1
恭成が記者室に顔を出すと、資料室の扉を開きかけた婦人記者と目が合った。記者室紅一点の九重嬢は、相変わらず細身の身体に男のような洋装を纏っている。男装というつもりはないらしく、女性らしく細やかに気遣って仕立てられたそれは、颯爽とした彼女には良く似合っていた。
会釈をする恭成へにこりと会釈を返して、彼女は扉の向こうへ身体を滑り込ませる。室内をぐるりと見回すと、諸岡が頭を抱えるようにして机に肘をついているのが見えた。手には赤鉛筆が握られていて、真剣に原稿を見つめている。
コラムの原稿を担当者へ提出して、いつものように少し離れて校正待ちをしている間に、九重が両手に資料を抱えて席へ戻るのが見えた。諸岡の後ろを通りながら何か一言告げたようで、彼は慌てたように振り返る。
九重とのやり取りの末に恭成へ振り向くと、「ごめんなさい」とでも言うように両手を合わせて頭を下げた。横から九重に何か言われたらしく、わたわたと机に取り付き仕事に戻る。いつ見ても飽きないなぁ、と一部始終を微笑ましく眺めていると、担当者から手招きをされた。修正指示もなく担当者に無事に引き取ってもらえると、九重から声をかけられる。
「天野先生、こちらでお茶をどうぞ」
振り向くと、彼女は空いている作業机に椅子を引き寄せて促した。さらりと短く断った髪が揺れて、奇麗に微笑む。
「有難うございます、雅鐘さん」
作業机へ足を向けると、九重はちらりと諸岡を見て申し訳なさそうに囁いた。
「少し待ってやってくださいね。お話したいことがあるんですって」
「はい。先日はご心配お掛けしました」
椅子に腰を落ち着けながら言うと、彼女は柔らかく微笑む。
「いいえ。諸岡くんがそわそわしてて、仕事にならなかっただけですわ」
出来たッ、と諸岡が席を立った。あたふたと校正紙の束を抱えて入口へ急ぐ彼は、行き掛けに「もうちょっと待ってくださいね!」と残して部屋を飛び出していった。
ばたばたとその足音が廊下に響き、遠くの方から「すみませんんッ」と落ち着きのない彼の声が微かに聞こえる。思わず吹き出した恭成の傍に腰かけた九重は、やれやれと言いたげにため息をついた。
「まったくもう、落ち着いてやればきちんと出来るのに」
「でも、ああして走り回ってるのが諸岡さんですから」
「機動力と小回りの良さは、特筆すべきですけどね?」
小さく肩を竦めて、悪戯っぽく笑う。彼女は彼女なりに認めているのだ。願わくば、もう少し落ち着いて行動してほしいというだけで。
「それにしても、年末も大忙しですね」
「えぇ。御蔭様で、下宿の大掃除もままなりません」
御節くらいは手伝いたいんですけど、とため息を零す。
「ご実家には帰らないんですか?」
「そうですね、帰ったところで煩いだけでしょうし。先生は、このままご友人の所で年越しなさるの?」
諸岡にでも聞いたのだろう、湯呑を差し出しながら小首を傾げる九重に、恭成は有難うございます、と軽く頭を下げてのんびり答える。
「一先ず、年明けまでは世話になろうと思ってますけど」
「探偵事務所でしたかしら。探偵さんも仕事納めなんてありますの?」
「今年はもう、抱えていた仕事は済ませてしまったみたいですよ」
大掃除の傍らに報告書等の書類を作成していたようだが、それは昨日までに先方へ提出したようだった。事務や経理の仕事も一人でこなしているというのだから、頭が下がる。
「ああして目の当たりにすると、探偵業って大変なんだなぁって思います」
「創作の参考にはなりますか?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる九重へ、それなりに、と肩を竦めてみせた。
「実地研修を受けてるようなものですからね」
他愛のない雑談に花を咲かせていると、ばたばたと諸岡が戻ってくる。自分の席まで駆けていった彼は、机の上に放り出されていた手帳を掴んでやってくると、勢い良く頭を下げた。
「お待たせしましたッ。有難うございます、九重先輩」
