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篠目町方面行きの路面電車に揺られながら、葉髞は先程から車窓を流れる景色を眺めていた。車内には年末特有の浮き足立つような人々の高揚感が満ちていて、さわさわと空間を揺らすような声の波もいっそ心地よいほど。
この一種独特の雰囲気は、嫌いではない。何も考えず、ただぼんやりと浸っていられるだけの余裕がないことが、なんだか残念だ。
ため息をついて、ちらりと懐中時計へ視線を落とす。
井上に名刺を渡した時点で予測はしていたが、反応は意外に早かった。円谷も井上の元へ向かってくれているから、間に合えば悲劇は防げるだろう。こうした事件に関して、円谷の悪運の強さは、先代探偵の折り紙付きだ。それを本人もわかっているからこそ、自分も行くと言ってくれたのだろう。
助けてください、と喚く井上を宥めて、なんとか聞きだせたのは二つだけ。捨てても捨てても手許へ戻ってくる盃と、周囲に現われる無気味な影だ。
事の始まりは、ほんの数カ月前だったと言う。彼の下宿の荷物の中に、見覚えのない物が紛れ込んでいたのだ。
ざらりとした表面の、無骨な風情の陶器の盃。
それは釉薬もかかってないような粗末なもので、初めは誰かの忘れ物かと思ったと言う。しかし友人たちに問い質しても、誰も知らぬと首を振るばかりで、持ち主もわからぬまま捨てるに至った。以前の入居者が残していった物かもしれないし、それでは返す術もない。それにどうせそんな物は使えやしないだろうと、誰もが口を揃えて言ったからだ。なんとなく捨ててしまうのも忍びないような気がしたが、誰の物とも知れぬそれを使用するほど神経も太くない。
それは不可解ではあるが速やかに忘れられてゆく、些細な出来事のはずだった。しかし、その数日後。そいつは、再び荷物の中から出て来たのだ。その時は、捨て忘れてしまったのかと大して気にも止めず、物忘れをするような年でもあるまいに、と自分に呆れながら井上は再びそれを捨てた。それなのに。
その数日後、それはまた荷物の中に転がっていた。
一体誰の悪戯だ、と最初は酷く憤慨したらしい。しかし、それは捨てても捨てても必ず数日後には手許へ戻ってくる。
これは一体どうしたことだ。悪戯にしても、あまりにも執拗だ。
犯人に心当たりがあるわけでなく、一人思い悩み始めた頃、それに気がついたのだ。妙な影が、つかず離れず傍にあることに。しかもそれは、他の誰の目にも映らず、日に日に近づいてくるのだ。
やがて、夜も満足に眠れなくなった。
日中は距離を保っているあの影が、夜陰に紛れて襲い来るのかもしれない。それとも、夜の闇の中に飲まれて、消え失せてしまうのかも。
そんな恐怖小説じみた妄想が頭をもたげて離れず、食事も喉を通らなくなった。井上の憔悴ぶりに気づいた誰もが心配してくれたが、訳を話せば一様に「気の所為だ」と笑い飛ばされた。
小さな子供じゃあるまいに。
そんなふうに知った顔で諭されてしまえば、何も言えなくなってしまう。けれど、澱のように降り積もった恐怖心は消えることはない。独り葛藤を抱えていた頃、久喜だけが笑いながらも付け加えてくれたのだ。そんなに気味が悪いなら、預ってやろうか、と。
今まで捨てたことはあっても、誰かに預けてみたことはなかった。だから、試しに預けてみたのだ。
今度は、戻ってこなかった。
何事もないか、大丈夫か。顔を合わせる度に尋ねる井上に、久喜は笑って「御蔭様で、恙無く」と答えたそうだ。きっと疲れていたんだと諭されて、そうだったのかと納得しかけた時、訃報を聞いた。
