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空行く月の末の花橘  作者: アサミズ
墨染之章
17/25

 あのね、なるちゃん。きら、怖い夢見たの。

 その日の朝、袂を引いた妹がぽよぽよの眉を精一杯ひそめて訴えた。

 だから、今日はおうちから出ちゃ駄目。

 そう言われたのだけれど、どうしても出かけなくてはならない用事があって、袂を引く妹をなだめすかして家を出た。それでも、妹はある種の予感を的中させる子供だったから、なるべく危険そうな道は避け、寄り道もせずに帰ってきたのだ。けれど。

 帰り付いた自宅に、妹の姿はなかった。

 心配する祖母に留守を頼み、捜しに出かけた。友達の家、いつもの遊び場。姫神の所へは一人で行かないから、一番最後でいいだろう。もしそこにいたのなら、何処よりも安全な場所だから。

 そうして村中あちこちを捜し歩いて、辿り着いたのは村外れの森だった。

 その最中に、真新しい御社が建っていることは人伝に聞いて知っていた。何を祀っているのかまでは知らない。祖母の言い付け通り、近づかないようにしていたのだ。

 さわさわと風に葉が擦れる音がする。森の前からでもわかる薄ら寒い気配に戦きながら、彼は意を決したように森へと足を踏み入れた。

 あのね、なるちゃん。なにかが、いるよ。


 よくない、なにか。

 

 そう、妹が指差した森の奥。暗い暗いその先へ。もしこの奥にいたのなら、独りで泣いているかもしれない。あの子も、この森を怖がっていたから。

 森を通り抜けた先は、ひんやりとした空間だった。目の前には、真新しいはずなのにくすんだ印象の御社が建っているだけで、他には何もない。ただ、嫌な気配が御社の中で蠢いているだけで。

 恐る恐る御社に近づいて、固く閉ざされた扉に手をかけた。微かに漏れ聞こえるのは、ぴちゃぴちゃと何かを舐める水音と、何かが噛み砕かれる音。足下に点々と散っているのは、血痕ではないだろうか。

 そう気付いた途端、ぞくりと背筋を冷たいものが走った。理由もわからず緊張し、扉へ添えた手に力を込める。先程から鼻先をくすぐるこの臭いはなんだろうか。神経に障る嫌な気配が気持ち悪い。そろそろと扉から離れようとした途端、勢いよく引戸が開かれた。

 立ち尽くした彼の視界一杯に広がったのは、幾つか置かれた灯台に照らされた室内と。その細々とした火の中に沈む一面の赤、だった。

「おや、いらっしゃい」

 そう言ったのは女だったろうか。そこには数人の男女がいて、彼の目には、それらが歪んだヒトでないモノに見えた。慌てて踵を返そうとした彼の腕を容赦なく掴んで、それは唇を三日月型に歪めて、にたりと笑う。

「迎えに行く手間が省けたねェ」

 咀嚼音が響く中、くつくつとヒトの形をした化物は笑った。その、後ろ。小山のような黒い影が、ゆらゆらと揺れている。咀嚼音はそこから聞こえているようだ。

 火が揺らめき、影が踊る。それは牛ほどの大きさの巨大な蜘蛛のもののようだ。ぼんやりとそんなことを思い、ふと気を引かれてその姿を見つめる。

 その太い脚が抱えている、白いものはなんだろう?

 乱暴に腕を引かれて床へ倒される。その彼の傍に、何かが転がり落ちた。反射的に目でそれを追い、ぎくりと心臓が跳ね上がった。

 乱れた黒髪、色素の薄い虚ろな目。ころりと無造作に転がったそれを目にして、悲鳴が喉に張り付いた。跳ね起きようとした彼を、乱暴な手が押さえ付ける。視界の端に、幾つものヒトの脚と、わさわさとした蟲々の脚が見えた。

