002 『雄獅子は得物を得ずに滅び』
世界で最も有名な書籍と言えば、やはり聖書の他に存在しないだろう。
そもそも英語で聖書を意味する『BIBLE』は、元々ギリシア語で『本』を意味する単語でしかなかった。が、聖書の圧倒的な知名度が故に『本と言えば聖書』と言う意味を籠められて、聖書の固有名詞として『BIBLE』が使われるようになったと言う。正に『本の中の本』に至った、ベストセラー中のベストセラー、本の王である。
が、その聖書と言えど、全てが完璧とはいかなかった。
例えば誤植。世界で一番有名な誤植も、聖書の中に存在する。それは一六〇〇年代に発行された、俗に言う『姦淫聖書』と呼ばれる物だ。この聖書の中ではモーセの十戒の一つ『汝、姦淫するなかれ』を『汝、姦淫すべし』と誤って記載してしまっている。意味が一八〇度反転した一文のインパクトも手伝って、広く知られた聖書に関するミスの一つに数えられるだろう。
ミルメコレオも、そんな聖書に載ってしまった誤植語訳の一つだ。その歴史はかなり古く、七十人訳聖書の編纂が行われた紀元前三世紀から紀元一世紀頃まで遡る。ヘブライ語の聖書にある『雄獅子は得物を得ずに滅び』の一文をギリシア語に翻訳する際、翻訳者が『蟻獅子は得物を得ずに滅び』と訳してしまったことがその起源である。
当然ながら『ミルメコレオ』って何だよ? と言う議論が勃発。まさか聖書に間違いがあるとは思わず、暫くして獅子の頭と蟻の身体を持つ幻獣が創造された。その奇妙な姿に色々な寓意が籠められ、中世の頃には様々な教訓を持つ化物として広く知られるようになった。
そんなミルメコレオが、停学を喰らった日の帰路に現われた。
なんの冗談だろうか?
確かに我が敬愛する母校は土地代が安かったのか、山上にポツンと建っている。ちょっとした陸の孤島のような場所で、当然、通学路は山中を通る物になっている。九十九折りになった片側一車線の道路以外に横道等はなく、ガードレールの向こう側は切り立った崖になっているか、鬱蒼と針葉樹林が茂る森になっているかのどちらかで、兎が撥ねているのをスクールバスからよく見かけるし、猪が道路に寝ていてバスが止まったこともある。流石に熊はいないようだが。
勿論、ミルメコレオが出た等と言う話も聞いたこともない。
そもそもミルメコレオとは語訳が元に産み出された空想上の生物であり、人々の想像の中にしか存在しない生き物だ。間違っても動物園から逃げ出したわけではないだろう。だから、大型犬程度の大きさをしたミルメコレオが道路の真ん中をうろついていると言うのは常識的に考えてありえない光景だった。
しかし現実に眼の前には獅子の頭と蟻の身体を持ったミルメコレオが生き生きと動いている。
…………ミルメコレオの姿には諸説あるが、このミルメコレオは蟻の頭部をライオンに挿げ替えたタイプで、六本ある肢は全て昆虫の節のある肢になっている。ゴールデンレトリーバーの足と同じくらいの太さの昆虫の肢と言うのは控えめに言って気持ち悪い。
血の気が一気に引いて、頭に冷静さを呼び戻す程だ。
あ。目が合った、気がする。
獰猛なライオンの瞳を見て、ミルメコレオがどんな怪物として語り継がれていたかを思い出す。姿形に差異はあれど、ミルメコレオの本質はヨブ記にある『得物を得ずに滅び』の一文に収束する。昔の人はそれを『ライオンのように獣を狩った所で、蟻の胃袋では消化ができない』と解釈したらしく、それ故にミルメコレオは絶え間ない飢餓に陥っていると考えた。食えぬとわかっていても、他者を傷つけずにはいられない、凶悪で無慈悲な怪物がそうして誕生した。
そんな怪物がイキモノを見つければどうするだろうか? 頭の中で答えが出ると同時に、ミルメコレオによる答え合わせが始まる。怪物は猫科とは思えない雄叫びを上げると、六本の肢を器用に動かして駆け出したのだ。対象は間違いなく、俺だ。一歩一歩の歩幅が狭くて、せかせかとしてなんとなく間抜けに見える走り方だったが、牙のはえた口を大きく開けて涎を垂らすライオンの顎の恐ろしさに血の気が凍る。
今まで何処かで『贋物だろう』『何かのジョークだろう』と考えていたが、それの持つ恐怖は本物。竦む身体に鞭打って足を引くが、既にミルメコレオは二歩も離れていない場所にまで迫っていた。
最早、回避は間に合わない。化物の口に並ぶ牙の鋭さに、空っぽな棺で行われた親父の葬儀が頭を過ぎる。
『悪人は罰を免れない、しかし正しい人は救いを得る。』
これは罰なのだろうか? 黒井を殴ったことは、生きながら飢えた獣に身体をバラバラにされる程の罪だったのだろうか? それとも神の存在を疑ったことだろうか? 復讐心は決して許されないのか? 或いは復讐の決意に対する罰か?