「お疲れさまです」
「幾つか言いたいことがあるのだけど」
九重の言葉に、諸岡が背筋を伸ばして聞く姿勢を作る。その様子に苦笑を浮かべ、彼女は席を立った。
「お小言は後にするわね。それでは先生、失礼します」
恭成へ会釈して踵を返す。ふぅ、と息をついた諸岡は、空いた席へ腰を下ろした。
「うう、助かったけど先延ばしになっただけですよね」
「雅鐘さん、厳しいですからね」
自分に一番厳しいヒトだから尊敬できますけどね、と相槌を打ちながら手帳を広げる。
「結構、いろいろ拾えましたよ。火事があったのは、約二十年前。当時は随分話題になったらしいですよ。焼失してからは、何処にもお祀りしてないみたいです」
「再建しようとしなかったんですか?」
首塚だけが残されている所を見ると、そちらを重要視されていたのだろうか。敷地がそのまま残っている現状を思うと、なんだかちぐはぐに感じてしまうが。果たして、諸岡はかぶりを振った。
「何度か試みてます。調べただけでも四度。いずれも途中で立ち消えて、実現してませんね」
「何かあったんですか?」
「工事責任者のご不幸とか、何度建てても基礎が倒壊するとか。そういう不可解な出来事が続いたらしくて」
その度に魂鎮めを行い、首塚に祝詞を奉納した。しかし、一向に怪異は収まらず、とうとう誰かがこう言ったのだ。
これはククリ姫の祟りではないか、鎮められないくらいにお怒りなんだろう。
それは一気に関係者内に広まったらしい。そうして、正式に再建計画は凍結した。
「関係者全員、大なり小なり不幸が幾つも続いてたみたいですよ。そういうのって、結構こじつけて考えちゃうところがあるじゃないですか」
「なんでも祟りということにしてしまえば、言い訳になるんですよね。残念ながら」
軽く眉をひそめると、諸岡は身を乗り出して声を潜めた。
「それに、状況が状況ですからね。どうやら、火付け泥棒だったらしいんです」
「え、命知らずな」
思わず零れた一言に、「ですよねぇ」と諸岡が苦笑を浮かべる。
「僕も、祟りを全面的に肯定してるわけじゃないですけどね。やっぱり御霊を祀ってるって聞いたら、ちょっと怖いですもん」
歴史書によると、出家した乳母と共に尼寺へ住まわれていた姫君だったが、生前愛用の品や調度品が幾つか遺されていたらしい。それらは当初尼寺に保管されていたが、神社建立後にそちらへ移されたとの記述が残っているのだという。それらの殆どが持ち出されてしまっていたそうだ。
「保管されてたのは御神体以外、根刮ぎだったそうです。そりゃ、祟りもしますよー。罰当たりにも程があるでしょ」
「焼けてしまったわけじゃなく?」
「全焼は免れたらしくて、警察立ち合いで検分したそうですよ」
宝物庫近辺は殆ど焼け残っていたが、その中は藻抜けの空だった。火元は本殿の奥で、そこには割れた陶器の欠片が僅かに散らばっていただけだったらしい。
「ただ、火事場で人が入り乱れたそうですからね。犯人は捕まってません。盗品の行方も、わからないままです」
「何があったのか、把握できてるんですか?」
勿論抜かりはありませんよ、と諸岡は手帳に挟み込んでいた二つ折りの紙を差し出した。
「歴史的価値のある物は、端から郷土資料館の方で保管されてたそうなんですよ。九重先輩の伝手を頼って、そこに一緒に保管されていた宝物庫保管の調度品その他を記した目録の写しを入手しまして」
受け取り広げた紙には、九重の流麗な文字で物品が認められている。その字面を目で追っていた恭成は、ふと気になる品を見つけて視線を上げた。
「これ、何か聞いてます?」
どれですか、と小首を傾げて恭成の手許を覗き込んだ諸岡は、指された品に納得して頷いた。
「鎮盃。ぁあ、意味あり気ですもんね。ククリ姫の昔話、あるじゃないですか。あれに祈祷師が出てきたでしょう? その弟子が鎮めに使った物……だったかな」
記述を探して手帳をめくる。そして、目的の覚書きを読み上げた。