「今度は我らもおこぼれに与れるんだろう?」「喰ってしまおう」「どれ、脚を」「頭を」「胴体を」

 口々に囁かれる言葉がぐるぐると渦巻く。乱暴に髪を掴み上げられた瞬間、取り巻く全てが掻き消えた。

 ぴんと糸を張ったような静寂に沈む闇の中、聞き覚えのある声が頭上から落ちてくる。

「思い出してきたじゃないか」

 髪を掴み上げた人物が、くつりと喉の奥で笑う。

「けどさ、思い出してどうするの? 折角、忘れてたのに」

 思い出したくもないだろう、この先は。

 くつくつと笑って、そいつは優しげな声で耳元に囁く。

「だから、さ」

 僕と変わればいいんだよ。

「簡単だろう? 別にしがみつかなくてもいいのに。全部忘れてたくせにさ?」

「……ッ、離‥…せ」

 薄気味の悪い闇の中で必死に藻掻く。その脳裏に明里の言葉が過って、彼女が指していたモノが何かを悟った。

 野放しにするなとは、こいつのことか。それではこいつは、一体なんだというのだろう。

 ふぅん、と面白くなさそうに鼻先で笑ったそいつは、ぱっと指を外したようだ。掴み上げられていた圧力は消えたが、上から押さえ付けられているような圧迫感が増す。酷く背骨が軋んだが、そいつは手加減する気がないようだ。

「でも残念。このままじゃ、おまえの末路は知れてるね」

 ごらんよ、と嘲る声が遠退いた。ひやりとした空気が頬を撫でているのがわかる。朧に意識が戻ってくると、どうやら何処かに倒れているらしかった。唐突に鈍い痛みが痛覚を刺激しだして、恭成(たかなり)は呻きながらうっすらと目を開く。

 霞む視界は色のない世界を映し出して、これは夢の続きだろうかと疑いたくなる。鼻先に掠めるように漂ってきた臭いに、僅かに顔をしかめる。ここは何処だと視線を彷徨わせた恭成の目は、無造作に転がるそれを捉えた。鮮烈な色が飛び込んできて、ぎくりと心臓が跳ね上がる。

 それは、無造作に転がされていた。うねるようにして床に拡がるぬばたまの黒髪。その隙間から覗く、紙のように白くなった肌の色。

 そして。

 喰い千切られ散らばった、嘗て彼女を形作っていたモノの残骸が。

「どうせなら、全部思い出しちゃえよ。おまえがやった全部をさ」

 悲鳴が喉の奥に張り付いた。嘲るようにそいつが笑い転げたのを最後に聞いて。


 意識は強制的に遮断された。


「……やれやれ、手強かったな」

 億劫そうに呟いて、のそりと身体を起こす。あの様子なら自力で戻ってこないだろう。

 座り込んだまま視線を転じれば、どこまでも無彩色の世界が広がっていた。何の建物かは知らないが、木造の建築物らしい。彼が転がされていたのは板の間で、見たところ頑丈そうな造りの建物だ。

 ぐるりと室内を見回して振り向いたそこに祭壇と幣を見つけて、知識の中から答えを引っ張りだした。

 ふぅん、と呟いて、立ち上がる。

 どうやら意識がないうちに運ばれたようだ。そしてそいつは罰当たりなことに、獲物を神社の拝殿の中に転がして立ち去ったらしい。

 なめられたものだな、と呟きながら格子戸を開くと、すぐ目の前に小振りな賽銭箱と、その向こうには石畳を挟んで一対の狐像が見えた。真直ぐに伸びた参道の先には慣例通りに鳥居が立ち、整然と並べられた幟の文字はすべて鏡文字になっている。その風景は一切の色を失っていた。

「……なるほど。あいつらの住処か」

 初めて見たな、と興味深く辺りを見回す。拝殿から下りて踏み締める境内の石畳にも、きちんと質感がある。かつんと下駄が音を立てるし、触れる灯籠はひんやりとした石の手触りだ。無彩色に沈黙するなか、己の姿だけが色を保ってここに在る。

