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例年よりも冬の到来が早く、今冬初めての雪が降った翌朝、それは見つかった。
発見したのは、丁稚奉公の少年。幸か不幸か一晩降り続いた新雪に覆い尽くされていて、一目でそれとは判らなかったそうだ。
見慣れぬものが庭にあるぞと下りて行き、手で軽く雪を払って初めて気がついたらしい。こうして、気の毒にも彼は無惨な屍体と対面する羽目になってしまったのだった。慌てて変事を伝えに母屋へ走り、家人が警察に通報するに至る。
被害者は、同じくその家に奉公に出ていた青年との事で、犯人は未だに捕まっていない。これだけを見れば、立派な猟奇殺人事件だ。しかし、その手口や屍体の有り様は人間業ではないと、カストリ誌まで巻込んで世間を賑わせた。
けれど。
ヒトというのは元来、飽きっぽい生物でもある。この事件も、早々に人々の記憶から薄らいでしまうだろう。
そう。それで、終わるはずだったのだ。
◇◆◇
物騒な世の中ですよねぇ、と嘆息して、諸岡威は万年筆を机の上に放り出した。書きかけの原稿用紙の上を転がったそれは、好い加減使い古されて傷だらけになっている。
曰く、記者だったじぃさんの形見の万年筆は、未だ現役で愛用されていた。一度借りた折り、その書き味の良さや、インクの色の素晴らしさに感心してしまった逸品である。使い古されているが、手入れは欠かしていないのだろう。
「年末だから、浮き足立ってきてるんでしょうか」
「あぁ、小競合いとか多いですもんね。天野さんも気を付けてくださいね」
心配そうに言われて、恭成は思わず苦笑を浮かべてしまった。優しげな容姿をしているからか、昔からこうした忠告を受けるのだ。学生時代の友人たちが聞いたら、心配無用と声を揃えることだろう。
「有難うございます。諸岡さんこそ、気を付けて」
「大丈夫です! 僕、逃げ足だけは早いんで!」
自信満々に宣言して、彼は複雑そうな表情で手許の校正紙を弄ぶ。それは先程まで彼が文字校正をしていた物らしく、所々赤字の書き込みがされていた。その題字には、くっきりとしたゴチック体で猟奇殺人と印字されている。
「物騒な世の中だからこそ、僕らブン屋は飯の種にありつけるんだって。先輩たちにそう言われるんですけど。こういう忙しさって、なんだか気が引けるんですよ」
うむむむ、と生真面目な表情で唸る彼は、その先輩記者たちに「人が良すぎる」と心配されているのだ。いつでも真面目で素直な彼は、記者室最年少ということもあって、みんなに可愛がられているのだろう。
地方新聞とはいえ、帝都の大きな新聞社の支社という名目のこの新聞社は、この辺りでは一番大きく有名な新聞社だと言える。堅実な誌面作りに定評があり、購読者数もかなりの数にのぼるものと思われる。そんな紙面で、恭成はコラムの連載を持っている。彼が気軽に社屋へ顔を出せるのもそのためだ。
広い記者室を振り返れば、いつにまして閑散としている。年末の忙しい最中だというのに室内何処を見ても乱雑に荒れていないのは、今のところ一番下っ端の諸岡が、隙を見て整頓しているからだろう。
横から記事を拾い読みすれば、『冬の初めに起った事件と同一犯か』という小見出しから始まったその記事は、事細かに状況を説明している。縦に裂かれた屍体だの、足跡が残されていない現場だのと不可能が紙面いっぱいに躍っていた。
「前の事件も思ったんですけど。まるで、怪奇探偵物の領分ですよね」
「いくらなんでも突飛すぎますよう。小説で読んでも、僕ならまず笑います」
