第十一話
防衛戦が一週間後に迫った朝、いつものように体術のトレーニングをしていると、背後に誰かの気配を感じた。すぐそばの木の枝にかけたタオルを手に取り汗を拭いながら、上着のポケットから煙草を取り出し火をつける。その気配はある程度まで近づくと足をとめた。こちらに気付いたらしい。敵意を含んだ鋭い視線が背中に突き刺さる。しばらくこちらを窺った後、再び動き出した気配に向き直りながら声をかける。
「つれないなぁ、挨拶くらいしてくれてもいいじゃないか」
突然かけられた声に驚いたのか、びくりと動きを止めた人物に苦笑する。
「早朝練習か?精が出るな」
「……僕より早い時間からやっている人に言われたくありません」
相変わらずの口調とそこに込められた敵意にため息を一つ。嫌われているとは分かっていても、ここまで露骨に嫌そうな顔をされると流石に凹む。気を取り直して出来るだけ何でもない風を装う。
「あんまり無理するなよ?姉さんが心配するぞ」
「あなたには関係ありません」
「そりゃそうだ。……ただな、あんなにいい姉さんを悲しませてみろ、俺がお前をぶっとばしてやる。てめぇだけが不幸見てぇな面してんじゃねぇぞ、ガキ」
思わず口調が乱暴になってしまったことを反省しながら、怒りに震える菊川弟の様子に、結果オーライだったということにしておく。
「……っ。あんたに、あんたに何がわかる!」
あの時と同じように突然口調が変わり、憎しみが渦巻く相貌に眉をひそめる。
「何も知らないくせに!俺たちがどんな目に遭ったか、何も知らないくせに!偉そうなことを言うな!」
「ああ、お前らに何があったかなんてしらねぇよ。けどな、お前の姉さんは別だろ。お前、あいつがどんな思いでお前を連れて逃げたのか分からねぇのか?お前はいいよな、里を襲った人外を恨んでりゃいいんだから。あいつが誰を恨んでるか知ってるか?」
「え……?」
「あいつ自身だよ。逃げることしか出来なかった自分を、復讐に走るお前を止められない無力を。憎んでると言ってもいい。お前はそれでいいのか?」
呆然と立ち尽くす菊川弟の姿に胸が痛む。
自分の言った言葉が、どれほどこいつを苦しめているか、それは分かっている。それでも言わなければならない。復讐を果たすかどうかに関わらず、このままではこいつにとっても氷雨にとっても良い事など何もないのだから。たとえ俺が恨まれることになっても、放っておくことなどできはしない。
「よく考えろ。自分がどうしたいのか、何をするべきなのか。俺が言えるのはそれだけだ」
そう言い残し踵を返す。どんな答えを出すのか、それはすべて菊川弟次第だ。どんな答えを出したとしても、俺に口を挟む権利はない。そこから先はあの二人の問題なのだから。
「どの口がそんなことを言うんだか。人のこと言えた義理じゃないってのに」
らしくないことをした自分に苦笑する。自分のしたことを棚に上げて何を偉そうに。
「はあ、とんだ道化だよ、俺は」
「まったくその通りだな」
予期せぬ返答に驚いてあたりを見回すと、五メートルほど離れた所に生えた木の枝に腰かけるディアナの姿を見つけた。向こうも俺と同様に驚いたような顔をしている。
「なんだ、気付いていなかったのか」
「ああ、全然気付かなかった。……もしかして、聞いてたのか?」
「何のことだ?」
にやにや笑いながらからかうような声音でそういうディアナを見て確信する。
絶対聞いてやがった。
次に飛んでくるであろうからかいに肩を落としていると、いつの間にか目の前まで来ていたディアナが口を開いた。
「相当なお人好しだな、お前は」
皮肉るわけでもなく、しょうがないといわんばかりに苦笑を浮かべて言うディアナに思わずその柔らかそうな頬をつねる。
「こ、こら、にゃにをする!」
暴れるディアナの頬から手を離すと、赤くなった頬を抑えながら涙目で睨みつけてくる。
「痛いだろうがっ、一体何のつもりだ!」
「わ、悪い。ディアナが珍しいこと言うもんだから、これは夢なんじゃないかと……」
「くっ、お前が私をどういう目で見ていたのかよく分かった」
どうやら怒らせてしまったようだ。もっとも、涙目で上目遣いに睨みつけられても全く怖くないのだが。とはいえ、怒らせたままでは後が怖いので、妙に微笑ましい光景に後ろ髪引かれながらも機嫌を直す努力をすることにした。
「まあ、余計な御世話だってことはよく分かってるんだけどな。あいつらはまだ子供なんだ。復讐なんてものに囚われるなんて可哀相だろ。子供が子供らしく暮らしていけるようにするのが大人の仕事だ。もっとも、俺なんかじゃ力不足もいいところだろうけど」
何やらとても恥ずかしい事を言った気がして照れくさくなった。
