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郡上八幡 少し昔の話~ひろっさの話 ~

作者: こにゃんこ

やっぱりか。

ひろっさは、この二月ほど、いや、思い返せば三か月ほども経つだろうか。嫁のきみちゃんの様子が、何かしらおかしなことに気づいていました。いくら実家が同じ町の中にあって近いからといって、盆や正月でもないのに急に泊りに行ったり、ひろっさに何も言わないで、病気でもないのに仕事を休んでいたり。

今日、きみちゃんが、どうやら家出をしたらしいとわかって、ひろっさは心配しながらも、妙に納得した気持ちになっていたのでした。

ひろっさは春に結婚したばかりです。その年の盆にこんなことになろうとは、夢にも思いませんでした。ただ、晴天の霹靂というわけでもありませんでした。結婚して二月も経とうかという頃から、予兆はありました。

最初はひろっさが飲み会の日、夕食の支度をしなくていいので、嫁は自分も飲みに行くと言って出て行きました。翌週、ひろっさがお囃子の稽古に出かけ、帰ると「実家に泊りに行きます」という置き手紙がありました。ひろっさがそれについて何も言わないでいると、稽古の日に実家に泊りに行くようになりました。最初は毎週ではありませんでしたが、それが毎週のように頻繁になり、そのうちに、よく仕事まで休むようになったらしいと、人から聞くにあたって、ついにひろっさはきみちゃんに聞いたのでした。

「おまん、なんでそう実家に泊まるんよ」

「…楽やし」

「そやけど、うちは子供もおらんし、そうそうおまんが帰らんならんほどの重労働もさせとらんろ」

「私も仕事しとるし、たまにはゆっくりしたいんや」

「仕事もパートやで、そう遅うもならんし、そんに疲れるんなら、仕事辞めてもええんやで。体調の悪いような時は、無理にご飯の支度もせんでええで。食べに行ってもええし、出前取ってもええんやで。

俺も踊りシーズンに入ったで、お囃子の当番の日は帰りも遅うなるで、寂しい思いさせとるかも知れんがよ」

「実家には行くなってことか」

「そうは言っとらん。こう毎週、おまんだけが泊りに行くのもどうかと思うんや。おまんの親さんも心配しなれんか?まんだ俺らぁ、結婚して一年どころか、半年も経っとらんに。

この頃、仕事もちょくちょく休むらしいンないか。とみちゃんの嫁さん、おまんの店で早番のパートに行っとるろ。今日、とみちゃんに、『うちのが、おまんの嫁、この頃急に体調悪いって言って、ちょくちょく休みなれるが、そろそろおめでたやろかって言うが、どうなんよ』って聞かれたんや。俺が聞いとらんに、そんなこともなかろ?」

「それはない」

「なら、仕事休んで、俺にも何にも言わんと何しとるんよ?

とみちゃんとこも、子供夏休みやし、早う帰りたいやろうに、遅番のおまんが休むと、とみちゃんの嫁さんが、夕方まで仕事に入ることになるがな。子供らかわええがな。今は観光客も多い時期やで、客も絶えんで、一日中忙しいろ」

「…。もう、ええがな!」

嫁が苛立った様子で、吐き捨てるように言った後、一晩中泣いていたので、ひろっさは何がそんなにいけなかったのだろうかと、こちらもまた悩んで一晩中眠れなかったのでした。


ひろっさは郡上八幡の日吉神社の近くに住んでいました。本当の名前は山田寛といいますが、中学生の頃、同じクラスに山田が三人いたので、それ以来、下の名前にさんをつけた、ひろしさんがなまって、ひろっさと呼ばれるようになりました。

ひろっさの頭にはつむじが二つあります。昔からつむじが二つある人間は、頑固者だとか、人の意見を聞かないとか言われていますが、ひろっさは特に頑固者だと人から言われたことはありませんでした。どちらかというと、地味で大人しい人間だと思われていましたし、自分でもそう思っていました。頑固者というよりは、子供の頃から冷静な、と言った方が近いかも知れません。

郡上八幡は、郡上踊りと呼ばれる盆踊りで有名な地域です。ひろっさは郡上踊りの保存会で笛をやっていました。

笛を始めたきっかけは、春祭りの日吉神社の神楽笛でした。

郡上の冬は、雪深く寒い冬です。その分、みんなが春を待ちわびていて、春祭りは一大行事の一つでもあるのでした。

春祭りは、日吉神社の雄の獅子と、岸剣神社の雌の獅子が、大勢の神楽を引き連れて二日間に渡って町中を練り歩き、最終日の夜、別れを惜しみながら、それぞれの神社に帰っていくのです。

ひろっさは日吉神社の近くに住んでいたので、生まれた時からお祭りを見ていました。町内中がお祭りに向けてざわざわと浮き立つのが、子供の頃から大好きでした。まだ学校に上がる前の小さい頃は、お父さんに連れられて、夜の神楽の稽古を見に行きました。お祭りの当日神社に行くと、前の日まで普段着で練習していた大人も子供も、全員がお祭りの衣装で集まっていて、いよいよこれから本番が始まる楽しさと緊張感が、その場に満ちていました。ひろっさは、お祭りの間、飽きもせず神楽について、町中を歩いていました。一緒に歩くお父さんが疲れてしまっても、一日中神楽と歩いていました。なので、小学生になって、神楽をやならいかと声がかかった時、迷わず参加することにしたのです。

神楽は、獅子と一緒に舞をする金襴の衣装を着た主役級の子供、おかめとひょっとこの舞いをする大人と一緒に、太鼓や笛の一団(子供も大人も一緒)がぞろぞろと付いて行きます。

ひろっさはなぜか金襴の衣装を着て目立ちたいとは思わない子供でした。そっちの方が花形なのですが、カツラをつけたり、化粧をしたりするのは嫌でした。それより、裃の衣装を着て、横笛を吹いているおじさんたちを見てかっこいいと思っていました。家にあるお雛様の五人囃子の中でも、やっぱり一番かっこいいのは、笛のお人形だと思いました。そんな風に思っていたので、神楽をやるなら、絶対笛だと決めていました。