人間業とは思えないし、と諸岡は眉間にしわを寄せて呟く。もしこれがトリックを駆使したものだとしたら、恭成としてはあやかりたくもあるのだが。
「こういう時に、探偵小説みたいに華麗に事件を解決してくれる名探偵とかいたらいいのになぁ、なんて思いますけどねー。現実は……」
苦笑を浮かべながら呑気な口調で言いかけた諸岡は、ふと口を噤んだ。
「……いや待てよ。そういえば最近、噂で聞いたなぁ。評判の探偵がいる、とかなんとか。なんて名前だっけ? え〜っと、確か、ま……まつ……」
「松山?」
恭成の合の手に諸岡は手を打ち、「そう、それです!」と頷く。
「如何なる難事件でも鮮やかに解いてしまう名探偵! だとか。天野さんも、何処からか聞いたんですか?」
「いえ。多分その人、僕の知人なんですよ」
学生時代、特に親しくしていた友人の叔父も、探偵を生業としていたはずだ。ありふれた姓ではあるが、同じ界隈に同姓の探偵が何人もいるとは考えにくい。
「へぇ、探偵小説家の知り合いが名探偵! すごいですねぇ」
「知人と言っても、一度お会いしただけなんですけど。お元気かなぁ。すごく楽しくて、いい人だったんです」
松山探偵と知り合ったのは、まだ学生の頃。作家になろうと心に決めて、複数の地元出版社へ作品の持ち込みを始めた頃だったと記憶している。確か、友人と二人で街を歩いていた時に、彼が甥っ子に気づいて声を掛けてきたのだ。
友人と少し雰囲気の似ていた松山探偵は、彼よりもずっと気さくな人柄で、朗らかな人物に見えた。恭成の志を聞いて面白がった彼は、「役に立つかもな」と探偵業について、差し障りのない範囲で聞かせてくれたのだ。その話し方は機知に富んでいて、とても面白かったのをよく憶えている。
友人から、松山探偵が恭成のその後を気にしてくれていると聞いたのは、それから暫くしてからだった。それが何となく意外で、憶えていてくれたことが素直に嬉しかった。だからその後、作品が初掲載された雑誌をお礼も兼ねて一冊進呈したのだ。それ以来、連絡を取ることはなかったが、今頃どうしているだろう。巷の噂になるのだから、元気に活躍しているのだろうか。
そういえばその友人とも、学校を卒業して以来この数年、連絡を取っていない。叔父を手伝うと言っていたが、見習いとして忙しく働いているのだろうか。まさか、事務員をしているなんてことはないだろう……多分。
「探偵といえば、本業の調子はどうですか? 新作の構想とか、掲載予定とか」
期待に満ちた表情で尋ねられ、恭成は苦笑を浮かべた。
「一本、出版社預かりになってますけど。そろそろ見切りをつけて、次に取りかからなきゃ駄目みたいですね」
そうなんですか、と残念そうに相槌を打つ諸岡の手元を覗き込み、恭成も質問を返す。
「それより、今度はどんな話なんですか?」
恭成が楽しみにしている不定期連載に、地方頁の昔話がある。地元を中心に、近隣に伝わる不思議な話を集めた物なのだが、その担当を数カ月前に諸岡が引き継いだばかりなのだ。本人は苦心しているようだが、彼に代わって以来この連載に体験談を面白おかしく記した物や妖怪話も増えて、子供からの感想投書が急増したらしい。
「あー、ええと。まだちょっと悩んでるんですけど。多分、これにすると思います」
やや渋い表情を浮かべた諸岡は、原稿用紙の束を手元に引き寄せて文面を見せるように差し出した。新聞社の名前が入った特別製のそれは、恭成にも与えられている専用の物で、文字数を定める升目を新聞組版の文字数に合わせてあるものだ。恭成の場合、この原稿用紙二枚分に収めるようにするという規定がある。文字分量を考えると、諸岡の場合は三枚分くらいだろうか。書き慣れていない人間にはなかなか埋めるのは大変な量だろう。
