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空行く月の末の花橘  作者: アサミズ
埋れ木之章
11/25

 西洋建築のビルヂングに住むというのは、なかなか気を使うものだ。

 例えば、履物。二枚歯の下駄では板張りの床に傷でも付けそうだと、なんとなく気後れしてしまう。結果、室内では雪駄が定着しつつあった。必要を感じる時だけ、下駄に履き替えている。

 気を使い過ぎだと葉髞(しょうぞう)は呆れるが、居候の身としては気を使い過ぎるくらいが丁度いいと思っている。そもそも、下駄履きでごんごんと床に音を響かせて歩くのは、自分も煩わしいのだ。

 事務所の奥には資料室と廊下へ出る扉がそれぞれあって、右の扉を開くと廊下を挟んで資料室と台所が存在している。元々資料室への扉は、この廊下に面した一つしかなかったそうだが、直接行けた方が便利がいいと先代探偵が扉を付けさせたのだそうだ。

 台所には三階へ通じる階段が存在しており、上には寝室と客間等がある。恭成へ提供された部屋は桃真(とうま)が使っていた部屋だそうで、今は寝台と幾つかの家具しか存在していない、質素な佇まいの部屋だった。故人の持ち物は全て片付けてしまった後なのかと思いきや、寝室に関しては憶えている限りずっとこのままだったらしい。

 そもそも、ちゃんと寝てたのかも知らない。

 そんな葉髞の言い種に唖然としたものの、そういえば生前は通っていたのだと聞いたことを思い出した。それでは、業務終了後の様子など殆どわからなかっただろう。

 遺品整理の折に初めて入った寝室に残されていたのは、必要最低限の生活用品と衣類。生前から、不思議と生活感を感じないヒトだったらしい。事務所にあった物はそのまま引き継いで、衣類の幾つかは仕立て直したそうだ。

 曰く、初代松山探偵は困った人だったらしい。

 見た目は見映えのいい人物だが、とんでもない曲者だったと、葉髞は顔をしかめる。それを君が言うのかと、内心可笑しく思った恭成だったが、どうやらその曲者っぷりは葉髞の比ではなかったようだ。

 それが最も表われているのは資料室だろう。けして狭くない一室の中に、書架が整然と並んでいる部屋だ。手掛けた事件の書類は未整理でそのまま放り出され、傾れを起こしている有り様だったが。おまけに書籍は床から筍のように幾つも伸びていて、これまた幾つかは倒れて傾れを起こしていた。

 入社当時、葉髞も何とかしようと試みたらしい。しかし、何処から手を付けるべきか悩んでいるうちに四年が過ぎた。この中から、必要な資料を探し当てなければならないと言うのだから、その苦労は図りしれない。おまけに裏家業の仕事は継続することがままあって、資料がみつからないため引き継ぎも一苦労だというのだ。そんな事務所内が少々雑然としながらも片付いているのは、どうやら葉髞の功績らしい。先代が一人で切り盛りしていた頃は、雑然どころの騒ぎでなく、ごちゃごちゃしていたのだそうだ。

 閑話休題。

 初めてこの資料室を目にした時は、その有り様に言葉を失い、これらは何だと説明を求めてしまった。お世話になる代わりに掃除でもしようか、と気楽に言ったことを早くも後悔しかけたが、兎に角片付けなければ話にならない。

 年末の大掃除だ腹を括れと葉髞に指示を出し、ついでにおさんどんまで始め。転がり込んで以来二日間、恭成(たかなり)はコマネズミのようにくるくる働いている。

「松山ー、顧客書類なんだけど。無難に五十音でいいかな?」

「あぁ。個人別にまとめられていると有難い」

 資料室から顔を出して尋ねた恭成に、事務所の窓拭きをしていた葉髞は振り返りもせず答えて、ふと眉をひそめた。そのままの表情で振り向く彼に、恭成は「なに?」と言うように首を傾げる。

「まさか、目処が立ったのか?」

「通常の業務と、裏業務の分類は終わったよ」

 あっさり頷いてみせると、葉髞は「早いな」と驚嘆の声をあげた。その表情が言外に、あの量をか、と言っている。無理もないだろう。乱雑に書架に突っ込まれた書類の数々、無造作に封筒に入れられて床に積まれた書類の山。そういった物が、足の踏み場もなく床を埋め尽くしていたのだから。

