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夏空に叫ぶ  作者: 鹿島 コウヘイ
第1章 初夏
9/13

1-9

 僕が煙草を初めて吸ったのは、驚くべきことに小学生のときだった。


 その日、いつものように父はベランダから外を眺めながら、ゆっくりと煙草をふかしていた。夕食後、家のベランダに出て一服をする。それが父の習慣だった。

 僕はテレビをじっと見ながら、家のお風呂が沸くのを待っていた。そのとき家にいたのは僕と父だけで、母はちょうど用事かなにかで外出していたはずだ。


(れい)


 窓の網戸越しに、いつの間にかこちらを向いていた父から名前を呼ばれる。


「なに?」


 そう答えても、なにも返事はなかった。返事の代わりなのか、父は僕に背中を向け、また外を眺め始める。これは僕の方から行かなければならないのか、と僕は座っている椅子から腰をあげた。


 僕はベランダに出て、父の横に立った。そして、父と同じように景色を眺めた。


 七階建てのマンションの七階から見る景色は、それより下の階から見る景色と比べたら、ほんの少しくらいは壮観かもしれない。けれど、最上階に住んでいるとはいえ、僕が住んでいるのは高級なマンションというわけでもなく、一等地にあるわけでもなかった。

 だから、眼下の景色も、暗闇のなかで住宅の窓から漏れる光と、街路灯の明かりがぽつぽつと灯っているだけの、ありきたりな夜が広がっているだった。


「で、なに?」


 改めてそう訊くと、父は短く言った。


「吸うか?」


 一本の煙草と、安っぽい百円ライター。父が僕に向けて、突然それを差し出してくる。

 僕は戸惑った。子どもは煙草を吸ってはいけない、ということを僕はその時からなんとなく知ってはいた。吸うべきではないだろうな、と僕は思った。

 けれど、煙草を吸うと身体はどうなるんだろうだとか、どんな味がするんだろうだとか、そういう興味の方が勝ってしまった。当時の僕は好奇心が旺盛だったのだ。今とは違って。


「・・・じゃあ」


 僕は受け取った煙草を恐る恐る口にくわえてから、慣れない手つきで火をつけ、見よう見まねで息を吸いこもうとする。(たちま)ち、僕は大きく咳き込んでしまった。咳き込む度に、口から白い煙が吐き出される。しばらくの間、喉がひりひりと痛んだ。

 父はそんな僕を見て少しだけ笑って、また外を眺めた。

 こんな不味いもの二度と吸うものか、とその時は思った。けれど、中学生になった頃からまた稀に吸うようになってしまった。そしてそれは、現在も続いてしまっている。


 僕が煙草を吸う理由はひとつだけだった。煙草を吸うと、面倒なことから解放されたような気分になるからだ。


 どうでもいいような悩みやストレスだとか、 言葉にするのが(はばか)られるような後ろ向きの感情だとか、頭からそういう余計なものが消えて、(もや)が晴れるように思考や感情が冴えていく感覚。それは僕にとって心地のいいものだった。


 言い訳のようになってしまうけれど、僕は煙草を吸いたくて吸っているわけではない。

 規範だったり、社会だったり、大人だったり。そういった体制的なものに反抗したい、という訳ではないのだ。法律で禁止されている行為を行うことに抵抗感を抱くくらいには、僕は一般的で善良な市民だという自覚がある。


 別に煙草でなくても、コーヒーでもガムでもよかった。寧ろ、身体の健康だったり、それこそ規範的な面を考えれば、そっちの方がいいだろう。けれど、こと頭を冴えさせるという目的においては、煙草を吸うことが僕にとっては最も適した行為だった。

 けれど、それは都合の良いように思い込んでいるだけなんじゃないか、と考えている自分もいる。ただ大人ぶりたくて、背伸ぶしているだけの行為を、勿体ぶった理由をつけて正当化している。もし誰かにそう言われたとしたら、僕は否定できない。


 僕は目の前にいる篠原に悟られないよう、自分の右手の手首を見る。

 彼女の手に掴まれた感触が、まだ僕の手首には残っている。


 あのときに感じた手首の痛み。そして、まだうっすらと赤く残っている彼女の指の痕を見ると、何となく落ち着かなかった。だから僕は煙草を取り出して、今こうして吸っている。


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