「っざけんな!」
なんにせよ、むざむざ食われる気はない。こんな理不尽な死に方では死んでも死にきれない。神罰なんてものも認めるものか。天に代わって親父を自殺に追い込んだ全てに報復すると決めたばかりだ。奴等の心から安息を取り除いてやらなければ、俺の人生はクソ同然だ。
怒りと焦燥と共に、右足を前方へと蹴り出す。狙いは獅子の眉間。蟻の脚は顔よりも前に出ないだろうから、必然的に攻撃は噛み付きだけに絞られ、そこを狙うこと自体は難しくない。
問題があったのは、それからだ。
「っ!?」
目論見通りに眉間に突き刺さった右の踵から帰って来たのは、電柱を蹴飛ばしたような手応え。一ミリたりとも押し返せた気がしない。それどころか、ミルメコレオは俺の脚を押し退けて向かって来やが――
「!?」
――全身を強く打った痛みと、視界に広がる青い空を見て、吹き飛ばされたのだと理解した。小学二年生の頃にアホなカップルが運転する車に撥ねられた時の記憶が蘇る。あの時も気が付けばこうしてアスファルトの上に放り出されていた。違いがあるとすれば、信号無視のシボレーに撥ね飛ばされた時は、何が起きたかもわからずに泣き叫ぶばかりだったが、今はひたすらに全身が痛いが涙はない。
「認めないぞ」
死んでたまるか。
転がるように体を動かして何とか立ち上がると、ミルメコレオが遠くで振り返るのが見えた。俺が吹き飛んだのか、アイツが勢い余ったのか知らないが、普通の生き物の膂力じゃあねぇな。クソが。
獲物の動きを止めることに成功した狩人は、涎を垂らして舌なめずり。絶え間ない飢餓を満たすことができると信じて、蟻の足を動かして奴はこっちに近寄って来やがる。
一歩また一歩と近寄ってくるミルメコレオ。
「っ!」
逃げなければ。そう考えた瞬間、膝から力が抜け、がくんと身体が傾く。慌てて手を突いて身体を支えると、今度は視界がぐらりと揺らいだ。そりゃ、軽い交通事故みたいなもんだったからな、身体にガタが来て当然か。おまけに、顔面を蹴飛ばした右足から鈍重な痛みがじわりじわりと広がってやがる。
このまま、俺はあの化物に食い殺されてしまうのか? まっすぐに自分を見るライオンの瞳を見ると、親父の葬式がよりリアルに思い返された。ただ義務的に行われる謎の儀式。大人達の声、視線。誰も悲しんでなんかなかった。示談金を払えば良かったのにと嘲笑ばかりで、ああ! ああ! あああ! クソが! お前等全員地獄に堕ちろ! 親父の代わりにお前等が死ねば良かっただろうが!
