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翌朝、思いの外気分よく目覚めた恭成は、朝食の片付けと掃除を手伝った後、真琴に案内されて書斎へ向かった。中庭に面した縁側からは、昨夜は気付かなかった近接する小さな蔵が見る。
民俗学上知られる宗教的な知識だけでは、どうしても追いつかない。
そう訴えた恭成に、真琴は実にあっさりと「気が済むまで勉強すればいい」と言ってくれたのだった。今置かれている状況を理解する為には、少なくとも狩り人と、彼らの中の常識についてきちんと把握する必要がある。
廊下を道なりに進んだ突き当たり、恭成へ提供された客間のすぐ近くに、四畳半のこぢんまりとした書斎はあった。室内を見回せば、南側の少し高い位置にある小窓。その下は文机が据えられており、西と東の壁に背の低い書棚が並んでいる。こちらにあるのは殆どが物語のようだった。ここまでは、一般的な書斎の体裁を整えているように思う。
問題は、その奥。北側の壁に重い扉を開いて、蔵が口を開けていたのだ。
蔵の扉は、壁と一体化しているようだった。おそらく、縁側から見えた蔵に合わせてこの部屋を増築したのだろう。先に立って格子の引戸の前に進んだ真琴は、それを開くと中へ足を踏み入れる。その後に続いて蔵へ入ると、ひんやりとした空気が満ちていた。
その中に溢れるのは、予想通りに膨大な蔵書の数々。いずれも古い時代の物らしく、巻物から縢り綴じの和本まで、ありとあらゆるものが揃っているようだった。
圧倒されて見回すだけの恭成に、真琴は軽く声を立てて笑い、火鉢の火を熾しながらそれぞれの棚を指して説明をしてくれる。
これら蔵書の大半は、草子と呼ばれる狩り人の歴史を記した史書なのだそうだ。それらは各家ごとに存在していて、栄枯盛衰を謳っている。元々は口伝だったそうだが、いつの頃からか文書に纏められるようになったのだという。他にも、日本各地で様々に形を変えて伝えられた民話や伝説を集めた書、古い呪いの書なども揃っているらしい。
好きに読んでいいよ、と踵を返した真琴に「有難うございます」と頭を下げて、恭成は興奮気味に蔵の中を見回した。
書棚に立ち並ぶ書籍の数々を一通り目でなぞり確認すると、和本を数冊取り出し捲り始める。そのまま速やかに没頭し、真琴が様子を見に再び顔を出した時には、場所を動くのが面倒だったのか蔵の床に座り込み、畑佐家口伝土蜘蛛草子神代之章全十巻を、粗方読み終えて目の前に積んでいた。
「もうそろそろお昼だよ、一休みしなさいな」
「……もうそんな時間ですか?」
言われてみれば、仄かに味噌や醤油のいい匂いが漂ってきている。手伝いもしないですみません、と振り仰ぐと、真琴は軽く肩を竦めた。
「読むの早いわね。その辺りだと、古語も多いでしょうに」
「はぁ、これくらいなら問題なく」
大したものね、と笑って、蔵の中へ足を踏み入れる。
「恭成くんが隠ってから、葉髞から連絡があってね。菊羽を連れてこっちに来るそうよ」
昼食には間に合うかしらね、と小首を傾げる。
「あの子、朝から姉さんに呼び出されたみたいだから。こっぴどく叱られてるんじゃないかしら」
「え、それ僕の所為ですか?」
「あんたは相応に痛い目を見てるしね、気にすることなんかないよ。それに、あの子も次期当主なんだから、もっと大局を見て行動できるようになってもらわないと」
なかなか手厳しいことを言って、真琴はふと首を傾げた。
「そういえば、雪花は? あれ以来、姿を見てないね」
眠ったままみたいです、と恭成は自分の胸を指す。
「今は僕の中にいる、ということなんでしょうか?」
「大体、国津神は狭間と中津国を言ったり来たりだからね。多分、向こうに引っ込んでるんだと思うよ」
「じゃぁ、どうして僕から?」
「恭成くんを媒介にしてるんだろうね。あんたと契約を結んだ時、他に御神体に出来るものがなかったんでしょう」
御神体ということは、依りましではないのだろうか。首を傾げて尋ねてみると、真琴はひらひらと手を振った。
「ただの出入口。大半の土蜘蛛は、長い間こちらに出てくることが出来ないの」
嘗ての戦いに破れた神々は、住処を分けられた際に枷を受けた。それが、活動制限だ。土蜘蛛たちの力の源の全ては狭間に存在し、中津国へ出てきている間、その供給が途絶える。だから、土蜘蛛は契約を持ちかけるのだ。御神体という物を媒介にヒトが開けた出入口と、新たな力の供給源としての鎖がある間、彼らに制限はない。言い換えれば別の枷に嵌め変えているようなものだが、彼らにはこちらの方が遥かに活動し易いのだろう。
「でも、普通は御神体から直接抜けずに、行き来できるはずなんだけど。付喪神なら尚更、中津国の方が繋がりが強いはずだし」
「へぇ……、え? あれ、狭間にいるのは土蜘蛛だけなんですか?」
「基本はそうよ。付喪神は中津国にいることが許されてるからね。妖怪と言ったほうが、恭成くんには解り易いかしら」
「……ですよ、ね。じゃぁ」
どうして雪花は狭間にいるんだろう?
