第十四話
これは認めてもらえたと考えていいのだろうか?
初めて年相応の笑顔を見せて立ち去る涼の背中を見送りながら思う。
「お、驚きだ……」
「何が?」
呆然と呟いた氷雨に尋ねると、半ば予想通りの答えが返ってきた。
「涼が自分から名前で呼ばせるなんて、あの日以来なかったんだよ。しかも、他人を名前で呼ぶなんて……」
あの日。それは二人の生まれ育った里が燃えた日のことだろう。
なるほど、と嘆息する。
今の涼の年齢が十二歳。つまり、ただ一人の姉を除く全てを奪われた時、涼はまだ十歳だった。俺の初仕事が十四の時だったことを考えると、彼の心の傷の深さは計り知れない。
俺のように、頼ることのできる大人がいれば良かったのだろうが、当時彼の傍に居たのは姉である氷雨だけ。故に涼はその傷を抱え込まざるを得ず、他者に対して心を開くことが出来なかった。
無論、氷雨にその責を押し付けるのは酷な話だ。彼女もまた被害者であり、何より子供なのだから。気を揉むのは大人だけでいい。と言っても俺自身まだまだ若造だが。
「へえ、快挙じゃないか。だったら、次は親しみを込めて『兄さん』とでも呼ばせてみるか」
重くなりかけた空気を払拭すべく、殊更に明るく言うと、氷雨は驚いたように目を見開いた後、顔を赤くして俯いてしまった。
熱でもあるのだろうか?
見えているのか疑問に思えるほどの線目を見開く氷雨を微笑ましく思いつつそんなことを考えていると、これまた珍しくぼそぼそと呟く。
「……これも無自覚なんだろうね。はあ、もう少し自分のことを理解してほしいものだ」
何かまずいことを言ったのだろうか?
ちらちらと俺を見ながら顎に手を当てて呟く氷雨の様子に首を捻る。
次に氷雨が顔を上げた時、その顔にはいつも通りの笑みが浮かんでいたものの、どこか憮然としているようにも見えた。
「それじゃ、私もそろそろ行くよ」
「おう、しっかり休んどけよ」
「……」
去り際、何かを呟いた氷雨だったが、それを尋ねる前に逃げるように瞬動を使って立ち去ってしまった。
「ありゃ、嫌われちゃったかな?」
戦闘時でもないのに瞬動術を使ったことから考えても、そう考えるのが妥当だろう。
思わずため息が出る。
今までに拒絶されたことも忌み嫌われたことも数えるほどある。
それでも、やっぱり人に嫌われるのは辛いものだ。
「まあ、仕方ないのかもしれないな」
呟き、自嘲する。
仕方ない?何を馬鹿な。そうなるべくしてそうなったのだ、これは当然のこと。
そう、当然なのだ。光の中で生きる資格など俺にはないのだから。
だからこそ、思う。
嫌われるのならそれでいい。いくらでも嫌われてやろう。
この手はすでに血に汚れているのだ。妖魔と呼ばれる存在のそれではなく、紛れもなく人間のそれで。
そんな俺が今更何を躊躇う?