やっぱり、死ねない。この胸の内を焦がす激情を抱えたまま死ぬことが出来るだろうか。
無理に立ち上がる事は諦め、ケツを地面に落として後退ってみる。痛む身体ではそれも満足に行うことができず、蟻獅子はゆっくりと死刑執行人がごとく絶望を連れてやってくる。やっぱりアキレウスの亀におけるゼノンのパラドックスは虚言らしかった。
エリ、エリ、レマ、サバクタニ。
と。必死でもがく正義の右手が何か硬いものに触れた。石やアスファルトの欠片とは違う冷たい金属質な触感。
そこにあったのは拳銃だった。
無論、ここは日本。実銃ではない。特撮映画の隊員が持っていそうな光線銃、あるいは子供が喜びそうな水鉄砲に似た、実用的とは思えないゴテゴテとした感じが絶妙にダサい。が、しかし少年の心をくすぐるデザインでもあった。コスプレや玩具のような安っぽさとは無縁な一目でわかる重厚な造りが、かえって何処か滑稽にすら見える。
「っ!」
殆ど反射的にそれを手に取った。深い意味は何もない。溺れる者が藁を掴んだだけのことだ。若干痺れる掌でそれをしっかりと握ると、見た目通りの重さと硬さが何処か安心を呼んだ。
勿論、その安心は錯覚だ。見た限り引き金はあるが銃口はない。殴りつけた所であの怪物には効果は薄いだろう。いや、仮に実弾が出たとしても、あの蟻獅子に通用するかは未知数。
だが、それでも抵抗せねばならない。神に祈るだけで救われるほど、俺は立派な人間じゃあないんでね。腕を前へと伸ばして銃の先端をミルメコレオへと向ける。
「どうにかなれよ?」
引き金を引く。
『きたれ』
頭の中に声が響いた。今まで耳にしたどんな言葉よりも、それは物凄く煩くて有り得ないほど近い場所で発せられているようだった。頭の中に直接――いや、意識、心、魂、そう言った福田正義その物に直接意味を刻むかのような言葉。
まるで雷が落ちたかのような衝撃に全身が震え、怖くなってしまうほどの多幸感が脳髄を埋める。
だが、それよりも心を奪ったのは、目の前にまるで俺をミルメコレオから彼を守るように現われた一台の脈動する奇妙な構築物であった。
一言で説明するならば、金属で出来た肉食の獣、或いは地獄の業火を燃料にする四輪のバイクだろうか? 破壊と流血を暴力と言う鋳型に収め激情で焼き固めたような金属を使った、下品で野蛮な捕食者染みた鋭角な胴体があり、怪物的な四肢がそこから伸び、燃え盛る火炎の輪が足やタイヤの代わりに身体を支えている。獣なら顔、バイクならヘッドライトに当たる場所には、騎士の兜のようなデザインになっており、二本のハンドルが触手のように飛び出していた。ド! ド! ド! と空気を震わせるのは、獣の心音か、それともエンジンの鼓動か。
これは?
沸き上がる疑問を口にするよりも早く、燃える獣は大きくエンジンを吹かして唸りを上げると、燃える四つの足を回転させてアスファルトを削って駆け出す。粗暴な外観とは裏腹に、姿勢は真っ直ぐに、ミルメコレオに狙い澄まして。
捕食の立場は明確に逆転していた。
爆発するように速度を上げた燃える獣は正面からミルメコレオに喰らい付く。鋭角的なボディがライオンの顔面を正面から捉えると、ミルメコレオは蹴飛ばされた空き缶のように吹き飛んで行く。
その光景はまさしく交通事故。決まったか? と思ったがが、道路の上を二度跳ねたミルメコレオは、三度目にその六本の足で着地をして体勢を整えて見せた。そのまま自分を吹き飛ばした炎の獣に牙を剥き、唸り声を上げて威嚇する怪物。流石に俺とは身体の造りが違う。
一体全体何が何だか良くわからないが、アレは俺の味方なのか? それとも怪物の敵であるだけ? 痛む身体では逃げ出すことも出来ず、ミルメコレオとモンスターマシンの対峙に集中していると、
「御命令を」
「ひゃ!」
手元からハッキリとした声が発せられた。唐突過ぎて悲鳴が裏返っちまったじゃねーか。右手に握り締める銃が喋っているようだった。拳銃にスピーカー機能、いる?
「御命令を」
無機質な如何にも機械な声で拳銃が指示を求める。先程頭の中に響いた声には似ても似つかないな。さっきのはコイツじゃあないのか? いや、コイツはコイツで、そもそも誰だか知らんが。
取り敢えず、わからんことは訊いて見るか。
「アレは何だ?」
どう訊ねるかは少し迷ったが、銃相手に敬意を表したり遜ったりする気にはならなかった。
「解き放たれし二つ目の封印」
厨二心に響く返答と同時に、赤色の獣がエンジンを思い切りに吹かせた。アレが喋っているのか?
しかし『二つ目の封印』か。そして赤い獣。
なるほど。少しだけ神を信じても良い気分になった。
『考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。』
誰の台詞だったかは忘れたが、ヨブ記だからヨブか? 良い事を言う。
まだ、死ぬ時ではないし、滅びるのは俺じゃあない。
「御命令を」
「アイツから平和を取り上げろ――レッドライダー」
「御意のままに」