「ええと、『姫の御霊を裂いて神酒と共に吸わせた土の器』、だそうです。御大層な文句ですけど、儀式に使用した物ってことみたいですね」
土の器、と反芻した恭成に、諸岡は頷く。
「そうです。素焼きの盃だったそうですよ」
「それ、何客あったのか、わかりませんか?」
「さぁ……、そこまでは。けして中を見てはならないってんで、箱に納めて青の絹布で包まれてたらしいんですよ」
不可視の禁忌に護られていたとなると、相当力の強い御霊として恐れられていた様子が窺える。それを持ち出したとなると、よほど恐れを知らない人物の仕業らしい。
当時の禰宜たちは、さぞや震え上がったことだろう。
「複数あったのは確からしいですよ。箱もそこそこ大きな物だったらしいです。弟子が五人いたって話ですから、数も同じだけあったかもしれませんねぇ」
「そういえば、神社を建立したのは誰だったんですか?」
ふと疑問に思って尋ねると、諸岡は即座に返してくる。
「指示したのは祈祷師だそうです。昔話じゃ死んだって言われてましたけど、実際は生きてたそうですよ。以来、大規模な改修工事はないそうです」
難しい表情で相槌を打つ恭成をきょとんと見つめた諸岡は、それを悪戯っぽい笑みに転じさせた。
「天野さんにしては、珍しく抜かってますね。突っ込まれると思ってたのに」
「え?」
何かありました、と真顔で返した恭成に、諸岡は可笑しそうに笑う。
「御神体ですよ! 再建してないって言った時点で、『御神体はどうなった?』って、聞かれると思ってたのに」
指摘されて、漸く思い至る。何度か再建を試みたと聞いた時点で、自然と御神体の存在が追いやられてしまっていた。結局再建されなかったのだから、御神体は役目を失ったことになるではないか。
そこまで考えて、聞かされた情報の中にちらりと御神体の話が出たことを思い出した。御神体以外は根刮ぎ、そして火元に散らばっていたという陶器の欠片。それらを組み合わせると、答えらしきものが見えてくる。
「ええと、その御神体って鎮盃ですか?」
「正解です。案外、簡単にわかっちゃいましたね」
残念がりもせず、諸岡は先程の話と結び付ける。
「再建を断念した理由にも繋がりますよね。肝心の御神体も、既に失っちゃってたわけですから。それも祟りの原因だろうって、考えられたみたいですよ」
以上で、報告終わりです。そう締めくくって手帳を閉じた諸岡は、ふと思い出したように言葉を添えた。
「そういえば。その火事の前後に、同じような猟奇殺人があったそうなんですよ」
「同じって、今回のと?」
「えぇ。僕が今回のことであちこち聞き込みしてたら、そういえばーって、話してくれた人がいて」
それが面白いんですよ、と席を立ち、地図を持って戻ってくる。作業机の上にばさりと広げたのは、例の検証に使っていた物らしい。諸岡の付けていた印は憶えているよりも増えていて、彼はその中で右上の印を指した。
「古い記憶なんで、ちょっと曖昧なんですけどね。大体この辺り、なんだそうです」
「もしかして、その場所……」
諸岡が言っていた、事件現場候補地だろうか。尋ねると、彼は大きく頷いた。
「そうです。どうやら、六等分されているみたいなんですよね。それで、既に起きていたのが三箇所、残りは天野さんの下宿も含めて三箇所」
それぞれを指す。そこまでわかった時に、四番目の事件が起きたのだ。
「この予測は間違ってないのかなって思っていたところに、もう一つですから。これは偶然か否か、気になるところですよね。繋がってるにしたって、間に二十年空いてますもん」
うむむ、と唸って腕を組む。そうして、諦めたようにため息を零した。
「とはいえ、もう僕にはお手上げですけどねー。取っ掛かりは良かったかもですけど、全然関連とか解らないですし」
ちょっと面白かったからもういいです、と大らかに笑う。
「次のネタも拾えましたし。当時の祟りネタとか凄かったし。世の中の不思議話って、物語を読むよりも面白いことがありますもんねぇ」