血に塗れた手に刃を握り、返り血にどす黒く染まった外套を纏い戦場を駆ける。
俺に出来るのはそれだけ。
ならばそれを全うしよう。光の中で生きるべき、彼女等の為になるのなら。
知らず、拳を握りしめていたことに気付き、苦笑する。
目を閉じ、深呼吸を一つ。
目を開くと、視線の先には無数の異形。中級妖魔の姿も見受けられる。
中級妖魔が約二十。下級に至っては数えるのも面倒だ。この集団を相手取るにはあの二人では少々力不足。単独で相手に出来る者はこの学園に十人もいないだろう。
そのうえ、一際大きな存在感を放つ鬼が一体。上級妖魔だ。
左手首に右手を添え、一息に横に薙ぐ。右手に玉兎の重さを感じながら両足に魔力を込める。
一息で距離を詰め、手近な一体を左の掌底で消し飛ばす。
身を翻し玉兎を一閃。迫る数体の妖魔を両断する。
一瞬の停滞もなく、圧倒的な物量で襲いかかる妖魔を薙ぎ払う。
「ほう、人の身でよくやると思っていたが、なるほど、そういうことだったか。気配が薄すぎて詳しくは分からんが、お主、混血だな?」
「それがどうした」
突然かけられた上級妖魔の声にこたえ、その巨躯を見据える。
三メートルに迫ろうかというその体躯からは、濃密な暴力の気配が漂っている。
その禍々しい空気に嫌悪を感じていると、後方に控え、指示を出すことに徹していた上級妖魔が下級妖魔の壁を割って出てきた。それに呼応するように下級妖魔たちは後ろに下がり、円陣を形成。内側に残ったのは俺と上級妖魔だけ。
「何の真似だ」
「何、大したことではない。少しばかり手合わせをしてもらいたいだけだ。人間界に来るのも久方ぶりなのでな。計画の発動前に強者と一戦交えるのもまた一興と言ったところよ」
「計画?」
こいつが今回の襲撃の首謀者か?
あわよくば情報を得ようと口にした疑問の答えは、虚空から現れた大剣の一閃だった。
「些事に拘るでない。戦場に敵対する強者が二人あらば、することは一つ。違うか?」
「一騎討ち、か」
二メートルを超える大剣を携えおぞましい笑みを浮かべる大鬼に口角がつり上がるのを感じる。
それを了解と取ったのか、喜びを隠そうともせず大剣を振り回す大鬼。
「それでは始めよう。我が名は茨木童子。酒吞童子が第一の配下なり」
「酒吞童子に茨木童子、ねぇ。まさか実在していたとは……」
酒吞童子。鬼の姿をまねて略奪の限りを尽くした盗賊の名だったはず。
茨木童子に至っては、御伽草子の一節『酒吞童子』に登場する鬼だ。
どちらも空想上の妖魔だと思っていたが、少なくともこちらの世界では実在したらしい。歴史等に関しては、元の世界の知識は役に立たないようだ。
とにかく言えることはただ一つ。
「厄介な奴が出てきたもんだ」
下級、中級妖魔はともかく、上級妖魔は一種の概念存在だ。概念存在はその性質上、存在に対する信仰や恐怖が強いほど強大な力を持つ。
元の世界ではそれほど知名度は高くないが、こうして目も前に存在している以上、この世界ではそれなりに知られているのだろう。
そして、先程の名乗りに酒吞童子の名が出た以上、茨木童子の後には酒吞童子が控えているとみた方がいい。
茨木童子でさえそこらの妖魔とは一線を画す力を持っているのだ。それを従える酒吞童子の力とは一体どれほどのものなのだろうか、想像もつかない。
「考えるだけ無駄か」
「どうした、怖気付いたか?」
「まさか。むしろ楽しみなくらいだ」
俺に出来ることは誰かの為に障害を排除することのみ。考えるのは専門外だ。
右手に携えた玉兎を茨木童子に突き付け、名乗りを上げる。
「俺は鷹司統也。霧生学園中等部の新任指導教員だ」
自分でもどうかと思う名乗りだったが、意外にも茨木童子は気に入ったらしい。驚きをあらわにした後、天を仰いで豪快に笑いだした。
「がははははは、お主、なかなか面白いではないか。まさか名乗り返してくるとは。やはり人間界に出てきて正解だったようだ、お主のような愉快な女子に会えるとは」
「……貴様、今何と言った?」
聞き捨てならない言葉を聞いた気がするが、俺の勘違いかもしれない。
