プロローグ
プロローグ
薄暗い部屋の中、蝋燭の明かりの中に三つの人影があった。
「お父様、準備が整いました。」
そう言ったのは十代前半と思われる少女。
その表情は感情を感じさせない無表情であるものの、よく見れば悔しげに唇を噛み締めているのが見て取れる。
「そうか……」
お父様、と呼ばれた四十代半ばの男はもう一つの影へと視線を転じた。
そこに立っていたのは、漆黒の長髪を頭の後ろで縛り、黒曜石のような瞳を持った青年。
その足元には複雑な紋様の魔法陣が描かれており、青白い燐光を放っている。
「準備はいいか?」
青年は軽く頷くと男に頭を下げる。
「何から何までありがとうございます」
「気にすることはない、君は私の弟子だ。それに、私には君に礼を言われる資格などない。私にもっと力があれば、君を教会から守ることも出来たのだから。私が不甲斐無いばかりに……」
悔しげに拳を握りしめる男に、青年は首を横に振って答えた。
「俺は、貴方の弟子であったことを誇りに思っています。貴方に出会わなければ、俺はとうの昔に死んでいたでしょうから。」
青年はそう言って視線を少女へと転じた。
「アリア、師匠を頼んだぞ。この人は誰かが見張ってないとすぐに無茶するんだから」
アリアと呼ばれた少女は小さく頷き、兄弟子の姿を目に焼き付けようとしっかりと青年と視線を合わせた。
魔法陣から放たれる燐光は輝きを増し、蝋燭の頼りない明かりに照らされた室内は今や青白い光に満たされている。
その神秘的な光景は別れの時を嫌というほど感じさせた。
「そろそろ時間だ」
男の言葉に青年は頷き、じっと自分を見つめる少女を安心させるように、笑顔を浮かべた。
「それじゃ、そろそろ行きます。アリア、俺が無事に転移出来るように祈っててくれよな?」
「それは私の術式が信用出来ないということかな?」
「い、いやだなぁ、そんなわけないじゃないですか」
二人の間の抜けたやり取りに、深刻な顔をしていた少女は薄く微笑んだ。
それを見た二人は、少女からは見えない位置で親指を立ててニヤリと笑う。
室内に満ちる燐光は、目を開いているのが困難なほどに輝く。
その中にあっても、三人は目を閉じることはない。
旅立つ者は、自らの生きた世界を、それを知るものを記憶に焼き付けるために。
残る者は、共に過ごしてきた家族の旅立ちを見送るために。
「師匠、アリア、行ってきます」
青年の言葉が引き金となったのか、舞い踊る燐光が渦を巻き、すべてを呑み込まんとする濁流のように猛り狂う。
光の奔流が青年の姿を覆い隠し、世界が白銀に塗り替えられた。
―さよならは言わない―
音のなくなった世界で、少女は確かに聞いた。
兄弟子であり、淡い初恋の相手であった、誰よりも臆病で、そのくせ困っている人を放っておけないお人好しの青年の口癖。
青年の過去がどんなものだったのか、少女には分からない。
それでも、彼が『さよなら』というたった四文字の言葉を何より嫌っていることは知っている。
だから、さよならは言わない。
世界に音が戻り、光が収まったとき、そこに青年の姿はなかった。
青年がどんな世界に転移したのかは分からない。
もう二度と、彼に触れることも、声を聞くことも叶わない。
少女に出来るのはただ祈ることだけ。
故に、少女は祈る。
彼の生きる新たな世界が、彼にとって、優しい世界であるように。