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空行く月の末の花橘  作者: アサミズ
墨染之章
15/25

 久喜(くき)の弟が細々とした遺品を抱えて帰っていくと、手伝いの者たちも解散となった。久し振りに帰った部屋の空気は停滞していて、文机の上に薄く埃が積もっている。事務所の大掃除を手伝ってもらった礼に下宿の大掃除をしてしまおうと葉髞(しょうぞう)が提案してくれたのだが、これなら軽く掃除するだけで済みそうだ。そもそも、部屋もさほど広くないし慎ましい一人暮らしなのだ。高が知れている。

「さて、食い付いてくるかな」

 窓辺に立った葉髞は、門扉をくぐる井上の背中を眺めながら呟く。心持ち俯き加減の背中が小さく見えるのは、寒さだけが原因ではなさそうだ。

「気にはしてたけど、積極的に取り戻したいってふうでもなかったね」

「探したくはないが、探さずにはおれない。そんなところだろう」

 彼から感じられたのは、戸惑いと、怯えと、後ろめたさ。わざわざそんな演技をしてみせたとして、利にはならないだろう。井上が仮定していた盃の持ち主だったとして、預けた目的が身代わりや、久喜を陥れる等ではない可能性が高まったと言える。

「助けを求めてくるかな?」

「素直に求めてきたなら彼は善良なる一般市民で、人知れず恐怖を抱えていただけ。そういう可能性も出てくるな」

 二人で室内を軽く掃除して、形見分けに戴いた絵巻物を書棚に収める。順調に手続きが済めば、年明けには久喜の部屋を引き払うのだという。間もなく、彼が存在していたという痕跡はなくなってしまうのだ。それが寂しいと、久喜の弟を見送る玄関先で呟いた椿を思い出して、小さくため息をつく。

「さて。ここも片付いたことだし、そろそろ帰るか」

 恭成(たかなり)を促して外套を手に取る。今日から葉髞の妹が泊まり込みにくることになっているのだ。本人は張り切って大掃除も手伝う気だったらしいのだが、不要品の処分も昨日までに終えてしまった。

 自堕落に暮らしていたわりに身辺は殆ど荒れていなかったのは、如何にも葉髞らしいと言える。

「そう言えば、盃の情報は進展なし?」

「見当たらない、だそうだ。遺族の元にもなし、勿論、下宿その他にもなし。それから、諸岡(もろおか)さんだったか? さっき聞いた彼の情報だけどな。警察内部でも気づいた人がいたらしいぞ」