 昨日のうちに二人掛かりで全て廊下へ運び出し、徹底的に埃を払い拭き取って、それで半日掛かっている。その続きを今朝から一人で引き受けて漸く今に至るのだ。

「中身はきちんと書かれてたし、僕はこういうの慣れてるからね」

 とは言え、とてつもなく根気のいる作業だった。こんな思いをしたのは、学生時代に図書室の虫干しと再分類を手伝って以来、久し振りだろう。大変な思いをした分、達成感で素晴らしく気分がいいけれど。そう言えば、そろそろ昼食時だ。簡単にでも何か摂るべきだろうか。

「こんなことなら、もう少し早く頼めばよかったな」

 無駄な努力をした、とでも言いたげにため息をつき、葉髞は手にしていた雑巾を桶の中へ放り込んだ。

「茶でも淹れるか。一休みしろよ。朝からずっとやってるだろ」

「うん、有難う。でも面白いよねぇ。仕事の内容が幅広くて」

 顧客住所には県外もままあって、精力的に活動していたことが窺える。しかし、ざっと日付を見るとそれらは開業間もない頃ばかりのようだった。

「それでちゃんと回ってたんだからな。俺には真似できん」

 肩を竦めて見せ、桶を抱えて踵を返した時、じりりりりん、と電話のベルが鳴った。「僕が取るよ」と葉髞を制して、恭成が受話器を取り上げる。

「はい、松山探偵事務所です」

『こんにちわ。わたくし三笠(みかさ)と申します。……天野さんですか?』

 おっとりとした羽依子(ういこ)の声が拡声器から流れてきて、ふと気が緩む。挨拶と近況を尋ねながらちらりと葉髞を振り返ると、彼は僅かに眉を上げた。

『それで、用件なのですけど。御節の約束をしていましたでしょう? そちらへお持ちするのは、ご迷惑でしょうか』

「いえ、迷惑だなんて。寧ろ、こちらの方が」

『わたしからのお歳暮だと思って、お納めくださいな。ああでも、松山さんにもお尋ねくださいますか? 差し支えないのでしたら、お二人分お持ちしますから』

「お気遣い有難うございます。ちょっとお待ちください」

 集音器を押さえた恭成は、葉髞を振り返った。心持ち、声を低く押さえる。

「松山、新年は実家に帰るよね?」

 伝え聞いただけなのだが、確か松山家の正月は年明けから怒濤の新年行事が目白押しだったはずだ。初詣の習慣が定着した昨今、そうした儀式を各家庭で行うことは少ない。学生時代は由緒ある家柄なんだろうなと思っていたが、おそらく狩り人家系であることも関係しているのだろう。

 しかし、当の葉髞はあっさりとかぶりを振った。

「いや。今年は免除された」

「え、大丈夫なの? 何かお役目があるんじゃなかった?」

「よく憶えてるな。男児がいるなら、そちらに任せるという方針なだけだ。当主の許可は得てるから問題ないぞ」

 何の電話だ、と葉髞に促され、恭成は本題に入る。羽依子の申し出を伝えると、彼は実にあっさりと頷いた。

「じゃぁ、母さんには断り入れておくか」

 わかった、と相槌を打って、拡声器を耳へ当てる。

「すみません、お待たせしました。お心遣い、有難く戴きます」

『はい、御笑納くださいませ。これから伺っても?』

「大丈夫です」

 お歳暮と言うのだから、こちらから取りに行くのは失礼に当たるだろう。渡してある名刺に住所も記載されていたはずだが、わかりやすいように目印を簡単に説明する。もう一度礼を述べて通話を終了すると、葉髞を振り返った。

「今から持ってきてくれるって。でも、真葉(まよう)さんには悪い事しちゃったな」

「気にするな。断っても、昆布巻だけは持ってきそうだが」

 昔、おまえが誉めただろう? と苦笑を浮かべる。

 学生時代は度々、松山家の夕飯に招かれていた。そこでいただいた昆布巻は本当に美味しかったことは、よく憶えている。母も叔母も料理は巧いのだが、どうやら昆布巻を炊くのは苦手だったらしく、恭成自身もこれといった物が作れないのだ。賞賛した恭成に、若々しくて少し可愛らしいところのある真葉は嬉しそうに笑って、息子はちっとも誉めてくれないのだと頬を膨らませていた。あれがまた食べられるのは、素直に嬉しい。

