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空行く月の末の花橘  作者: アサミズ
形見草之章
22/25

 遠く夜陰を裂くように響く除夜の鐘を待って出掛けた外の世界は、月明かりで存外明るく照らされていた。満月から僅かに欠けただけの月は、冬の澄んだ空気の中で冴え冴えと空に浮かんでいて、青い闇に沈んだ世界はまるで海の底のよう。普段は静寂に支配された青い世界は、今夜に限り少々賑やかだ。新年まで続く梵鐘の音が厳かに響き渡っている。

 大きな月、と見上げる菊羽(きくは)は先程からずっと楽しそうで、大人二人に挟まれてにこにこと機嫌よく笑っている。こうして夜中に出かけるのもそうだが、幼い頃のように三人で出かけるのが嬉しいのだろう。

 あたしは遠慮するわ、と真琴が送り出してくれたときは残念がるかと思ったが、菊羽の反応はあっさりしたものだった。真琴の性格を考えると、いつも通りの当り前のやり取りなのかもしれない。

 程なく、篝火が幾つも焚かれた神社へ辿り着いた。ここは毘沙門天を祀っているそうで、晦日詣でに訪れた人々が和やかに会話を交わしながら参道を埋めている。社務所の前では焚火を囲む人もいて、振るまい酒や汁粉を口にしている人の姿も見えた。

「賑やかね! 楽しそう」

 ほわほわと白い息を指先に吐きかけながら、菊羽が物珍しそうに辺りを見回す。寝子を背負った上に被布を着て、ショールで首元をぐるぐる巻きにしているのだが、頬が赤いのははしゃいでいるからだけではないのだろう。

「お参りしたら、あっちで焚火にあたらせてもらおうね」

「はい。兄様はいいわよね。洋装の外套って、あったかそうだもの」

 まぁな、と素っ気無く返ってくる言葉に、菊羽は狡いと唇を尖らせた。

 普段の外套よりも丈の長いそれは、生地の風合いもよく、確かに温かそうだ。少々凝った作りは彼に似合っているものの、葉髞(しょうぞう)の趣味とは違っているような気がする。

 恭成(たかなり)の物言いたげな視線に気づいた彼は、ちらりと外套を見下ろした。

「あぁ……、叔父貴のな」

「ええと、ごめんなさい」

「気にするな」

 血糊だけなら落ちるから、とひらひら手を振る。しかし、衣服を着替えるほどの被害だったのだ、果たしてきちんと落とし切ることができるのだろうか。疑問に思ったが、ここで押し問答をしても仕方がない。後でちゃんと問い質すことにして、一先ず聞き流しておく。

 参拝を済ませて社務所へ移動すると、人込みの中にクラスメイトを見つけたらしい菊羽が「待っててね!」と言い残して駆け出していった。彼女の行く先を確認した葉髞は、ぐるりと境内を見回して、人も疎らな神楽殿へと足を向ける。その後に続いた恭成は、改めて謝罪を口にした。

「あの、ごめん。憶えてないけど、迷惑かけたみたいで」

「まったくだ。相変わらず気ままというか、思い立ったら即行動で」

「返す言葉もありません、ごめんなさい」

「菊羽を残していった意味がないだろう」

 ため息混じりに言って、ちらりと恭成へ視線を寄越す。

「ちゃんと言わなかった、俺も悪いんだけどな」

 並んで石段に腰を下ろすと、和やかな人々のざわめきが間遠に聞こえた。参道を行く人の波は途切れない。今夜ばかりは子供たちも夜更かしを許されたようで、ちらほらと親の手を引きはしゃぐ姿や、既に眠気に負けて負ぶわれている姿が見られる。その中に中学生くらいの少年たち四人組をみつけて、なんだか懐かしくなった。