 ここに引き込まれた時、恭成が見たのは影に囚われた土蜘蛛だった。おそらく、あの影の主に喰われて眷属にでもされたのだろう。

 どういうつもりで引き込んだのか知らないが、返り打ちにしてしまえばいい。ずっと退屈していたのだ、少しは楽しませてくれるだろうか。

 ほくそ笑んだ彼の胸の奥で、ざわり、と何かが騒いだ。唇の端を吊り上げた彼は、くつくつと笑う。

「皮肉だな、あいつを封じたおまえが、あいつに抑え込まれてるんだからさ。さぞかし歯痒いだろう?」

 ざわり、ざわりと抗議するように何かが騒ぐ。

 こいつは、そうするしか出来ないのだ。そのことがとても愉快で、いい気味だと思う。

 精々勝手に喚いてろよ、と呟いて、彼は踵を返した。目を覚ましたことに気付いたのだろう、防風林の影に見え隠れして、迫り来る影の群れが見える。つまらなそうにそれらを眺めた彼の口許に、残忍な笑みが閃いた。


  ◇◆◇


 気がつけば、彼は見慣れぬ場所を歩いていた。

 何処へ向かっているのだろうか。前を歩く小柄な女にも全く見覚えはなく、どういった経緯で共に歩いているのかも、さっぱりわからない。

 あぁ、待っていなければならなかったのに。

 そんなことを思って、ふと首を傾げたくなった。一体、誰を待っていたのだろうか。そもそも、どうして歩いているのだろう。何処へ向かっているのだろう。

 夢現のうちに考えて、この女が自宅を訪ねてきたのだと思い出した。けれど、その後はどうしたのだろうか。記憶がぷつりと途絶えてしまっている。

 あぁ、待っていなければならなかったのに。

 先を歩く女は、やがてこぢんまりとした稲荷神社へと足を踏み入れた。

 見上げる朱色の鳥居は見事で、拝殿も小さいながら立派な造りなのに、寂れた印象が拭えないのは何故なのか。

 勿論、この神社にも見覚えはない。

 連なる幟の横を歩いて、奥の防風林へと進む。

 女の歩みは止まらない。

 堪り兼ねた彼は、漸く声をかけようと思い至った。それでも女の雰囲気に僅か躊躇い、意を決して口を開く。

「あの、もし」

 何処へ行くのでしょうか、とおっかなびっくり訪ねた彼に、女は足を止めた。そのまま微動だにせず沈黙する様に、聞いてはいけなかったのかと後悔しかけたとき。漸く振り返った彼女は、赤く紅を引いた唇を歪めるようにして、にたりと笑った。

「正気に戻っちまったのかい」

 奇麗な女、だと思う。けれども病的に白い面をした彼女の、黒目がちな目がぎらぎらと輝く様を見て、我知らず後退りした。三日月型に歪む口許すらも恐ろしくて、逃げ出したくなる。

「まァ、どちらでも構いやしないけどサ」

 女の手が伸びて、及び腰になっていた彼の手首を掴んだ。思いがけず冷たい手が触れた途端、霞がかった向こうへと追いやられていた記憶が押し寄せる。

 待っていたのだ。

 久喜の下宿を辞した後、なんとなく真直ぐ自宅へ帰る気になれなかった。あちこち歩きながら考えていたのは、ただ一つだけ。

 あの恐ろしい物が、また戻ってきていたらどうしよう。

 なくなったということは、そういうことではないのか。警察に押収されていたというのも驚いたが、そこから消え失せてしまったことに恐怖した。

 あれを阻む物はないのかもしれない。何故、最初にあれを割ってしまわなかったのか。

 悶々と考えながら、あの探偵に身に降り掛かった全てを話してしまえば良かったとさえ思い始めていた。

 そうすれば、自分は助かるかもしれない。

 そう考えて、自己嫌悪に陥った。結局、自分は友人を犠牲にしてしまったのか。それすらも確認できていない。

 重い足取りで自宅まで帰りついて、引戸を開けた。

 その瞬間、畳の真ん中に恐ろしい物を見つけて、逃げ出したのだ。

 走って走って、電話を引いている施設の前で躓いて、名刺のことを思い出した。

 確か、電話番号が載っていなかっただろうか。

 引っ張り出した名刺を確認して、施設に駆け込んだ。何度かけても通じず、焦れてきたところで漸く繋がった。

 助けてくださいッ。

 ひっくり返った声で訴える彼に、探偵は終始穏やかな声で辛抱強く相槌を打ってくれていた。そして、自宅で待つようにと指示されたのだ。それだけは勘弁してくれと訴える彼に、自宅から離れないことが一番安全なのだと諭された。最後に念を押すように外に出るなと付け加えられて、すごすご自宅へ帰ったのだ。