心底不思議そうに零れた言葉に、真琴は呆れたような表情を浮かべた。
「そりゃぁ、あんたの力の大半を、あの子が封印してるからじゃないの」
え、と目を丸くした恭成に、真琴は意外そうに軽く眉を持ち上げる。
「あら。知らなかった? あっちは中津国の裏側だからね、そういうのに都合がいいの。こちらに影響が出ないのよ」
今だって、と恭成の胸元を指した。
「あの子が眠ってしまっているから、殆ど気配を感じないでしょう? そもそも雪花は、恭成くんの故郷に神躰を封じられているという話だから」
首を傾げた恭成に、真琴は「ヒトで言う肉の器ね」と付け加える。
「中津国で活動する上で、霊性を保護するモノ。あやかしものなら、本性にあたるかしら。今の雪花は、和御魂だけ剥き出しなのよ」
「それで、支障なく活動出来るんですか?」
雪花が出てこられない理由は、そこにもあるのでないだろうか。そう思ったのだが、真琴は「神格が高ければ、問題はないでしょうね」と小さく肩を竦める。
「但し、神躰から遠く離れることは出来ない。雪花が契約したのも、それを考慮してだと思うわ」
「僕を介して出てこられるから、ですか?」
「正解。まぁ、それを加味しても弱々しいけどねぇ」
契約の鎖だけでは力が足りないのかしらね。
小首を傾げてひとりごちる真琴に、そうですね、と頷いて。恭成は手にしていた本を山の上に更に積み上げた。
「長くこちらに具現していられないみたいですからね。随分用心してるようだったのは、その所為かな」
そう、と。相槌を打ちながら僅かに眉を寄せた真琴を見上げ、小首を傾げる。何か、おかしなことでも言ってしまったのだろうか。
「そもそも、天津神と国津神の差ってなんですか? 神格の差だけ?」
質問を向けると彼女は瞬きをして、そうね、と頷く。
「それが定説なのは確か。土蜘蛛が最下層の神格だと言われてるわ。かつて神格の差は力量を指していた。だけど、今はどうかしら。中には天津神に勝る土蜘蛛もいるからね」
ざわり、と胸の奥に不穏な気配が漂った。それを無理矢理に押し込めた恭成は、低い声で確かめる。
「ヒトを喰らっているから、ですか」
「葉髞に聞いたの?」
驚いたように問い質す真琴は、恭成が頷くのを見て僅かに渋い表情を見せた。
「今はあまりないようだけど。狩り人でも喰われることがあるし、普通の人でも力の強い人は喰われることもあるわね。大体奴らは餌呼ばわり……」
憤慨したような真琴の声が遠退いた。自分の一番深い所がざわめき、意識の奥で極彩色の幻が舞い踊り光がちらつくのを感じて、恭成は目眩を覚える。
くつり、と耳元で何かが笑った。振り向く間もなく強く腕を引かれて、背中を浮遊感が突き抜ける。
「恭成くん?」
ぽん、と真琴が肩を叩いた。途端に意識が引き戻されて、恭成は慌てて自分が現在いる場所を確認する。そこは変わらず蔵の中で、いつの間にか恭成の前に膝をついていた真琴が、訝しげに顔を覗き込んでいた。
白昼夢に、取り込まれそうになった。
気づいた途端、薄ら寒い感覚が背中を滑り落ちる。腕には生々しく掴まれた感触が残っていて、思わず擦ってしまう。真琴に呼ばれなかったら、どうなっていたか。
「……どうした? 平気?」
「あ、はい」
気を取り直し、大丈夫です、と頷く。「そう?」と小首を傾げた真琴は、何かを探すように視線を書架の方へと向けた。
「ヒトを補食するのは国津神ね。土蜘蛛と、一部あやかしもの。とはいえ、殆どの付喪神は気性が穏やかよ。時々悪戯でヒトを驚かせるなんて、茶目っ気があるくらい」
各地に残る伝承に見られるあやかしものたちの殆どは、『其処に在る』モノばかりだ。いつの間にやら紛れ込んで子供の遊びの相手をしたり、縁側に居座りちゃっかりお茶を飲んでいったりと、ヒトビトの中へ溶け込んでしまっている。稀に危害を加えるモノもあるが、大体は共存して住み分けているのだ。
「そういう部分は、僕が知ってる妖怪話と変わらないんですね」