 鳥居の向こうには参詣客を見込んだ二八蕎麦の屋台が見えて、年越蕎麦を食べる人で溢れている。場所は違えど、毎年の変わらぬ風景だ。

「結構冷えるからな、傷が痛むなら無理せず言えよ」

「うん、大丈夫。ちょっと大袈裟なくらいだから」

 昼間、真琴に包帯を変えてもらったのだが、腕の傷もさほど酷くはないようだった。腹の方も思ったほど酷くはない。そう言うと、葉髞は複雑そうな表情を僅かに覗かせた。内心首を傾げた恭成は、ふと思いついて話題を転換する。

「ところで、真琴さんって桃真(とうま)さんの妹なの?」

 桃真を語る際の彼女の口調を考えると姉のような気もするが、それにしてもあの年齢不詳さが気にかかるのだ。果たして、葉髞はかぶりを振った。

「いや、姉。双子なんだよ、あの人たち」

「へぇ、だから雰囲気とか似てるのかな」

 希薄なヒトの気配、作り物めいた雰囲気。その様はまるで、鏡のようだと思う。

「まぁ、妙に絆は深かったけどな。普段まとまりがないくせに、妙なところで息が合うというか」

 御蔭で苦労させられた、と。肩を落とす葉髞の様子に笑みが零れる。そうして、ふとため息をつくと膝を抱えた。

「僕が捕まったのって、やっぱり喰らうため?」

 だろうな、と真面目な声が返ってきて、ちらりと葉髞へ視線を向ける。彼は僅かに面白くなさそうな表情を浮かべていて、それは声にも微妙に含まれた。

「最初に襲われたのは、間違われた可能性が高いが」

「あ。やっぱりそう思う?」

久喜(くき)氏もそうだろ。あすこに住む人間は、どうも癖が強いのばかりだ。積極的に目をつけられたのは、おまえだけみたいだが」

 まるで隠れ蓑のようだな、と。ぽつりと零れた言葉が重く響いた。

 壊れることなく残っていた盃、それが元々は井上の元にあったこと、そして井上が改めて襲われたこと。

 それらを鑑みると、盃には場所とヒトを限定している可能性が考えられる。だから、下宿の印は壊されていないだろうと恭成は予測したのだ。考えを組み立てて結論付けたこととはいえ、導き出されたそれらに恭成は言い知れない感情と寒気を感じた。

「……怖いな。神様が間違うんだ」

「カミが過ちを犯さないと誰が決めた?」

 堅く響く声は「意思を持つなら犯すだろうさ」と苦々しく言葉を吐き捨てる。そうして彼は、それで、と恭成へ半眼を向けた。

「おまえは、どういうつもりで事務所を出たんだ」

 きちんと説明してもらおうか、と促す声を聞いて、背中に嫌な汗が流れる。これは本気で怒ってるようだ。ただ、鉾先は微妙にずれているようだけど。

 何に怒ってるのかな、と頭の片隅で考えながら、紡ぐ言葉は自然としどろもどろになってしまう。

「ええと、ちょっと確かめたいことが」

明里(あけさと)さんにか?」

「正確には、羽依子(ういこ)さん。突拍子もない考えなんだけど」

 手を伸ばして適当に木切れを拾うと、地面に事件現場を書き込んだ大まかな地図を描く。そして、北東と南西の印にがりがりと丸を打った。

「最初に起きた事件は、北東のこの位置。ここは、首塚から見ると鬼門に当たるんだよね。次が、裏鬼門の南西。あとは順不同なんだけど」

 説明をしながら事件現場を繋ぎあわせてゆく。そこに浮かび上がったのは、三角形が上下反転して重なった図形だ。

「円じゃなくて、ドーマン。つまり籠目なんだよ、これ」

「籠目は確か、鬼封じ、だったか?」

「そう考えると、もうひとつ意味を見い出したくなるのが、首塚の真北。下宿の位置」

 丸を打って、木切れの先で図形の中心を指す。

「菊羽ちゃんと話してて、気づいたことなんだけどね。かごめ唄って、あるでしょう? 首塚から見た後ろの正面が、ここになるんだ」

 下宿で事件が起こって、だから件の委員長は犯人に問われているのだと考えたのだろう。

 後ろの正面、だぁれ?