お祭りの前、毎晩毎晩練習に行くのは大変でした。でも、お祭りの日に獅子舞と一緒に町を練り歩き、神楽を披露するのは楽しく、お祭りの終わる頃は疲労もピークでしたが、また高揚感もピークに達していて、毎年参加するのは楽しみでした。

ただ、お祭りの神楽は、どんなに稽古しても年に一度(二日間)の春祭りだけで、その後はまた来年まで神楽はお休みなので、ひろっさはもっと笛をやってみたいと思っていました。そして、小学校の四年生になった時に、郡上踊りの保存会がジュニアチームのメンバーを募集したので、早速参加することにしたのです。

最初は同じ笛だから、すぐにも覚えられるだろうと思っていたのですが、神楽笛とお囃子の笛は似て異なるもので、全く同じというわけには行きませんでした。思いのほか、簡単には吹けるようになりませんでした。子供のひろっさにとって、初めて、どんなことも、見るよりやるのは難しい、物事には努力とか忍耐とかいうものが、多少なりとも必ず必要になるものだと感じた出来事でした。

ひろっさは持ち前の根気強さで練習し、一緒に始めた仲間の中で、最初に吹けるようになりました。吹けるようになると、もっと上手に吹きたいと思うようになりました。本人に自覚はありませんが、こういうところがつむじ二つの頑固さです。

そうして、ひろっさは郡上節以外の曲も聞いては吹くようになり、中学を卒業するころには、楽譜を見なくても音の取れる、いわゆる音楽耳になっていました。

そうはいっても、ひろっさの基本はお囃子と神楽でした。どんな曲を練習していても、それは飽くまでも練習で、お囃子と神楽の上達のためにやっているという気持ちでした。なので、色んな曲が吹けるようになっても、それを人前で演奏してみたいとは思いませんでした。大人になって、宴会で余程催促されれば、他所の地域の民謡や、流行歌やジャズなんかもやってみないではありませんでしたが、それは遊びの範疇でした。ひろっさが人前で、本気で演奏するのはお囃子と神楽だけでした。

郡上のような田舎では、地元の若者は進学と同時に都会に行き、そのまま帰って来ないことも多いのですが、ひろっさは地味に地元の学校に行き、地味に地元の会社に就職しました。

お囃子は、中学生や高校生になって部活が忙しくなると、ジュニアチームを辞めてしまう子も多いのですが、ひろっさはずっと続けていました。部活動とお囃子で優先順位をつけた結果、部活動を優先する方が多数派だったのですが、ひろっさは少数派に属していたということなのでしょう。高校生の頃には初心者の小学生の指導をするベテランのおじさんの補佐をする立場になっていました。そうして、高校を卒業して社会人になっても、地味に保存会に所属していました。会社は印刷業で、残業もありましたが、お囃子の稽古や行事には出来るだけ参加していました。

地味に、というのは、本当にひろっさの性格を表現するのにぴったりな言葉です。

ひろっさは、社会人になった頃には、大先輩の中にあっても、まずひけを取らない、一番の笛吹きになっていました。けれども、一度たりともでしゃばるような態度を取ることはありませんでした。毎週地味に稽古に参加し、毎日地味に家で練習し、シーズンになれば、割り当てられた当番の日に屋形に上がるだけでした。古参のメンバーも大勢いるので、まだまだ若造のひろっさは、そう出番は多くはありません。そんなことは不満にも思わず、ただ、自分の笛を聴いてもらう時には、精一杯、今までで一番の演奏をしたいと思うのでした。屋形に上がっていても、自分の見た目にはさしたる気を配る気も無く、今やトレードマークのようになっている髪型は、高校生の頃から変わらずスポーツ刈りでした。少し伸びると、もっさりして鬱陶しいので、いつもきっちり刈り込まれた頭になっていました。自分の見た目などその程度しか気を配らず、お囃子の時は笛のことしか頭にありませんでした。

ひろっさはそんな気持ちで屋形に上がっていたのですが、顔の造作は十人並みとはいえ、痩せて背が高く、顔の小さいひろっさが、背筋をピンと伸ばして、ざわつく踊り場の屋形の上で、目を閉じて、太鼓や三味線の音を聴きながら笛を吹く様子は、さながら修行僧のような雰囲気を醸し出していて、目立っていました。ただでさえ、おじさんおばさんの多い保存会の中で、ハゲでもデブでも白髪でもないひろっさは、すっきりとした若者で、それなりに女の子にもてるのは当然のことでした。

とはいえ、ひろっさがそれにいい気になるかというと、全くそんなことはありませんでした。屋形の上で目立っているからと言っても、観光客の女の子と一緒に写真を撮ったりする程度のことは、日常茶飯事のこと過ぎて、そのことでうぬぼれる事もなく、そのうちの誰かと付き合いが始まることなど、期待もしていませんでした。中には上手く立ち回って、そういうことになる人もないとは言えませんが、ひろっさに限り、ありませんでした。ひろっさは、自分が屋形の上でどんな風に見えたところで、屋形を下りてしまえば、口数の少ない、面白味の無い、気の利いたことの一つも言えない人間だとよくわかっていました。積極的な女の子には、電話番号を書いたメモを渡されたりすることも稀にはありましたが、自分からその相手に電話を掛ける事はありませんでした。

学校を卒業したばかりの頃は、地元の女の子と付き合ったりしましたが、笛以外には何の趣味も無く、女の子を喜ばせることについてなど、悩んで考えたこともありませんでした。その結果、女の子達は、楽しい相手をそれぞれに見つけ、ひろっさから離れて、別の人と結婚していったのでした。

ひろっさはひろっさなりに、相手のことを大切に思う気持ちは持っていました。自分の彼女ともなれば、特別な存在だと思う気持ちはありました。けれども、ひろっさはそういう気持ちを伝えるのが苦手でした。