初めは耳を疑い、やがてそれは恐怖へと変わった。やはりあの影は存在していて、久喜はアレに殺されてしまったのではないかと震え上がったのだ。それと同時に、身代わりにしてしまった罪悪感に苛まれて、おかしくなりそうだった。
しかし報道では巷を賑わせている連続猟奇殺人の疑いを臭わせていて、これは単なる偶然なのかとも思えた。
あの影は井上を付け狙っていたはずで、久喜は関係がないのだから。間違って殺されたなんて、あるはずがないと。もし誰でも良かったのなら、何故あんなに何度も何度も戻ってきたのか、解らなくなる。
果たして、本当はどうだったのか。
どうしても気になって、遺品整理を手伝う名目で盃を探すことにしたのだ。久喜の部屋でそれを見つけることは出来なかったけれど。
それは再び、手許に戻って来た。
井上の下宿から最も近い停留所で路面電車を下りると、既に円谷が待ち構えていた。どうやら辻馬車を拾ってここまで駆け付けてきたらしい。
どちらともなく歩き出し、細々とお互いに報告を始めた。井上の下宿までは暫く歩くことになるが、その間に話しておきたいことは多々ある。
井上から聞き出した話の要点を話して聞かせると、円谷は小さく嘆息したようだった。
「それで? おまえさんはどう思うよ」
「選んでいるんでしょうね。今までの人選も、多分」
「久喜雄大もか?」
「……違うでしょうね」
僅かの逡巡の末に答えて、葉髞は円谷を見る。
「あれだけ、浮いている気がするんです。感触が違う」
所在不明の盃は壊れている可能性もあるだろう。あれが呪具だとすれば、被害者と盃には何らかの関連性があることが予想できた。だとすると、久喜殺害には謎が浮かび上がってくる。
「頭部が残っていたこと、盃が残っていたこと、他にもあるか?」
「一度未遂をやらかしているでしょう。天野を襲ったのと久喜氏を襲ったのは、同じモノである可能性が高い」
言葉を切って、僅かに眉をしかめる。この件に関して、違和感が消えないのだ。
「猟奇事件の起こる場所は、一定の規則があります。天野の下宿も当て嵌まる。でも、あれは違う気がする」
「円を描いてるってやつだな。しかし、その井上某の下宿はそこから外れてるだろう」
「えぇ、だから部屋から出ないように指示してあります」
今までの被害者を見ると連れ出される可能性も否定できないが、あれだけ恐れているのだから、警戒心も強いはずだ。
「大人しく待ってりゃいいがな」
「間に合えばいいんですが」
相槌を打ちながら、懐中時計に視線を落とす。
事務所に招くことができれば良かったのだが、今は駄目だ。恭成が襲われたことが、どうしても引っ掛かる。招いてしまうのは拙い気がしたのだ。
「何にせよ、事務所に招かなかったのは賢明だな。作家先生はどうしてる?」
同じことを考えたのか、妙に真剣な面持ちで円谷が尋ねる。
「事務所にいますよ。妹がいるから、大丈夫だと思います」
「あぁ、あの嬢ちゃんか」
なら平気か、と呟きながら、円谷の表情は険しい。
「なんだろうな、妙に落ちつかねェ」
低い声がぽつり零れて、小さく頭を振った。
辿り着いたそこは、昔ながらの木造平屋建ての長家が連なる住宅街だった。古い時代の名残だろうか、生活道路の真ん中を貫くように木製の蓋を被せた溝が走っている。駅前の探偵事務所は勿論、恭成が住んでいる辺りでも、今ではあまり見られない風景だ。遠目に見える中心には共同の井戸があるが、そこに人影はない。
そろそろ夕飯の仕度を始める時刻なのだろう、あちこちから醤油や味噌の匂いが漂ってきていた。小さな稲荷の前を通過して少し歩いたところで、目的の部屋に辿り着いた。住宅街の一番端、目の前を用水路が通っている長屋の一番奥だ。