 閉じ込められているのは、鬼か鳥か。囲んでいるのは、檻か鬼か。どう取るかで意味合いは変わってしまうけれど。当てられなければ、囲いは壊れてしまうのだ。籠の鳥は逃げ出して、捕まえることが出来なくなってしまう。

 巨大な籠の中に捕われた鳥は、ククリ姫。その後ろの正面にいるのは羽依子だ。

「しかし、それじゃぁ根拠に薄いだろう。想像の域を出ていない」

「うん。だからこれも、取っ掛かりの一つに過ぎない。最初に気になったのは、松山の言葉なんだよ」

 ここの管理人って、あんな若くて美人だったか?

 そう言ったのだ、葉髞は。椿のことでさえ憶えていた彼が、羽依子のことだけ見誤った。伯母と容姿が似ているわけでも、雰囲気が似ているわけでもない、彼女のことを。

「お里さんとは面識もあったんだから、管理人が変わったのか、て言いそうなのにね。そう思ったら、なんだか羽依子さんの存在に違和感を覚えたんだよ」

 当り前のように溶け込んでいる彼女だが、一体いつから住み込み始めたのか、良く覚えていないのだ。

「それから、かごめ唄。羽依子さんがよく歌ってて。好きなのかって聞いたら、魔除けだって笑ったんだ」

 木切れを放り投げて、だけどね、と頬杖をつく。

「かごめ唄の、鶴と亀以降の歌詞は、近年の創作なんだよ」

 へぇ、と葉髞が意外そうに相槌を打つ。

 鶴と亀が登場したのは、唱歌として編纂されて以降だと言われている。それまでは地域毎に別の、滑っているさまを連想させるような擬音を重ねた歌詞が存在していたのだ。

 当然、後ろの正面など存在しない。

「そう考えると、これに意味を持たせたのは近代の誰か、だよね。怪しいのは二十年前の神社焼失」

 神社焼失により最初の猟奇事件が起きたとすると、何故二番目の事件まで間が空いたのか気になる。しかしこれは、狩り人かそれに準じる何者かが関わっていると考えると、説明付けることが出来そうだ。その上で立てられる仮説は二つ。神社焼失により封印が解けてククリ姫が放たれてしまった可能性と、籠目は万一の時の予防措置である可能性。つまり、封印の二段構えだ。そうすれば、二十年前に第一の封印が解かれた折、某かが籠目を補強するために後ろの正面へ番人を据えたのだと考えられないだろうか。

「仮説が当たっているなら、現在の番人は羽依子さんかもしれない。もしかしたら、お里さんから引き継いでるのかも。でもこれは、見誤ったことの説明にならないんだよね。全部、可能性の話」

 彼女たちが負った役割が、認識を誤るくらい丸ごと引き継がれる類いのモノとも考えられるが。確実な危機回避を考えるなら、もっと効率のいい方法を取るべきだ。

「ヒトでないのなら、番人として不都合はないんだよね。同じモノが変わらず留まるんだから。代替わりで状況が変化する危険を回避できる」

「つまり、三笠(みかさ)羽依子がヒトでない可能性、か? そもそもの前提を覆すようだが、単純に俺の勘違い、もしくはおまえの勘繰り過ぎの可能性は考えなかったのか?」

 冷静な口調で指摘されて、恭成は「だから」と苦笑を浮かべた。

「確かめたかったんだ。だけどそんなの、いきなり本人には聞けないでしょ。だからまず、明里さんに聞いてみようと思って。椿ちゃんの例があるしね」

 明里があの場所を住処と選んだのは、椿にとって都合がいい場所だったからではないか。何より彼女が発する言葉の端々、何気ない会話の中に見え隠れする含みが気になった。

「それで、明里さんから話は聞けたのか?」

 かぶりを振り、ゆっくりと瞬きをする。

「あたしは何も話さない、て言ったんだ。それって、裏を返せば話せないってことなんじゃないかな」

 何らかの理由で話せない。つまり、話せない何かが確かにあるのだと、逆に確信に結びついた。そして何より、最後の問いに意味ありげに笑ったのだ。あれは、彼女なりの譲歩だと思っている。