「ククリ姫、ですか? どこかで聞いた憶えがあるなぁ。日本神話……だったかな?」
題字を読み上げ小首を傾げる。肝心の本文はまだ真っ白なため、それだけで内容を想像することは出来ない。
「同じ名前の神様がいるんですよね。縁結びの神様でしたっけ? どっちも菊理姫って書くみたいですよ。こっちのククリ姫は、本当はキクリって読むらしいですけど」
どこだったかな、と呟きながら机を振り返る。机の上には特徴のある彼の癖字が躍った取材帳がいくつも積み重ねられているのだが、引っ掻き回されてその中の一山が傾れを起こしてしまった。
「これも、この土地の昔話ですか?」
落ちかけた筆記帳を受け止めて差し出す。「あ、すみません」と頭を下げて受け取った諸岡は、それを山の上へ無造作に置くと、目的の筆記帳を引っ張り出した。
「はい。戦国時代に、実際にいたお姫様だそうですよ。地元の人間なら、多少なりと聞かされる話で……ええと」
筆記帳をパラパラ捲り、目的の頁の記述を指で辿る。
「うちのばぁちゃんが言うには、キクリがだんだん訛ってククリになったんじゃないかってことらしいです」
「情報提供者は、お祖母さんなんですか」
「いや、この話は斜向かいの大城さんちのばぁちゃんです。今年九十の長老で、生き字引って呼ばれてる人なんですよ。地元の昔話に滅法詳しくて」
良くお世話になってます、と笑った諸岡は、筆記帳の山を振り返り苦笑を浮かべた。
「どういうわけか、昔っから近所のご老人たちに可愛がられてたんですよ。蜜柑とか干し柿とかにつられて、よく遊びに行ってましたけどね」
彼らが大きな身振りを交えて話してくれるのは、自分の体験談や人に聞いた不思議な話。無気味な話やワクワクする話もたくさんあって、そんな話の数々は不思議と憶えているのだと笑う。
「このネタ集めもその延長なんです。小さい頃に聞いた話は流石に、細かい所はちょっと曖昧で。ククリ姫のときは、葛湯ご馳走になりながら聞いてましたもん」
「聞き手として理想的なんじゃないですか? 諸岡さん、どんなことでも熱心に聞いてくれるでしょ」
「ははは、根が単純ですから」
照れ笑いを浮かべた諸岡は、手の中の筆記帳を手の甲で叩く。
「面白い話は、全部書き留めてるんですけどね。じぃちゃんたちの時代から僕たちの世代って、半世紀ちょっとしか違わないじゃないですか。それなのに、変な話が多いんですよ」
「変、というと?」
「妖怪とか、狐狸の類いですね。座敷童子と遊んだことがある、とか。戯れてる狐に石投げたら、あとで仕返しに化かされたとか」
こういうの、どう思います?
子供のような表情で興味深そうに尋ねる諸岡に、恭成は小首を傾げて「そうですね」と考えを巡らせる。
「近代化の弊害……と言うのも変かな。昔はそういうのを、もっと身近に感じてたんでしょうね。子供の夜泣きも、夜の闇の中に某かの声を聞くからだ、なんて言うでしょ」
「あぁ、分かる気がするなぁ。僕も、ちっさい頃は夜泣きが酷かったらしいです。夜って、なんとなく恐かった」
「今ほど明るくなかったでしょうしね。果ての見えない闇の中に、何かがいてもおかしくないと考えてしまうんですよ」
「はぁ、なるほど。天野さんって、やっぱり妖怪とか信じてます?」
「いるのかもしれませんよ? 僕らが気付いてないだけで」
そう笑う恭成に、素直な諸岡は「う〜ん、そうかぁ」と腕組みしつつ頷く。
「そういうのを否定してしまったら、民話も大方が否定されてしまいますからね。あったのかもしれない、と言った方が夢があるでしょう?」