「そうねぇ。今は少なくなってるとはいえ、勘の鋭いヒトはいるものだから。好意的に伝えられるのは、それだけヒトの方も、親しみを持っていたってことでしょうね」
目的の物を見つけたのか、真琴が立ち上がり踵を返した。そうして、少し離れた書架へと歩み寄って、本を数冊引き出してくる。
「それはそうと。恭成くんなら、これの方が為になるんじゃないかしら。そっちが終わったら読んでみなさい」
差し出された和本は、相当年数を経ているのか、表紙に手擦れが見られた。掠れているものの、古い仮名遣いで書名が記されているのが見える。
「二ノ宮家狩人史書、ですか?」
「松山家討伐記と双璧を担う、実戦指南書」
読み物としても面白いよ、と笑う。相槌を打ちながら受け取った恭成は、頁を捲ってざっと字面を目で追った。確かに、文体は少々装飾的な活劇調だ。そう言うと、彼女は可笑しそうに言葉の端へ笑みを含ませる。
「双方とも、代々優秀な能力者が多く輩出されている名門だからね。事例に事欠かなかったんでしょう。二ノ宮は護る方だから、恭成くん向きだと思うわ」
身を護る術を学ぶと言う点では、確かに参考になるだろう。本を閉じて読みかけの一山の方へ視線を向けた恭成は、ふと思い出したように顔を上げた。
「狩り人はみんな、天津神の血族なんですか?」
畑佐家口伝土蜘蛛草子神代之章を積み上げた山へ一瞥くれた真琴は、口許へ苦い笑みを浮かべて「どうだか」と呟く。
「かなり怪しいと、あたしは思ってるけど。畑佐は束ねる側だから、なにかしらの大義が欲しいんじゃないの」
大義、と呟いた恭成に、真琴は「そう、大義」と小さく肩を竦めてみせた。
「自分たちは卑しくない、そう言いたいのよ。大概の狩り人は、神喰いをして力を得てるはずだから」
「神喰い……ですか?」
「そう。神々を喰らって、その力を我が物とする。太古には、そういうことが行われたの。ヒトだって、畏れ多くも神を喰らってたのよ」
喰うとは言うが、実際は吸収だとか取り込むだとか言った方が正しいのだろう。そうして力を手に入れた幾人かが、狩り人たちの始祖となった。
「そんなこと、出来るんですか?」
「今のヒトには無理ね。狩り人はどうかしら」
苦笑を浮かべ、真琴は恭成と向かい合わせて座る。
「畑佐の話は聞いた?」
「いいえ」
「畑佐家はね、あたしたち狩り人を統括する御屋形様なの。跡を取るのは代々姫で、屋号は月。だから月姫と呼ばれるわね。本家の姫は、名前に月の字を頂くことが多いかしら」
「その人の下で働くんですか?」
「昔はね。既に、主従関係は形骸化してるわ」
これは、と細くて長い指で積まれた草子を指す。
「主にどうして畑佐が貴いのかを有難く綴ったものなの。半分は胡散臭いと思うけど、今の狩り人の立場と成り立ちを見るには、いい教科書だと思う」
「二ノ宮家というのは、どういう人たちなんですか?」
「あたしたち月派とは別の組織を束ねる、御屋形の家系よ」
うちとは似て否なるものね、と仄かに笑って、すぐに表情を消してしまう。
「屋号を月影といってね、あちらも基本は姫を据えるの。本家の姫様方は代々、姫の字を名に戴いてるわ。現在、月派との交流は無し」
ところで、と言葉を次ぎ、真琴は自嘲気味な笑みを口許に浮かべた。
「松山と二ノ宮は、共に高い能力を有していると言われてる。その理由は同じ。何故だかわかる?」
「ええと。……神喰いに関係あるんですか?」
尋ねると、真琴は途端に愉快そうな表情を浮かべた。それはそのまま声にも表れる
「理解の早い子には、教え甲斐があるわねぇ。うちと二ノ宮は、一等神々を喰らったとされてるの。その所為なのか、男児が生まれにくいのよ」
そして松山家の狩り人は、その特異性から一様に異能者の烙印を押される。過去に数える程しか出現しなかったらしい男児は殆ど伝説の域を出ない存在なのだという。
時代は下り、一族の中でも飛び抜けているとされるのが葉髞らしい。かつてはそこに、桃真も名を列ねていた。