「そこから先は、確かめる前に捕まっちゃったけど」

「その辺りは、本人から話が聞けるだろ」

 え、と葉髞を振り返ると、彼は軽く肩を竦めてみせた。

「四日に会いに来いとさ。助力を頼まれた」

「いつの間にそんな話に?」

「まぁ、いろいろあってな」

 言葉を濁し、彼は少しづつ増えていく参拝客を珍しくぼんやりとした風情で眺める。小首を傾げて視線を外した恭成は、汁粉の大鍋の前に菊羽が立っていることに気がついた。きょろきょろと辺りを見回していた彼女は、こちらに気がつくと、小走りに向かってくる。

 どうやら探させてしまったようだ。悪いことをしたなと思いながら、こちらから迎えに行くつもりで立ち上がる。

「なぁ、天野」

 振り返ると、葉髞も倣って立ち上がったところだった。彼はそのまま、何気ない口調で一言投げかけてきた。

「その封印、雪花(きら)に解いてもらえ」

 兄様兄様、と駆け寄った菊羽が、そのまま葉髞の腕に自分の腕を絡ませる。そして、きらきらした目で訴えた。

「あのね、お汁粉貰えるんですって」

 食べるでしょう、と期待に満ちた表情を浮かべて見上げてくる彼女に苦笑を浮かべた葉髞は、「俺はいいから貰ってこい」とその背を押した。はぁい、と駆け戻っていった菊羽の後を、二人はゆっくりとした歩調で追いかけ始める。

「おまえらの不安定さは、それが原因なんだろう。このままじゃ保たないぞ」

「不安定、なのかな。よくわからないんだけど」

 首を傾げると、葉髞は呆れたような表情を見せた。

「昼も様子がおかしかったんだろう?」

 そういうことが他にもなかったか、と促される。

 思い当たる節はあるが、雪花の封印に護られている安心感か、不思議と危機感は薄い。何故ここまで無条件に彼女を信頼しているのか、その理由は解らないけれど。

「抑えられてるから、この程度ってことはないかな」

 封じられることには、少なからず意味があるのだ。その理由は様々だが、必要に迫られるから封印する。それが事実ならば受け入れるしかない。けれど。

 封じられている以上、触れるべきではないのではないか。

そう主張すると、葉髞は僅かに眉根を寄せた。立ち止まった彼を振り返ると、思いの外真面目な声が紡がれる。

「どうしても必要なものなら、きちんと結び直した方がいい。不完全なものは、却って危険だからな。俺たちが言っても、あいつは聞かないだろう」

 おまえからちゃんと言ってやれ、と胸元を指した。

「まだ眠ったままなんだろう? それだって、眠らざるを得ないからだ」

「雪花の為、てこと?」

「違う。おまえ自身の為」

 真剣な眼差しを向けられても、少しも実感が湧かない。まだ、雪花の為だと説かれた方が納得できる気がした。封じなければならないモノを抑え込む彼女には、相当の負荷がかかっているのだろうから。

 それでも「わかった」と頷いてみせれば、彼は少しだけほっとした様子を窺わせた。

 心配されているのは有難いし、申し訳ないと思うのだけど、どうしても他人事にしか思えないのだ。それは、記憶が欠けてしまっているからかもしれないけど。

 冴えた空気の中、漆黒に沈む月を見上げた恭成は、無彩色の世界で眠る彼女を思って切なくなった。

 その理由は、やはり解らないのだけど。


  ◇◆◇

 

 初詣から帰ってくると、真琴は中庭へ面した障子を開け放って月見酒と洒落込んでいた。

 電燈を落として洋燈と赤々と燃えるストーブだけを灯した室内は、月明かりも相まって存外明るい。目をキラキラさせたまま、ぱたぱたと駆け込んできた菊羽を見上げた彼女は、苦笑を浮かべて尋ねる。