夏の踊りシーズンは、土日は七月の中頃から、九月初めの踊り納めまで毎週踊りがありますし、八月になれば、盂蘭盆会の徹夜までは、平日でも毎晩のように踊りがあります。

ひろっさは、保存会で屋形の演奏当番の時はもちろん、当番ではない日にも、踊りのある日は、仕事で余程遅くならない限り、必ず踊り場には行っていたので、せっかくお休みの日にデートに出かけても、必然的に帰宅の時間は、踊りの始まる時刻以前になってしまいます。それは、親にとっては安心できる時間なのですが、女の子にとっては物足りない時間で、「私と会っている日くらい、私を優先させてよ」と思っても(例え口に出して言っても)、ひろっさの優先順位は、仕事の次はお囃子を含む保存会でした。

保存会は、他所の夏祭りのイベントに呼ばれる事もよくあります。そういう時は、大勢の保存会メンバーの、夜の演奏当番に当たっていない人の中から、遠征メンバーを抽出して送り出します。ひろっさはそんな時は、まず最初に声のかかるクチでしたし、頼まれれば、まず断ることはしませんでした。

そうすると、せっかくの休日も、彼女最優先ではなくなり、「私と笛と、どっちが大事なの」という、「笛」を「仕事」とか、「パチンコ」とか、「車」とかに置き換えると、そこらじゅうで女の子たちがいつも口にしている不満の定番文句を投げつけられ、気付くと、いつの間にか相手の心は別の人に移ってしまっているのでした。そして、本当は悲しくても、ひろっさは、彼女が去っていくときにも、自分の気持ちをそのまま伝える事は出来ませんでした。自分の気持ちをぶつけたところで、自分のことを嫌いになって去っていく人を、引き留められる訳が無いと思っていました。もしかしたら、引き留めてくれるのを待っていた恋人もいたかもしれませんが、ひろっさは、もう自分から気持ちが離れている人を、無理に引き留めたところで、結果は同じだろうと、諦めてしまうのでした。

最後の恋人と別れてから何年かが過ぎ、ひろっさは三十になりました。地元の同級生はほとんどが結婚していました。

ひろっさは、自分はもしかしたら一生結婚しないかもしれないと思っていましたが、ひろっさの両親(特にお母さん)は何度もお見合いの話を持って来て、ひろっさをうんざりさせました。

「おまん、妙子が娘の友達で、おまんより三つやら下の子がおるっていいよったが、どうするよ」

「…」

妙子というのは、ひろっさのお母さんの妹で、ひろっさのおばさんにあたる人です。気さくで人のいいおばさんなのですが、良く言えば世話好き、悪く言えばお節介な人です。お母さんの「どうする」というのは、お見合いをするかどうかという意味です。

「お囃子でもないと、いっつも家におるが、彼女もおらんろ」

「…」

「あれもおまんのこと心配してくれとるんやで」

「…」

「おまんのこと、子供の頃から知っとって、真面目な子やって思っておくれるで、向こうさんにも良う言っておくれるんやで」

ひろっさは、最近はあまり会うこともなくなったおばさんの顔を思い浮かべました。田舎者の縁談というのは、昔から世話好きオバサンたちの、使命感のお陰で成り立っていたのかもしれないと思ったりしました。

いつも、「ひろちゃんとかよちゃんは、男と女と入れ替われば良かったになあ」と、おばさんはよく言っていました。かよちゃんというのは、ひろっさの妹です。かよちゃんは子供の頃からお転婆で、ハキハキとしていたので、大人しいひろっさとは対照的でした。

仲人口とは全く、よく言ったものだとひろっさは思いました。子供のころは、まるで残念なことのように思われていた、この地味で目立たない性格が、お見合いの相手には「真面目で堅実」という褒め言葉になって伝わっているようなのです。確かに、真面目で堅実だと言ってもらえるのを、わざわざ否定する気はありませんでしたが、だからといって、それが自分の長所だとは、特に思えませんでした。

「おばさんには、断っとくれ」

「おまん、そんなこと言いよるうちに、世話しとくれる人も無うなるに。今度の子も、おまんより三つ下なら、二十七やで、明方の田舎でその年では、ええ加減行き遅れの子や。いっぺん会ってみて、悪うなけらなぁ、向こうが断ることはなかろ」

「ひどう向こうさんに失礼な物言いや。こっちもそんに思われとるなら、最初っから気持ちも萎えて来るがな」

「会うだけ会えばええがな。会ってみんことには、何にも始まらん」

お母さんには、毎回そう言われているのですが、自分が楽しい人間ではないということは、ひろっさ自身が一番よく知っていました。お見合いで初対面の相手に、「また会いたい」と思ってもらえる楽しい時間を、自分が用意できるとは到底思えませんでした。そうしなくてはいけないと思うと、憂鬱で面倒臭くなりました。そして結果、毎回会うこともせず断り続けていたのでした。


翌年、三十一になった年に、ひろっさは嫁をもらいました。

ひろっさのお嫁さんは、町の化粧品屋の娘でした。高校を卒業後、しばらく地元を離れて働いていましたが、前の年の春に仕事を辞めて、八幡に帰って来ていたのでした。

初めて言葉を交わしたのは、踊りの発祥祭の夜でした。発祥祭は、本格的な観光シーズンの始まりで、町中が浮き立ちます。その初日に、ひろっさは屋形の当番に当たっていました。屋形の下に立っていると、保存会や、踊りの常連客に声を掛けられます。そんな人たちに短い挨拶を返しながら、時間になるのを待っていると、

「今晩は」

と声を掛ける人がありました。振り向くと、白地に大きな灰紫の金魚の浴衣を着た女の子が立っていました。真っ黒な髪をいつもお団子にまとめている女の子です。去年も一昨年も、ここ数年、よく顔を見かける子でした。友達と来ていることもあれば、一人で踊っている時もあるので、