表札を確認して部屋の引戸を叩いたが、しんと静まり返った屋内からは反応がない。訝しげに眉をひそめた葉髞は、円谷へちらりと視線を向ける。
「井上さん? 松山です」
円谷が引戸へ手を伸ばした。抵抗もなくすんなり開いてしまった戸の向こうに、がらんとした部屋が一望できた。
台所を兼ねた小さな土間と、上がり框。押入を備えた六畳一間の、ごく一般的な部屋だ。
ち、と円谷が舌打ちする。その時、となりの部屋の引戸が開いて、派手な容姿の女性が顔を出した。
纏う長着も兎に角派手だが、締めている帯も金糸を織った派手な物だ。髪はこてを当てたモダンな巻き髪で、ふんわりと肩の上で揺れている。笹色になるまで厚くぽってりと差した紅を見るまでもなく、高級女給を生業としている女性だろう。これだけ何もかもが派手にも関わらず悪趣味に感じないのは、彼女の持ち味だろうか。
「あんたたち、なにしてんのさ」
高く甘ったるい声が不思議そうに紡がれて、女性は訝しげに眉根を寄せる。明らかに胡散くさそうな面持ちに苦笑を浮かべて、円谷は懐に手を入れた。
「失礼。井上さんを訪ねてきたんですが、どこへ行ったかご存知ありませんか」
掲げられた警察手帳を目を丸くして見た彼女は、しげしげと円谷を見上げ、ついでに葉髞へも視線をくれる。そうして、明らかに残念そうに円谷へ視線を戻した。
「へぇ、あんた警官なの。あたし好みのイイオトコなのに、勿体無い!」
ぷ、と葉髞が吹き出した。微妙な表情を浮かべる円谷は、手帳をしまいながらため息混じりに促す。
「そりゃどうも。質問に答えてくれると助かるんだが、知らないかい?」
「さっき、誰か来てたみたいよ?」
一緒に出掛けたんじゃないの、と肩を竦めてみせた彼女は、僅かに声を潜めた。
「若い女の声で。あれは生娘って感じじゃないわね。おとなりさん、結構お堅い感じの人だからさぁ、ちょっと意外だなぁって、気になったんだけど」
騙されてるんじゃなきゃいいけどねぇ、と苦笑して、女性は好奇心剥き出しの表情で円谷を見上げる。
「ねぇ、あの人、なにやったの?」
「いや、ちょっと聞きたい話があっただけでな。出掛ける所は見てないかい?」
そこまで出刃亀じゃないわよう、と女性は笑い、部屋の施錠をする。
「あー、そう言えば。今朝から何処か出掛けてたみたいなんだけどさ、夕方に帰ってくるなり、悲鳴あげてすぐ出ていったのよねぇ。暫くしたら戻ってきたけど」
あれ、なんだったのかしら。
心底不思議そうに首を傾げた彼女は、気を取り直したように円谷を見上げた。
「もういい? あたし、これから仕事なんだけど」
「有難う、気をつけて」
「はぁい、お兄さんたちも頑張ってね〜」
ひらひらと手を振って女性が歩いていくと、円谷がやれやれと嘆息した。そして、室内を一瞥する葉髞へ、ちらりと視線を向ける。
「一旦出ていったってのは、おまえさんの所へ連絡入れるためだろうな」
「おそらく、そうでしょう」
「その時に盃を見つけたか。家捜ししてみるかい?」
「令状なしでは拙いんじゃないですか」
呆れたように半眼を向けて、ふと表情を改める。
「それに、出てこないと思います。訪ねてきた女性が気になりますね」
ククリ姫である可能性を指摘されて、円谷は僅かに眉をひそめた。そして、大仰に嘆息して空を仰ぐ。
「まったく、大人しく寝てりゃいいのによ。昔話の姫さんが、今更何しようッてンだ?」
「運よく捕まえたら、本人に聞きましょう」
引戸を閉めて踵を返す。そうして、最後の場所へ向かうべく足早に立ち去った。
◇◆◇