ところで、狩り人とは言うものの、現在に於いて実際に狩る力量を備えた人物は限られている。そんな昨今の事情により、狩り人が契約に関する仕事を請け負う時は、契約の破棄に主眼をおく。つまり、手順を踏んで契約の鎖を断ち切るのだ。
松山家でも同じく破棄の手順を踏むのだが、葉髞は一切の手順を必要とせず問答無用に鎖を断ち切るし、土蜘蛛によって強固に護られた御神体すら壊してみせる。それは、桃真も同じだったらしい。故に、この二人は特に異能であると言われるのだ。
「真琴さんも、ですよね?」
「さぁ? あたしは、あんまり表に出ないからね。そういうのは、全部桃真が被ってくれたから」
案外知られてないかもね、と笑う。そんなものなのか、と曖昧に頷いた恭成は、あることに気付いてしまった。
「狩り人の始祖は神喰いをしたってことは、僕の祖先も?」
「可能性はあるよ」
あっさりと肯定し、背筋を正し真直ぐ恭成を見据える。その清廉とした佇まいを前に、恭成も姿勢を正した。
「狩り人の術とは、神々の力の一端。森羅万象ありとあらゆるものを司る神々の力を、そのまま受け継いでいるの」
それが例えば雪花ならば、火ノ神に関する術を引き継がれるらしい。喰らった数が多ければ多いほど、潜在力は膨大になる。それが神々の場合では様子は異なり、純粋に力の底上げとなるのだ。
「あれ? でも、狩り人は弱体化しているんですよね」
過去にそうして得た力なら、再び同じようにして補うことは考えなかったのだろうか。そう尋ねると、真琴はふと苦笑を浮かべた。
「やらなかったんだろうし、これからもやらないでしょう。これ以上ヒトから外れるのは、とても怖いことだから」
重い言葉が胸に落ち込む。怖いこと、と反芻する恭成を見つめていた真琴は、ふと視線を外して蔵の外を見た。
「菊羽が来たみたいね」
御飯にしましょう、と真琴は裾を払って立ち上がる。続いて立ち上がった恭成は、ふと思いついたことを尋ねた。
「神喰いは、神様同士もするんですよね?」
「そう、共食いね」
「それは、天津神も?」
果たして、真琴は首を傾げた。
「どうだろう。聞いたことはないけど。元々同じモノなんだから、喰うこともあるんじゃないかしらね」
その辺りは雪花に聞いた方が早いわよ、と朗らかに言われて、それもそうだと苦笑する。
書斎を出たところで「こんにちわー、お邪魔しまぁす」と元気な声が聞こえて、居間で菊羽と鉢合わせした。
「いらっしゃい、葉髞はどうしたの?」
「まだ母様に叱られてるんじゃないの? 先に行ってろって電話掛けてきたもの」
手に提げていた荷物を持ち上げて、小首を傾げる。
「天野さん、暫くこちらにいるんでしょう? 事務所の御節持ってきました」
「有難う、ごめんね?」
いいえ、とかぶりを振って、菊羽は真琴へ視線を向ける。
「真琴姉様のことだから、新年でも炊事しそうですけど」
「いいのよ、そういうのは。あたしには関係ないんだから」
軽くあしらった真琴は、菊羽から荷物を受け取って、感心したように恭成を見上げた。
「ちゃんと家事してるのねぇ」
「必要なことだけは。御節は頂き物ですけどね」
「あら。いいひとでもいるの?」
「残念ながら。下宿の管理人さんの差し入れです」
「ですって。よかったわねぇ?」
意味ありげに笑う真琴に、菊羽がむくれて顔を背け、台所へ駆け込んでゆく。その様子にころころと笑い声を上げた彼女は、恭成を見上げて「手伝って頂戴」と促した。
◇◆◇
葉髞が訪れたのは夕方、陽が赤々と雲を染める頃だった。
居間へ顔を出すと、真琴が鼻唄を歌いながら針を動かしている。テーブルに手荷物を置きながら覗き込むと、どうやら恭成の長着を掛接ぎしているらしかった。
「お帰り。姉さんは、どうだって?」
顔を上げずに尋ねる彼女の向かいに腰を下ろし、特に何も、とかぶりを振る。
「こっちも、いまいち事情がわかってないからな。現時点でわかっていることの報告だけで解放された」