「連れがおらんでも、一人で来るってことは、相当な踊り好きやろな」

と、ひろっさは思っていました。ただ、顔は知っていましたが、今までは一度も、言葉を交わしたことはありませんでした。

「今晩は」

ひろっさが挨拶を返すと、

「また今年も始まったンなぁ」

と、嬉しそうな笑顔で言いました。その笑顔が、本当に楽しそうな、踊りを心待ちにしていた笑顔だったので、ひろっさもついつられて笑顔になり、

「また今年も通うんか」

と言いました。ひろっさのほうから会話を繋げるのは珍しいことです。

「当ったり前やがな。夏の楽しみはこれしかないんや。踊りが第一優先なんやで」

「そうか、今日も目一杯楽しんでっとくれ」

「ありがとう、嬉しいんなぁ。お兄さん、今日は屋形なんか?」

「そうや」

「へぇ、お兄さんの笛で今日は踊れるんやんなぁ」

「そんに大したもんでもない」

「そんなことない。昔、同級生でジュニアのお囃子少しやっとった子がおって、聴かせてもらったことあるけど、全然比べものにならんで。あ、そんなのと比べるのも失礼やんなぁ」

「いや、ジュニアも上手なもんは最初から違うでんなぁ」

「へぇ、ならお兄さんも最初から上手やったんか?」

「俺は今でも毎晩、何かしら練習しとるぞ。才能ないで、練習サボるとすっぐに指が動かんようになるでんなぁ」

「へぇ、大変やんなぁ」

「いや、そんに大変と言うほどのモンでもない」

「はは、そうなんか。お兄さんの春駒、いつ聴いてもかっこええし。高い音が勢いようピィって聞こえると、ほんとに弾んで踊りとうなるんなぁ」

根っからの踊り好きらしい子にそう言われて、ひろっさの気持ちもまた、弾んで来たのでした。

「おまん、よう来るが、どこの子や」

「相生や」

「そうか、わざわざ来るんか」

「わざわざって、そんに、大袈裟なもんでもない。やし、家は相生やけんど、仕事はここやで」

「どこに勤めとるんよ?」

「そこの八幡信金」

「そうか、浴衣、職場で着替えて来るんか」

「そうや。学生の頃は徹夜の時一回しか来たことないけど、働くようになってからは、しょっちゅう来とる。っていうより、踊りに行きたい一心で、信金で働くことにしたんや。

お兄さんはどこの人や?」

「日吉や」

「へぇ、歩いて来られるんなぁ」

そこまで話したところで時間が来たらしく、保存会の大御所たちが屋形に上がり始めました。

「おぅ、行ってくるわ」

「頑張って!」


ひろみちゃんの気分は浮き立っていました。

八幡の信用金庫に就職してから、何が楽しみかと言って、初任給よりも、ボーナスよりも、他の何より、夏の踊りを楽しみにしていました。そもそも、信用金庫に就職したいと思ったのも、八幡の新町に本店があり、そこに配属になれば、夏はいつでも踊りに行けると思ったからでした。

初めて八幡の町に踊りに行ったのは、高校一年生の夏の盂蘭盆会でした。

同じ郡上といえども、相生は歩いて踊りに行ける場所ではありません。ずっと話には聞いていたけれど、高校生になって、初めて八幡の町中に住んでいる子と同じクラスになり、一緒に踊りに行くことになったのです。

「明日から踊り始まるな」

「私、こっちには踊りに来たことないんよ」

「そうなんか。私もそんに行くわけでもないけど。こっちに住んどるわりには」

「こっちの人は、しょっちゅう行くんか」

「好きな人は、どっこの町内の踊りの時にも来といでる。どこの踊り場でも、いっつも同じ人に会うらしいでんなぁ」

「へぇ、ただの盆踊りにか?」

「通い詰める人がおるんや。私は、徹夜の、お店がたんと出とるような賑わしい時しか行かんけど」

「ふうん。私、一回、徹夜に行ってみたいなぁ」

「なら、一緒に行かんか。その日はうちに泊まればええがな」

その友人はきみちゃんと言いました。お父さんはサラリーマンでしたが、お母さんは家で化粧品屋をしていました。きみちゃんはお店にある化粧品のサンプルで、学校によくお化粧をしてきました。反対に、ひろみちゃんは靴下もきっちり三つ折りにしているような子だったので、先生たちは、ひろみちゃんがきみちゃんの影響を受けて、校則違反をするような子になってしまわないかと心配していました。

先生たちの心配は、ある意味杞憂に終わりました。というのも、きみちゃんは男の子と遊ぶのに夢中で、ひろみちゃんにばかりべったりなわけではなかったからです。

きみちゃんは女の子の友達は出来ず、というより、作ろうともせず、派手な女の子からも地味な女の子からも嫌われていました。ひろみちゃんだけが、きみちゃんに心の壁を作らずに接してくれる唯一の女の子でした。

ひろみちゃんの仲良したちは、みんな真面目で大人しい女の子達だったので、男の子と校内から手を繋いで帰ったり、休み時間もよその教室に行って男の子としゃべってばかりいるきみちゃんが、時々ひろみちゃんにくっついて女の子グループに入ってきても、仲間とは思いませんでした。彼女たちはきみちゃんのことを、ひろみちゃんの付属物のような気持ちで接していました。そして、ひろみちゃんが一緒でないと、きみちゃんには、朝の挨拶さえしてくれる子は限られるのでした。

そんなきみちゃんが徹夜に行こうと言った時、ひろみちゃんは半分くらい本気にしていませんでした。今までも、男の子とデートの約束をしてしまい、先に決めていたひろみちゃんとの約束を、すっかり忘れていることが、きみちゃんにはよくあったからです。

でも、やっぱり、徹夜には行ってみたかったので、きみちゃんがひろみちゃんとの約束を忘れてしまわないように、夏休みに入るまで、何度か会話の中で話題に出したりしました。それでも、休みに入ってしまうと会うこともないので、もしかしたら忘れてしまっているかなと、ひろみちゃんは思っていました。