 最後に室内を一通り確認して、施錠する。先程まで物に溢れていた廊下はすっかり片付いていた。相変わらず閑散とした廊下を一瞥して、階段を下りる。

「昔の記録もあるにはあったらしいが、盃の有無はわからないそうだ」

「それはまぁ、……そうだよねぇ」

 たかが、素焼きの盃だ。屍体のすぐ傍にでも転がっていない限り、見落とされてしまうだろう。今回は、たまたま恭成や葉髞が居合わせて、口を挟んだからこそ注目されたのだ。

 やはり静かな玄関ホールを突っ切って、玄関の大扉を開ける。その音に庭先にいた羽依子(ういこ)が振り仰いで、にこりと会釈をした。

「お帰りですか? 今日は、お手伝いいただいて有難うございました」

「いえ。こちらこそ、御節を有難うございます」

 愛想良く葉髞が頭を下げて、ふと建物を顧みた。

「今年は、静かですね」

「えぇ。でも、すぐに賑やかになりますよ。どうぞ、お気をつけてお戻りくださいね」

 良いお年を、と送り出されて下宿を後にする。

 外に出ると空は奇麗な晴れ間を見せていたが、少しだけ風が強い。路面電車の停留所へ向かえば、丁度電車がやって来たところで、急いで乗り込み帰路へつく。

 走り出した車窓の外を流れる町並みを眺めていた葉髞は、不意に口を開いた。

「さっきの、二十年前の猟奇事件の方だがな。被害者が窃盗犯だった可能性があるそうだ」

 何気ない口調で放られた言葉に、恭成は目を丸くする。

「本当に?!」

「なんでも、遺体の懐に盗品の一部と見られる櫛が入ってたらしい。その他にめぼしい遺留品が見当たらず、未だにそいつが何処の誰だかわかってない」

「その捜査って、狩り人の誰かが関わってるの?」

 その当時の担当者に、話は聞けないだろうか。そう思って尋ねたのだが、葉髞は渋い表情を浮かべるだけだ。

「関わってるだろうが、誰が担当したかは不明だ。多分、こっちの組織の上の方には記録は残ってるんだろうがな。照会したとして、教えてくれるとは思えない」

「必要なことなのに?」

 事態の収束を目的として活動しているのなら、協力して然るべきだろうに。眉根を寄せた恭成へ苦笑を浮かべ、葉髞はため息混じりの言葉を吐き出した。

「まぁ、俺……というか、叔父貴も含めてな。組織の長老どもに煙たがられてるんだ。あいつらも隠蔽体質だしなぁ。知らぬ存ぜぬで通す奴らと押し問答するのは避けたい」

「立場とか、体面の問題?」

「いや、面倒臭い」

 そんな理由か、と半眼で突っ込む恭成に一瞥くれ、彼はうんざりとため息を零す。

「事件の裏帳簿には、解決と記されてるそうだ。今更蒸し返したら煩いぞ、あの爺どもは」

「もし今回の件と関係があったら、そっちの方が問題じゃないの?」

「だとしても、好い加減な仕事の尻拭いをするのは俺だ」

 告発は全部終わってからだな、と小さく肩を竦めてみせて、葉髞はふと思案げな様子を見せる。

「おまえの話を聞いてから、考えてたんだが。久喜氏の部屋で拾った盃が、失われた御神体である可能性もあるな」

「でも、火事場に割れて散らばってたんだったよね?」

「それが御神体とは限らないだろう? 見るべからずで封印されていた代物だ、誰も証明できないじゃないか」

 そもそも、盃が何客あったのかわかっていなのだ。たまたま一客割れてしまったものだけが残された可能性だって否定できない。

 淡々と指摘した葉髞は、もう一つ、と指を立てた。

「興味深いことがある。現場にあった盃だけどな。指で弾いてやると、金属音がしたんだ」

「金属音って、陶器なのに?」

「あぁ。それも、恐ろしく澄んだ音だった。鋼を打ち合わせたような」

 意味ありげだろう、と恭成を見遣る。

「試しに机の角に当ててみたら、見事に跳ね返してきてな。これは割れないんじゃないかと落としてみたら」

「割れなかったの?」

「それどころか、傷一つつかなかった。あれを見ると、火事場の破片は本物か疑わしいな。もしくは、なにかしら割る条件があって、それで割れてしまったとも考えられる」

 つまりは、御神体とされた盃は呪具で、封印の一端だった可能性があるということだ。

「あれが鎮盃(しずめのさかずき)だったとして、なくなった理由は?」

「単純に考えるなら、そいつを必要としているモノがあるということだろう。事件を起こしているモノがククリ姫である場合、神社以外にも封じる何かがあるのかもしれない」

「でも、資料室は結界が張ってあるって言ってなかった?」

 そういうモノが持ち出せないようにしてあるのではないのか。疑問符を浮かべる恭成に、葉髞は「そんな大層なモノじゃないさ」と苦笑を浮かべる。

「あくまで、証拠物品が勝手に出入りしないようにするだけだ。だから消失とは言うが、持ち出したのは第三者だろう」

 破られてたら結び直さなきゃならないな、と嘆息する。

「ククリ姫か、その封印をどうにかしたい某かの仕業、ということ? 鎮盃が呪具だったとして、それはやっぱり、猟奇事件と関係ある……よね」

「偶然とは言い難いな。とすると、あれらの場所には何らかの意味を見出せそうだ」

「ククリ姫の封印に関わる場所だとか?」

「それが一番可能性が高いな。果たして、被害者にどんな関連があるのか判らないが」

 かたたん、かたたん、と心地よく揺れる車体。低く唸り続けるモーター音。車内は適度に賑わっていて、年末の買い出しの荷物を抱えた人も少なくない。それは取り立てて語るまでもない、日常の風景だ。