明里が籍を置く置屋は、鉄道の駅から程ない天満山の一角にある。この辺りは古くから続く花街で、古都の風情を漂わせた街並が特徴だ。お座敷遊びが隆盛している土地らしく広い座敷を備えた料亭や呑み屋も多々あって、それこそピンキリの宴会が毎夜何処かで繰り広げられている。目指す水上屋は多くの芸妓を抱える大きな置屋で、偶に師匠業をする明里を手伝うこともあることから、ここの姐さんたちとは顔見知りだ。店先へ顔を出すと、丁度お座敷へ出かけるところだったらしい姐さんたちと鉢合わせする。
「あら、お久し振りー」
「最近、ちっとも顔見せちゃくれないじゃないか」
「すみません、ちょっと本業が立て込んでたので」
「今日はどうしたのさ? ようやっと、うちで働く気になったのかい」
「あはは、まさか」
「ご謙遜だねェ。明里姐さんの直弟子のくせにさ」
早速取り囲みからかい始める姐さんたちを見回して、明里の所在を尋ねる。既にお座敷に出掛けてしまっただろうか、と心配していると、奥から暖簾を跳ね上げて当の明里が顔を出した。
「あぁ、明里姐さーん。恭成くんがおいでだよォ」
声を張り上げ手招きをする姐さんの横で会釈をすると、明里は意外そうに目を丸くする。そして、そのままの表情で歩み寄った。
「どうしたンだい、葉髞くんのところにいるんじゃなかったの?」
「ちょっとお聞きしたいことがあって。……あぁ、そうだ。お歳暮も有難うございました」
本当は僕が出すべきなんですけどね、と苦笑を浮かべると、明里は大らかに笑う。
「今年は、流石にみんなで宴会はできないしねェ。ついでだから、桃真さんの霊前にも供えてやっておくれな。御猪口一杯でいいからさ」
「わかりました、一升瓶一本供えさせてもらいます」
「足りないって怒るかねェ? あの人、恭成くんといい勝負だったから」
くつりと笑って、明里は恭成を促した。
「これからお座敷だからさ。話なら道中聞くよ」
同僚に「先に行って」と指示を出す。何の話かしらね、と冷やかした馴染みの姐さんたちは、くすくすと楽しげに笑いながら先に立って、しゃなりしゃなりと歩き出した。彼女たちが暖簾を潜って往来へ出ると、人々の視線が一斉に集まる。その姐さんたちの後を、二人は少し離れて歩き出した。
水上屋の芸妓は揃って見目も良く、お座敷遊びをしない一般人にも有名なのだ。その姿を一目見ようと、わざわざ遠方からやってくる人もいるらしい。その中には、少なからず女性もいるようだった。半襟や小物を細かく見て、お互いに囁きあっている。
路地にまで溢れてくる華やかな笑い声と、喧騒と、裏方の人々の飛び交う声。灯り始めた外灯が、花街らしい浮き世離れした風情を演出している。往来を歩く人々は活気に溢れ、年末の慌ただしさに浮き足立って見えた。
「さて、一体なんの話? わざわざこんな刻限に来るんだから、急ぎの用なんだろう?」
いつものように黒の裾模様を纏い、コロコロと芳町を響かせて歩く明里の姿は、やはり人目を引く。
明日にすればよかったかなぁ、と少しだけ後悔しながら、恭成は自然と声を低くした。
「明里さんは、椿ちゃんと同じ質ですか?」
率直に尋ねると、果たして彼女は口許を笑いの形に歪めた。
「それは、どういう意味で?」
「憶えてますか。わが身を助けてくれる縁って話をなさったじゃないですか」
明里と桃真は親しい知人だった。勿論、それだけで明里も同類だとは断定できない。葉髞や椿の例があるように、恭成には同類だと判らないこともあるのだ。円谷のように、そういうモノがあるのだと承知しているだけという可能性も考えられる。
寧ろ、そう考える方が自然かもしれない。けれど、彼女はあの時こう言ったのだ。