「もしもし」

きみちゃんから電話があったのは、夏休みの八月に入ってすぐの土曜日でした。

「もしもし。久しぶり」

「徹夜、何日に来る?」

「本当に行ってもええの?」

「ええよ。その日、ケンも一緒でええか」

「ケン?」

「うん、三組の山下健二って、わかるか?」

「あー、なんよ、おまん、今度はあの子かぁ」

「今んとこ」

「また、相変わらず悪そうな感じの子ばっか好きになるんなぁ」

「見た目は悪う見えても、みんな、そうでもないんやで」

「まぁ、私はそういうタイプの子とは、あんまり付き合い無いで、ようわからんけど」

「ひろみちゃんと徹夜行くって言ったら、ケンも行くって言うんや。別に三人になっても、どうも無いろ?」

「私はええけど、そっちこそ私のこと邪魔ンないか?ケン、本当は二人で行きたいンないか?」

「昼間は二人で遊ぶんや。ひろみちゃんと二人で浴衣着て踊りに行くって言ったら、自分もお父さんの借りて着て行くって言うで」

「ふうん。そっちがええなら、別に私は構わんよ。

私なぁ、お母さんが新しい浴衣、仕立ててくれたんよ。早う着たいけど、徹夜の時までとっとくんや」

「へぇ、そうなんか」

「去年までは、いとこのお古やったし、柄も花火のやったけど、新しいのは団扇と蛍の柄なんや。濃い紺色で、ちょっと大人っぽい柄なんや」

「へぇ、ええなぁ。私も新しいの欲しいなぁ」

「きみちゃんのはいつ買ったんよ?」

「去年」

「なんよ、まんだ新しいがな」

「そうやけど」

「私、徹夜には行ったことないろ?徹夜に行くって言ったら、お母さんまで張り切って作ってくれたみたいなんや」

「そうか。何日にする?」

「十三日がええんやけど。うち、おばさんたち十四に来るし、十五は私がおばあちゃんとこ行くし。でも、お盆はきみちゃんちもお客さんがあるやろうし、よう都合聞きなれって、お母さんが何回も言うんや」

「うちはいつでもええて。十三でええんか」

「ほんとにええの?」

「ええて。いつ頃来る?」

「ご飯食べて、お風呂入ってから浴衣着るで、お父さんに送ってもらうの、八時くらいになるかもしれん」

「わかった。町ン中、人でぐつぐつやで、適当なとこで降ろしてもらって、歩いて来なれ。うちのすぐそばまでは、入って来られんと思うで」

「うん。本当にその日、泊まってええの?」

「ええて。ひろみちゃんのことは、うちのお母さん、おまんの連れがひろみちゃんみたいな子ばっかなら、心配も要らんにって、よう言うくらいやで。ようおまんとなんか連れになっておくれるなって」

「はは、そうなんか。盆に泊めてもらうやなんて、迷惑やないんかって、またお父さんに迎えに行ってもらえばええで、帰って来たらどうやって、お母さんが」

「ええて。そんなこと、面倒臭いがな。泊まればええて」

「うん。わかった、ありがと」

「なら、十三日な」

「うん。十三日」

電話の後、またきみちゃんの彼氏が変わっていたことに少し驚きつつも、四月から絶え間なく彼氏を変えて行くきみちゃんの行動力に感心してしまうひろみちゃんなのでした。

十三日になりました。ひろみちゃんは、朝から踊りに行くのが楽しみで仕方がありませんでした。

夕飯の後でお風呂に入り、お母さんに新しい浴衣を着せてもらいました。帯はお母さんが若いころに使っていた、絹の半幅帯を出してくれました。

「まぁ、ええ柄やんなぁ。帯は、浴衣に合わせて買ったんか」

と、見に来たおばあちゃんが言いました。

「違う、違う。これ、私の若いころの。お義母さん、見たことあるはずや」

「よう合うがな。そんにええやつ、持っとったんか。ひろみの浴衣に合わせて買ったみたいに見えるがな」

「帯までは今年はよう買わなんだで、私の若いころのやつ出してやったんや」

「ひろみは何でもよう似合うで、揃えて誂えたみたいに見えるがな。おまん、可愛らしいで、おかしなもんにさらわれんように、暗いとこは歩いたらだちかんで」

おばあちゃんの言葉に、ひろみちゃんもお母さんも、つい噴き出して笑ってしまいました。笑いながら、鏡に映った自分の姿が、去年までとはちょっと違う気がしました。去年までは、いとこのお古の浴衣にウールの帯だったので、ひろみちゃんは身につけるものが変わっただけで、少し大人になったような気がしました。

着替えが済んだら、お父さんが町まで車で送ってくれました。

町に近付くと、いつもはただの田舎町なのに、信じられないくらい大勢の人が歩いているのが見えました。

「やっぱ、徹夜は違うンなぁ。ひどう人が出とる」

お父さんも徹夜踊りの町には久々に来たので、観光客の多さに驚いています。

「お父さん、ここでええわ。こんに賑わしいとこ、車で入って行けんで、ここから歩くわ」

「そうか、こんな盆に泊りに行くやなんて、本当はお父さんも一緒に行って挨拶せんならんのやけどな」

「ええろ。きみちゃんの親も、そんなこと分かっておいでるわ」

「着替えと、梨と、忘れんように持ったか」

「うん。送ってくれてありがと」

お母さんが今年初なりの梨を手土産に持たせてくれたので、着替えの入ったボストンと、梨の箱を両手に持って歩いて行きました。

「今晩は」

ひろみちゃんが玄関で声をかけると、中から浴衣姿のきみちゃんが出てきました。きみちゃんの浴衣は百合の柄です。玄関にはすでにケンが迎えに来ていました。

「丁度良かった。今ケンも来たとこなんや。ちょっと荷物置いて来るわ」

そう言いながら、きみちゃんは自分の部屋にひろみちゃんの荷物を持って行きました。その背中にひろみちゃんが言いました。

「その梨、お母さんがきみちゃんのおうちの人に渡しなれって」

「そうなんか、ありがと」

きみちゃんが奥に入って行き、

「ひろみちゃん来たで行って来るわ。これ、ひろみちゃんがおくれたよ」

と、家の誰かに話す声が聞こえてきました。

ひろみちゃんが荷物を置きに行っている間、ケンと二人になったひろみちゃんは、少し気まずい思いをしながら玄関に立っていました。別クラスのケンとは喋ったこともなく、ましてや自分のような地味グループの女の子とは、まるで接点が無いからです。