 とはいえ、一人であの家にいるのはあまりに怖い。

 急いだところで、探偵が到着するまで幾らか時間も掛かるだろう。それまで独りあの部屋で、恐怖に震えながら耐え続けなければならないのは苦痛だ。だから、のろのろと家路を辿り、これ以上ないほどゆっくりと時間をかけて自宅へ帰りついた。

 恐る恐る覗き込んだそこに、盃はなかった。

 あれ、と訝しんで、慌てて家へ上がる。気が動転して開け放したまま出ていってしまったため、泥棒にでも入られたのだろうか。だとしても、あんな気味の悪い盃を持ち出すとは思えなかった。部屋中をあちこち探して途方に暮れた頃、戸を叩く音がしたのだ。

「あなたは一体、何ですか。なにをしようと」

 訪ねてきたのは目の前の女。女は同じようににんまり笑い、ぎりぎりと彼の手首を握りしめる。その恐ろしさに、彼の意識は遠退いた。


「なァに、アタシの主がお呼びなのさ」


 ぱん、と。鋭い破裂音がして、女の姿が霧散した。こつん、と固い音をさせて陶製の盃が落ちる。倒れた井上に童女が駆け寄り、警戒したように靄状に散ったモノを見据えた。しかしそれは、さらさらと流れるように防風林の方へと飛んでいき、その先にゆらゆらと陽炎が立ち上るように別の影が膨れ上がる。

 その、奥に。袿を纏った娘が、ふわりと姿を見せた。

羽依子(ういこ)、あやつだ」

 童女の声に応えるように、質素な縞御召しを纏った女性が進み出る。彼女は落ちたままの盃を拾い上げ、懐にしまいこんだ。

比売(ひめ)、その方をお願いします。どうやら、正しい鍵のようですから」

「うむ」

 力強く頷き、身構える。それを確認することなく歩みを進めた女性は、袿の娘と対峙する位置に、距離をとって立ち止まった。そうして。

「お久し振りね。またお会いできて嬉しいわ」

 奇麗に、微笑んだ。

 

  ◇◆◇


 そろそろ日が翳り始めた時刻だ。木々から差し込む光は弱々しく、赤みを帯びて山吹色に輝いている。

 そこは、鬱蒼とした防風林を備えた稲荷神社だった。若干寂れた風情を見せているのは、ここにはカミがいないからだろう。そう言うと、円谷(つぶらや)は意外そうな表情を浮かべる。

「きちんと勧請されたんじゃないのか?」

「もともとあったモノの為に、居着くことが出来なかったんでしょう。どうやら、間に合ったみたいですね」

 鳥居を潜れば感じることができる、神域ではない某かの気配。それは恭成の下宿にも昔からあった違和感だ。けれどあの場所には明里(あけさと)がいて、雑多ではあるが無害なモノたちが多く遊ぶ場所であったから、気にも留めていなかった。気にする必要がないと、自身の中の何かが告げていたのだ。

「急いで探すぞ」

 ぐるりと円谷が敷地内を見渡す。境内から拝殿の辺りに人影はない。けれど、防風林の辺りに、ざわざわとした複数の気配が蠢いているようだった。

「見つけました。円谷さんはここで待って……くれませんよね」

 苦笑混じりに視線を向けると、「当たり前だ」と当然のように答える。

「本当におまえは、いい奴だなぁ。桃真(とうま)なら問答無用で来いって言うぞ。自分の身は自分で守れ、と理不尽な要求までつきつけて」

「それに付き合ってた円谷さんも相当な強者ですよ」

 先に立って足早に防風林へと向かった葉髞(しょうぞう)は、ざわざわと木々が葉擦れの音をさせるその場所に、意外な人物を見つけて唖然と足を止めた。

「なんだ、ありゃぁ」

 すぐ後ろで円谷が呻く。見鬼の素質はあるヒトだ、その異様な光景を目にすることが出来たのだろう。林の中から扇状に、犬ほどの大きさの影が犇めいていた。その前に立つのは、凛と背筋を伸ばした女性。彼女に相対するのは、影たちの奥に見え隠れしている豪奢な袿の娘だろうか。彼女は忌々しげに白い面を歪めている。