「お帰り。面白かった?」

「うんッ。あのね真琴姉様、聞いて聞いて」

 菊羽が楽しそうに報告を始めたのを見て、葉髞が台所へと足を向けた。煎茶の用意をして戻ってきた彼は、菊羽と恭成の前に湯呑を置いて、自分ものんびりすすり始める。一緒に運んできた花びら餅は、真葉が昼間持たせてくれたものなのだそうだ。

 やがて、姪っこが一つ大欠伸を零したのを見た真琴は、「もう寝なさいな」と苦笑を浮かべて追い立てる。今年は好きなだけ寝てなさい、と言うのに頷いて、菊羽は大人しく真琴の寝室へと引き上げていった。

「恭成くんも休んだら?」

 傷に障らないかと言葉を添えられて、小首を傾げる。頭が冴えてしまっていて、眠れそうにないのだ。

「どうしようかな。書庫の本、借りてもいいですか?」

「いいけど、読むなら部屋で布団被るか、戻っていらっしゃい。葉髞は付き合いな」

 銚子を振る真琴に、葉髞はうんざりとした表情を隠しもしない。

「拒否権はないのかよ」

「そんなもの、端からないに決まってるでしょう」

 理不尽な主張にげんなりする葉髞に笑って、恭成は居間を出た。空気の冴えた廊下の床板は冷たくて、心持ち小走りになる。この分では明日の朝も一段と冷えそうだ。

 書斎の扉を開くと少し高い位置にある窓から月明かりが落ちていて、室内は濃く青く染めあげられていた。扉横の壁へ手探りで指を這わせて、指先に触れた電燈のスイッチをかちりと捻る。ちりちりと小さな音を立てながら、ほわりと黄色い光が室内を照らしたが、流石に蔵の奥までは届かないようだ。

 ひんやりとした闇に沈む蔵の中を覗き込めば、色を奪われた品々がひっそりと息を殺しているように見えた。

 それはまるで、あの無彩色の世界のよう。

 蔵の中へ足を踏み入れて、ぎりぎり光が届かない位置で立ち止まる。見回せば圧倒する書架と、書籍の海。

 これらは全て、ヒトの暗部の記録でもある。

 真琴たちには捕われてからのことは憶えていないと語ったが、実はもう少しだけ憶えている。無彩色の世界の中に唯一拡がっていた、鮮烈な色。あれを目にした後から、記憶は途絶えていた。夢の中で言われた「また」という言葉と照らし合わせれば、容易に想像がつく。恭成の思考を抑え込んで、あいつが代わりに活動していたのだろう。

 夢の中で、替われと訴えっていたあれが。

 雪花、と小さく呼び掛けると、ふわりと気配が動く。姿を見せようとしないのは、まだ本調子ではないからだろうか。出てこられないの、と尋ねると、沈黙でもって肯定する。

 今更ながら、どうして彼女がここまでするのかと不思議になった。契約などしても、彼女には少しも得になることはないのに。

「ねぇ。封印って、何。それの所為で、忘れてるの?」

 正直に答えて、と促すと、僅かに躊躇うような気配が漂った。

「忘れてしまったことには、わらわは干渉しておらぬ」

「でも、何かが欠けてるよね」

 微かに感じる喪失感は、欠片を探してざわざわと騒いでいる。目覚めてからこちら、それは酷い渇望を訴えて、ますます強くなっているようだった。だとすれば欠けてしまっているのは、あの優しいヒトが担う部分なのだろう。

 魂は、一霊四魂を基本としているという。

 四つの魂とは、和、荒、奇、幸。喜怒哀楽を司る反面、それぞれ別の魂の在り処だとも解釈ができる。それを端的に表わすのが、古神道で太陽神と崇められる男女神だ。神道では女神とされるそのカミが実は、和御魂と荒御魂それぞれを持つ二柱の神の総称であることは、あまり知られていない。

 現に、かのカミを祀る神宮にはそれぞれ和御魂と荒御魂を祀る社が存在しているのだ。和御魂である女神が目覚めている間、荒御魂である男神は眠っているのだと考えられている。同じことが、ヒトにも言えないだろうか。