壁掛時計を見上げると、時刻は三時を少し過ぎたところだ。いつの間にか二時間近く経ってしまっている。
「そろそろ失礼します。これ以上仕事の邪魔したら、怒られちゃいますからね」
戯けて言って、立ち上がる。そんな恭成を見上げて、諸岡は苦笑を浮かべた。
「すみません。筆が遅いのを、天野さんの所為にしちゃってるみたいで」
「いえいえ。言葉の選び方は上手ですから、慣れればいくらでも書けるようになりますよ。それじゃぁ」
「はい。有難うございます、お気をつけて」
ひらひら手を振る諸岡に小さく会釈を返し、記者室を後にする。数人すれ違った記者たちと会釈を交わし、恭成は新聞社屋の玄関で外套を羽織って扉を開いた。途端に寒風が前髪をさらい、その風の冷たさに身震いをする。
今年の冬はどうやら寒さが厳しいらしく、あまり雪の降らないこの地方にも、ちらちらと白いものがちらつくことが度々あった。空を見上げれば、今日も目につくところに雪雲が流れてきている。
夕刻には降り始めるかもしれないな、と目測し、恭成は嘆息した。この分では、彼の故郷は豪雪に見舞われていることだろう。どちらにしろ、郷里帰りは出来ないのだけど。
ぼんやりと次作の構想を練りながら歩いていた恭成は、すぐ目の前を横切った影に驚いて足を止めた。目で追った先に、壁の中に溶け込んでいくモノを見つけてため息をつく。
いるのかもしれない、だの。その方が夢がある、だの。よくも言ったものだと、我ながら呆れてしまう。諸岡にはああ言ったけれど、ただ狐狸妖怪の類いを頭から否定できないだけなのだ。
昔から、この世ならざるモノを視ることがある。うっすらと何かが見える時もあれば、かつかつと足音だけが聞こえることもあった。耳は絶えずさわさわとした彼らの囁きを、はっきりと言葉として認識できることの方が稀だが、捉えている。近頃は増々際立っているように感じることもあるけれど、それが彼にとっては当たり前のことなのだ。
ただ、それは他人と共有できるものではないだけで。
あれらは、見えないからこそ親しまれるモノなのだ。近代化を推進する昨今、特に都会に分類される地域では、見世物扱いされるのがオチだろう。
新聞社がある賑やかな表通りから一本奥へ入った所に、下町情緒溢れる住宅街が広がっている。その一画は洋館を含めた新興住宅が軒を列ねる新町で、恭成の下宿もその直中にあった。駅から徒歩二十分、洒落た和洋折衷洋館造りの下宿屋だ。
下宿屋とは言うものの、実際は近頃増えてきたアパートメントの安価版と言ったところだろう。ガス、水道設備は各部屋事に設置されているが、厠は共同。内風呂はなく、近所の銭湯へ通わなければならない。賄い付きの共同住居よりも食費を納めない分だけ安価だが、巧く切り回さなければ余計に費用がかかるとも言える。
洋風の洒落た門扉を過ぎると玄関先まで石畳が敷詰められていて、ちょっとした前庭が拡がっている。そこにはいつものように庭掃除をする管理人がいて、彼女は楽しげに鼻唄を歌いながら、節に合わせて箒を動かしていた。
長く管理人をしていた三笠女史が急逝した折り、同居して仕事を手伝っていた姪の羽依子が跡を引き継いだ。伯母が亡くなって天涯孤独となった彼女だが、家族同然に暮らしている下宿の住人たちと楽しく過ごせているようだ。
からころと石畳を噛む下駄歯の音に気づいたのか、ふと歌が止む。顔を上げた羽依子は、恭成の姿を認めて微笑んだ。今日も地味な縞御召しに割烹着をしているが、色の差し方が巧いのか、楚々とした美人は何を着ても様になる。
「お帰りなさい、天野さん」