体験談だよ、有難く聞きな。
結果、恭成は縁に助けられる形で、葉髞の保護を受けることになった。あの時の彼女は、こうなることを見通していたのだと思うのは、穿った考えだろうか。それこそ、彼女の言う体験を元にして。
「何かに気がついていたんでしょう? 例えば……、椿ちゃんが視た影について」
真直ぐに明里を見下ろすと、彼女は僅かに視線を外して目を伏せた。そうだね、とため息混じりに呟いて、小さく肩を竦める。
「妙な影が、出歩いてるみたいだったね。偶然見つけなければ気付かないような奴だし、害はないだろうと放っておいだけど。それから、葉髞くんが来ていたのも知ってた」
昔からそうだったろう、と苦笑する。
「あの子が来ると、あやかしものは奇麗さっぱり姿を隠してしまうからね」
あんたにも、と恭成を見上げ、胸元を指差す。
「ずっと妙な感じがしてた。近頃はそいつが強くなってる」
「明里さんも、狩り人なんですか?」
「あたしは違うよ」
即座に否定し、彼女は仄かに笑った。
「それを聞きに来たの?」
「いえ、すみません。まだ前置きです。羽依子さんが、よく歌ってるでしょう?」
かごめ歌を、と切り出した途端、僅かに明里の眉が動いた。
「彼女はそれを魔除けだと言ってたんです。そのことについて伺いたいのが一つ。ご存知でしたら教えてください。あの場所は、何かから守らなければならない場所なんじゃないですか」
最初の猟奇事件は、首塚から見て鬼門の位置。二番目は裏鬼門。これがもし偶然でないのだとしたら、下宿の位置にも意味が出てくる。
下宿があるのは、首塚の真北。
北という字はヒトが背中合わせに立つ姿を表わすことから、かの時代には敗走を連想するのだと忌み嫌われた方角だ。だから戦に望む時には必ず、北に背を向けていたのだと。つまり、後ろの正面にあるのが、あの下宿なのだ。
この仮説が正しいのなら、穿たれた六つの点には明確な意味が出てくる。そして、盃が呪具であるという仮説の裏づけにもなるだろう。
「さて。残念ながらあたしは、あんたの疑問に答えられないけどね」
明里が恭成の前に回り込んで足を止めた。立ち止まった彼を真直ぐ見上げ、厳しい声を叩き付ける。
「ヒトにはそれぞれ、相応の役割ってものがあるのさ。それを無視して不用意に関わると、痛い目を見るよ」
でも、と口を開きかけた恭成の襟首を掴んで引き寄せた明里は、怖いくらい真剣な眼差しで低い声を吐き出した。
「忠告だ。関わろうってンなら、そいつをけして野放しにするんじゃないよ」
ぱっと手を離し、踵を返す。呆気にとられて立ち尽くす恭成をちらりと振り返った眼差しは、可笑しそうに笑み緩んでいた。
「あたしは何も話さない。今まで通りに生活したいなら、全部忘れて見て見ぬ振りをすることさ。とても簡単なことだろう?」
「出来ません」
きっぱり言い切ると、ふと明里が表情を翳らせた。そして、小さくため息をつく。
「これだけは言っておくけど、あれはあんたの所為じゃないよ? 全ては巡り合わせにすぎない」
「でも、もしかしたら」
あの時、恭成が殺されていたのなら。
そう考えてしまうのはやめようと努力しているのに、何かの拍子にそれは浮かんできて消えなくなるのだ。
「雄大さんが犠牲になることは、なかったかもしれない」
「それは否定しない」
即座に返ってきた明里の声に、びくりと肩を揺らす。でもね、と続けて紡がれた彼女の声は、物憂げだけれど優しく響いた。
「あんたは切り抜けた。椿の夢も、本当は誰を示していたのか解らないんだ。そして、今まであの子が夢を違えたことは一度もなかった。気休めにもならないだろうけど、結果が全てさ」