「そんに髪の毛長かったか」

ケンが聞きました。お父さんの浴衣と言っていただけあって、ケンの浴衣は、大島紬を思わせるような色合いの、渋く深い紺地の浴衣でした。

「そんに長うないけど、お母さんが上手にまとめてくれたんや」

「そうか」

そこまで話したところできみちゃんが戻って来たので。三人で出かけました。

踊り場に行くと、ものすごい人で溢れかえっていました。しばらく三人で屋台のあたりをぶらぶらしていましたが、ひろみちゃんは早く輪の中に入りたくてたまりませんでした。曲が変わるたびに合いの手の入れ方も変わり、踊り手たちが上手に合わせながら踊っているのを見ると、何とも楽しそうで、体がうずうずしてきました。

やっときみちゃんが、

「そろそろ踊ろか」

と言いました。きみちゃんとケンは並んで歩いていたので、きみちゃん、ケン、ひろみちゃんの順で輪に入るのかと思っていたら、ケンが、

「俺、一番後ろでついて行くわ」

と言ったので、きみちゃん、ひろみちゃん、ケンの順で輪に入りました。

ひろみちゃんは、相生の盆踊りで何度も踊ったことはあるので、全く知らない踊りを踊るわけではありませんでしたが、それでも、踊りなれた常連客のたちの踊りはかっこよく、見ながら踊るうちに、自分がかっこいいと思う人の踊り方を、ちょっぴり真似したりなんかしてみました。そうするうちに、自分も上手になって来たような、得意な気分になってくるのでした。

「おまん、元気やし」

ケンがひろみちゃんにそう言いました。

「そうか?そう時間も経っとらんに、そう早う疲れてどうするんよ」

「後ろで踊りながら見とったが、元気やし、随分と楽しそうや。学校では大人しい子やと思っとったが、そうでも無いンやんなあ」

「大人しいのと元気が無いのとは違うで。私は、大人しいけど元気やで」

「そうやンなぁ。まんだ踊るか?」

「あったり前や。まンだ来たばっかやがな。もう帰る気なんか?」

二人でそこまで話すと、きみちゃんが口を挟みました。

「そうなんか、私、そろそろ疲れたし、帰ってもええんやけど」

その言葉に驚いて、ひろみちゃんが言いました。

「ええっ。私、、相生からはなかなか来られんで、もうちょっとは踊りたい」

「なら、きみこはここで待っとれ。俺、ひろみちゃんに付き合って、もう少し踊って来る」

ケンがそう言ったので、またひろみちゃんは驚いて言いました。

「そんなこと、だちかん。ほんなら、二人でここで休んどってよ。私、一回りして戻って来たら声掛けるし。せっかく二人で出かけて来たに、きみちゃん一人にしてはかわええがな」

「でも、俺もせっかく来たし。きみこはいつでも歩いて来られるとこに住んどるけど」

そこまで話したところで、きみちゃんが言いました。

「ええよ、一回りして二人が帰って来たら、もう一回私も踊るで。それまでここで休んどるわ」

そういうことで、ひろみちゃんはケンと二人で並んで踊ることになりました。

「なんか、悪いンなぁ。私に付き合わせて。きみちゃんに良うないンなぁ」

「ええて。あいつ、体力も気力も無さ過ぎなんや」

「そんに冷たいこと言いなれんな」

「ほんとのことやで。遊びに行っても、すぐに休みたがるンやで。なまかわなんや、性根が」

「そこまで言わんでも。今日はまた後で踊るって言っとったし。あ、あの人、帯が解けかけとる」

「ほんとや」

ケンとひろみちゃんは、時折会話しながら踊りました。徹夜の踊り場には、揃いの浴衣や法被の一団がいつも以上に多く、明らかに女物とわかる浴衣地を男物に仕立てて着ている男の人や、細い長かんざしを何本も髪に挿している女の人がいました。そんな人たちのことを批評しながら、感心したり笑ったりしながら踊るのはとても楽しく、あっという間に大きい徹夜踊りの輪も、一周できてしまうのでした。

一回りして元の場所に戻ると、きみちゃんは退屈そうに待っていました。

「どうや、踊るか?」

ケンが聞くと、

「なんか、疲れた」

ときみちゃんが言いました。

「おまん、ずっと休んどったンないか」

ケンは、きみちゃんの退屈そうな返事に、少しムッとしたように言いました。

「そうやけど」

「なんよ、せっかく一緒に来たんないか」

きみちゃんがつまらなさそうな顔をしていたので、ひろみちゃんは、もしかして、ケンと二人で踊って来たことを、きみちゃんは内心怒っているのじゃないかと思いました。

本当は一人ででも踊って来たい気分でしたが、きみちゃんの家に泊めてもらう約束なので、別行動で、自分だけ後から帰るわけにも行きません。

「きみちゃん、そんに疲れたなら、もう帰ろか?」

ひろみちゃんが言うと、ケンが、

「えーっ、もう帰るんか?」

と言いました。そして、きみちゃんに向き直って、

「なんよ、せっかく来たに、おまんのせいで徹夜踊りやのに、こんな宵の口に帰らんならんようになったがな」

と、不満ありありな口調で言いました。それを聞いて、きみちゃんが不機嫌そうに言いました。

「徹夜なんか、今日が初日やがな。明日も明後日もあるがな。来年も再来年もずっとあるし、ずっと同じ曲で同じ踊りや。いつでも来たらええがな」

「おまんはいつでも来られるとこに住んどるかもしれんけど、みんなが歩いて来られるようなとこに住んどるわけやないで」

そこまでケンが言ったところで、ひろみちゃんが言いました。

「まぁ、そんに言わんと。もう十一時回ったとこやし、今年は疲れ切る前に帰って、来年は朝まで踊ることにせんかな」

「まぁ、ええけど…」

ケンは不服そうに承諾しました。

ケンはきみちゃんの家に自転車を置いて来たので、当然、三人で歩いてきみちゃんの家まで帰りました。道中、踊り場で見た変わった浴衣の人の話や、変な踊り方の人の話をしながら帰って来ましたが、ケンはひろみちゃんにばかり話しかけ、きみちゃんは疲れているせいか、あまり元気がありませんでした。