「それは楽しみだな、本当に美味しいから」

「手放しで誉めるなよ、後でしつこいんだ。他に何か言ってたか?」

「変わりなく、だって。何かあっても言わないと思うけど」

 管理人なら尚更のこと、色々と大変だろう。久喜(くき)には隣市に家族がいるし、カストリ誌を始めとしたマスコミだって、まだうろついているかもしれない。

「大家はどういう人なんだ?」

「噂を信じるなら、然る資産家の道楽息子らしいよ」

 ふと、入居の際にしか顔を見たことのない大家を思い浮かべた。彼が下宿へ顔を出すことはなく、羽依子が言うには、本業で忙しく動き回っているらしい。

「噂でなく、おまえの印象は?」

「んんと。歳は中年代かなぁ。ちょっと洒落た感じの、趣味のいい人で……。事業の片手間に下宿屋をやってるって感じ。大らかで嫌みのない人だったよ」

「細かいことは全部、管理人に任せてそうだな。事件がそのまま新聞に載っていたということは、上には食い込んでないのか、あまり気にしない質なのか」

「気にしてないんじゃないかなぁ」

 なんとなくそんな気がする。そう言うと、葉髞はあっさり頷いた。

「器がでかいのか」

「いやにあっさり納得するね」

「それだけ、おまえの目が信用に値するってことさ。大体おまえの周りだって、選んだように自分に有益な人間しかいないじゃないか。……あぁ、選んでるのか」

「え、そうかな?」

「無自覚なのが恐ろしいよな」

 半眼を向け、葉髞は桶を抱えて奥へ向かう。

 そんなつもりないんだけどなぁ、と呟いて、恭成は埃除けにつけていた割烹着を外してソファの背に掛けた。選んではいないが、引きが強いことは自覚している。ヒトには恵まれているのだ、昔から。

 間もなく煎茶道具を抱えて戻ってきた葉髞は、ストーブにかけた薬缶を取り上げると、湯呑へ注ぎ入れた。

「そういえば、腑に落ちないことが一つあるんだ」

 思い出したように口を開き、慣れた手付きで茶葉を量って急須に放り込む。手付きは大雑把なくせに、彼が淹れる茶は旨いのだ、何故か。これだけはどうしても敵わない。

「現場に踏み込んだ時、椿(つばき)さんの前にはおまえがいただろう。彼女が立っていた位置からでは、室内の様子は殆どわからないはずなんだ。なのに」

 悲鳴をあげた。あの時彼女は、何に対して悲鳴をあげたのだろうか。

 指摘されて、恭成も事のおかしさに気が付いた。自分が立っていたその場所からも、惨劇の現場を見渡すことは出来なかったはずだ。だから、わざわざ移動した。そこで、漸く惨状を目の当たりにしたのだ。椿は、その時は既に腰を抜かして座り込んでいた。彼女を支えていた羽依子は、ただ戸惑っていたのを思い出す。