正直、子供らしい暮らしなんて言っても、それがどんなものなのか分からない。それでも、少なくとも、そこに復讐なんてものは必要ないはずだ。
「やはりお前はお人好しだ。それもとびきりのな」
呆れたように言ってディアナは歩き出した。
「ほら、早く来い。腹が減った、朝飯にするぞ」
振り返りもせずに言うディアナの後を追って歩き出す。
さてさて、あの無愛想な少年は一体どんな答えを出すのだろうか。
「しっかり悩めよ、少年」
呟いた俺に向けられた不思議そうな視線に気付かない振りをして歩く。
「何をニヤニヤしている」
じと目で見てくるディアナに笑ってみせる。
「別に何でもないさ。それよりディアナ、朝飯は何がいい?」
「ほう、珍しいな、お前が私の希望を聞くなど」
口調はいつも通りだが嬉しそうに目を輝かせている。これが犬なら千切れんばかりに尻尾を振っていることだろう。
「なんとなく気分がいいからな」
こうしている姿だけを見れば、とてもではないが数百年の時を生きた大吸血鬼には思えない。
ディアナもまた、理不尽な世界に翻弄された被害者の一人なのだ。
こいつらが笑って生きて行ける世界の為なら、降りかかる火の粉の盾になろう。
手を汚すのは大人の仕事だ。傷つくのは俺だけでいい。
こいつらが笑っていてくれれば、それだけで俺は笑って生きていけるのだから。
楽しそうにはしゃぐディアナを見ながらそう思った。
昼過ぎ、ディアナに押しつけられた見回りの為に、ヴァルを頭に乗せたまま街へ出た。
相変わらずの賑わいを見せる街中を適当に練り歩く。頭上に居座るヴァルのせいか、やけに視線が集中している。確かに、二十歳前の男が頭の上に人形を乗せているというのはかなりシュールな光景だろう。かなり居心地は悪いが、これも仕事のうちだ。
「あれー?鷹司先生じゃん。こんなところで何してるの?」
背後からかけられた声に振り向くと、数日前にひと騒動起こした少女、水瀬夕夏が居た。その隣には氷雨の姿もある。なるほど、二人が友達だというのは事実だったらしい。
「仕事だ仕事。どこかの誰かさんが問題を起こさないようにな」
どこかの誰か、という言葉に冷や汗を流す水瀬を無視して氷雨に声をかける。
「よう、氷雨。弟君の様子はどうだ?」
「どこかのお人好しのおかげで大いに悩んでいるみたいだよ。一体どこの誰に何を言われたのやら」
いつも通りの笑顔で肩をすくめる氷雨の様子から察するに、俺のお節介は無駄にはならなかったようだ。
「え、あれ?お二人さんってばひょとしてお知り合い?どういう関係?」
せわしなく俺と氷雨を交互に見る水瀬に苦笑する。氷雨を見ると同じように苦笑しながらこちらを見ていた。どうやら俺に説明しろと言いたいらしい。面倒事を押し付けられた気がしないでもないが、初めて笑顔以外の表情が見られたということで良しとする。
「ここに共通の知り合いがいてな。その関係で俺がここに来てすぐ位に会うことがあったんだよ。言っておくが、お前が期待しているような関係じゃないぞ」
思った通り無粋な推測をしていたのだろう、水瀬の目が泳ぐ。まあ、こいつら位の年頃なら、色恋に並々ならぬ興味があってもおかしなことではない。むしろ、全く無関心な方がおかしいくらいだ。
「そ、それにしても背高いよね。いくつ?」
あからさまにわざとらしい誤魔化し方だが、わざわざ指摘するまでもないだろう。
「んー、一八〇ちょい、ってとこじゃないか?測ってないからよく分からんけど」
「それくらいだろうね、私が確か一七六だから」
「いいな〜、私なんか一五六だよ?」
自分で振っておいて勝手に沈んでいく水瀬。
「いやいや、普通そんなもんだと思うぞ?氷雨がおかしいんだ」
「統也さん、流石にそれは酷くないかい?でもまあ、その通りだろうね。夕夏の場合はこれからまだまだ伸びると思うよ」
「そうかなぁ……」
不安そうに言う水瀬に、顔を見合わせて苦笑する。
中学生らしい事柄に頭を悩ませる水瀬を尻目に、中学生らしからぬ長身を誇る氷雨が口を開いた。
「ところで統也さん、その頭の上の人形はなんだい?」
氷雨よ、そういう話は一般人のいないところでしてくれ。下手に『こちら側』のことを口にするわけにはいかないのだから。もっとも、その手の質問に対する答えは用意してあるが。
「こいつか?こいつはただの人形じゃないぞ?ここの大学院で作られた人工知能を搭載したロボットだ。ヴァル、自己紹介」
「オイ侍、ドウシテ俺ガソンナコトシナクチャナラナインダ」
「うわ、しゃべった……」
いつの間に復活したのか、目を丸くしてヴァルを眺める水瀬とは対照的に、氷雨はなるほど、と呟いている。どうやらヴァルの正体が分かったようだ。まあ、こいつの御主人たる金髪少女の正体と性格を知っていれば、すぐにでもわかることだろう。