「おのれ、番人め! また我を阻むか!」

「身の程を知らないのは、そちらでしょう」

 睥睨する女性を取り巻いた影たちは、少しずつ包囲網を拡げている。それはまるで、彼女を畏れているかのようだ。

「役者不足を自覚なさいな。大人しくしていれば、そのまま見過ごしてあげたのに」

「黙れッ…!」

 声を荒げた娘は、唐突に言葉を途切れさせて顔を強張らせた。そしてそのまま、身を翻すように虚空へ消える。

「葉髞!」

 横から甲高い声に呼ばれて、初めて背後に井上を庇った状態で仁王立ちをしている雪花(きら)の姿に気がついた。慌てて駆け寄ると、遅れて円谷も井上に気づいたらしく後に続く。

 地面に倒れ臥している井上の顔色は白く、意識もないようだ。傍らに膝をついて脈をとれば、弱々しくはあるが確かに脈打っている。

「気を失っているだけか」

「これは無事じゃ、早う連れていけ」

 雪花の言葉にちらりと視線を向けた葉髞は、警戒したように影へ睨みを利かせている円谷を振り仰いだ。

「彼を連れて、ここから離れてください」

「わかった。おまえさんは?」

「後で連絡します」

 頷いて井上を担ぎ上げた円谷は、気をつけろよ、と言い残して足早に立ち去る。それを見送った葉髞は、傍らに立つ雪花を振り返った。

「おまえはどうしてここにいるんだ。天野は?」

「ククリ姫とやらに連れ去られた。ここにいるだろうと予測をつけたのだが」

「おそらく、狭間(はざま)でしょうね。彼女が慌てて還って行きましたから」

 何かあったのかしら、と静かな声が口を挟む。振り返りもしない彼女は、けれどもうっすらと笑みを声にひそませた。

「あなたを信頼してお任せしましたのに、この有り様ではあまりにもお粗末ではありませんか。しっかりなさってくださいな」

 先代はもっと剛胆でしたよ、ところころ笑う。その背中をじっと見つめ、葉髞は警戒したように立ち上がった。彼女を取り巻く気配が、明らかに変化している。

 この場において、彼女の存在は異質なのだ。

「どうして、あなたがここに? 三笠(みかさ)さん」

「わらわが呼んだ。明里が報せろと言ったのだ」

 予想外に雪花が声をあげて、葉髞は眉をひそめる。明里が把握していたのならば、元々こちらに関わりがあったということだ。それでは、彼女は何者なのだろう。

 ふと、羽依子がこちらへ振り返った。整った面は冷淡なほど冴えた表情を浮かべていて、普段の柔らかな物腰なぞ、すっかり消え失せていた。響く声もどこか淡々としていて、辛うじて口調の柔らかさが彼女の特徴を残している。

「間に合ってくだすって良かった。わたしや比売では、止めるのは無理ですから」

「なにを、ですか」

 ふ、と。彼女が某かの表情を浮かべた。その背後で、取り巻いていた全ての影が、ぶわりと霧散する。

「彼の中の、ヒトでないモノを」

 びしり、と大気が音を立て、硝子が砕けるような音が響き渡った。続け様にふわりと浮かび上がった色が像を成し、先程の娘が転げるように現われた。酷く消耗した様子でまろびながら逃げる彼女は、かくりと頽れ地面に転がる。それを追うように聞こえてきたのは、憶えのある、耳に馴染んだ声。