「血の海を見ちゃったのかもしれないよ? 結構心臓に悪かったし」

「否定はしないが、それにしてもあの様子は尋常じゃないだろう」

 それからもう一つ、と指を立てる。

「惨状を見ていない根拠として、ククリ姫の民話が上げられるな。あんな事件の翌日だっていうのに、平然としてたじゃないか。あれだけ取り乱してた彼女が」

 首切りのお姫様と、彼女自身が言っていた。嫌な符合だというのに、取り乱すこともなく世間話に興じていたのだ。

 だからあれは、惨状を見ての悲鳴ではない。

 そう結論付けられて、恭成は思案げに眉根を寄せる。

「何かいたのかな?」

 何の気なしにそう言った途端、葉髞はふと表情を改めた。

「思い当たる節でもあるのか?」

「そういうわけじゃないけど。あぁ、そうか。そう考えちゃうと、椿ちゃんもあやかしものが視えるってことになっちゃうよね」

 流石にそれはないかと苦笑を浮かべるが、葉髞は真面目な面持ちを崩さない。

「決めつけるのは早いな。視たのかもしれない、だろう?」

「んん。じゃぁ、様子を見て聞いてみようか?」

「あぁ。俺が聞くより良さそうだな。頼む」

 ふと葉髞が壁の時計を見上げた。適温まで冷ました湯を急須に流し込み、嘆息した。

「今からだと、鉄道が一時間後だな。それまでにここは終わらせるか」

 葉髞がうんざりと室内を顧みる。とはいえ、あとは細かい拭き掃除と整頓くらいだ。資料室以外は元々片付いていたため、手分けしてしまえばすぐに終わるだろう。

「お昼どうする?」

 朝炊いた米の残りを握り飯にしておいたから、みそ汁と漬物で軽く済ませるならすぐに用意できる。そう提案すると、「任せる」と目の前に湯呑を差し出される。有難く受け取った煎茶は、ほわりと良い香りをさせていた。

「新年までには終わりそうだね」

「資料室以外はな」

 そうため息混じりに返ってきて、恭成は思わず苦笑を浮かべた。

 

  ◇◆◇

 

 一時間と少しして、事務所の呼び鈴が鳴った。書棚の整理をしている最中だった葉髞に代わって恭成が扉を開けると、そこには艶やかな長羽織にショールを巻いた椿が、荷物を抱えて立っている。

「あれ、椿ちゃん」

「こんにちわ、天野さん。羽依子さん、出がけに用事が出来ちゃったから、わたしがお使い頼まれたの」

 明るい表情の椿は、探偵事務所にも興味があったし、と笑う。そして、大事そうに抱えてきた風呂敷包みを恭成に差し出した。

「これ、お届け物です。今回は特に自信作みたい」

「へぇ、それは楽しみだな。わざわざ有難う。重かったでしょう」

「寒かったろう、入ってもらえよ」

 部屋の奥から、よく通る声で葉髞が促す。どうぞ、と恭成が招き入れると、椿はショールを脱いで「お邪魔しまぁす」と事務所へ足を踏み入れた。そして、室内を見渡して感嘆の声をあげる。

「うわぁ、素敵! 本当に、外国の探偵小説の世界みたい」

「前所長の趣味なんだって。現在の家主は日本びいきだから、日本茶しかないけどね」

「自宅で気取って、珈琲やら紅茶なんぞ飲めるか」

 やや尖った声でそう返した葉髞に、椿はくすりと笑みを零した。

「迷わなかった?」

「大丈夫、建物が目立つもの」

 さり気なく椿へソファを勧めた葉髞は、恭成の手からついでに風呂敷包みを取り上げて扉の向こうへ立ち去る。そちらをちらりと振り返った椿は、執務机に積まれたままだった書籍を抱えて書棚の前へ立った恭成を振り仰いだ。

「松山さん、こういうの卒がないね」

「身についてるんだろうね。昔からああだから」

「付け焼き刃じゃ、やっぱりわかるかな?」

 小首を傾げた彼女に、恭成は「大丈夫」と請け負った。

「椿ちゃんも、所作は奇麗だよ」

 あとは喋り方をもう少し直そうね、と付け加えると、椿は「はぁい」と首を竦める。そうして、無邪気な様子で声を弾ませた。

「こういうところで暮らすのって、どんな感じ? 楽しい?」

「慣れないかな、て思ってたけど。悪くないよ。椿ちゃんは、宿題はかどってる?」

「うぅ、それは言わないで」

 渋い表情で呻く椿に笑った時、道具を揃えた葉髞が戻ってくる。煎茶を淹れる彼の手許を眺めた椿は、不思議そうに恭成を見上げた。

「天野さん、お茶は松山さんに任せるんだね?」

「松山の方が巧いからね」

 どうぞ、と差し出された茶托を添えた湯呑が差し出されて、椿は「いただきます」と手を伸ばす。その向かいに恭成の湯呑を置いて、葉髞は座れとばかりに追い立てる。大人しく従うと、彼はふと何かを思い出したのか再び席を外した。

「いい香り」

「松山が淹れたの飲むと、お茶って甘いんだなって思うんだよね」

「ここだけ春みたい」

 ほわほわと幸せそうに煎茶を飲んでいた椿は、ふと表情を改めた。

「いけない、忘れてた。言伝があったんだった」

 湯呑を茶托へ戻し、恭成へ視線を向ける。

 椿の話では昨日、久喜の遺族が下宿を訪れたのだそうだ。少々やつれた印象の母親は、それでも気丈に振舞っていたらしい。丁寧に悔やみと詫びを口にする羽依子を逆に気遣い、居合わせた住人たちにも丁寧に挨拶をしていったのだそうだ。父親は口数の少ない人物だったが、羽依子に倣って精一杯の悔やみの言葉を言った椿に、久喜とよく似た笑顔を向けて礼を言ってくれたらしい。