真琴に言われただろうから、わたしからは何も言わないわ、と。顔を合わせた途端に言った当主は、帰り際に一言だけ投げかけてきた。
次はないと思いなさい、と。
跡を取るからには、その言葉の重さをしっかり刻み込まなければならないのだ。忘れていたわけではないけれど、さほど重く受け止めていなかったのも事実で。真琴に叱られたことよりも、感情に乏しい母のその一言の方がよほど堪えた。幸運は何度も続くとは限らないのだ。
ヒトとの出会いは、常に一期一会だと理解すること。それは、幼い頃から何度も言い聞かせられてきた事だった。出会いとは、常に儚いものなのだと。
「あんたの情報網は?」
聞きに行ってきたんじゃないの、と視線を上げる。
「あまり収穫はなかった。その時代のことは、全部又聞きらしい。それより、琴姉」
本当にククリ姫について知らないか、と真顔で尋ねると、彼女は心外そうに眉を持ち上げた。
「あんただけなら兎も角、他人様に迷惑掛けてまで知らん振りするわけないでしょう」
「それも大概酷いぞ」
「一体、どういう了見?」
軽く眉をひそめた真琴をじっと見つめた葉髞は、ため息混じりに言葉を吐き出した。
「どうも、二十年前にククリ姫を無力化したのは、桃兄らしいんだ」
とは言え、おまえさまが知らないなんてね、と意味ありげに含み笑いをした情報屋から引き出したアレコレを元に、推察した可能性に過ぎないが。彼らは確かにククリ姫の時代の事までは知らないが、狩り人がばたばたと騒いでいた頃があったことは承知していた。
途中までは面白可笑しく見物していたそうなのだが、権力のアレコレに絡み始めたので興味を失い、詳しいことは知らないと言うのだ。
しかし彼ら曰く、くだらないゴタゴタの周りを、桃真が走り回っていたことだけは把握していた。どうやら、あやかしものたちは彼に友好的な感情を抱いていたらしい。
これには流石の真琴も驚いたようで、目を丸くしている。
「呆れた。珍しく好い加減な仕事したのね」
「確かに。桃兄にしては杜撰だな。仕事に関しては、きっちりしてる人だったのに」
この辺りも、羽依子から聞けるだろうか。あの時の口振りを思えば、彼女は間違いなく桃真を知っているはずだ。
他に拾えた情報はないのかと促されて、もう一つだけ興味を引いた話を披露する。
ククリ姫の首塚には、肝心の御首なぞ納められていないと言うのだ。
「へぇ? ちゃんと土蜘蛛になってるのかしらね? でもあの子は、ククリ姫を荒御魂だと言ったんでしょう?」
「当事者に直接聞くさ。下手な推測は邪魔だ」
「あら、殊勝だこと。肩肘張ってた青二才が、どういう風の吹き回し?」
にやりと口許に笑みを浮かべて真琴が茶化す。
「学んだと言ってくれ。ところで、天野と菊羽は?」
姿が見えないな、と気配を探るように視線を滑らせる。果たして真琴は、台所の方向を指差した。
「夕飯の仕度してるよ。菊羽が、世間様の年越しがしたいって言い出してね。夕飯は年越蕎麦なんですって。初詣も行きたいそうだから、連れていってあげなさいね」
「菊羽は兎も角、天野は大丈夫なのか? 腹の傷は」
「うちにいるから、治りは早いと思うよ。頬の傷は殆ど消えてるでしょう。失血の影響もなさそうだしね」
よし、と満足そうに針を置く。長着は繕うことが出来るが、縮毛の外套は使い物にならないだろう。同じことを考えたらしい真琴は、思案げに首を傾げた。
「父さんのとんび、恭成くんなら丁度いいんじゃないかしら。あれ、出してあげなさい。そのまま使ってもらえばいいから」
「衣装部屋か?」
「長持の中。良い物だったから残してたけど、あんたも桃真も丈が足りなかったからね。仕舞い込んだままだから、ちょっと防虫香臭いかもしれないけど」
丁寧に手で均して生地の具合を見た真琴は、ふと苦笑を浮かべた。
「あの子なりに、適応しようとしてるみたいよ。身を守る術と割り切って、いろいろ教え込もうと思って。多分、うちの符術が向いてると思うのよね」