面白いってのは、不謹慎かもしれませんけど。そう言って肩を竦めた諸岡に、恭成は相槌を打つ。
「民話や言伝えは、大体他人の不幸ですからね。教訓にする、と言うか。しかつめらしく語らないのは、興味を持って親しんでもらう為なんでしょうね。有難いお話になっちゃうと、どうしても構えちゃいますから」
「あぁ、そうか。そういう意味もあるのか……。天野さんと話してると、勉強になります」
真面目な表情で言う諸岡に、恭成は照れ笑いを浮かべた。
「あんまり真に受けないでくださいね。半分は、思いつきも言ってますから」
「いいえぇ、そういう考えもあるんだって気付くじゃないですか。多方面に物事を捉えるのは大事ですよ」
尤もらしい説教をして、笑みを浮かべる。
「そんなふうに、高田さんが言ってました。僕って、物事の表面だけをなぞっちゃうんですよ。単純だから。だから、まだまだ半人前だって」
「のんびり頑張ればいいんですよ。その方が、諸岡さんらしいし」
「そうですねー。それでいいんですよね」
さぁ、やるぞ! と拳を振り上げ、次の原稿を思ってかため息をつく。その姿に笑い、恭成は紙片を袂に放り込んだ。
「それじゃぁ、そろそろ退散しますね。次の記事、楽しみにしてますから」
「期待しててください。面白いですよー」
あとは文才が問題なんですよねぇ、と嘆息した諸岡に激励と年末の挨拶をして、記者室を後にする。社屋を出ると、恭成はその足で下宿へと向かった。
このところ続いていた曇天も、今日は薄曇り。時折見える晴れ間に、往来の雪もすっかり溶けてしまっている。足下は僅かにぬかるんでいて、気を付けなければ裾に泥撥ねをつけてしまいそうだ。晦日の街は活気に満ちていて、商店街の傍を通れば打々発止のやり取りが聞こえてくる。
下宿のすぐ近くまで戻ってくると、葉髞が門扉横の塀にもたれ掛かるようにして立っているのが見えた。身に纏う黒っぽい外套は細身の洋仕立てで、よく見かける紳士然とした物より丈も短かめだが、すらりとした彼には良く似合う。彼はすぐに恭成に気がついて、ポケットに突っ込んでいた右手を軽く上げた。
「どうだった?」
「うん、いろいろ聞けたけど」
中で待ってれば良かったのに、と苦笑を浮かべると、彼は小さく肩を竦める。
「ゆっくり話を聞いていられる状況じゃないからな。触りだけでも聞かせてくれ」
要望に応えて、袂に放り込んでいた目録の写しを取り出した。聞いた話も込み合っているわけではないので、さらりと一通り話して聞かせる。
時折相槌を打ちながら聞いていた葉髞は、話が一通り終わったところで口を挟んだ。
「質問させてくれ。火事場に残された陶器の破片の正体と、御神体の行方は?」
「その陶器が御神体じゃないかと思われてるみたいだよ。そのものは不可視とされていて、見た人がいないんだって。御神体は目録の中の、鎮盃」
その由来と、ついでに諸岡の説を補足して説明すると葉髞は、気になるな、と呟いて軽く眉根を寄せた。
「客数がわからないのがもどかしいな。その、二十年前の事件も無関係とは思えない」
問い合わせてみるかな、と紙片を外套のポケットに入れて下宿を振り返る。
連れ立って門を過ぎると、玄関先に見慣れない荷馬車が二台止まっているのが見えた。御者へ会釈をして玄関へ入ったところで、本の山を両手に抱えて階段を下りてきた椿が笑顔で迎えてくれる。
「お帰りなさい、天野さん、松山さん」
「どうしたの、この本?」
尋ねると、椿は本の山を抱え直した。
「久喜さんの蔵書です。これは基礎的な専門書ばかりだから先に。今、皆さん上にいらしてますよ」
履物を突っ掛けて荷馬車へ向かう椿を見送って、階段を上がる。二階で繰り広げられていた光景を目にした恭成は、漸く先程の葉髞の言葉を理解した。
全て久喜の蔵書なのだろう。廊下にはまるで市のように所狭しと書籍が並び、幾人かが真剣な表情でそれらを選別しているのだ。
凄いだろう、と言わんばかりの視線をくれた葉髞は、恭成を残して久喜の部屋へ向かう。そちらにいるらしい羽依子へ電話を借りる旨を伝えた彼は、再び階下へ下りていった。残された恭成は、改めて廊下を見回す。