「それで、三十日に蔵書の整理をしてしまうから、もし宜しかったら天野さんもお出でくださいって、久喜さんのお母さんが仰ってました。久喜さんから、天野さんの話を良く聞いてたんだって。形見分けに何か貰ってくれたら、久喜さんも喜ぶだろうからって」

「そういうことなら、ご挨拶に行かなきゃね。下宿のみんなは、どうしてる?」

「いつも通り。ご近所の人たちも、よく様子を伺いに来てくれるし」

 そうして、ふとため息をついた。

「お里さんの時も思ったけど、誰かが亡くなっても世界は変わらないんだな、て。悲しかったり、寂しかったり、そういう気持ちも慣れちゃっていくの」

 なんだか薄情な気がする、と肩を落とす。

 ぱたん、と静かに扉が閉まる音がして、葉髞が戻ってくる。そうして椿の前に菓子器が置かれた。盛られた干菓子は薄淡い桃色で、新春用に梅の花だ。

「御葬式は御実家でするから、お参りにはいけないけど。そうしたら、いつ泣いたらいいのかな? そういうの、よくわからない」

「泣きたい時で構わないさ。義務じゃないから」

 淡々とした口調で降ってきた言葉に、ふと顔を上げた彼女は、じっと真直ぐな瞳を葉髞へ向けた。

「松山さんは、叔父さんが亡くなった時、泣いたの?」

 ふ、と。彼は唇の端に笑みを乗せた。その儚く切ない笑い方を目にした途端、椿は後悔したように眉尻を下げる。

「叔父貴のために泣くのは、俺の役目じゃないから」

「ごめんなさ……」

「それに、それどころじゃなかったしな。引き継いだ物が物だけに」

 正直に言って、途方に暮れた。

 妙にじみじみと吐き出された言葉に、椿は口許に笑みを浮かべる。軽く肩を竦めてみせた葉髞は、恭成のとなりへ腰を下ろした。それを目で追った恭成は、意外な思いで疑問を口にする。

「桃真さん、恋人いたの?」

 確かに見目も良かったし、人当たりの良さそうな雰囲気をさせていたヒトだったけれど。なんとなく、そうした特別なモノを作らないヒトだと思っていたのだ。果たして、葉髞は軽く眉を持ち上げた。