 その中に当たり前に紛れ込みながら、こんな非日常の話をしているのも不思議なものだ。少し前までは、まさかこんな日が来ようとは思っていなかった。

 事務所近くの停留所で路面電車を降りると、二人は並んで事務所への道を歩き始めた。

 このところ思い出したように降る雪が、溶けきらずに道路の隅に追いやられて、硬く凍っている。こんな街中では、雪だるまを作る子供はいないのだろうか。舞上がる粉塵の為か薄汚れ、ただ積まれただけの雪は、なんだか侘びしく見えた。

 遠目にすっかり見慣れた建物が見えてきて、恭成はほっとした自分に内心苦笑する。数日過ごしただけで、もう他所の家という感覚が抜けてしまっているようだ。実際、居心地は悪くないので、気をつけなければこのままずるずると居着いてしまいそうだ。

 ビルヂングの大扉の前まで戻ってくると、待ち構えていたかのように、カフェーから女給がひょっこり顔を出した。

「お帰りなさいまし、お二方。荷物預ってますよ」

「ただいま帰りました」

「ただいま、智花子(ちかこ)さん。有難う」

 ちょっと待っててくださいね、と踵を返した女給は、そのまま店の中へ駆け込んでいく。

 退紅色に小豆色のよろけ縞を描いた中振りに、ひらりとフリルのついたエプロンを締めた小柄な彼女は、葉髞曰くこの店の看板娘らしい。

 確かに、喋る声は聞き取りやすくてはきはきとしているし、何より笑顔に愛嬌があって可愛らしい女性だ。記憶力もいいらしく、少し挨拶しただけの恭成も既に覚えられていた。

 カウンターの奥から風呂敷に包まれた一升瓶二本を提げて戻ってきた彼女は、それを葉髞へ差し出しながら記憶を探るように視線を彷徨わせる。

「お待たせしました。えぇと、水上(みなかみ)屋の明里(あけさと)さんからのお歳暮だそうですよ」

「明里さんから?」

 珍しいな、と呟きながら荷物を受け取る。

 またお店にもいらしてくださいね、と言う軽やかな声に応えてから、恭成を促して階段へ足を向けた。

「叔父貴相手にも届いたことがないのにな」

「今年は、僕がこっちにいるからじゃないかな」

「だとしても、一升瓶二本……」

「え、呑むでしょう?」

 酒豪基準で物を言うな、と真顔で返されて小首を傾げる。

「松山って、弱い方?」

 見た目で判断できるものではないけれど、下戸だと言われたら意外だなと思う。果たして葉髞は、何を思い出したのか渋い表情で答えた。

「弱くはないが、酒豪と呑んだらさすがに潰されるな」

「例えば?」

「叔父貴と円谷さん」

 なるほど強そうだ、と納得する恭成を後目に、事務所の鍵を開ける。扉を開けば鳴り響いている電話のベルに、葉髞は大股で室内へ踏み込んだ。どん、と荷物を執務机に置いて、受話器に手を伸ばす。

「お待たせしました、松」

 助けてください、と。拡声器から洩れ出た声が遮った。軽く眉を持ち上げた葉髞は、穏やかな声で落ち着くように促す。その声を聞きながら外套を所定の場所へ引っ掛けた恭成は、荷物を引き取って一度台所へ向かった。一升瓶を片付けて、仕事の電話だろうかと小首を傾げる。

 今年受けていたものは全て終了しているはずだから、新規のものかもしれない。あの様子では、裏の仕事なのだろう。だとしたら大変な仕事だと思う。事務所へ戻ってくると電話はまだ続いていて、辛抱強く喚きがちになる声を聞きとっていた。やがて器用に片手で万年筆の蓋を外した彼は、手許の筆記帳にさらさらと走り書きを始める。

