第十七話
重い銃声。鈍い破砕音。そして荒い呼吸の音。
それだけがこの空間を支配していた。
もっとも、息が上がっているのは私と涼だけ。負わされたダメージも相まって、こちらの動きなかなり鈍ってきている。
対する酒吞童子は無傷。呼吸も乱れておらず、その動きも一切鈍っていない。
「くぅ、これは……まずいね」
呟き、歯噛みする。
最初こそは、劣勢ながらも何とか戦えていたのだ。
涼がかく乱し、体制が崩れたところを私が撃つ。それによって作られた隙を狙って涼が斬り込む。これ繰り返し、ダメージを与えることは出来なくても、こちらもダメージを受けることなく済んでいた。
しかし、疲労が蓄積し動きが鈍ったところを衝かれた。そこからは一方的だ。
辛くも致命傷は避けているが、涼も私も満身創痍。
このままでは押し切られる。
これまでに感じたことのない死の恐怖が、じわりじわりと忍び寄っていた。
だからだろうか。
淡い月光に照らされた森を染め上げた紅蓮の炎が、とても神聖なものに見えたのは。
「悪い、遅くなった」
私たちと酒吞童子の間に降り立った黒衣の青年。
燃え盛る炎の輝きを受けて煌く日本刀を携え、渦巻く熱風に長い黒髪を靡かせるその姿は、天界より降り立った天使の様で。対峙する大鬼神の威圧感とは明らかに異なる、けれど、決して劣らぬ静謐な存在感に満ちていた。
「ほお、汝が茨木童子の言っていた黒き娘か。なるほど、これは確かに面白い」
「うるせぇ、こっちは面白くも何ともねぇんだよ。それから、茨木童子に伝えとけ、俺は女じゃねぇ」
炎の渦の中から姿を現した酒吞童子の言葉に、統也さんは不機嫌そうに答える。
いや、不機嫌なんてものじゃない。明らかに怒っている。それも、かなり本気で。
確かに、知らなければ女の人にも見えるか。
などとこの状況にそぐわない思考を始めた自分に苦笑する。
現金なものだ。つい先程まで死の恐怖に怯えていたというのに、統也さんが現れた途端にこれほどの余裕が生まれているのだから。
ふと見れば、涼の表情からも焦りの色は消えている。
「氷雨、涼、まだ動けるか?」
「なんとかね。矢面に立つのは遠慮したいけど」
いつの間にかすぐ隣まで後退していた統也さんの声に驚きながらも、なんとかそれを隠して正直に答える。
上等だ、と笑う統也さんに消耗度合いを伝えると、統也さんは何を思ったか私の左手を取った。突然のことに固まっていると、統也さんは大地に突き立てた日本刀の柄に近い部分で右手の親指を切り、その地で私の左手甲に何かを書き始める。
「簡易的なラインを繋いだ。これで、その小太刀も使えるはずだ」
その言葉に左手甲をよく見ると、小さな魔法陣のようなものが描かれている。それと同時に魔力がどこからか流れ込んでくるのを感じた。確かにこれなら白光も使えるだろう。
「俺が前に出る。涼、お前もだ。氷雨は後方から援護。俺が隙を作るから、二人はそこに全力の一撃を叩き込め。いくらあいつが伝説級の大鬼神だって言っても、まともに食らえばただじゃ済まないはずだ」
「でも、それじゃあ……」
抗議の声を上げる涼を制し、頷く。それを見た涼も渋々頷いた。
涼の言いたいことも分かる。
確かに統也さんは強い。私たちとは比較にならないほどに。
それでも、伝説級の大鬼神という化け物正面切って戦えば、最悪死に至ることもあり得る。むしろその可能性の方が高いだろう。
にもかかわらず、統也さんは選んだ。
自分が生き残ることよりも、酒吞童子を倒すことを最優先とした行動を。
ならば、私たちに出来ることはただ一つ。
「涼、最初の一撃で決めるよ」
酒吞童子に歩み寄っていく統也さんの背中を見ながら、傍らに立つ涼に言う。
「初めからそのつもりだよ」
力強く頷き白夜を構える涼に倣い、右のデザートイーグルに最後の予備弾倉を装着し、初弾を装填。左手に握った白光に黒天使から送られた魔力を込め始めた。
「待たせたな」
「何、汝と戦えると思えば、この程度待ったうちに入らぬ」
「そいつはどうも。……それじゃ、始めますか」
「応。我が名は酒吞童子。黒き娘よ、いざ」
爆発的に巨大化した魔力と共に振るわれる剛腕をかわしざま、そのわき腹に魔力を上乗せした掌底を叩き込む。
「俺は女じゃねぇって、言ってるだろうがっ」
「ぬぅ!」
わずかに揺らいだ上体を立て直す暇を与えることなく追撃。懐に潜り込み、がら空きの胴にもう一発叩き込む。その衝撃が鋼のような表皮を抜け、体内で暴れまわるのを確かな手応えとして感じた。