「いたらしいと知ったのは、葬式の時だけどな」

「へぇ、お参りに来たんだ?」

「いや。どうして来ていないんだ、て明里(あけさと)さんが霊前で怒って発覚」

 母さんが、と呆気に取られた様子で反芻した椿に、苦笑を向ける。

「明里さんの友人らしいんだ」

 奇麗なひとだったよ、と仄かに笑って、湯呑へ手を伸ばす。

「嫌いでなかったら、和三盆もどうぞ」

「有難うございます」

 大好きです、と明るい笑みを浮かべた椿は、淡い色の干菓子に手を伸ばした。幸せそうに頬張り、吐息する。

「お菓子食べたの久し振り! 美味しいですねぇ、これ」

「松山がいきつけにしてる、和菓子屋さんのだよ。こう見えても甘党なんだ」

 可笑しそうに指した恭成に対し、葉髞は面白くなさそうな表情で応じる。

「こう見えても、は余計だ」

「ふぅん、意外。天野さんだって、お酒弱そうに見えるのに笊だっていうし」

 人は見かけによらないわ、と椿はしみじみ言葉を吐き出す。

「へぇ、確かに笊には見えないな」

 相槌を打った葉髞へ、そうでしょう、と椿が身を乗り出す。

「お正月は毎年、うちの母が大きな樽酒を買って下宿の人みんなに振る舞うんです。母も酒豪で鳴らしてるみたいで、二人して最後まで呑んでますよ」

 しかも翌日、けろりとして活動しているのは恭成だけらしい。そんな恭成に明里は、「あんたって、真性の笊だねぇ」と苦笑を浮かべるのだ。

「……おまえと呑みに行ったら、とんでもないことになりそうだな」

「いやだな、普段はそんなに呑まないよ。お金銭(かね)もないし」

 そううそぶき、恭成は小首を傾げる。

「明里さん、今年も忙しいんだね」

「この年末は、特にお偉いさんの宴会が一杯なんだって。景気良く騒いでるみたい」

「ある所にはあるんだろうさ。少しでもこっちに回ってくればいいのにな」

 葉髞の言い草に軽く笑い、椿は時計を見上げた。

「そろそろ帰らなきゃ。今日は、ご近所でお餅搗いてるの」

 ご馳走さまでした、と頭を下げて椿が立ち上がる。ビルヂングの大扉の外まで見送りに出た大人二人に、椿は丁寧に頭を下げた。

「本年はお世話になりました。良いお年をお迎えください」

「良いお年を。道中気をつけて」

「駅まで送っていこうか?」

 ふと思いついて申し出た恭成に、椿は笑った。

「有難うございます。でも、まだ明るいし、大丈夫」

「道順は大丈夫?」

 尋ねると、一瞬笑顔が固まる。

「……た、多分?」

 ぷ、と葉髞が小さく吹き出した。苦笑を浮かべた恭成は、いいよ、と頷いた。

「送っていくから。夕飯の買い出しもしたいしね」

 ちょっと待って、と外套を摂りに戻った恭成は、ひたすら恐縮する椿を連れて事務所を後にした。肩を並べて歩き出した二人は、雑談をしながら鉄道の駅へと向かう。

 まだ日はあるものの、薄く雲が掛かった空は辺りを僅かに翳らせていた。行き交う人々に活気はあるものの、何処か陰鬱な印象がまつわりついているように見える。

 これだけ人の出があると、やっぱり歪みも激しいのか。

 ヒトの波に押し出されるようにして、凝った闇があちらこちらに澱んでいた。今までは雪花の御蔭かあまり気にならなかったが、それは其処彼処に存在している。知らずにそれらを蹴散らす人、融けるように消えていく影のようなそれら。

 何気なくそのさまを眺めていた彼は、椿の足取りが時折不自然になることに気がついた。よくよく注意してみると、足許に淀む闇を避けて歩いているようなのだ。

 まさか、視えてるのかな。

 訝り、先ほど葉髞が示唆していた事柄を思い出す。ふむ、と思案して、恭成は何気なく口を開いた。

「一つ、聞いてもいいかな。嫌なことかもしれないけど」

 なんですか、と椿が小首を傾げる。

「雄大さんがどんなふうに亡くなったか、誰かから聞いた?」

「いいえ、羽依子さんは聞いたみたいだけど」

 きょとんとかぶりを振って、不安そうに眉尻を下げた。その表情に、作ったような不自然さはない。

「天野さんは見たんでしょう? そんなに酷かったの? 羽依子さん、お部屋の後片付けも一人でしてたの。わたしには酷だろうからって」

「そう。ねぇ、それじゃぁ」

 立ち止まり、椿と視線を合わせる。

「どうしてあの時、悲鳴をあげたの?」

 椿の顔から表情が抜け落ちた。

「椿ちゃんはあの時、何を見たの?」

「……わたし」

 ひび割れた声が零れ落ちて、かぶりを振る。

「知らない、知らないのッわたし知らな」

「僕はね、他にも見たことあるみたいなんだ」

 ああいうの、と仄かに笑って、両手で椿の頬を包み込んだ。やわやわと指で白い頬を撫でて、耳に甘く馴染む優しげな声を紡ぐ。

「よく憶えてないんだけど。子供の頃のことだから、忘れようとしたのかもしれないね。だからあの時、椿ちゃんが悲鳴をあげなければ、僕が倒れてたかも」

 椿ちゃんも、そういうこと?