そこにいるのは五人。見覚えのある人もいれば、全く知らない人もいる。その中に、馴染みの古書店の若旦那の姿を見つけて歩み寄った。彼の前には書籍の山が積まれていて、算盤を弾きながら台帳に何やら書き付けている。
「こんにちわ、室崎さん」
「おや。お帰りなさい、天野さん」
振り向いた彼は、にこりと微笑み手にした書籍を山の一番上へ置く。
「何事ですか、これ」
「形見分けなさるそうですよ。ご友人は同じ畑の方だから」
高価で入手し難い専門書を選別しているのだという。同じく学問の徒として奮闘する若者の役に立てば、と久喜の両親が呼びかけたのだそうだ。
「御不要な物は、うちで引き取ることになりまして」
話しながら、傍へ積まれていく書籍を一つ一つ見聞し、パチパチと算盤を弾いていく。そして、ちらりと視線を上げて久喜の部屋を振り向いた。
「天野さんがお好きそうなのは、まだ書棚に残ってますよ」
ご家族もお部屋にいらっしゃいます、と示されて、会釈をして部屋へ向かう。声をかけながら中を覗き込むと、羽依子が気づいて振り向いた。
「お帰りなさい、天野さん」
閑散としてしまった室内には、羽依子ともう一人が家財の整理を行っていた。
羽依子に紹介されて初めて言葉を交わした青年は、確かに久喜の血縁なのだろうと伺える良く似た面差しの、穏やかで平凡な人柄の人だった。悔やみの言葉に丁寧な敬礼を返した彼が、妙にさっぱりとした様子で室内を見回していたのが印象的で。恭成の視線に気づいて照れ笑いを浮かべた彼は、「実感が湧かなくて」と囁いた。
「兄弟仲は、悪くなかったと思うんですが。ここへ来たのも初めてだし、兄の仕事仲間や友人という人たちに会ったのも初めてなんです。そっちの方が興味深いというか」
作家先生とお会いしたのも初めてです、と笑う。けれどその笑みもすぐに翳り、布が張られた足下へ視線を落とした。
ちらりと羽依子を見ると、彼女は僅かに目を伏せてかぶりを振る。おそらく、彼女の配慮なのだろう。しかし、壁の血痕や家財に散った飛沫は僅かながらも跡を残していたし、拭い去れない何かがこの部屋には停滞している。
それはおそらく、遣る瀬なさとか。理不尽な何かに対しての声なき慟哭とか。不可視の感情が淀んでいるのだろう。
「久喜さん、廊下の書籍は粗方選別終わりましたので精算に入りますが、宜しいですか?」
扉の影から若旦那が顔を覗かせると、青年はふと顔を上げた。
「お願いします。あぁ、そうだ。天野さんもどうぞ、何かお持ち下さい」
そのためにお呼びしたんですから、と青年が促すと、若旦那が書棚の前に立った。書棚から和本らしい装幀の書籍を抜出して、恭成へ差し出す。
「こちらなどいかがです? 天野さんも、こういうのお好きでしょう」
受け取って頁をめくると、それは竹取物語を描いた絵巻物のようだった。時代は新しいのだろう、褪色した様子もなく艶やかな古典世界を見事な筆で描き切っている。横から興味深そうに恭成の手許を覗き込んだ青年が、感歎の声をあげた。
「へぇ、奇麗ですね。知らなかった、こういうの好きだったんだ」
「天野さんが、下宿の子に楽しそうに古典を教えているのを聞いていたら、だんだん興味が湧いてきたそうですよ」
うちでお買い上げくださったんです、と懐かしそうに微笑んだ若旦那は、愛おしそうに書棚を見上げる。
「とても良い縁を残してくださいましたね」
件の古書店は、久喜に教えてもらった店だった。少しわかり辛い場所にあるけれど、品揃えはとてもいいからと連れて行ってくれたのだ。そこから得た縁も数知れない。こうして考えてみれば世話になったことばかりが思い出されてきて、漸く大きな喪失感を自覚した。同時に、彼が残してくれたものを思って心が温かくなる。確かに、良い縁だったのだと心から思う。
しんみりとしていたところへ葉髞が戻って来て、「手伝います」と上衣を脱いで袖を捲り上げた。問うような眼差しをくれた彼に「なんでもないよ」とかぶりを振って、恭成も片付けを手伝い始める。