「わかりました、すぐに伺います。どちらから電話を? ……いえ、ご自宅でお待ちください。けして外へは出ないように」

 失礼します、と電話を切った葉髞は、すぐさま何処かへ電話を掛け始めた。数回の呼び出し音の後、円谷(つぶらや)刑事への取り次ぎを頼む。

「……どうしたの?」

 囁きかけると、「後で話す」と低い声が返って来て、受話器へ意識を戻した。

「はい。お忙しい所すみません、円谷さん。例の盃が出ました、篠目(しのめ)町です。いえ、消失した物かはわかりません。これから確認に……はい?」

 手許へ視線を落とし、書き付けていた住所を読み上げる。通話を終えた葉髞は、書き付けた紙を千切り取り、恭成を振り返った。

「悪い、出てくる」

「さっきの電話、井上さんから?」

 円谷との会話の断片から予測して尋ねると、軽く頷いて踵を返す。途端に呼び鈴が鳴り響いたが、葉髞はそのまま扉を開いた。

「わ、びっくりした。どうしたの、兄様?」

 大きな目を丸くして葉髞を見上げたのは、黒地に鮮やかな色彩の蔦苺の意匠をあしらった中振を纏った少女だった。モガの断髪よりも長めに整えた黒髪は、彼女の活発さを表わすようで良く似合っている。

「悪い、菊羽(きくは)。天野と留守番しててくれ」

「え? 何処行くの」

「仕事」

 短く答えて彼女の横を擦り抜けた葉髞は、そのまま階段を駆け下りた。

「えええ、兄様ッ」

 なによそれぇえ、と声を張り上げた菊羽は、慌てて踵を返すと手摺に取り付き、階下へ向かって声を張り上げる。

「今日は戻ってくるの?!」

 それに対しての返事はない。どうやら既に外へと走り出てしまったようだ。恭成が開け放したままの扉から様子を窺うと、菊羽が盛大にため息をついたところだった。

「変なトコばっかり桃真(とうま)兄様に似てるんだから、もう!」

「ごめんね、菊羽ちゃん」

「いいえ! 兄様が悪いんですから、天野さんが謝ることなんてないんです!」

 きっぱり言い切って振り返る。そうして彼女は、改めて恭成を見上げて頭を下げた。

「ごめんなさい、ご無沙汰しておりました」

「こちらこそ。元気そうだね」

 御蔭様で、と笑う菊羽を招き入れて、扉を閉める。

「背も随分伸びたね」

 長身の兄とは違い小柄な印象があった菊羽だが、憶えているより明らかに伸びているようだ。ぱっと表情を明るくした菊羽は、それでも悔しそうに拳を握る。

「漸く、兄様の顎に届いたんです。せめて、あともう少し」

「あー、松山は高いからねぇ」

 そう言えば、幼児の頃の彼女の夢は「おにいちゃまよりおおきくなる」だったはずだ。残念ながら遠く引き離されてしまったが、どうやら完全には諦めていないらしい。

「女の子は、ほどほどがいいと思うよ。長着仕立てるのも苦労しそうだし」

「天野さんは、悔しかったりしないんですか?」

 小首を傾げる菊羽を促して、事務所の奥へ向かう。

「高過ぎるのも大変だよ」

 思い返せば葉髞は、少々古風な建物では必ず頭をぶつけていた。あれを見るたびに大変だなぁと思うわけで、羨ましがる前に同情してしまう。それはおまえも人並みに身長があるからだ、と怒ったのは、学生時代の友人だったけれど。

 当時を思い出してしみじみとしてしまった恭成を見上げて、ふぅん? と首を傾げる。そのまま奥へ進んだ菊羽は、事務所内を一望して目を丸くした。

「えええ、奇麗になってる! あんなに雑然としてたのに」

「ここ数日、掃除ばかりしてたからね」

 寝室は閑散としていたわりに、事務所内には先代探偵が遺した物が溢れていた。何となく雑然として見えたのは、それが原因だったらしい。それらは家主の裁決の元に恭成が仕分けして、古道具屋へ運び込んでしまった。中には珍しい舶来の物もあったようだが、使わなければただの不要品だ。御蔭様でそれらは、年末を過ごすには十分過ぎる軍資金へと化けている。それだけを見ても、先代探偵は随分羽振りが良かったようだ。

 いや、羽振りがよかったと言うよりも。

 持て余していたのかもしれないな、という感想が、ちらりと頭を掠める。たくさんの物があるべき場所に、それなりに置かれていたものの。ただ置かれていただけ、という風情が気になったのだ。