「悪くないと思うが、雪花は承知しないんじゃないか?」
そうよねぇ、と嘆息する。
今は、雪花が契約の元に様々なモノを大切に抱え込んでしまっている状態だ。その御蔭で見聞きする程度に力が抑えられているが、本来は真琴に及ぶ力を持っているのだろう。それを抑え込むということは、雪花にとっても相当の負担となっているはずだ。
彼女は、土地に封じられたと言っていた。その時点で、本来の力も殆ど失ってしまっていると考えられる。それを差し引いても酷い衰退ぶりは、契約と何らかの理由が重なって、大きく力を殺がれてしまった可能性を示唆している。
禁忌に触れたか、穢れを受けたか。
眠り続けても復調できない程に。問題は、恭成が抱えているモノの正体だ。
「手放してくれたら、もう少しやりようがあるんだけど。雪花だって、あっちに引っ込んだままにならずに済むかもしれないし」
「かといって、こちらの説得には応じないだろうな」
まるで掌中の玉だものね、とため息でもつきたげな表情を浮かべた真琴は、テーブルに置かれた荷物に改めて気が付いた。
「それにしても、大荷物ね」
不格好に膨らんだ風呂敷包みからは、いろいろな物が飛び出している。それをしげしげと眺める真琴に、葉髞は軽く肩を竦めてみせた。
「母さんに食材持たされたのと、ついでに歳暮に貰った酒一本持ってきた」
真琴のことだから、きちんと備えているはずがないわ。
大真面目な顔でそう言い切った当主は、玄関先に引き止めた息子に、もう一度訪ねるようにと厳命したのだ。
果たして夕方近く訪れた葉髞は、待ちかまえていた母にあれこれ荷物を押し付けられたのだった。その殆どが食材、しかも調理済みである辺りに姉心を感じる。
真琴宅へ到着するのが遅れに遅れたのは、そういう理由もあるのだ。
「信用されてないな、琴姉」
「余計なお世話」
半眼で応じて、やれやれと嘆息する。そうして、頬杖をついてひらひら手を振った。
「姉さんが心配性なのよ。今夜は泊まっていくんでしょう? あんたは恭成くんと同じ部屋使いなさい」
「あぁ。そのつもりで先に荷物放り込んできた」
立ち上がり、荷物を持って台所へ向かう。覗き込むと、何故か菊羽がじたばたしているところだった。
「……何やってるんだ」
「あ、お帰りー」
恭成が振り向いてにこりと笑う。その横で、菊羽は菜箸を片手に振り返った。
「兄様狡い! こんな美味しいもの、毎日食べてたの?!」
何のことだと訝しげに眉根を寄せると、恭成が鍋の中身を指差した。出汁と醤油の香りがするそれを覗き込むと、とろりとした餡の中で野菜とそぼろがくつくつと煮立っている。
「今日は寒いし、あんかけ蕎麦にしようと思って」
「あぁ、なるほど」
確かに旨そうだな、と頷くと、菊羽は菜箸を両手で握りしめ、真剣な面持ちで「絶対これ覚えます!」と宣言する。彼女へ適当に声援を送りながら台所を見回せば、食卓の上にきちんと年取膳の食事も揃えられていた。手荷物を空いた所へ置きながら恭成を見ると、彼は苦笑を浮かべる。
「一応、ね。それ、どうしたの?」
「母さんから預ってきた。やっぱり昆布巻も入ってるらしいぞ。ついでに、酒も一本事務所から持ってきた」
「有難う。あ、そうだ。明里さんがね、桃真さんにもお酒供えてあげてって」
お猪口一杯でいいからだって、と笑う恭成につられて苦笑する。
彼女もこちらに関わる人間だから、魂の輪廻については承知しているはずだ。しかし、これも心情の問題なのだろう。
「ねぇ、お屠蘇どうする? 一応、菊羽ちゃんに屠蘇散は買ってきてもらってるけど」
「縁起物だろ、作っておけばいいじゃないか」
「味醂とお酒、どっちがいい?」
「あたしは味醂がいいです!」
すかさず返してきた菊羽に、葉髞は肩を竦める。
「うちは毎年、酒だからな。たまにはいいんじゃないか?」
「じゃぁ、そうしようか」
やったぁ、と菊羽が歓声をあげる。苦笑を浮かべた葉髞は、恭成と視線を交わらせると、小さく笑い声を零した。