「ただいま帰りました。ご苦労さまです」
いつものように挨拶をして、玄関の大扉を潜る。外観から見て取れるように、内装も見事な西洋建築だ。玄関の真正面に据えられた階段と、左右に伸びる廊下は磨き込まれた飴色をしていて、白壁との対比が美しい。足下を見ればきちんと履物を脱いで上がるように作られていて、下駄箱の脇には電話機も備え付けられてる。ここに置かれているのは、近所の人も電話を借りに来るからだ。
「おや。お帰りなさい、恭成くん」
階段の途中で、上から声をかけられて振り仰ぐ。二階の手摺から隣人の久喜雄大が身を乗り出しているのが見えた。
「ただいま帰りました、今日は早いんですね?」
「明日から休みに入りますからね、今日は半ドンです」
穏やかに笑み、階段を下りてくる。
恭成が下宿生活を始める以前よりここに住んでいた隣人は、今のところ二番目に親しい下宿人だ。蜻蛉眼鏡を掛けた顔は面長で、普段は整わない頭髪も相まって、恭成よりもよほど物書きじみた風貌をしている。その彼が珍しく髪を整え、タイまで絞めて外套を手にしている姿を一瞥して、恭成は首を傾げた。
「どこかにお出かけですか?」
「えぇ、まぁ。野暮用と、学者センセイのお使いに」
軽く肩を竦めてみせて、踊場で立ち止まっていた恭成の前で足を止める。
「先生は明日から別荘だそうですよ、羨ましい。恭成くんは、今年は帰省するんですか?」
「いいえ。いつものように部屋に隠って、しこしこ原稿用紙の升目を埋めるだけです」
「また掲載されたら教えてくださいね。必ず買いますから」
それじゃぁ、と会釈した久喜は、恭成の横を擦り抜けて階段を下りていく。その後ろ姿へ「いってらっしゃい」と投げかけて、恭成は二階へと上がった。
一階と同じく、左右に伸びた廊下は飴色の板の間で、同じ色の腰板が壁に貼付けられている。硝子を嵌めた窓も洒落た枠の物で、これらは外開きでなく上へ押し上げて開けるようになっている。二階には五室あって、恭成の部屋は階段を上って左側すぐだ。
袂を探って真鍮の鍵を取り出した彼は、かちりと軽い音を立てて錠を開けると、自室の扉を開いた。
自炊が出来る設備と、四畳半の部屋が一間。外観から廊下の隅々まで完璧な洋館だというのに、各部屋は畳敷きで押入付だというのは御愛嬌だろう。ただ、やはり窓は洋風の洒落た物でカーテンがかけられていたし、壁は土壁でなくて洋建材を用いている。前管理人に聞いた話では、元々は完全な洋館であったのを、大家が下宿屋を開くときに改装したらしい。
住人によって室内はそれぞれ個性が表われるが、恭成の部屋は慎ましく整えられている。ざっと室内を見渡して目に入るのは、窓際の文机と、本が溢れた書棚、小さな箪笥の横には古びた茶箪笥と、卓袱台がある。今は冬なので、その横に火鉢と陶製の小さな置炬燵が置かれていた。それらは住人の性格か、きちんとあるべき場所に納まっていた。
脱いだ外套を壁に掛け、火鉢の灰に埋まっていた種火を掘り起こす。炭を焼べたところで部屋の扉をこつこつと叩く音がした。
「天野さん、今、いいですか?」
「椿ちゃん? どうぞ、開いてるよ」
応えるとすぐに扉が開き、小柄な娘がひょっこりと顔を覗かせた。高い位置で一つに結わえた緑の黒髪が、さらりと肩を滑り落ちてくる。父親似だと言う彼女の、唯一母に似て大きな目は、表情豊かにきらきらしていた。
「お帰りなさい。帰ってくるの、待ってたの」
「宿題? 今日は何?」
苦笑を浮かべて入室を促すと、彼女はいそいそと上がり込んでくる。学校帰りのままなのか、白灰の地色に朱鷺色の乱菊を品良く散らした銘仙に濃紺の女袴を穿いたままだ。両手には、本を数冊抱えている。