 例えるならば、人が住むべき空間を演出しているような。

 そんなあざとさを些細なところから感じ取ってしまい、逆に戸惑ってしまった。流石に不敬だと口を噤んでいるけれど、葉髞が感じていたという生活感のなさは、恭成の抱いた違和感を彼なりに表現したものではないかと思っている。

 くるくると室内を見て回る菊羽は、ひたすら感嘆しているようだ。

「凄い、天野さん。散らかってないけど混沌としてたでしょう? 何処から手をつけていいのかわからないくらいに」

 絶妙な例えだなぁ、と苦笑を浮かべながらストーブに火を入れる。帰った早々にあの騒ぎだったため、室内は未だ冷え冷えとしていたのだ。

 その間に菊羽は資料室へと続く扉を開いて、更に感嘆の声をあげる。

「こっちも! あの鼠でも遭難してそうな紙束の海を片付けちゃったんですか?!」

 蔵書は既に書架へ収納されて、床の片隅には分類し終えた調書や資料が積まれている。あとはそれらに表紙をつけて、棚に収めていくだけだ。これらは年明けに、のんびりやろうと思っている。どうせ気ままな自由業だ、事件解決後に手伝いに来るのはやぶさかではない。

 実は片隅に積まれた葛籠と長持も気になるのだが、如何せん長持には厳重に封がされており、その鍵が見つからないのだ。こちらに関しては、何となく嫌な予感しかしない。

「どうしよう、お手伝いしにきたのに」

「折角だし、のんびりすればいいんじゃないかな。初詣も行く?」

「わぁ、あたし初詣って行ったことないんです! 連れていってくれるんですか?」

 目をキラキラさせて振り返る。学生時代の葉髞は友達付き合いで晦日詣でには顔を出してくれたが、さすがに女の子では夜中に外へ出させてもらえなかったのだろう。そう思うと、この機会に世間様の正月を体験させてあげるのもいいかもしれない。きっと彼女には珍しくて面白いだろう。

「それにしても、天野さんも大変ですね。亡くなった方のお部屋の改装は、年明けになるんですか?」

 それまでここにいるんでしょう、と無邪気に笑う。その様子から、どうやら菊羽には恭成が避難して来た本当の理由は知らされていないらしい。明かしていないのならば、わざわざ訂正することもないだろう。

「うん、多分」

「早く犯人が捕まればいいのに。学校でも噂話で持ち切りだったんですよ。なんだかぐるっと囲まれちゃって、気味が悪いって」

「菊羽ちゃん、どこの学校に通ってるの?」

藤陸(ふじおか)女学校です」

 姫塚(ひめつか)にある有名女学校をあげられて、素直に感心する。

 良家の令嬢が多く通うことでも知られているが、なにより生徒の品性と学力が高いことでも知られている名門だ。ここで学んだ女性の進学率は高く、卒業後自立した職業婦人として活躍する人物も多いらしい。

 頑張ったんだね、と心から賞賛の言葉を投げかけると、菊羽は少しだけ得意げに鼻を膨らませた。

「それはもう。兄様にみっちり見てもらいましたから! 世間様には凄い言われようですけど、雰囲気はとてもいいんですよ。インテリも確かに、ちらほらいるんですけどね」

 苦笑を浮かべた菊羽は、ふと思い出したように顎先に指を当てた。

「そうそう、インテリといえば。あたしのクラスの委員長が、この事件はもうすぐ終わるわよって笑うんです」

「へぇ? どうしてだろう」

「さぁ? 天野さんの下宿の事件の後のことでしたけど。鬼が捕まらないまま次が起きてしまったら、それで最後。もう見つかりっこないって。犯人でしょうって窘められて、笑ってたんです。どうしてあなたがたにはわからないの、て」

 どういうことかしら、と小首を傾げる。興味深く相槌を打った恭成は、ふと脳裏を過った考えに「あ」と声をあげた。そのまま執務机の横に据えられた書架を振り返り、地図帳を引き出す。近隣の地図を広げた恭成は、位置関係を確認して唸った。