 尋ねると、椿は微かにかぶりを振る。大きな目が潤んで、ぽろりと雫が頬を伝った。

「言っても、信じてもらえない」

「どうして? ねぇ、椿ちゃん」

 視えてるでしょう、と耳元に低く囁いて、ちらりと視線を流す。

「例えば、そこの影のようなモノ」

 僅かに、椿の顔が強張った。宥めるように柔らかく頬を撫でて、奇麗に微笑んでみせる。

「そういうことなら、信じるよ」

 精々優しく、仄かに甘く。丁寧に穏やかな声を紡いでゆく。

「ね、話してみて?」

 両手を外して涙の跡を拭ってやると、椿は顔を俯かせた。そしてそのまま、どすんと恭成に抱き着く。ぐいぐいと額を押し付ける椿の耳は、ほんのり赤く染まっていた。

「……やっぱり天野さん、質悪い!」

「うん、ごめんね」

 不貞腐れた声に思わず笑みが零れる。むっと唇をへの字に曲げて見上げた椿は、諦めたようにため息をついて、真剣な眼差しを向けた。

「絶対、絶対信じてくれる?」

「ちゃんと話してくれるならね」

 宥めるように肩を叩くと、椿は僅かに躊躇って、小さな声で告げたのだ。

 久喜が死んでいるかもしれないことを知っていたのだ、と。


  ◇◆◇

 

 事務所へ戻ってくると、ふわりと甘い香りがした。西洋風の暖房器具は日本と違い室内を暖めることを目的としているため、外から戻ってくるとその暖かさにほっとする。

 耳を澄ませるまでもなく一方的な話し声が聞こえていることから、どうやら葉髞は電話中らしい。外套を扉横のクロゼットに引っ掛けて奥へ進むと、電話を終えたばかりの彼が苦々しく嘆息したところだった。どうしたのだろうかと首を傾げていると、葉髞は気を取り直したように振り返る。

「お帰り」

「ただいま……。どうしたの?」

「あぁ。菊羽(きくは)がな」

 眉間にしわを寄せて、再びため息をつく。

「菊羽ちゃんが?」

「うちに泊まりに来るらしい。どうやら、母さんがお前を心配してるみたいだな」

「年末の松山家って忙しいんだよね? いいのかなぁ。松山も、なんかごめんね」

「いや、俺は構わないんだが。むしろ有難い」

 ふと遠い目になる。学生時代、怒濤の年末年始だとぼやいていたが、その壮絶さが垣間見えた気がした。

「男所帯は信用ならないそうなんだが」

 必要あるか、と室内を顧みて呟く。室内はすっかり奇麗に整えられていて、御節も分けてもらえたために準備もほぼ完了してしまった。

「まぁ、いいんじゃない? のんびり過ごせば」

 そんな機会もそうないだろうと提案すると「それもそうだな」と頷く。

「ところで甘酒作ったんだが、飲むか?」

「有難う。松山の甘酒、久し振りだなぁ」

 台所へ移動して食卓に着くと、手鍋から注いだ甘酒をたっぷり満たした湯呑がどんと置かれる。これにおろし生姜をたっぷり入れるのが恭成の好みなのだが、さすが長年の親友はきちんと憶えてくれている。東洋医学では、生姜は身体を温める食品と言われているそうで、寒い日に生姜入りの甘酒を飲むのは確かに利に適っていると言えるだろう。

 それを有難く戴きながら、恭成は顛末を語る。

「椿ちゃんだけどね。夢を見たんだって」

 怪訝そうな表情を浮かべた葉髞は、恭成の向かいに腰を下ろして先を促す。

 椿が憶えている限りごく幼い頃から、鮮やかな色彩の、目覚めた後まで印象がはっきりと残る夢を見ることがあったらしい。そうした夢は、必ず現実の中で正確に再現されるのだと彼女は語った。

 まるで、夢が現実へ染入ってくるように。

 初めは、見た夢を他人にも話して聞かせていたらしい。いい夢ならば問題ないのだが、そればかりを見ることはなく。誰某が怪我をする、死んでしまうといった夢も見るそうだ。

 そうした夢を独りで抱え込むのは恐ろしくて、夢に出てきた本人に「大丈夫」だと言ってもらうことで安心していたらしい。彼らもそれを本気にすることはなく、夢に怯える子供へ「ただの夢だ」と言い聞かせてやっていた。

 けれど、彼女の夢が外れることはなく。

 やがて、人々は彼女を気味悪がった。彼女を隔離するように遠巻きになり、友達は一人もいなくなった。

 見知らぬ大人に、おまえが呪い殺したのだと石をぶつけられたこともあったらしい。その頃に現在の下宿へ引っ越すことになって、それ以来。彼女は夢の話を母以外にはしなくなった。