「興醒めだな。ただの荒御魂じゃないか」

 ざり、と土を噛む音がして、木陰から人影が現われた。その姿に、雪花が息を飲む。僅かに目を細めた羽依子が、ゆっくりと振り返った。

「天野さん……では、ないようですね。やっぱり」

 常ならば柔らかく響く声は、嘲笑を含んでざらざらと響いている。くつくつと喉で嗤うその表情も、彼らしくなく荒んで見えた。

 鼻先に仄かに届く血の臭いに眉をひそめて原因を探せば、すぐさま目についたのは頬に一筋走る赤い線。遠目に見ても、外套がべったりと重そうに濡れているのが見えた。それなのに彼は苦痛を欠片も見せず、ゆっくりとした足取りでやってくる。

 その手が無造作に掴んでぶらさげている物が見えた時、流石に葉髞もたじろいだ。白い指に絡み付いた黒髪が、ますます現実感をなくしている。

 く、と呻いた娘は、よろめく身体を立て直し眦を上げた。

「おまえは私の同類ではないのか! だから情けをかけてやったというのに」

「へぇ? だからあの夜、枷を壊してくれたんだ? あの夢の断片でも見たのかな」

 愉快そうに口許へ笑みを浮かべ、彼は言葉を重ねる。

「迷惑な話だね、よく言うよ。どうせ喰うつもりだったくせに。恩着せがましいにも程があるなぁ」

 くつくつと笑った彼は、一変して表情を冷めさせ、見下したような眼差しを向けた。

「反吐が出る」

 短く吐き捨て、興味が失せたような表情を浮かべる。

「だけどまぁ、礼くらいは言ってあげるよ。自由になれたのは本当だからさ。感謝の証にこれを進呈」

 彼が手にしていた物が地面に放り投げられた。それは鞠のように小さく跳ねて転がってゆく。やがて地面に顔を出している木の根にぶつかり、ごろりと止まった。乱れた黒髪の隙間から、苦悶に歪んだ顔が覗く。今までの犠牲者の中に女性はいない。それならばこれは、不運にみまわれた新たな犠牲者の御首(みしるし)だろう。

「どうぞ、喰えば? 足しにもならないだろうけど」

「おのれッ、()の分際で!」

 怒気が視覚化したかのように、ぐわりと影が膨らんだ。触手のように伸びるそれらは、地面に転がる御首を巻き込み殺到する。他人事のような顔をしてそれを見ていた彼は、悲鳴まがいの声をあげて駆け寄ろうとした雪花に気づいて、仄かに笑った。

 次の瞬間、娘が突風に鋭く打たれて弾き飛ばされる。その姿は唐突に掻き消えて、残された風の音だけが大気を震わせた。その間に、ぴたりと自身の首へ小刀を突き付けた羽依子を見下ろして、彼は唇の端を吊り上げる。

「いいの? 逃げちゃうよ」

「構いません。あなた、喰らい尽くすつもりでしょう?」

「不都合でも? 寧ろ、有難いんじゃないの」

 それでも、と固い声が返されて、彼はため息を零した。そうして、呆れたような表情を浮かべてみせると、立ち尽くしている雪花を見る。

「ねぇ、カグヤ。これ、どうにかしてくれない?」

 その一言に、彼女は目を見開いた。血の気の引いた顔で凝視して、ぐ、と奥歯を噛み締める。そうして、憤然と胸を反らした。

「巫山戯るな! わらわの主は、おまえではない!」

 羽依子、と鋭く声を張りあげる。意図を汲んだ羽依子が素早く身を翻した。その瞬間に殺到した無数の火矢を、彼は小さく舌打ちして打ち消す。

 僅かに生まれたその隙をついて、羽依子が鋭い体裁きで得物を振った。素早い動きながら的確に急所を狙い、休む間もなく打ち込んでくる。

「ッの、しつこいッ」

 襲いくる激しい攻撃の手を紙一重で受け流していた彼が、不意にかくりと均衡を崩した。

 突き込んできた羽依子の得物を辛うじて弾き飛ばした彼は、間髪入れずに視界の端に映った人影にぎくりと身を竦めて振り返る。死角に回り込んで間近まで接近していた葉髞が、身体を沈めた。

「悪い」

 短い謝罪の言葉と共に、為す術もなく当て身を食らう。

 その途端に、ぷつん、と。

 糸が切れたように呆気無く、彼は頽れた。その身体を支えて膝をついた葉髞は、気を失っていることを確認して深く息を吐き出した。

 平気そうに活動していたが、覗き込んだ顔色は普段より白い。途中で均衡を崩したのも、失血が原因なのだろうか。肩に頭を預けるようにしている恭成の呼吸はまだ安定していて、危機的な状況でないことだけは窺える。