「愉快な女子、と聞こえた気がするが、俺の気のせいか?」
「それがどうかしたか?お主ほど愉快な女子は初めてだ」
どうやら聞き間違いではなかったようだ。
今にも飛び出しそうになる足をぎりぎりのところで踏み止まらせ、玉兎を握る右手に力を込める。
「ん?どうした、何を怒っている?」
いや、俺は怒ってなどいない、とても冷静だ。そもそも怒る理由など無いだろう。
「まあいい。お主、我が勝ったら我が妻とならんか?何、損はさせんぞ?」
「……っざけんなぁぁぁぁぁああ!俺は、男だぁぁあぁああ!」
認めよう。俺は今怒っている。非常に頭にきている。
一息で茨木童子の間合いの内側に飛び込み、最速の拳打を打ち付ける。
鉄の塊を殴ったような衝撃を左手に感じながらその場で一回転。右手の玉兎をその首筋へと滑らせる。
「なにっ!」
頭上からの驚愕の声を聞きながら、仰け反って一閃を回避したことでがら空きとなった胴へ槍の刺突のごとき蹴りを叩き込む。
「ぐおっ!」
踏ん張ることも出来ず後方へ浮き飛ばされる茨木童子に、痺れたままの左手を向け、無詠唱魔弾の射手で追撃。その余波に巻き込まれたのか、数体の妖魔の断末魔の叫びがあがった。
「おお、いてぇ。なかなかやるようだな」
「まったくの無傷でよく言うよ、うれしくも何ともねぇって……」
土煙の中から現れた茨木童子の言葉に肩を落とす。
装束こそところどころ焼けているものの、その体は無傷。
先程の魔弾の射手は、無詠唱とはいえ中級妖魔相手なら十分すぎる威力があったはず。それを受けて無傷ということは、対魔法防御力もかなりのものだ。並の魔法師では、手傷どころか傷一つ付けられないだろう。
体をほぐすように大剣を振る茨木童子の頑丈さに呆れていると、次はこちらの番だと言わんばかりに雷鳴のような咆哮と共に突進してきた。
上段から振り下ろされる大剣を間一髪のところで回避。桁違いの膂力で叩き付けられた大剣は大地を穿ち、砕けた大地が無数の弾丸となって周囲を蹂躙する。
「ちぃっ、何つー馬鹿力だよ」
受けに回らなくて正解だった。あんなものをまともに受け止めたら、俺の体は玉兎もろとも粉砕されていただろう。
あれだけの大剣だ、大地に突き刺さればそう簡単には抜けないだろうと踏んでいたが、周囲の大地が砕けるほどの馬鹿力のせいでそれも望み薄。さらにその馬鹿力による剣速の速さも相まって、正面から打ち合うのは自殺行為だ。
そんな思考に耽っていたのがまずかったのか、距離を取ろうと後ろに跳んだ時には、目の前に人の頭ほどもある巨大な拳が迫っていた。
トラックに撥ねられた方がまだましではないかと思えるほどの途轍もない衝撃に、声を上げることすら出来ずに吹き飛ばされる。
「かはっ……」
三十メートルは飛ばされただろうか。
霞む視界にこちらへと歩いて来る茨木童子の姿が映る。
幸いにも玉兎を放すことはなかったようだ。
「ぐっ……」
安堵の息を吐きながら体を起こそうとしたところで全身に激痛が走った。
あばらが数本折れているようだし、咄嗟に胴をかばった左腕は感覚すらない。まだ付いていることは見て分かるが、おそらく完全に粉砕されているのだろう。ぴくりとも動かない。
それでも気力を振り絞って立ち上がると、大剣を肩に担いで近付いてきた茨木童子が足を止めるのが見えた。
「ほう、我が一撃を受けてまだ立ち上がるか。さすが混血、脆い人間とは違うようだな」
「う、うるせぇよ」
ち、目が霞みやがる。
切れた額から流れる血をいくら拭っても、とめどなく流れる血は容赦なく視界を奪う。
立ち上がったまではいいが、折れたあばらが痛むは左腕の感覚が戻ってきてやっぱり痛むはでとても戦える状況ではない。
こうしている間にも激痛と出血で刻一刻と体力、集中力が奪われていく。
魔力で代謝を活性化させてはいるものの、そんなものは気休めに過ぎない。
こんなことなら治癒魔法もまじめにやっておけばよかった。とは思うが、今更後悔したところで何が変わるわけでもない。
あれをやるしかないのか?