 話さなければ、誰も責めなかったから。

 ふぅん、と呟いて。葉髞は思案げな表情を見せた。

「それは、血脈の問題だろう。彼女も俺たちの同類だったんだな」

「こういうのも、やっぱりそう?」

 厳密には違うんだが、と応じて、葉髞は自分の湯呑を手に取る。

 現在の狩り人は派閥毎に細分化されており、代表と属する者たちを大まかに把握しているだけなのだそうだ。この地域ならそれは松山家が属する組織ともう一派で、それらに属していない者たちは一緒くたにすることが多い。基本、自身が属する組織以外の把握はなおざりなのだ。

「それで、どんな夢だって?」

 促され、恭成は椿の語った内容をよく思い出そうと努める。

 影でした、と彼女は言ったのだ。

 誰かが死ぬ夢は、いつも真っ赤に染まっているらしい。そんな夢は、数日に渡り少しずつ再生されてゆく。初めは、ただ赤い風景。その中に独り、ぽつんと立っているらしい。やがてそこに、染みのようにじんわりと影が生まれてゆく。それを無感情に眺めながら、彼女はいつも「知り合いでなければいい」と思うのだ。それ以外は、どうでもいい。そう思う程度には、既に麻痺してしまっていた。

 やがて影は、様々な形を成してゆく。時には争うヒトビト、凶器を振り上げる人影、突き落とされるヒト。事故であることも、勿論あるらしい。赤い風景の中で彼らが如何にして死を迎えるのか、影がその過程をなぞってゆくのだ。昔はきちんと顔が見えたのだが、今はただ影が踊るだけなのだという。だから、無関心でいられたはずだった。

「あんなふうに取り乱したの、どうやら僕の所為みたいなんだよね」

 軽く眉間にしわを寄せて、一つため息をつく。

 彼女が夢を見始めた頃、恭成の異変に気づいたのだという。最初は、仕事が押しているのかと思ったらしい。そんな理由で眠そうにしていることは時折あったし、夢はまだ朧だったのだから。

 けれどある晩、廊下の暗がりから影が現れるのを目撃した。滑るようにして進むそれに気づかれてはならないと、何故か強く思ったそうだ。それが階段を上っていくのを息を殺して見送ってから、暫く震えが止まらなかった。

 その夜、夢は誰かが縊り殺される様を再生した。

 赤い景色の中踊る影を、これほど怖いと思ったことはなかったそうだ。顔が見えないことが怖い、無関心に眺めていた自分が怖い。もしかしたら、これはよく知る誰かのことかもしれないのに。知り合いでなければいいだなんて考えはしても、そこになんの感慨も抱かなかったそのことが、何より怖いと思った。

 どうしたらいいのだろうと必死に考えて、しかし死んでしまう誰かが恭成であると確信できず、ずっと一人で悩んでいたらしい。そしてあの夜。扉が開かれた途端に、何故かわかったそうだ。

 夢が完成したのだ、と。

「椿さんは、遺体を見てないよな?」

「うん。どんな様子だったとも聞いてないみたい」

 おそらく、聞きたくなかったはずだ。だから誰にも問い質さず、言い知れぬ罪悪感から涙も出なかったのだろう。

 恭成に吐露して漸く涙を零した椿は、一頻り泣いた後、小さな声で一言告げて駅舎の中へ駆けていった。

 自分でも酷いと思うけど、天野さんは無事でよかった。

 そう、はにかんだように笑う椿を前にしては何も言えなかった。そして今も少し、わだかまったままだ。

「なんとなく輪郭は見えてきたけど、問題の解決には程遠いよね。松山が見たモノと、僕が見たモノと、椿ちゃんが見たモノと、雄大さんを襲ったモノ。果たして、全部同じモノだったのか、とか」

「俺とおまえが何度か見たのは、同じかもしれないな。問題は、椿さんが見たモノと、久喜氏を襲ったモノと、おまえを襲ったモノだな」

「同じか、違うか?」

 頷き、葉髞は疲れたように椅子の背に身体を預ける。

「あとは多方面の情報待ちだ。もう憶測でしか、ものが言えないからな」

「いい話が聞けるといいんだけどね」

 応じ、恭成は窓の外の灰がかった冬の空を見上げた。

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