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空行く月の末の花橘  作者: アサミズ
埋れ木之章
10/25

 下宿へ戻ってきたのは、昼も過ぎた頃だった。門扉を通り過ぎたところで玄関の大扉が開いて、羽依子(ういこ)が姿を見せた。これから買い出しに行くのだろうか、手に籠を下げ鼻歌を歌いながらこちらへ歩いてくる。奇麗な歌声は聞いていて心地良いのだが何処か物悲しい。それは、歌の所為かもしれないけれど。

 彼女が歌うのは、かごめ歌。

 この歌の解釈には諸説あり、議論の的となることが度々ある。突飛な仮説も多い中、最近興味深く聞いたのは足抜けした女郎の話だとする解釈だ。

 【籠の中の鳥】は、妓楼に囚われた女郎。【いついつ出やる】は、いつ逃げ出そうか。一番手薄な時間の、【夜明けの番】に一緒に逃げよう。追い掛けてくるのは遊廓の食客達で、逃亡の末にとうとう二人は追い付かれた。

 なかなか着想は面白いけれど、子供に歌わせるような歌じゃないなぁと思ったものだ。

「ただいま帰りました」

 声をかけると、羽依子はふと顔を上げて微笑んだ。

「お帰りなさい。今朝より顔色が良くなりましたね」

「ご心配をお掛けしました」

 軽く頭を下げると、いいえ、とかぶりを振る。

「お買い物ですか?」

「はい。松山さんがいらしてますよ」

 先程からお待ちかねです、と笑みを含んだ声で言われて、「有難うございます」と慌てて玄関へ向かう。間もなく背後から再び聞こえてきた鼻唄に、何故か気を引かれて歩みを止めた。振り向けば、羽依子がさくさくと愉しげに雪を踏みながら歌っている。

 後ろの正面、だぁれ?

 一緒に遊んでいる友達の誰か? それとも、紛れ込んでる別のモノ。

 手を繋いで閉じた円の中は結界。それは果たして、守られているのか、閉じ込められているのか。

 一体、何を惑わせようとしているのか。

 そこにいるのは、どこのだれ?

「かごめ歌、よく歌ってますよね。お好きなんですか?」

 ふと、疑問が口をついて出る。羽依子は振り向き、奇麗に微笑んだ。

「天野さん、かごめ歌の意味は御存じですか?」

 唐突な問いに、咄嗟に言葉が出なかった。くすり、と彼女は奇麗に笑って鈴を振るような声が愉しげに告げた。

「魔除け、なんですよ」

 さらり、と小さな背中を束ねた長い髪が滑る。さく、と彼女の足下で雪が鳴った。

「行って参ります。すぐに戻りますから」

「あ、……はい。行ってらっしゃい」

 にこり、と笑みを浮かべた羽依子は、そのまま門扉を過ぎてゆく。踵を返して洋館を見上げた恭成(たかなり)は、気を取り直したように小さくかぶりを振ると、玄関へ向かった。

 大扉を開けると、相変わらずひっそりとした空気が停滞している。並べられた履物を見るに、二階の住人はまだ帰っていないらしい。代わりに葉髞(しょうぞう)の物らしい靴はあるが、目の届く範囲に彼の姿はない。