その年は、後にも先にも、その時一回しかひろみちゃんは踊りに行けませんでした。徹夜の時の楽しさや疲労感がピークになる前に帰ってきてしまったので、ずっと物足りない気分が続き、ひろみちゃんの踊りに行きたい気持ちは、以前よりもずっと強くなっていたのでした。

結局、翌年も翌々年もひろみちゃんは徹夜には行けず仕舞いでした。きみちゃんは男の子と遊ぶのに忙しく、ひろみちゃんを誘って徹夜に行くことはありませんでしたし、ひろみちゃんは、相変わらずお父さんやお母さんが心配するので、それも鬱陶しくもあり、社会人になったら絶対に早く車を買って、自分一人でも踊りに行ってやろうと思うのでした。

そうして、商業科のひろみちゃんは、三年生の就職活動の時に、募集企業の中に八幡信金の名前を見た時、ここしかないと思ったのでした。

八幡信金は、シーズン中何度も踊り会場になる新町に本店があります。徹夜の踊りに来た時に、疲れたきみちゃんが座って二人を待っていたのは、ここの駐車場でした。

採用されても本店で働けるとは限りませんが、面接でひろみちゃんは、自分が踊り好きなことを話しました。八幡は生えつきの郡上の人達にとっては自慢の城下町で、自分も商店街のお店がお得意さんになっている職場で働きたいと言いました。郷土愛の強さに好感を持たれたのか、ひろみちゃんは採用になり、運よく本店の窓口で働くことになったのでした。

研修期間が終了し、仕事に慣れ始めたころに踊りシーズンが開幕しました。ひろみちゃんは待ってましたとばかりに、踊りに通い始めました。同期の社員たちの中で、ひろみちゃんは仕事の覚えも早く、ミスもありませんでしたが、それは、つまらないミスで残業が増えて、踊りに行けないのが嫌だったからでした。

お母さんには、何度か浴衣の着方を教えてもらいました。職場のロッカールームで、人の手を借りなくても、自分で浴衣に着替えて踊りに行きたかったからです。洋服姿で、靴で踊るのは絶対に嫌でした。浴衣に下駄履きは、踊り場での正装だというこだわりがありました。たまに浴衣に草履履きで踊っている人を見ると、ハイヒールで野球をしている人を見ているような気分にもなりました。

少し通いなれてくると、常連さんの顔や、屋形のメンバーも分かるようになって来ました。ひろみちゃんは、お囃子のメンバーの中で、一人だけ特別にかっこいいと思える人ができました。それがひろっさでした。ひろっさはお囃子で笛を吹いていました。屋形に上がるのは当番制になっているので、当然、ひろっさ以外の人が笛を吹く日もあります。でも、ひろみちゃんの目には、ひろっさがダントツかっこ良く見えました。踊りに通い始めて間もないひろみちゃんには、笛の音の良し悪しは、まだよく分かりませんでしたが、おじさんばかりのお囃子の中で、ひろっさだけが何かしら凛とした雰囲気をまとっているように見えたからです。

ひろみちゃんは踊りに行くと、その日の笛がひろっさなのか、違う人なのか、最初に確認するのが習慣になりました。ひろっさが屋形の下で、時間まで待機しているときも、離れた場所からひろっさを見るのが好きでした。いつもお囃子のメンバーの話を、静かに笑みを浮かべて聞いている様子も、落ち着きがあって好ましく思えました。そして、屋形に上がると、どんなに踊り場が賑わっていても、目を閉じ、精神を研ぎ澄ませて、他の楽器に自分の笛の音を乗せていく様子は、さながら世俗を離れた仙人のような趣さえ感じられるのでした。

そんな風にして、何年かが過ぎました。ひろみちゃんは別の支店に異動になっていましたが、去年の春から、また本店の勤務になっていました。二十三歳になったひろみちゃんは、もうすっかり信金の顔になっていました。仕事が速く、テキパキとしたひろみちゃんは、窓口のお客さんからも評判が良く、田舎のことなので、お得意さんから縁談が持ち込まれることも度々ありました。派手さはなくても、美人で愛想が良く、清楚な雰囲気のあるひろみちゃんは、本人が気付かないだけで、実は職場にも、踊りの常連の中にも、崇拝者は何人もいました。

ただ、ひろみちゃんは、ひろっさのことがずっと気になっていて、他の人と付き合いたいとか、ましてや嫁に行きたいとか、そういう気持ちにはなれませんでした。

毎日のように踊りに行っても、ひろっさは自分のことなど、顔さえ覚えていないかもしれません。憧れているという言葉が一番近いのかもしれません。一言も口をきいたこともない人なのです。それでも、やっぱり、他の人には気持ちが動かないのでした。

そして、その年の発祥祭の日、ひろみちゃんは思い切って、ひろっさに近づいてみようと思ったのです。きっかけになったのは、きみちゃんの言葉でした。


その年の春、岐阜で働いていたきみちゃんが、八幡に帰って来ました。きみちゃんは岐阜で、妻子ある人と付き合っていたのですが、その人が奥さんと別れず、自分ともずるずるとした付き合いのまま続けようとしているのに嫌気がさして、見切りをつけて帰って来たのでした。