「古典。もう、全然わからなくて」
「今日は、明里さんは?」
「遅くなるって」
卓袱台に宿題を置きながら、あっさりと答える。芸妓の母を持つ椿は、小さい頃から独りで過ごすことが多い。好い加減慣れるというより、諦めてしまったのだろう。
椿の母親に「ちゃんとご飯食べてるの」と気にかけてもらったのが、鳩山母子との付き合いの始まりだったと記憶している。時々炊事の手解きを受けながら、ご飯を食べさせてもらうこともあったため、お礼のつもりで母親が留守がちな椿の面倒をみることにしたのだ。それが続いて今ではすっかり懐かれて、宿題を抱えては恭成の部屋に入り浸る椿の姿を見ない日はない。特に高等女学校に通いだしてからは、後れを取らないようにと頑張っているようだ。
「それじゃぁ、ご飯うちで食べてく? いつも通りの貧しい食卓だけど」
「いいの? 有難う! それじゃぁ、お手伝いするね」
日が完全に沈んだ頃、昼間の見立て通りにちらちらと雪が降り始めた。日没間際に吹き始めた風も相まって、次第に吹雪いてくる。宿題を終えて夕飯の手伝いをしていた椿は、窓の外を見遣り「母さん、大丈夫かな」と心配そうに呟いた。
卓袱台に作りおいていた副菜や、今し方作った味噌汁を並べる。椿が茶碗に麦飯をつけていると、部屋の扉が叩かれた。
「天野さん、よろしいですか?」
「あ、はい」
すぐに扉を開くと、羽依子が布巾を掛けた小鉢を手に立っていた。彼女はちらりと室内を覗き、にこりと笑う。
「やっぱり椿ちゃん、こちらだったのね。少し多めに持ってきてよかった。鹿尾菜を煮てみたんですけど、よろしければどうぞ」
「有難うございます、いつもすみません」
ちょこんと頭を下げつつ小鉢を受け取ったとき、思いがけない声が投げ付けられた。
「へぇ。いつも、と自然に口にするくらい、頻繁に差し入れしてもらってるわけか」
聞き覚えのあるその声に、恭成が驚いたように顔を上げる。羽依子は穏やかに微笑んで、後ろを振り返った。
「天野さんにお客様です」
どうぞ、と羽依子が一歩退くと、半開きだった扉を外側から誰かが引っ張る。すらりとした長身に、精悍な面立ち。きちんとした洋装を纏い立っているだけなのに、その雰囲気は相変わらず威風堂々としている。憶えているよりも少し長い髪を緩く撫で付けた青年は、悪びれもせず軽く片手を挙げた。
「久し振り。仕事で近所まで来たら、この雪だからな。止みそうもないし、泊めてくれ」
「え、ええッ、松山? うわぁ、久し振り元気だった?」
それなりに、と答えるさまは昔と変わらず、懐かしさが込み上げてくる。
松山葉髞とは、高等小学校からの友人だ。お互い気のおけない友と認める仲で、陳腐な言い方をすれば、親友という奴だろうか。中学校を卒業するまで、彼を含めた友人たちと四人でつるんでいたものだ。卒業後はそれぞれの道へ進んでしまい、忙しさもあって疎遠になってしまっていた。
彼は覚えのある仕種で室内を見て、恭成へ視線を戻す。
「先客がいるな。邪魔なら、なんとかして帰るが」
「あぁ、平気。階下に住んでる子なんだ。夕飯は?」
「済ませて来てるから気にするな。部屋の隅で大人しくしてるさ」
「それでは、失礼します。お休みなさい」
羽依子が会釈をして踵を返した。廊下へ出た恭成が「有難うございました」と声をかけると、彼女は少しだけ振り返ってにこりと笑う。羽依子の姿が階段に消えると、葉髞は訝しげに首を捻った。
「ここの管理人って、あんな若くて美人だったか?」
「あぁ、お里さんは去年亡くなったんだ。彼女は姪ごさんで、三笠羽依子さん」