 おそらくあれらは、それを意識下で解り易く視覚化しているに過ぎない。

「雪花がそんなふうに弱々しいのは、僕の所為じゃないの?」

 だったら嫌だな、と呟いて。恭成は固い声を吐き出した。

「僕の欠けてる部分、返して」

 契約者の言葉に反することが出来ないのか、沈黙でもって答える。予想通りの態度に軽くため息をついて、一言付け加えた。

「雪花が背負わなくていいんだよ」

「……思い出したのかや?」

 息を飲んだような気配が漂った後、恐る恐る尋ねた声は、やけに幼い響きを含んで零れ落ちる。その問いには答えず、恭成は僅かに目を伏せた。

「一つだけ答えて。僕を助けてくれたのは、雪花だった?」

此岸(このきし)へ引き止めたのは、わらわだ」

「……そう。有難う」

 仄かに笑んで軽く目を閉じる。これで少し、腑に落ちた。断罪するのは、自分自身を構成するモノ。四魂のどれかなのだろうから、あれら夢の断片は全て真実を元にしているのだろう。

 あの状態から一人助かった事実と、現状。それから、書庫の中で調べた全てと。照らし合わせれば、大凡答えも見えてくる。

 けれど、これからもヒトでありたいと思うから。

「自分が何者なのか、きちんと知りたいんだ」

 だから返して、と繰り返す。息を殺したような沈黙が辺りを包み、冷えた室内に立ち尽くしていた手足の先が冷たく痺れ始めた。

 やがて、ふ、と。諦めたような吐息が零れて、雪花は言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「わらわは本来、神躰を封じられた状態で、有り様に視るモノは少ないのだ。幼い頃のそなたは、そんなわらわをも見現す類い稀なる見鬼だった」

「僕だけが、視てたの?」

 いや、と呟いて。雪花の声がほんのりと温かみを増す。

「わらわを見つけたのは、雪乃(ゆきの)だ。きらも、慕ってくれていたな」

 素晴らしい友だった、と。告げる雪花は、ほんの少しだけ寂しさを声に滲ませる。そうして、吹っ切るような凛と響く声が恭成を打った。

「返そう。心せよ」

 けしてその力に引き摺られるな、と。強い口調で彼女がそう言った、次の瞬間。意識の奥で何かが壊れる音が響いた。途端に、ぐるりと視界が反転したような不安定さが全身を貫いて、ぐわりと頭の芯を揺さぶられたように目が回る。たたらを踏んだその後ろに、音もなくヒトの気配が立った。

 ぎくりと肩を震わせて視線を上げれば、天地左右の差すらわからない常の闇が辺りを埋め尽くしている。見下ろす自身の手足は子供らしい細さで、頼りない有り様だ。強烈に迫り上がってくる不安感に身を竦めたとき、長く艶のある髪が肩から滑り落ちて、胸の前に一房垂れた。

 母の厄年に生まれた子供だった。

 生まれながらに身体が弱く、だから祖父は衣装を取り替えさせた。健やかに、丈夫に育つようにと。故郷を出るまで祖父の言い付けを守っていた彼を、男の子だと知っている村人はいないだろう。

 背後の気配は動かない。振り返りたいのに、何故か身体が動かなかった。無音の闇の中、早鐘のように打つ鼓動が煩く響く。

 己の身体を抱き締めて、濁流のように襲い来る様々な感情をやり過ごす。

 何故。

 理由がわからない感情は、ただ混乱を招くばかりで。

 何故。

 何も憶えていないはずなのに。胸の奥にあるのは、言い知れない罪悪感と。

 後悔と。

 恐怖と。

 まるで虚を穿たれたような、喪失感。

 とん、と背中に何かが触れた。背後の誰かが背を合わせたらしい。

 おまえの所為ではないよ、と。

 温かい声が呟く。背中に感じる温もりとは裏腹に、見上げる真っ暗な空間には、先程から声なき声が全てを埋め尽くすような叫びをあげている。それは、いつか夢の中で聞いた物憂げな声だ。彼女は、延々と嘆き続けている。