 この寒さだ、おそらく羽依子が気遣って恭成の部屋へ上げていることだろう。

 そう予想を付けた恭成は、外套と履物を手早く脱いで、湿った足袋を片手に階段を上がった。小走りで部屋の前まで来ると、微かに話し声が聞こえて首を傾げる。

 ただいま、と扉を開けると、室内にいた二人が振り返った。

「お帰り。勝手に上がってるぞ」

「お帰りなさーい。お邪魔してまーす」

 遅かったな、と素っ気無く続いた一言に、恭成は思わず首を竦める。

「ごめん」

「おまけに裸足で」

 何事だ、と呆れた目が恭成を見上げた。

「ああうん、ちょっと雪溜まりに足突っ込んじゃって」

 首塚を出た所で雪は払ったのだが、その頃には既に手後れだった。大惨事とまではいかないが、兎に角冷える。

「二人は何してたの?」

 卓袱台を囲む二人の手許を覗き込むと、どうやら椿(つばき)がまた宿題を持ち込んでいたらしい。彼女はキラキラと目を輝かせて恭成を見上げた。

「松山さんの解説、物凄くわかりやすいの!」

「天野も帰ってきたことだし、休憩にしよう」

 葉髞が席を立つと、椿は大きく伸びをした。勉強道具を片付けて押しやると、外套にブラシを掛けている恭成を振り仰ぐ。

「置炬燵にあたったら? 火入れるね」

 有難う、と頷いて、湿った足袋もぶら下げる。部屋の隅に片付けてあった置炬燵を抱えてきた椿は、火鉢から火種を移しながら尋ねた。

「天野さん、何処に行ってたの?」

「うん、姫塚まで。この辺りの民話に関係のある首塚があるんでしょう? 話を聞いていたら、どんなのか気になって」

「天野さん、本当にそういうの好きだよね」

 呆れたような声をあげて、綿入れを置炬燵に被せる。

 一見すると行火(あんか)かと思う大きさだが、これでれっきとした炬燵だ。元々一人用として作られた物らしく、腕に抱え込めるくらいしかない。御蔭で、大仰な布団を必要としないのが有難い代物だ。本体は陶磁器製で火皿の部分にだけ鉄が使われている。古道具市で見つけた時は店主に「美品でこれ以上のものは出ない」と勧められた。確かに傷も少なく、奇麗な絵付けがされているところを見ると、作らせたのは身分の高い女性なのかもしれない。

「椿ちゃんは行ったことない?」

「興味ないもの」

 肩を竦めた椿は、どうぞ、と置炬燵を示す。抱え込んだそれはまだ仄かな温かさだが、冷えきった足先には有難い温もりだ。

「確か、昔話の首切りのお姫さまのお墓でしょう?」

「大半は、知っているが興味はない、だろうな」

 恭成の目の前に差し出された湯呑を有難く受け取る。「椿さんはあちら」と卓袱台に置かれた湯呑を指した葉髞を振り仰ぎ、彼女は「有難うございます」と笑みを浮かべた。

「どういたしまして。子供のうちに何と無しに聞かされる昔話なんて、そんなものだろう」

「松山さんは、見に行ったことあります?」

「よくある昔話とは趣が違うな、と思うけど。わざわざ見に行ったことはないな」

 違ってました? と目を丸くした椿は、軽く眉根を寄せて首を傾げる。

「ええと……駄目だ、わからない。どの辺りですか?」

 素直に降参した彼女の横で、大人しく煎茶をすすっていた恭成が口を挟む。

「あれでしょう、怨霊退治の顛末のところ」

「おまえはわかって当然だろうが」

 すかさず返され苦笑を浮かべる。椿の様子を窺うと、ますます首を傾げていた。

「えええ、何が違うんですか?」

「難しいことじゃないさ。その話の細かい年代はわからないが、戦国時代は武士の台頭とその全盛期だろう? その時代は仏教を好んで信仰する人が増えるんだ」

「ええと、世相不安による極楽浄土信仰でしたよね」

「大まかな理解だが、正解。以降、著される事になる怨霊関係の物語は、総じて僧侶が活躍することになる。なのに、姫の怨霊退治に呼ばれたのは祈祷師なんだ」

 単純だろう、と同意を求められた椿は、何故かがっくりと肩を落としている。

「そんなの、全然気にしてなかった。そっか、昔話も歴史なんですよね」

「うん、でもね。創られた時代の風俗が混在しちゃってる話もあるから、そのまま鵜呑みにしちゃうのは駄目だよ」

「作り話半分だからな」

 補足する大人二人を交互に見て、うむむ、と椿は眉間にしわを寄せる。

「そういう所にも気がつくようになると、もう少し成績上がるかしら?」

「今も、悪くはないだろう? よく理解できているし」

「もっと、もっとです。母さんがわたしに使ってくれた分、ちゃんと返せるくらい稼げる職に就きたいの。母さんみたいに唄う才能はないから、インテリにならなくちゃ」

「うちの妹に見習わせたいな。しかし、椿さん好い声じゃないか」

「致命的に音痴なんです。母さんったら早々に、あんたは駄目だって笑って匙投げたんですから! 天野さんなんて、三味線から教えてもらえたのに」

 物凄く伸びる好い声で唄うんですよ、と口を尖らせる。へぇ、と明らかに面白がっている葉髞を横目に、恭成は一言釘を刺した。

「いざとなったらそれで食っていけって言うのは、却下だからね」

 それから、雑談をしながら残りの記述を済ませた椿は、窓の外に羽依子が帰宅しているのを見つけて腰を浮かせた。当初は恭成が戻ってくるまで勉強を見てもらう約束で、羽依子が戻って来たら裁縫を見てもらうことになっていたらしい。

