわる女性の姿を見つけた。彼女は窮屈そうに身体を丸めて、大切そうに何かを抱え込んでいる。
無彩色の風景に溶け込むように、色のないひとだ。ぴったりと閉じられた睫毛は長く繊細な造作をしていたが、あまりに整った面は作り物めいて現実感に乏しい。それはおそらく、彼女からまるで生気を感じないことも一因なのだろうけど。
纏う衣装は裳裾の長い襦裙で、神話の中から抜け出してきたような印象だ。床へ大きく裾を拡げたそれは、無彩色の中では死装束のようだったが、本来は華やかな色をしているのだと思われた。
「……智羽耶大王」
雪花が目を丸くして呟いた。知り合いなのかと彼女を見下ろすと、唖然と女性を凝視したまま何事かを呟いた。そして、そのままの表情で羽依子を見上げる
「これは……、まさか。どういうことだ?!」
彼女は目許を笑み緩ませて膝を折る。彼女にそっと触れると、羽依子の姿がふわりと融けた。代わりに鮮やかに色を取り戻した女性は目を開き、ゆっくりと身体を起こす。生気を帯びてみれば、何処か羽依子に通じる面だ。さらさらと肩を滑り落ちる領巾は透綾のように衣の色を透かし、花色を淡く淡く見せている。裳も千草で彼女の容姿を思えば地味な印象だったが、凛とした眼差しをした彼女には何より相応しく思えた。
その彼女の腕の中にあったのは、古びた髑髏。傍らに膝を付いた葉髞が、僅かに目を細めた。
「それが、キクリ姫の御首ですか」
「はい。これが神躰の核とされてしまった時は、本当に悲しかった」
まだ少し小さな、大人になり切れていない大きさのそれを、愛おしそうに撫でる。そうして、雪花へ差し出した。
「いいのかや?」
「これは既に、彼ではない」
ふと口調を変えた彼女は、羽依子が浮かべたことがない種類の笑みを唇の端に乗せた。
「くだらぬ感傷を抱いているよりも、かの鮮烈な魂を受け継いだ者に会える日を心待ちにした方が、楽しいではないか」
「あいわかった。引き受けよう」
小さな手が伸びて、髑髏へ触れる。途端に「ぱきん」と高い音がして、それは粉々に砕け散った。社の外に断末魔が響く中、砕けたそれらは融けるように消え果てて、代わりに雪花の存在感が増す。
「ふむ。少し補えたようだの」
満足そうに呟いて、雪花は改めて裾を払って立ち上がる彼女を見上げた。
「のう、智羽耶」
微笑み、彼女は口許を袖で隠す。
「比売、それはあなたの父神に取り上げられてしまいました。名乗ることは許されません」
ふわり、とその姿は融けて、黒っぽい紬を纏った見慣れた姿へ変化する。
「ですから、これからもわたしは三笠羽依子です」
おっとりと、羽依子らしい声音と口調で言って、彼女は微笑んだ。