何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故あんなものが生まれてきたのナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故わたしばかりが咎を受けねばならないのナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜわたしばかりが責められる何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼ嗚呼なぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ詛われてしまえ何もかも何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故全て消え去ってしまえナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故穢れとは何だ穢れてなどいないナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故わたしが穢れていると言うのならナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼおまえたちはなんだというのなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼあんなものなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜわたしが仕えた神とはなんだったのか何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ誰か何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナゼなぜ何故ナ助けてゼなぜ何故ナゼ

「おまえは、ちゃんと望まれた子供だ。私に同調してはならないよ」

 傷付く必要はないのだと、穏やかな声が静かに諭す。振り向くことも、声を出すことも出来ず立ち尽くすだけの彼は、相手の背中が離れて大きな手が頭を一撫でしても、動くことが出来なかった。

「さぁ、おまえの名を言ってごらん」

 促されて、喉が震える。戸惑うように喉元を押さえると、言えるものか、と別の方向から皮肉げな声が吐き捨てられた。暗闇から伸びてきた腕が絡み付くように抱き締めて、喉の奥でくつくつと笑いながら嘲るような声で囁く。

 僕もおまえも壊れているんだどうせ肝心なことは憶えてやしないんだろう?あの日なにがあったのかカグヤに何をさせたのか己の罪深さに逃げ出したのはおまえだろう?なのに今更知りたいだなんて虫が良すぎると思わないかそんな資格おまえはとうに失ってるんださぁ僕と代われよ僕の方が己を良く知ってるそいつが何かもわかってるんだだから

「でも」

 ぽつり、と。微かに零れ落ちた声は、闇に反響してぐわりと大きく響く。

「雪花が心配するから、帰らなきゃ」

 ぽっと花が咲くように、闇の中に白い日傘が開いた。くるりとそれを回した彼女は、振り返るとほわりと微笑んで、こちらへ手を差し伸べる。

「姫神様が、待ってるよ」

 だから帰ろう、と促す声に頷いて、一歩踏み出した。途端に、絡んでいた腕が霧散する。背後から忌々しげな舌打ちが聞こえたが、振り返ることはしなかった。

 何処かから、風と花の匂いがする。

 あぁ、そうか。あの場所で、彼女が待ってる。あの日は、会いに行けなかったんだ。

 耳に微かに残る、歌うような美しい声。(まじな)いを込めてみながナルと呼ぶ中で、彼女だけはいつも名を呼んでくれていた。

 

 僕は、僕の名前は。


「恭成!」

 目を覚ました途端に飛び込んできたのは、自身を見下ろしている二組の目だった。身を乗り出した彼らは一様にほっとした表情を浮かべている。何度か瞬いて彼らを見た恭成は、あれ、と呟いて、思いの外しっかりとした声を紡いだ。