「どうあっても、助けることはできなかったんですか」
「それが出来たなら、あの子があれほど苦しんでいる道理がないだろう?」
すみません、と項垂れた恭成に苦笑した明里は、「気をつけて帰りなよ」と踵を返した。顔を上げた恭成は、慌てて引き止める。
「待ってください、もう一つだけ!」
振り向いた明里の表情に、言いかけた一言を飲み込んだ。刹那の判断で、たった一言を投げかける。
「羽依子さんとお里さん、本当に血縁ですか?」
にやり、と明里が笑った。もう行きな、とばかりにひらりと手を振って、彼女は再び歩き出す。コロコロと響く下駄の音を聞きながら深々と頭を下げた。これ以上は聞きだせないのだろう。仕方ないと踵を返す。
次の瞬間、悪寒がひやりと首筋を撫でて、足が止まった。
往来には、人が溢れていた。山吹色に輝く陽光、ぽつぽつと灯り始めた外灯と。まだ青さを残す空には、薄紅に染めあげられた雲が浮かんでいる。行き交う人々、艶やかな長着と、華やかな声。さわさわと響く人々の活気。
その中に、ぽつりと独り立っているのだ。
まだ幼さの残る年頃の娘だ。雪花と同じか、少し年上くらいに見えるだろうか。白い面は好ましく整っていて、けれどすっぽりと表情が抜け落ちてしまっていた。黒目がちな瞳にも一切の表情はなく、まるで硝子玉のようだ。垂らしたままのぬばたまの黒髪は、長く艶やかに足下まで届いている。小柄な身体に纏うのは、裾を長く引いた袿。鮮やかな色彩の、豪華な物だ。その姿は時代がかっていてあまりにも周りから浮いているのに、誰一人としてその異様さに気づくことなく通り過ぎてゆく。
まるで、彼女の存在に気づいていないかのようだ。
ぼんやりとそう思った途端、悪寒の正体に気がついた。誰一人として、彼女の存在に気がついていないのだ。
その足下に拡がるのは、その小柄な身体に不釣り合いなほど大きな影。その影も不自然なくらいに黒々としていて、地面を覆っているように見えた。ぴりぴりと肌を刺すような威圧感と、畏れて息をひそめるモノたちの緊張感が綯い交ぜになって息苦しいほどだ。
恭成、と雪花が鋭く声をあげる。ふと我に返った恭成は、辺りを包み込むように得体の知れない何かが拡がりつつあるのを感じた。辺りに溢れる様々な音が飽和して、妙な残響と共に空間を埋め尽くしてゆく。
それはまるで、夢が現を侵食していくかのような。
表情のない瞳が恭成を見つめて、す、と右手を持ち上げた。そのまま、何かを振り払うように無造作に手を払う。途端に、くんッと背中を後ろに引っ張られるような感覚が走った。次の瞬間、悲鳴をあげて雪花が地べたに転がり落ちる。突然のことに驚いて、思わず視線を外して振り向いた。
「雪……」
「恭成くん!」
異変を察知した明里が踵を返す。そうして、思わず竦んだようにたたらを踏んだ。
彼女が浮かべた驚愕の表情に振り返る間もなく、真っ黒い影が波打つようにうねりながら大きく膨れ上がり、音をたてることなく弾けた。同時に袿の娘を中心に風が巻き上がる。
突風に翻弄される人々の悲鳴が往来に木霊する中、幾人かが倒され、幾人かが自ら地面へ伏せた。防火用水の桶が幾つも吹き飛び路地に転がって、軒先の灯火が大きく煽られて消えてゆく。そんな惨状の中、ばたばたと髪を風に嬲られるままにしていた彼女の姿が突然掻き消えた。そして、その場所に重なるように。
眩しいほどの夕景の中に、大きな影が沈んでいた。
ぎちぎちと蠢く細い脚、大きな腹、大小幾つもの目を備えた小さな頭、本来ならば持ち得ない乱ぐいの牙。それは蜘蛛の姿を歪に真似た、別の何かだった。