廊下に積まれていた書籍は速やかに階下へ下ろされ、荷馬車に乗せられる。若旦那が精算を済ませて帰ってゆくと、研究室保管にするという書籍を荷馬車に積んだ幾人かも帰途につき、残りの人員で家財道具の整理を手伝うことになった。残った家具と幾つかの道具は、年明けに古道具屋へ持ち込むことになっているらしい。
事件直後に警察官と、翌日に羽依子が掃除をした御蔭で、生々しい痕跡と臭気は薄れてしまっていたものの。停滞してしまったこの部屋の時間はどこまでも空虚で、ぼんやりと手を止めがちな青年に、それぞれが気を使いながら荷物をまとめていった。
その人物が気になったのは、その時だった。
井上といっただろうか。久喜の学友で、恭成も幾度か対面したことがある人物だ。彼は戸棚の中や抽斗を片付けながら、何かを探しているようなのだ。彼に抱いていた印象は真面目で正直者といったもので、窃盗目的とは考え難い。
何を探しているんだろうかと首を傾げ、そっと様子を窺っていると、はたと目が合った。
「探し物ですか?」
率直に尋ねると、彼は曖昧に頷く。
「なにか、貸したままの物でもあるんですか?」
一緒に探しますよ、と軽い調子で申し出ると、果たして彼は困ったように口を噤んで、歯切れ悪く答えた。
「いえ。……なければ、それでも構わないんですけど」
盃を見ませんでしたか、と小首を傾げる。ふと件の盃が脳裏を過ったが、何喰わぬ顔で先を促す。
「どういった姿のものですか? 素材とか、大きさとか」
「陶器です。素焼きの……」
これくらいの大きさで、と両手で丸を形作る。その大きさも、件の盃と酷似しているようだ。それなら、九割方あの盃を指していると考えていいだろう。こんなにあっさり答えるということは、彼自身が何かしらの含みを持って、置き去りにしたり預けたものではないのだろうか。
「あぁ、それなら……」
「知ってますよ」
背後から口を挟まれて、井上はびくりと振り返った。その表情に軽く眉を持ち上げた葉髞は、見上げる恭成に一瞥くれて、もう一度「知ってますよ」と繰り返す。
「あの、何処にありました?」
勢い込んで身を乗り出す井上を押しとどめ、葉髞は盃の特徴を細かく示す。間違いないかと尋ねられて、井上は大きく頷いた。
「それで、あの」
「すみません、お返しは出来ないんです」
「なくなったからですか」
すぐさま返ってきた問いに、ふと葉髞が目を細めた。続けて紡がれた言葉は、僅かに固く事務的に響く。
「件の盃は、今朝まで警察が保管していました。松山から聞いたと円谷僚紘刑事を訪ねられれば、話くらいは聞けると思いますよ」
「してましたって、何かあったの?」
訝しげに尋ねた恭成に、葉髞は軽く肩を竦めてみせた。
「今し方、円谷さんから聞いたんだが、資料室から消えたそうだ。昨日まではあったらしいから、昨夜か今朝か」
「消えたって、紛失ってこと?」
「消失、の方だろうな。あの部屋も妙なモノが多いから、きちんと結界が張られているんだが。それでも、こういうことがたまにあるんだ」
あれもそういう類いだったんだろう。
何でもないことのようにそんな言葉を投げて、葉髞は部屋の隅に放り出していた上衣を拾いあげる。ポケットから名刺入を取り出すと一枚抜き出し、井上へ差し出した。
「何かお困り事がありましたら、どうぞこちらへ」
受け取った井上は、その文面を目でなぞり、戸惑ったように葉髞を見る。
「探偵……ですか? あの」
「失せ物から各種調査まで、あらゆる問題の解決をお手伝いさせていただきます」
はぁ、と曖昧に頷いた彼に、葉髞は意味ありげな笑みを浮かべた。
「どんなことでも。世の中には、不思議なことが溢れていますからね。お守り代わりにどうぞ、お持ちください」
必要にならないことを祈りますが、と踵を返す。半ば呆然として立ち尽くした井上は、手にした名刺へ視線を落とし、それをポケットの中にねじ込んだ。