 有難うございました、と丁寧に頭を下げて椿が部屋を辞すると、葉髞は「それで」と恭成を促した。

「首塚で何か収穫はあったのか?」

「んん、見てきただけだから。……て、収穫ってどうして」

「円の中心、だろう?」

 さらりと返して、視線を上げた葉髞はにやりと笑う。

三笠(みかさ)さんに、知り合いの新聞記者と出掛けたって聞いてたしな。今度の件と、結び付けるほど類似してるのか?」

「あれ。内容は憶えてないの?」

「子供に聞かせる程度の話なんざ、高が知れるだろ」

 民話の方を聞いてきたんじゃないのか、との問いに、かぶりを振る。

「明日の新聞に載るらしいから、そっち読んだ方がいいと思うよ。僕も草案を斜読みしてきただけだから」

 本当はね、とため息混じりに言って、小首を傾げる。

「首塚より、神社の跡地が見たかったんだよね」

 典型的な怨霊を祀った神社は、幾つかの特徴を備えているものだ。それらを確認したかったし、諸岡がぐねぐねと言うくらい蛇行しているという参道も見てみたかった。

 この辺りは、純粋に民俗学的な興味だったけれど。

「無駄ではなかったけど、ちょっと残念だったな。本当に、見事なくらい何もなくて。鳥居がなかったら、神社の跡地だって解らないかも」

「焼け落ちたんだったか? 確か、俺たちが二つ三つの頃だろう。再建しなかった理由は何だろうな?」

「松山も知らないの?」

 聞いた憶えはない、と素っ気無いくらいに簡潔に返して、葉髞は鉄瓶の中を覗くと急須へ手を伸ばす。

「円を描いてるって発想は面白いし、何となく意味ありげだと思うんだけど。もしあの影が首塚に祀られてる人物だったとして、今更こんな事件、起こすのかなぁ」

 その辺りが、どうにも腑に落ちないのだ。祟るのならば、姫を死地へ追いやった一族だろうに。そう言うと、葉髞はひょいと肩を竦めてみせた。

「まだククリ姫の仕業という確証はないんだ、その辺りは調べるしかないだろ。本当に姫の仕業だったとしたら、そいつはきちんとした御霊だということだな」

 どういうこと、と恭成が首を傾げる。煎茶を淹れ直した葉髞は恭成にも供して、ちらりと彼の肩の辺りを見た。

雪花(きら)には聞かなかったのか?」

「んんと、御霊云々は聞いてないかな」

「折角カミサマが憑いてるんだ、直接御教授願えばよかっただろう」

 面倒だ、と小さく雪花の声が聞こえて、葉髞は僅かに眉根を寄せる。

「そういえば、あれ以来姿を見せないな」

「何があるか解らぬからの。あまり消耗したくない」

 暫し眠るから喚ぶな、と残して、ふつりと彼女の気配が消える。不安そうな表情を浮かべた恭成に、葉髞は「大丈夫だろ」と苦笑を浮かべた。

「仮にもカミだ。喚ぶなと言うんだから、煩わせるのはやめるとしよう」

 彼曰く、所謂『幽霊』と言うモノは、原則として存在しないらしい。死ねば人は魂へと還るが、それはあくまで人格の核となるモノでしかないと言われているのだそうだ。しかし、故人に対しての強い恐怖、嫌悪などの悪感情が渦巻くと、それらは形を成すことがある。