 まろびつつ慌てて駆け寄った雪花が、恐る恐る恭成の顔を覗き込んだ。その表情は心配そうに歪んでいて、今にも泣き出しそうだ。

「もう、大丈夫かや?」

「さぁ、な。なんだったんだ、今のは」

 狭間から抜け出してきたのも、雪花の火矢を打ち消したのも、彼自身の力なのだろうか。半ば予測していたとはいえ、目の当たりにすれば驚嘆の一言しかない。

 それよりも意外だったのは、羽依子の方だ。細い体格と優しげな容貌から誤解されがちだが、これで恭成は滅法強い。学生時代には諸々の事情で数々の武勇伝を打ち立てた強者だ。その身のこなしの軽さは、葉髞も及ばなかったほど。その彼と互角にやり合った羽依子は、息を切らした様子もなく弾き飛ばされた得物を拾って鞘に収めている。

「鬼ではないけれど、ヒトから変じた何か。ずっと、天野さんの中にあったモノです」

 穏やかに答える声は普段の様子を取り戻しており、先程まで纏っていた独特の気配も消え失せていた。傍らで膝を折った彼女は、そのままほっそりした手を恭成へ伸ばす。労しそうに傷付いていない方の頬を撫でて、血塗れの手を握った。

「だから比売やわたしには解らず、対抗する術がありません」

 唯一は、あなた。

 そう、真直ぐ葉髞を見つめる。その視線を受け止めて、葉髞は僅かに眉をひそめた。

「それは、誰の助言ですか」

 解らないモノを、彼女はどうして知ったのか。今更だが、彼女の存在は不可解だ。当り前のように雪花を比売と呼び、当然のようにこの状況を受け入れている。果たして彼女は微笑んで、奇麗な所作で立ち上がった。

「風の扱いがお見事でした。御蔭で助かりましたわ」

「あなたこそ。打ち合わせもなく、よく任せてくださいましたね。御蔭で、気づかれずに接近できた」

「あれも通力の殆どを削られてしまったようですし、もう暫くは心配ないでしょう。今日の所は、このままお引き取りください。早く手当てして差しあげて」

「あなたは何者ですか」

 率直に尋ねられて、羽依子は仄かに笑みを浮かべる。

「新年、四日。わたしを訪ねていらしてください。場所はきっと、おわかりでしょう?」

 こちらは、と彼女は懐から見覚えのある盃を取り出た。呆気にとられる葉髞の表情を可笑しそうに眺めて、にこりと笑う。

「それまでお預かりしておきます。あなた方には、御助力願いたいのです」

 真直ぐに羽依子を見据えた葉髞は、ふと視線を外して「わかりました」とため息混じりに答えた。この様子では、この場でいくら問いつめても話してくれないだろう。手当を先にすべきと言う主張にも賛成だ。けれど。

 雪花を振り返ると、彼女はきょとりと目を瞬かせた。

「雪花、おまえにも聞きたいことがある」

「そなたには関わりのないことじゃ」

 す、と視線を逸らして、固い声が拒絶する。次の瞬間、葉髞は雪花の腕を乱暴に掴み上げた。瞳に険を浮かべて振り向いた雪花は、射竦めるような眼差しに思わず肩を震わせて、何かに気づいたのか意外そうな表情浮かべる。

「そなた、何故……」

「好い加減にしろ、関係なくはないだろう」

 抑えた言葉尻に、静かな怒りが漂っているようだ。常人ならば震え上がるようなそれを真直ぐ受け止め、けれども雪花は気後れしたように言葉を詰まらせる。

 視線を落とし俯いた彼女をじっと見据えていた葉髞は、ふと視線を外した。

「……後で聞く。移動しよう」

 手を離すと、羽依子の手を借りて恭成を背負う。物言いたげに見上げた雪花をちらりと見下ろし、それきり葉髞は口を開かなかった。

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