入室を促して部屋の扉を閉じる。そして、学生時代遊びに来る度に彼が座っていたお決まりの場所を示した。
「お茶でも淹れるよ」
「勝手知ったる他人の家だ、自分で淹れるさ。夕飯まだなんだろ。食べてろよ」
そう、慣れた様子で茶箪笥を開ける。その様子を見守っていた椿は、恭成が鹿尾菜の小鉢を卓袱台に置いて座りなおしたとき、こそこそと囁きかけた。
「あの人、どなたですか?」
「学生時代からの友人。椿ちゃん、憶えてないかな? 昔は度々来てたんだけど」
さぁ、と首を傾げる。最後に葉髞が下宿へ来たのは中学校卒業前だ。正式に紹介したことはなかったし、椿が憶えていないのは無理もないかもしれない。
「そういえば、桃真さんは元気?」
この問いにちらりと振り返り、葉髞は素っ気無く返す。
「一昨年亡くなった」
「え?! それじゃぁ、事務所は……」
「それ以来、俺独りだ。遺言状が見つかってな、全財産を俺に遺すとあって。丸ごと全部、引き継いだ」
胴に桜の花弁を散らした鉄瓶を火鉢から取り上げ、気付いたようにそれを見る。
「これ、まだ使ってたのか」
「有難く使ってるよ。模様も珍しいし、使い易いし。それじゃぁ、大変だったでしょう」
心配そうに眉根を寄せた恭成に、葉髞はちらりと笑い、肩を軽く竦める。
「なんとでもなるさ。おまえは、そこそこ活躍してたな」
「読んでくれてた?」
「叔父貴も喜んでた。どうぞ」
恭成と椿の前に、ほわりと香りを燻らせた湯呑茶碗を置く。葉髞を見上げた椿は、ぺこりと頭を下げた。
「有難うございます」
「どういたしまして。突然乱入して申し訳ない」
「いいえ。あの、天野さんのお友達の……?」
上目遣いに見つめられ、葉髞は僅かに姿勢を正した。
「あぁ、松山葉髞です。君は……鳩山椿さん、かな」
「え? あ、はい! どうしてわかったんですか?」
目を丸くして驚きの声をあげた椿に、葉髞は人当たりのよい笑みを浮かべる。
「大したことじゃないよ。昔ここに入り浸ってた頃、階下に鳩山さんという母子が住んでたことを憶えてただけさ。さっき天野が『階下に住んでる子だ』と言っていたし、少し面影も残っているしね」
「凄い! 探偵小説の探偵さんみたい!」
彼は本職の探偵なんだよ、と言葉を添えると、ますます目を輝かせた椿は、頬を紅潮させて言葉を重ねた。
「わたし、探偵さんって初めてお会いします!」
「実物は、そう面白い物じゃないよ」
華々しくもないしね、と苦笑する。
「それにしても、よく憶えてたね?」
「菊羽と同じ年頃だしな、なんとなく。となりの住人は相変わらずなのか? あの頃は、大学生だったよな」
「うん、今は助手やってるよ。顔ぶれはあんまり変わってないかな」
「この近辺も、あまり変わってないよな」
懐かしい、と呟かれたさまに、椿がふと小首を傾げた。
「探偵さんって、忙しいんですか?」
「波があるかな。今はそこそこに」
「ふぅん。お仕事って、大変なんですね。天野さんも時々、うんうん唸ってるもの」
「へぇ? コラムの締切が近い時?」
にやりと意味ありげに笑う。そういうところも変わらないなぁ、と妙に感心しながら、恭成は曖昧な笑みを浮かべた。
「うん、まぁ……。締切と言うか、筆が進まない時かな」
愛用の文机を振り返れば、取り留めもなく書き付けられた紙がいくつか散乱している。ああしてネタ拾いをして構想を練っている段階は楽しいのだ。その先は兎も角。
「掲載が週一になったのは、経済的にも有難いんだけどね」
「天野さんのコラム、解り易くて面白いもの。学校でも欠かさず読んでるって言う人、多いんだから」
どこか誇らしげな椿に、恭成は微笑む。
「有難う。励みになるよ」