 つまり、新たにカミが生まれるのだ。

「それが御霊と呼ばれるモノだな。それらは実体を持つことはないが、そこに在るモノへと変わる」

「神様が生まれるの?」

「広義でのカミだな。厳密には、まだカミじゃない。しかし稀に、故人の魂も引き摺り込まれることがあるらしい。それは神格化と言われて、正しくカミとなる」

「そんな、簡単なものなんだ?」

「簡単と言うのは語弊があるな」

 ひょいと眉を持ち上げて、唇の端に笑みを乗せる。

「嘗ては、簡単だったかもしれないが」

 この国に数多の神を創ったのは人間だ、と彼は言っていた。元来、ヒトにはそういう力があったのだと。

 あった、と過去形で言ったということは、今では起こり得ないことを暗に指しているのだろう。それはおそらく、穢れ浄化の話に繋がっているのではないだろうか。

 そう尋ねると、葉髞はにやりと笑みを浮かべた。

「御明察。ちゃんと理解してるじゃないか」

「じゃぁ、歴史的に有名な御霊も神格化してるの?」

 御霊を祀りカミとする試みは、古くから続けられている手法だ。強大な呪は、転じれば強力な護りとなると信じられている。それらは、きちんとカミたり得るのだろうか。果たして彼は「どうだろうな」と肩を竦めてみせる。

「確かに鎮められているのか、もしくはただ封印されているだけなのか。それは開けてみなけりゃわからないな」

 カミとなっているのならば、それらは最下層の神格である土蜘蛛に列せられる。そうなると、祀れば鎮まるのだ。それも一種の契約と言えるだろう。

「俺たちが言う御霊でしかないとしたら、それらは人々の恐怖の思想に則って暴走を始めるんだ。鎮まることはない。そもそも、御霊をカミとして祀るあの行為も矛盾してるだろう。神格化している可能性は低いな」

「んん、じゃぁ、ククリ姫は関係ないのかなぁ?」

 鎮められていたにせよ、封じられていたにせよ、何故今更という疑問に戻ってしまう。おまけに、ククリ姫が円にこだわる理由なぞ見当もつかない。

「違うとも言い切れないがな。どちらにせよ、判断材料が足りない」

 調べてみるか、と呟いた葉髞に、「それなら」と恭成が言葉を添える。

「諸岡さん……、例の記者さんだけどね、気になるから調べてみるって。僕にも教えてくれることになってるから、神社に関することは調べなくても大丈夫だよ」

 ついでに、諸岡が割り出したという事件現場候補地の話を付け加える。こちらも詳しいことがわかれば、次の事件を防げるかもしれない。

 果たして、葉髞はにやりと笑みを浮かべた。

「へぇ、なかなか有能じゃないか。うちで助手仕事でもしてみるか?」

 勤まるわけないよ、と笑い飛ばした恭成は、手を伸ばして湯呑を卓袱台へ置く。

 置炬燵は便利なのだけど、その場所から動けなくなってしまうのが難点だ。用が済んだら片付けてしまうに限る。そろそろ温まったことだし、名残惜しいが片付けてしまおう。

 綿入れを置炬燵から剥ぎ取ると、ふわりと暖気が室温に溶けてゆく。途端に足にひやりとした空気が感じられたが、無視をして綿入れを畳んだ。温もりが逃げてしまう前に別珍足袋でも履いておこうと、箪笥の抽斗を開ける。