体がくの字に折れ、間合いに飛び込んできた顎を渾身の力で蹴り上げる。
「がはっ」
仰け反った酒吞童子に追い打ちをかけようとして中断。直後、すさまじい衝撃に吹き飛ばされた。
「ぐっ」
途轍もない怪力。咄嗟に交差させた両腕が悲鳴を上げている。自ら後方に跳んだからこの程度で済んだものの、一瞬でも反応が遅れていればそれで終わっていただろう。とはいえ防いだことに変わりない。そして、それが数少ない好機を生み出したことも。
「今だ、叩き込めええっ!」
空中で体勢を整えながら叫ぶ。
仰け反りながら俺を殴り飛ばした酒吞童子は、その体勢を完全に崩している。
抗いようのない、致命的な隙。
大気中に漂うマナのざわめきを感じながら着地するのと、二つの斬撃が放たれたのは同時だった。
閃光、爆音、衝撃。
巻き上げられた土煙が晴れた時、爆発の中心にあったのは、膝をつき大小無数の裂傷を負った酒吞童子の姿だった。
「ぐぅ……。流石に、やるな……。しかし、我らの勝ちだ……」
その顔の浮かぶのは、驚愕でも悔恨でもなく不敵な笑み。
「黒き娘たちよ、世界樹の袂にて待つ。止められるなら止めてみよ」
酒吞童子はそう言い残すと、問い詰める間もなく周囲の妖魔共々その姿を消した。
「倒した、のかい?」
戸惑うように言う氷雨に、それはないだろうと返す。
「確かにかなりの深手は負わせたみたいだけど、倒しきるまでには至ってないはずだ。それに、最後の言葉も気になる……」
「世界樹の袂にて待つ……ですか?」
涼の言葉に頷き、本部に連絡しようと携帯を取り出したところで、タイミングよく着信が入った。森崎さんだ。
「もしもし。ちょうどよかった、今」
『統也君、報告は後で聞くよ。ちょっとまずいことになってね』
「まずいこと、ですか?」
『ああ。……単刀直入に言う、『大樹』が茨木童子に占拠された』
「なっ!?」
『どうやら酒吞童子も陽動だったようだ。現に、酒吞童子が茨木童子と合流したという報告もある。周辺に展開していた妖魔も一緒だ。君たちもすぐに向かってくれ』
「分かりましたっ」
二重の陽動とは、やってくれる。
まさか古の兵法家、孫子の教えを身をもって知ることになるとは。
「どうしたんだい?」
「説明はあとだ、『大樹』に急ぐぞ。『大樹』が奴らに占拠された」
そこはまさに異界だった。
大気に満ちる醜悪な気配。無数に蠢く妖魔の群れ。霧生の象徴たる『大樹』はもはや、妖魔たちに蹂躙される場所となっていた。
いたるところで妖魔と人の戦闘が展開され、神代の戦争を彷彿とさせる。
「まったく、きりがないね」
「そうぼやくなって」
眼前の妖魔を斬り伏せ、後続の一体に銃弾を叩き込みながら言う氷雨をたしなめつつ、数体の妖魔をまとめて薙ぎ払う。
「だけど、これじゃ進めませんよ」
野太刀を巧みに操り、群がる妖魔を斬り捨てる涼の言葉に声には出さず同意する。
現在の時刻は午後十一時過ぎ。揺らぎが最も大きくなるまであと三十分程しかない。
たった三十分の間に『大樹』へとたどり着き、今まさに行われている儀式を阻止しなければならないのだ。
こうしている間にも徐々に高まっていく『大樹』の魔力が焦燥を煽る。
「俺が道を開く。一気に抜けるぞ」
そう言って詠唱を始めようとした時、我先にと殺到していた妖魔たちの動きが変わった。
津波の前の小波のように、周囲の妖魔が一斉に後退。僅かに遅れて『大樹』方向の妖魔の壁が、さながらモーセの渡った葦の海のごとく左右に割れた。
「その必要はなかったみたいだね」
「みたいだな」
「……二人とも、何でそんなに落ち着いてられるんだよ……」
「何で、ってこじ開ける必要がなくなったんだからいいんじゃないか?」
「それはそうですけど……。罠だったらどうするんですか」
「その時は……」
「その時に考えよう」
姉の言葉が追い打ちになったのか、がっくりと肩を落とす涼。
「それに、儀式を止めれば俺達の勝ちなんだ。時間も人手も足りない、魔力だって無限じゃない。迷う必要なんかないだろ。俺たちには、他に選択肢がないんだ。向こうが通してくれるって言うなら、有り難く通してもらおう」
「分かった、分かりましたよ。確かに統也さんの言うとおりですから」
仕方有りませんね、と肩をすくめる涼に苦笑い。
「それじゃ、行こうか」
氷雨の言葉に頷き、目の前に続く道へと駆け出した。