「あー、なるほど。そういうことか」

「天野さん?」

 わかったんですか、と目を丸くした菊羽が歩み寄って、手許を覗き込む。顔を上げた恭成は、口許に笑みを浮かべた。

「ん、多分。正解だと思う」

 藤陸女学校は首塚から程ない所にあったはずだ。おそらく、その委員長も諸岡と同じく位置関係に気づいたのだろう。そしてどうやら、彼女は民俗学に興味があるようだ。

 名門へ通うだけあって、なかなか洒落の利いてる子だと思う。趣味が良いかは兎も角。

「えええ、一体なんですか? 宿題にするから考えてごらんなさいって言われてて」

 そんなのわかりませんよう、と口を尖らせる。

「お願いします、助言だけでもくださいッ!」

 ぱんッと勢い良く手を合わせ拝み倒されて、苦笑が浮かぶ。確かに、宿題にされた方はたまったものではないだろう。

 そうだな、と呟いた恭成は僅か思案して「理由は考えてね」と前置きをした。この場合、答えをずばり言い当てるより同じく暗喩にした方が、その委員長には好まれそうだ。

「『鳥を逃がしてしまったから』。多分、これで正解が貰えるよ。僕が気づいたことが取っ掛かりになるかな。わからなかったら、もう少しだけ助言してあげる」

 鳥? とますます首を傾げた菊羽は、それでもきちんと理由を考え始める。

 よく気づいたものだと感心しながら、改めて地図を眺めた恭成は、ふと引っ掛かりを覚えて小首を傾げた。

「あれ? 待てよ、事件の起きた場所の……六箇所……?」

 既に起きている事件は五件。それは一定の法則に従って、等間隔に点在していることがわかっている。それによれば、残るは一件。葉髞が向ったのがその場所、重原稲荷(しげはらいなり)だろう。先程の会話の断片から、それは間違いないはずだ。しかし、問題はそこではない。

 一番最初の事件現場は、首塚から北東。二番目は南西。これは鬼門と裏鬼門ではないだろうか。そして、委員長の発言に繋がったと思われる下宿の位置と、彼女が提示してきた謎掛けの答え。

 それらが表わしているのは、円ではないのだ。

 ぱたん、と地図を閉じる。それを書架へ戻し、恭成は踵を返した。

「ごめん、菊羽ちゃん。ちょっと出てくるね」

「え、天野さんまで?」

 何処に行くんですか、と追い縋る声に僅かに足を止める。

「忘れ物取ってくるだけだから。もし松山が先に帰ってきたら、そう言っておいて」

「はぁい。お夕飯の仕度、しておきますね? 気をつけていってらっしゃい」

「うん、有難う」

 お願いね、とクロゼットから外套を取り出した恭成は、事務所を出ると駅を目指して駆け出した。途端に今まで沈黙していた雪花(きら)の気配が浮上して慌てて制止の声をあげたが、それを無視して雑踏の中を走る。

「待てと言うに! そんなもの、あやつらに任せておけ」

「大丈夫、そっちには行かない。ただ、気になることがあるんだ」

 徘徊していた影の意味、葉髞の言葉、明里の言葉、羽依子の言葉。そして、ククリ姫を巡るあれこれと。

 それらは普段ならそのまま流してしまいそうな、些細なことばかりだけれど。ここ数日に起きた出来事と照らし合わせると、妙に引っ掛かるのだ。そしてそれは思い過ごしではないと考えている。

「なら、何処へ」

「水上屋。それから、下宿。僕の仮説が当たっているなら、あの場所の封印はまだ解けてない。終わってないんだ。鬼当てにはまだ間に合う」

 賑わう駅前を駆け抜け鉄道の駅に辿り着けば、日は既に傾き始めて、空は刻々と色を変え始めていた。山吹色の光を受けて、気の早い雲が色を変え始めている。久し振りに晴れ間の覗いていた今日は、見事な夕映えを拝めそうだ。

 間もなく迎えるのは、逢魔が刻。

 胸中に迫りくる焦燥感を無理矢理抑え込んで、恭成は構内へ駆け込んだ。

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