「ところで、あの盃が他にもあるんじゃないかと考えたのは、どうして? 他の現場には、なかったんでしょう?」

 単純に疑問に思ったことを尋ねると、探偵は実にあっさりとした返答をくれる。

「勘、だな。単なる。根拠なんかない」

「えええ、そういうもの?」

「それだけ場数踏んでるんだ。こういう時は屁理屈よりも直感を採用するぞ、俺は」

「じゃぁ、もう来ないと思う?」

「頚を絞められたっていうのがなぁ」

 こりこりと首の後ろを掻きつつ呟き、葉髞は煎茶をすする。そうして、湯呑を卓袱台へ置いた。

「不安要素は尽きないしな。暫くうちに避難しろよ」

「お邪魔しても大丈夫?」

 仕事に差し支えないだろうかと心配になったのだが、彼はあっさりと頷いた。

「その方が、俺は有難い。対処しやすいし。円谷(つぶらや)さんにも話してあるから、問題ないぞ」

「手回しがいいなぁ。じゃぁ、遠慮なく。暫くお世話になります」

 改まって頭を下げた恭成に、葉髞は「気にするな」とばかりにひらひら手を振る。その様子に小さく笑って、恭成は火皿の火種を火鉢へ移した。

 正直な所、環境が変わるのは少しだけ有難い。暫く留守にするとして、持って出る必要のあるものはなんだろう。

 室内を見渡し、ふと机の上に並んだ本の背表紙に目を止めた。そして、腰を浮かせて手を伸ばす。その他資料本と並んで置かれていたのは、化学の専門書だ。

雄大(ゆうだい)さんに本借りてたんだった。これ、どうしよう?」

「形見分けってことにして貰っておくか、遺族に返」

 はたと口を噤んだ葉髞は、そのまま恭成を振り返る。

「なぁ、盃の置いてあった場所が変だとか言ってたよな?」

「ん? あぁ……、雄大さんの持ち物だとしたら、変だね」

「あの場所、資料と借り物置場だ、とか言ってなかったか?」

「言ったよ。それが」

 どうしたの、と言いかけ、気付いたのか恭成は「あ」と声をあげた。

「あれ、誰かから借りたんじゃないかってこと?」

「故人の持ち物ではないんだろう? 何らかの理由で犯人が残していった可能性も、なくはないが」

 可能性を考えるなら、第三者の存在も考慮に入れるべきなのではないだろうか。そうすれば、一つの仮定が浮かび上がってくる。

 久喜(くき)が、過って殺害された可能性だ。

「問題は、預けたか貸したかした人間はどこの誰で、どういった意図で久喜氏にあれを託したか、だな」

「確かに、誰かに預ってくれって言われたら、気軽に預かると思うけど」

 あまり考えたくはないが、それは身替わりの人身御供にしたかもしれないということだ。穿った見方だが、有り得ないことではない。もしそうならその人物は、この事件の背景を承知している人物、それも、警察や恭成たちが知らないことを知っている当事者ということにはならないだろうか。

「これで目出度く災厄を逃れたと思っているなら、そいつの尻尾を掴むのは難しいな。あるいは、あれは土蜘蛛の仕業で、そいつの契約者が犯人ということも考えられる」

「じゃぁ、盃は?」

「その場合は目印。直後に踏み込んでるからな、回収できなかった。……という可能性も、否定は出来ない」

 答え、何処か空虚な眼差しが恭成を見据えた。

「ついでだ、教えておく。土蜘蛛や御霊は、稀にヒトを喰う」

 心臓が跳ね上がった。冷たい手に心臓を鷲掴みされたように身体の芯が凍えて、息苦しくなる。

「霊性の高いヒトの血肉もそうなんだが、何より奴等が好むのは魂だ。魂には格がある。モノによっては、そいつの霊性を引き上げるんだ。つまり、カミとしての格が上がる。御霊が土蜘蛛となるのは、そういうことだな」

 軽く目を伏せた葉髞は、立てた片膝に珍しく頬杖をついた。物憂げな声が淡々と零れ落ちて、小さくため息を落す。

「一連の猟奇殺人が、土蜘蛛もしくは御霊の仕業なら、失った遺骸の一部は出てこないだろう」

「魂を喰われたら…?」

「輪廻はそこで途切れるな。しかし、さっきも言ったが魂は人格の核だ。そもそも、ヒトは死んだ時点で無に帰する」

 ぴしゃりと言い切り、口を引き結ぶ。しかしそれはすぐに和らいで、紡がれた言葉は物憂げに響いた。

「ただ稀に、取り込んだモノが望めば、眷族として残ることもあるそうだ。眷属であるならば、放棄されたとき戻ることも出来るかもしれないな」

 比良坂を下り、女神が住まうと言う根の国へ。

 締めくくった葉髞が、ふと視線を上げた。立ち尽くしていた恭成を捉えた途端、その目に僅かな険が浮かぶ。

「ちょっと空けること」

 口を開きかけた彼を遮って、書籍を抱えて踵を返す。

「羽依子さんに断ってくるよ。雄大さんの御家族もいつ来られるのかわからないし、この本も預けてくるね」

「待て、天野」

 出来る限り平静を装って振り返る。万年筆と名刺入れを取り出した葉髞は、名刺を一枚引き出して一筆書き足し、恭成へ差し出した。

「うちの事務所の電話番号だ、持っていけ。何かあった時の連絡先は、教えておかなきゃならんだろう」

「あぁ、そうか。有難う」

 差し出された名刺を受け取ると、すとんと肩の力が抜けた。僅かに呆れたような眼差しを向ける葉髞は、やれやれとばかりに手を振る。

「さっさと行ってこい」

 行ってきます、と苦笑を浮かべて部屋を出る。そうして、踊場で一度立ち止まった。

 胸の奥に、僅かに違和感が燻っている。先程までは酷い目眩がして倒れそうだったのだ。おそらく葉髞には気づかれたが、突っ込んでこなかった。つまり、これは恭成自身が抱える別の問題で、もしかしたら記憶の欠落に繋がる何かなのかもしれない。