「どうしたの、二人とも」

「ッ、うつけ者!」

「どうしたじゃないだろう、驚かせるな」

 葉髞が、深々と嘆息をしてどかりと腰を下ろす。何気なくそれを目で追った恭成は、視界の端を過ったモノに気づいて、慌てて身体を起こした。

 視線を転じれば映る、様々なモノ。今まで朧げに漂っていたモノが、明確な輪郭を浮かび上がらせている。

「え、なにこれ? あれ、僕いつ倒れたの」

「だから引き摺られるなと言ったのだ!」

 喚く雪花の横で、平静を取り戻した葉髞に「何処か打ってないか」と尋ねられる。様子をみるまでもなく、新たに痛む傷は出来ていないようだ。

「大丈夫みたい」

「それなら良かった。雪花が身体を張った甲斐があったな」

「言うな。形が小さいことを忘れておったのだ」

 不貞腐れたようにそっぽを向く。その彼女の後ろにも、ひょっこり顔を覗かせているモノがある。

「……随分、騒がしかったんだね、この家」

「そうか?」

 俺にはあまり視えないが、と立ち上がる。差し出された手に捕まって立つと、微熱がある時のようにふわふわと足下が覚束ない。

「なんだか、調子悪いな」

「酔っておるのだろ。わらわが通力の半分を消耗していたモノだからの」

「え、酔うってこんな感じなんだ」

「酔ったことないのか」

 葉髞に真顔で切り返され、恭成は小首を傾げる。

「ええと、多少は? ああもしかして、これが酷くなると千鳥足とかになるの? わー、それは新鮮だなぁ」

「せめて、それが収まるまでは、ここに居座った方がいいな」

 正月で丁度良かった、と恭成の腕を引く。

「雪花、おまえは大丈夫か?」

「長く留まれぬが、もう消耗はせぬよ」

 恭成の横に寄り添う雪花の頭に手を置いて、わしわしと手荒く掻き回す。

「何をするかッ」

「せめて、天野を介して抜けてこなくても済むくらいには、力を補った方がいいかもな」

 うむむむむ、と雪花が唸る。

「天津も神喰いは出来るんだろう?」

「む、そうだの。契約の鎖は繋がっておるから、これでは恭成の負担になってしまうな」

「まぁ、それは後だな。おまえも、暫く休んでろよ」

 そうさせてもらう、と頷いた雪花は、軽く眉根を寄せたまま髪を撫で付け、恭成に姿を重ならせた。ふわりと融け込んだ途端、気配がひっそりと沈み込む。

「ねぇ、松山。消耗って?」

「それだけの通力だ、抑え込むのも一苦労だったんだろう。実際、かなり弱ってたからな」

 書斎から連れ出され、押し黙った恭成を横目に、葉髞は呆れたような表情を浮かべる。

「言っておくが、これからは全て自分で背負うんだからな? ヒトの心配より、自分がどうすべきか考えろよ」

 居間へ引き摺られていくと、頬杖をついた真琴がちらりと視線をくれた。

「何事だったの? 雪花よね、あの悲鳴」

「倒れた天野に潰されてた」

 あらあら、と苦笑を浮かべた真琴は、ふと恭成を見上げて目を細めた。そして、窓の外を指差す。

「ねぇ、恭成くん? 何が視える」

 指された先へ視線を向けると、冬木立ちとなった桜の木が見えた。その枝に腰かけて、奇麗なヒトが微睡んでいる。

「羽衣……かな? 珍しい衣裳ですね。古典の神様みたいで。寒くないのかな」

「ふぅん? よく視えてるじゃないの」

 愉快そうに口許に笑みを浮かべ、真琴は頬杖を外して立ち上がった。

「あれはね、極限られたヒトにしか視えないモノなのよ」

 あんたは小さい頃から視ていたらしいけどね、と恭成の胸元を指先で突く。

「これから、身を守る術を覚えていきなさい。きちんと、ヒトとして生きていきたいなら、ね」

「何をすればいいんですか」

「初春の御目出度い日にすることなんて、決まってるじゃないの。ふらふらのくせに、根を詰めるんじゃないよ」

 苦笑して、ぱん、と肩を叩いて踵を返す。

「ついでに、質問には答えてあげるからさ」

 ひらひらと手を振って座るように促し、台所へ向かう。困ったように葉髞へ視線を向けると、彼はさっさと定位置に腰を下ろしてしまった。

「まずは、慣れた方がいい。今までと差し障りなく過ごせるようにな」

「でも、それじゃぁ」

 身は守れないのではないだろうか。そう危惧する恭成に、彼は「だからこそ」と座るように促す。

「気取らせない。それが一番確実に身を守る方法なんだよ。俺だって、今度のことがなければおまえに気取らせるつもりなんかなかったさ」

「その方が、安全だから?」

「お互いにな」

 さらりと返された言葉が、すこんと収まりのいい場所に落ちた。大人しく座った恭成は、浅はかでした、と頭を下げる。

「わかれば宜しい。今日はもう、迎え酒のつもりで呑んじまえ」

「そちらも遠慮なく」

 頷いて、恭成はもう一度立ち上がると、真琴を手伝うべく踵を返した。

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