ちなみに、先ほどの説明は決して嘘ではない。ヴァル自体は遙か昔から存在していたが、ディアナがこちらへ来てから、大学院で開発されていたロボットの素体にその魂を移し替えたのだという。もっとも搭載されているのは人工知能などではなくディアナが作り出した人工の魂だし、動力もディアナの魔力なのだが。
「オイ小娘、ジロジロ見テンジャネェゾ」
「こ、小娘っ?」
ヴァルに小娘呼ばわりされた水瀬は、どんよりとした影を背負っていじけてしまった。お気の毒に。ヴァルの毒舌は慣れていない者には少しばかりきついだろう。
「ああ、水瀬?気にするな。こいつ照れてるだけだから」
「オイ侍、勝手ナコト言ッテンジャネェ。バラスゾ」
「うるさい。今のはお前が悪い。そもそもお前にそんなことできるのか?」
一度も俺に勝ったことのないヴァルは悔しげに沈黙した。
ヴァルが言葉に詰まるのは珍しいが、分が悪いことを悟ったのだろう。
視線を向けると水瀬が再び沈みかけている。憐れだ。
「と、統也さん、仕事の方はいいのかい?」
氷雨の言葉に時計を見ると、担当時間は五分ほど前に過ぎていた。
それにしても、氷雨がどもったのは初めてではなかろうか。妙に感慨深かった。
「いや、もう終わりだな」
「そうなのかい?そういえば、少し喉が渇いたね」
そう言って俺を見る。俺に奢れと言いたいのだろうか、このとんでも中学生は。
見れば、先ほどまで沈んでいたはずの水瀬も目を輝かせて頷いている。立ち直りの早い娘っこだ。つーか早過ぎだ。
どうやらこの二人の中では、俺に奢らせることがすでに確定しているらしい。
「はあ、分かった、奢ってやるよ」
なんだかんだ言ってもやはり中学生。言い終わるか終らないかのうちに相談を始めている。
年相応の様子に笑みが浮かぶ。
不思議なものだ、楽しそうにしているのを見るとこちらまで楽しくなってくるのだから。
急かすように手招きする二人を追って歩き出す。
改めて再確認。これがあるから生きていける。
何故こんなことになったのだろうか。
霧生の商業区にあるとある服屋。目の前には楽しそうにあれこれ物色する水瀬と氷雨。
事の発端は二人に連れられて入った喫茶店での会話だった。回想開始。
『統也君って、こっちに来てそんなに経ってないんだよね?』
『そうだな、まだ一週間ちょっとか』
『でも珍しいね、こんなところで働くなんて』
『こんなところって……、自分で言うか?まあ、確かに自分で選んだわけじゃいけど成り行きでな。着のみ着のままって奴だ』
『え、そうなの?ってことは私服とかもなかったりするの?』
『ああ、そう言えば買ってないな。仕事用に多少は買ったけど、私服なんて買ってる暇なかったからなぁ』今思えば、この一言が余計だったのだろう。
『へぇ、そうなのかい?』
『此処に来てからこっちかなり忙しかったからな』
『なるほど……。氷雨』
『そうだね、夕夏』
『というわけで、これから統也君の私服を買いにいこー!』
『さ、統也さん、行くよ』
以上、回想終了。
何が、というわけでなのかは分からないが、突然テンションの上がった二人に連れられこの店に入ったのが二十分前のこと。それからというもの、二人は俺そっちのけで服選びに興じているというわけである。
「なんだかなぁ……」
その呟きが聞こえたわけでもないだろうが、二人はくるりと振り返った。
その手には数ある商品の中から選び抜いたであろう数点の服。
「とりあえずこれ、行ってみよー」
とりあえず?
水瀬のセリフにうすら寒いものを感じたが、普段の五割増しで笑う氷雨に試着室へと追いやられる。
仕方なく着替えて外に出てみれば、揃って頷く二人の姿。周囲の視線も心なしか集まっているような気がする。
「なあ、つかぬことを聞くが、まだやるつもりか?」
二人の様子を見る限りでは無駄な問いかけだろう。それでも一縷の望みを託して口にした問いに対して、二人はとてもいい笑顔で頷いた。
その後も着せ替え人形のごとく何着もの服を着せられ、結局解放されたのはそれから二時間後。途中、とてもではないが着る気にはなれないような派手なものまで引っ張り出してきたときは、全力でお断りした。その時不満そうにしていた二人が恐ろしい。
二人の気が済み、店を出た時には俺の財布は悲しいくらいに軽くなっていた。原因は会計の時に二人が当然のように上乗せした数点の服。多分間違いない。
二人の惜しみない協力は今までの人生で一日に使った最高金額を大幅に更新してくれた。
疲れた体を引きずってたどり着いたディアナ宅で待ち構えていたのは、非常に不機嫌な吸血鬼な少女だった。その日の修行は想像を絶するものだったことを追記しておく。