賑やかな食事を済ませて、片付けを手伝い終えた椿が部屋を辞すると、室内は途端に静かになった。葉髞は改めて室内を見回し、ぽつりと零す。
「本の冊数が増えてるくらいか?」
「相変わらず、変化のない毎日を過ごしてるからね」
コラムの原稿を書いて、その合間に小説を書いて持ち込んで、時々椿の勉強を見てやる。取材と称して出掛けもするし、資料漁りに古書店へも出向く。そんな日々の繰り返しだが、概ね平和で穏やかな毎日だと言えるだろう。
「君は大変そうだね。少し痩せたかな?」
「単に不摂生なだけさ。仕事で一日出ると、飯食うの忘れる時があるし」
たまに菊羽が遊びに来ると煩い、とうんざりと言葉を吐き出す。記憶の中の彼女は少々おしゃまだったが、いつだって兄の心配をして後ろをついてくるような子だった。おそらく、彼女も相変わらずなのだろう。
「今は、事務所暮しなの?」
「あぁ。叔父貴が生きてた頃は通ってたんだが、葬式の後くらいから面倒臭くなって。元々叔父貴が住んでて、設備は整ってたしな」
疲れを滲ませた物言いに、色々あったんだろうな、と推察する。こうして突然訪ねてくるくらいなのだから、精神的な負担も相当あるのだろう。
もう少し隙を作れば楽なのになぁ、と。ため息を零した恭成は、わざとらしく呆れたような口調を作って、苦言じみた言葉を吐き出す。
「まったく、そういう恰好の付け方は良くないよ。頼れる人がいるなら、ちゃんと頼ればいいんだから。連絡してくれたら、僕だっていつでも手伝いに行ったのに」
顔を上げた葉髞は、ふと苦笑を浮かべた。
「本当に変わらないな、おまえは」
「君は情けなくなったんじゃないの? 遠慮してどうするんだよ」
わかったわかった、と軽くあしらった葉髞は、口許を緩ませてくつくつと笑い出す。
「参ったな、どうかしてた。らしくなかったよ」
「ちゃんと生活してる? 勿論、人間らしい文化的な生活って意味だけど」
「御蔭様で。一応、成り立ってるさ」
聞けば遺産の一部として、三階建てのビルヂング一棟を叔父から受け継いだらしい。その一階は貸店舗で、カフェーが入っているそうだ。ビルヂングが建った当初からある歴史の古い店で、常連客も多くいるらしい。
「家賃収入があるのは有難いな。仕事が入ってこないと死活問題だ」
渋い顔でそう言い放つ葉髞に、恭成は小さく笑みを零す。
「それはお互い様だよ。やくざな商売だよねぇ」
「それを承知で選んだんだ、文句を言っても仕方ないがな」
そう相槌を打ち、顔を見合わせて笑いあう。
暫く近況を話し、雑談に花を咲かせて、時計が十時を過ぎた頃。ふと思い立って恭成は葉髞を見た。仕事と言うことは、なにかしらの調査で出向いて来たのだろう。なんとなく、まだその調査を終えていないんじゃないかという気がして尋ねてみる。
「仕事で来たって言ってたけど、それはもう済んだの?」
残りは明日、と軽く返すさまは、如何にも彼らしい。
「それじゃ、早く休んだ方がいいね。疲れてるでしょ?」
当然のように立ち上がる恭成を見上げて、葉髞は小さくため息をついた。
「そうだった、妙に察しがいいのがおまえだったよな」
「ちゃんと思い出したなら、またおいでよ」
愚痴くらい聞いてあげるから、と笑ってみせると、葉髞は「了解」と呟く。
「やっぱり勝てないな。ああでも、調子戻ってきた気がする」
「それは良かった、まだまだ負けてあげるわけにはいかないね。布団もそのままだよ。この間干したから、湿気てはないと思うけど」
くすくすと笑い声を零しながら押入れを指し、卓袱台をたたんで壁に立て掛ける。その間に葉髞は立ち上がり、押入を開いた。