その異形の姿を知覚した途端、足下から迫り上がってくるような、冷え冷えとした感情を自覚した。胃の腑に冷たくて重い物を飲み込んだような不快感がして、意識が遠退きそうになる。
そろそろ日が翳り始めた時刻の、赤みを帯びて山吹色に沈む街並。伸び上がるようにして表れた、踊るようなたくさんの影。その光景が、何かを連想させる。
忘れてしまった、何かを。
一斉に掴み掛かってきた影に、為す術もなく絡めとられていく。手足に絡むそれらに、具体的な質感など感じられない。その覚えのある感触に、ぎくりと心臓が跳ね上がった。
拙い、これはあの時の。
振り払おうとするには既に遅く、いくら藻掻いてもびくともしない。腕を、脚を、肩を絡めてゆくそれらの隙間から、足下を漆黒の闇が埋め尽くすさま見えた。ずぶり、と足下から影の中へ埋められて均衡を崩す。視界がぐるりと反転して、全身を何か突き抜けたような感覚が襲った。視界の端に捉えた雪花が、必死に手を伸ばすのを見たのを最後に。
彼は、意識を手放した。
◇◆◇
「恭成!」
雪花が手を伸ばしたその前で、ぱしゃりと水面を叩くように地面が揺らいだ。
小さな手が虚しく空を掴んだその向こうに、突風に薙ぎ倒された人々が見えた。同じく倒されてしまった明里が、悔しげに舌打ちしたのが聞こえる。
あれは一体なんだ。
細い指が地面を掻いて、悔しげに歯噛みする。
正に、一瞬の出来事だった。雪花を出し抜いて掻っ攫っていった手際は、非常に不本意だが見事といえよう。気配は、土蜘蛛のそれのように感じた。実際に、一瞬だが姿を見せてもいる。しかし同時に、僅かに恭成を襲った影の気配をまつわりつかせていたのだ。あんなモノは知らない。まして、力が弱っているとはいえ、こうも簡単に振り払われてしまうとは。そして今、その気配は跡形もない。
「ちょっと、お嬢ちゃん。あんた、あの子に従属してるんだろう?」
苛立ったような声が背後から投げ付けられて、驚いて振り向いた。きつい眼差しをこちらへ向けている明里の姿を認めて、雪花は目を丸くしたまま頷く。彼女はちらりと辺りを見回して、雪花へ届く程度に声をひそめた。
「何もたもたしてるんだい! 一刻を争うんだ、さっさと」
「辿れぬのだ、断ち切られた!」
癇癪を起こしたように喚き、小さな手が地面を叩いた。恭成が飲まれた瞬間から、その気配もぶつりと消えている。先程から辺りを探っているのにわからないのだ。見つけられない悔しさが、苛々と吐き出された声に滲む。
「鎖は切れておらぬ、しかしわからぬのだ。わらわにも、何故こうなったのか」
「ああもう、厄介だね。いいかい、お嬢ちゃん」
良く聞きな、と明里は良く通る声でまくしたてる。
「助けたかったらすぐ、羽依子の所に行きな。ククリ姫だと言えば動くから」
「ククリ姫? それがあやつの名か」
それは確か、恭成たちが探っていた御霊の名ではなかっただろうか。あまり興味を引かれず、話半分に聞いていたのが悔やまれる。御霊などと大層な名で呼ばれているが、所詮は紛い物。雪花から見れば、カミとも呼べない半端なモノという感覚だったのだ。それがこうまでも力をつけるとは、思ってもいなかった。
勢い込んで立ち上がる雪花を見上げた明里は、酷く真剣な面持ちで低く声を吐き出した。
「あの子は今、不安定だ。あんたもわかってるだろう?」
「だから急がねば」
「大事なことなんだ、ちゃんと聞きな。このままじゃ、飼ってるモノに喰われるよ」
びくりと肩が跳ねた。そんな、と呟いた声が震える。