だが、左手がこのざまじゃそれも出来ない。
どうする……。
「何を考えているのか知らんが、ここまでだ。さあ、我と共に来てもらうぞ」
「……この野郎、俺は男だっつてんだろーが」
そう呟いてみるものの、もはや抵抗する力はない。
伸ばされる腕を見遣りながら諦めにも似た感情が湧き上がるのを感じた。
それを押し殺し、必死に打開策を模索する。
ここは奴に従って、左腕が動くようになるのを待つ。そうすれば何とかなるだろう。
しかし、その場合奴の言っていた計画とやらが発動するまでに間に合うかどうか。
この時期にここへ来るということは、目的は霧生の霊脈だろう。そうである以上、奴らの計画が発動した場合、少なくともこの霧生市は壊滅。ここに暮らす多くの命も失われることになるだろう。
それだけは阻止しなければならない。これ以上救える命を失うわけにはいかないのだから。
「はは……、悩む必要なんかどこにもないじゃないか」
やる事など既に決まっているのだから。
激痛を堪えて左手を右手首のレザーバンドに翳す。
「リリース・アクセル・イグズィウス」
父さん、ごめん。約束、また破っちまう。許して……くれるよな?
「オーヴァー・ド……っ!?」
爆発、閃光、轟音。
突然の出来事に受け身をとることも出来ず、無様に吹き飛ばされる俺の耳にこちらに来てから聞き慣れてしまった声が聞こえた。
「契約の下、我に応じよ氷の女王」
ディアナ……?
「来たれ、永久の暗闇、終焉の序曲。奪い尽くせ『凍てつく世界』!」
これは、広範囲殲滅呪文?ディアナの奴、本気だな。当たり前か、いくらディアナといえど、手を抜いて勝てる相手じゃない。
ディアナの詠唱に応じるように巨大な氷柱が出現し、それを起点に大地が、大気が凍りつく。
「終わりだ、ゼロ・インパクト!」
神の意に従い、凍りついた世界が砕け散った。
俺のすぐそばに降り立ったディアナは、油断なく崩壊の中心地を注視している。
「ぐぅ、お主は『常闇の吸血姫』か。なるほど、流石最古の吸血鬼、と言ったところか」
「なっ!」
「ふん、貴様こそ、流石大鬼神。この程度では消せんか」
あいつは化け物かっ?あれだけの大魔法を受けてまだ生きてやがる!
「いやいや、さしもの我も直撃を受けていれば危なかった。ほれ、この通り、左腕を持っていかれた」
「当たり前だ。一撃で消し飛ばすつもりで打ち込んだのだ。それで無傷などと、そんなことがあってたまるか」
肩口からなくなった左腕を示しながら笑う茨木童子に、不機嫌さを隠そうともせず憮然と言い放つ。
「それで?続きをやるのか?やるというなら、望み通り消し去ってやるぞ?」
「いや、ここは退かせてもらおう、いささか興が削がれたのでな。黒き娘よ、お主は必ず我がものとする。それまで待っておれ」
そう言い残し、茨木童子はその姿を消した。
あの野郎、最後までそれかよ。
「ん?黒き娘?一体何のことだ?」
首をかしげながらそう問いかけるディアナ苦笑で答える。正直体を動かすのも億劫だ。
「おい統也、どうした……っ!おい統也っ、しっかりしろっ」
それに気付いたのか、駆け寄ってくるディアナに心の中で謝りながら、出来る限りの笑みを見せる。
「……!…………!」
ディアナが何か叫んでいるが、よく聞こえない。
霞む視界に移ったディアナは顔をくしゃくしゃにして、頬には一筋の涙。
ディアナにそんな顔をさせてしまったことが悲しくて、こんな俺の為に涙を流してくれていることが嬉しくて。
俺の顔を覗き込むディアナの頬を撫でる。
ディアナ、ごめん。それから、ありがとう……。
ちゃんと言葉になっていただろうか。
そんなことも分からないまま、俺の意識は闇に落ちた