 少し落ち着くのを待ってから、階段を下りて一階奥の管理人室を訪ねてみる。すぐに顔を出した羽依子は割烹着を身につけており、室内からはふわりと出汁のいい匂いが漂ってきていた。

「あら、天野さん。どうなさいました?」

「お邪魔でした?」

「いいえ」

 にこりと笑った彼女は、それで、とおっとり小首を傾げて促す。

「あぁ、えっと。暫く留守にしますので」

 手にしていた名刺を差し出す。

「これ、連絡先です。何かありましたら、こちらに連絡をください」

「はい、承りました」

 両手を差し出して受け取った羽依子は、そのまま名刺へ視線を落す。

「……あら、松山さんの所にいらっしゃるの?」

「えぇ。それから、雄大さんに借りていた物があるんですけど、御家族が荷物を引き取りに来られた時、いないかもしれないので」

 お預けしてもいいですか、と専門書を差し出すと、彼女はにこりと微笑んで受け取った。

「はい、確かにお預かりします」

「すみません、お願いします」

「いいえ、気になさらないで」

 穏やかにかぶりを振った彼女は、頬に手を添えると心配そうに小首を傾げる。

「丁度良かったわ。年が開けたら、業者の方に入っていただいて久喜さんのお部屋を片付ける事になってますし……。お仕事に差し支えると困りますものね」

「え? あ、いやぁ……あははははは。…………頑張ります」

 思わずそう頭を下げた恭成に、羽依子は訳もなく後ろめたくなるほどの目映い笑みを浮かべて頷いた。

「根を詰めない程度に、頑張ってくださいね」

「はい……それじゃぁ」

 会釈して踵を返す。

 これはもしかしなくても、しっかり仕事をしろと釘を刺されたのだろうか。確かに最近、筆が進まないからとふらふらし過ぎていたような気はしていたけれど。

 まさかなぁ、と思いながら、微妙に重くなった足取りで部屋に戻る。無言のまま扉を開けると、壁にもたれて書棚から見繕ったらしい本を捲っていた葉髞が視線を上げ、訝しく眉をひそめた。

「なんだ? 苦虫を噛み潰したような顔だな」

「わぁ、適確な使用法だねー」

 まるきり台詞を棒読みした言い方をした恭成に、ますます訝しむ。何かあったのかと重ねて尋ねられて顛末を話すと、葉髞は吹き出し珍しく声を立てて笑った。

「おまえ、それは自分が後ろめたく思ってるからだろ」

「そうだよね、深い意味はないよね!」

 くつくつと肩を揺らして笑う葉髞は、手にしていた本をぱたんと閉じる。

「それじゃぁ、うちでも執筆に励んでいただきましょうか? 作家先生」

「嫌味だなぁ」

 眉根を寄せてわざと不機嫌そうに装うと、彼は「いやいや」とひらひら手を振った。どうやら彼の笑いのツボを刺激してしまったようで、珍しく笑いを引き摺っている。

「友達思いと言って欲しいな。最近は掲載本数が減ってる。去年までの方が書いてるぞ」

「え、そう?」

 驚いて聞き返すと、彼は漸く笑いを引っ込めた。そして、真面目に率直な苦言を呈する。

「質も少し落ちてる気がするな。少々マンネリのきらいもあることだし、初心に戻って踏ん張ってみろよ」

「うん……。そうしてみる。有難う」

 恭成が素直に頷くと、葉髞は立ち上がった。

「それじゃぁ、引越準備でもするか。必要な物はその都度取りにくればいいから、当面入り用な物だけまとめて」

 言いつつ文机に目を止め、にやりと笑む。

「執筆途中の原稿も忘れずにな」

 机の上に散乱している書き損じや、無造作に転がった万年筆を指しての言葉に、恭成は苦笑を浮かべる。そして、「わかったよ」と文机の抽斗を開いた。

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