脳裏を過ったのは、在りし日の光景。くつくつと壊れたように笑い続ける子供の姿。けれど、あれはあのとき消え去って、子供は忘れてしまったのだ。共に遊び語らった、たくさんのモノたちがいたことを。それを代償としたのだと、ずっと思っていた。だから不要なモノを全て抱え込んで、彼女は眠りについたはずなのに。
愛し子が、心安らかに過ごせることを願って。
「あれはもしや、鬼なのか? だから、わらわには抑えられぬのか?!」
違う、とやけにきっぱりと言い切った明里は、刹那の思案の後、言葉を重ねる。
「葉髞くんはどうしてる」
「件の騒ぎで出掛けておる」
「なら、最後の場所だね? 行き先で巧く鉢合わせすればいいけど。いいかい、必ず羽依子の所へ行くんだよ」
行きな、と手を払う。頷いた雪花は、袂を翻して駆け出した。急速に沈みゆく太陽が朱色に染まり、胸の奥に燻る焦燥感を煽り立てる。
これではまるで、あの日の再現のよう。
断片的に思い出される光景に、感情を押し込めるように奥歯を噛み締める。山吹色に染まる風景、ささめくヒトの声。いなくなった子供を探す彼女と。
世界を染める、赤い色。
考えるな、とかぶりを振った雪花は、ふと気がついた。日は急速に落ちゆく最中なのだ、そろそろ火入れの時間だろう。巧くすれば、火を渡っていけるかもしれない。
素早く辺りを見回せば、瓦斯灯の点火を始めているのが見えた。きびきびと働く壮年の男の手に松明が握られているのを認めて、踵を返す。
駆け出し、そのまま勢いを殺さずふわりと身体を踊らせた。追いかけて微かに悲鳴が聞こえたのは、雪花が飛び込んだ所為で炎が大きく揺れたからだろう。
火を渡って抜け出た先は、下宿に程近い家の庭先だった。たん、と地面に着地して振り返るが、焚火を囲む子供たちが雪花に気づくことはない。ただ、不意に揺らいだ炎に首を傾げて辺りを見回している。
彼らを一瞥してそのまま下宿へ向かった雪花は、ここで重大なことを思い出した。彼女の姿を見る者は限られる。例え狩り人でも、力の弱い者は視ることが叶わないだろう。例え明里に視えたとしても、羽依子もそうだとは限らない。
下宿の門が遠目に見えて、そのまま駆け込もうとした雪花は、見えない壁に阻まれて足を止められた。門を境に隔てられた先を見つめて、途方に暮れる。
どうしたものかと辺りを見回した時、玄関扉が開いた。姿を見せた羽依子は僅かに目を見張った後、その唇が音を発することなく「お入りなさい」と言葉を刻む。途端に雪花を阻む物は霧散して、彼女はまろびつつ駆け出した。さり気なく背を向けて玄関燈へ火を灯す羽依子へ駆け寄った雪花は、期待を込めて彼女を見上げる。
「そなた、わらわが視えているのか?」
僅かに辺りを見回す素振りを見せた羽依子は、雪花を見下ろして小さく頷いた。一番の懸念が払拭されて、雪花はほっと胸を撫で下ろす。恭成が、と言いかけた途端、羽依子の表情が変化した。辺りを気にする素振りも見せずに膝を折り、感情の読み取れない瞳が、じっと雪花を見つめる。その目に見覚えがある気がして、雪花は内心首を傾げた。そんなこと、あるはずがないのに。
「天野さんが、どうしました? そもそも、比売がお一人で来られるなんて」
「土蜘蛛に連れ去られた。居合わせた明里に、そなたへ助力を請うように言われたのだ。ククリ姫だと伝えよと」
言いながら、今更ながらに疑問が頭をもたげる。何故、彼女なのだ。そもそも、明里は何者だ。そして、羽依子は。
「松山さんは、どちらに? 一緒ではないのですね?」
尋ねられ、明里へ答えたそのままを繰り返す。すぐさま立ち上がった羽依子は、厳しい面持ちで「急ぎましょう」と雪花を促した。
「……間に合うかしら」
ぽつりと呟かれた声に、背筋が冷えた。
間もなく、大禍時だ。