きみちゃんは八幡に帰ってきても、なかなか就職も決まらず、というより、働く気があるのかないのか分からないような生活を続けていました。元々、女の子の友達などろくにいないので、相談相手もひろみちゃんだけでした。

働きもせず、実家で居候しているうちに夏になりました。梅雨に入り、じめじめした日が続いていたある日、きみちゃんのところにひろみちゃんから電話が入りました。

「もしもし」

「もしもし」

「きみちゃん、もう仕事決まったか?」

「まだ」

「そら、だちかん。長いこと無職が続くと、それに慣れてまうで、まず短時間のパートでええで働いたらどうや?」

「そうやな…」

「タカミでウエイトレス募集しとったよ。あそこはモーニングもランチも混んどるけど、夜の営業はないでンなぁ。早う帰れるンないか?」

「そうやろか」

「そら、店が終わったら掃除くらいやろ。やるとしたら」

「…うん」

「何でもええがな。学生の頃、いっつも男の子と遊び歩いて、家になんかおったことないような子が、引き籠っとったら、腐ってまうで。とにかく、外に出なぁ、だちかん。

そうや、もうすぐ踊りも始まるし、発祥祭は、絶対行くで。一緒に行かんか?ちいたぁ気晴らしもせなぁ」

そんな電話の後、あまり働く気のないきみちゃんを、ひろみちゃんがせっつくようにして、休日夕方のタカミが暇になる時間を見計らって二人でお茶に出かけ、そのままきみちゃんの面接にまでこぎつけたのでした。

タカミでは、きみちゃんに十一時頃から、夕方六時まで働いて欲しいということでした。モーニングの担当の人はすでにいるので、ランチから閉店の時間までお願いしたいと言われ、朝が苦手なきみちゃんは、それを聞いて少しやる気になったようでした。ただ、お互いに用事が出来る日もあるので、相手が休む日には、フルタイムで入ってほしいということでした。

そうして、きみちゃんはタカミで働き始め、その数日後が踊りの発祥祭でした。


その日きみちゃんは、あまり行く気はなかったのですが、ひろみちゃんが今年初めての踊りにはしゃいでいるので、付き合うことにしました。それまでに何度も、お囃子にかっこいい笛のお兄さんがいると、ひろみちゃんに聞かされていたので、べつに踊りはどうでもよかったのですが、笛のお兄さんがどんな人か見てみたい気持ちがあったからです。

学生の頃、派手なきみちゃんのボーイフレンドたちは、地味なひろみちゃんがきみちゃんの友人だと知ると、みんな驚きました。話してみると、ひろみちゃんの明るい人柄に好感を持ちました。地味で目立たないだけで、よく見ると可愛い子だと気付きました。きみちゃんは、それが羨ましくも、妬ましくもありました。きみちゃんのボーイフレンドの中には、明らかにきみちゃんよりひろみちゃんのことを好きになってしまって、別れに至った子もいました。

ただ、きみちゃんにとって救いだったのは、ひろみちゃんがきみちゃんのボーイフレンドの誰のことも「きみちゃんのボーイフレンド」以上の目で見る事が無く、彼らがきみちゃんと別れた後も、それまで以上の仲良しにはならなかったということでした。

きみちゃんは、高校三年間の中で、自分はひろみちゃんに、彼氏の自慢や、愚痴や、喧嘩した話を散々してきたけれど、ひろみちゃんから恋愛相談を持ちかけられたことはありませんでした。そのため、ひろみちゃんから、憧れの笛の人の話を聞かされた時には、きみちゃんは内心大いに驚き、どんな人なのか興味がわいたのでした。

きみちゃんがろくに勉強もしないで男の子と遊び回っていた高校の三年間、ひろみちゃんは英検や簿記の試験を受け、銀行に就職が決まりました。きみちゃんは試験は受けましたが、元々、全くやる気もないので、簿記は三級さえ受からず、就職も、まるで何の考えも無いまま、とにかく家を出て、町で一人暮らしをしたいという気持ちだけで、アパレルの販売員になったのでした。そして、何人かの男の子と付き合ううち、漠然と、そのうちには誰かが結婚してくれるだろと思っていました。自分も家庭に入って、夫は当然、自分も子供も保護してくれるはずだと思っていました。

ところが、一番長く付き合って、一番本気になった男には、家庭がありました。その人にとって、きみちゃんは、ただのおいしいつまみ食いでした。それが二年続いて、きみちゃんは未練を残しながらも諦めて、八幡に帰って来たのです。

無職で、何の目的も無く、特技も趣味も無いまま、いずれ誰かが自分を守ってくれるはずだという当てが外れたままの、空虚な気持ちでひろみちゃんと再会したきみちゃんには、ひろみちゃんが眩しく見えました。信用金庫の窓口で、お年寄りに丁寧に説明する姿や、どこかの営業マンに笑顔で挨拶する姿は、仕事に対する自信を感じさせました。薄い紅をさしただけの素顔でも、すっかり大人の美しい女性になっていました。

きみちゃんは、やっぱりひろみちゃんが羨ましくもあり妬ましくもありました。そんな時、ひろっさの話を聞いて、興味が湧くと共に、少し意地悪な気持ちが心の中に芽生えました。

―その人、独身やって言ったな。別にその人に今、彼女がおってもおらんでも、自分のモンにしてまったとこで、独身なら、誰にも文句言われんな。当然、ひろみちゃんにも。

そんな気持ちも持ちながら、ひろみちゃんには、

「なら、発祥祭には、こっちから話しかけやええがな」

と言いました。ひろみちゃんは、

「でも、向こうは、私のこと、顔も覚えとらんかもしれんし」

と、躊躇っていましたが、きみちゃんの、

「最初は誰でもそうや。顔くらいは覚えとるやろうし、しゃべってもみんうちには、知り合いの仲間にも入れんがな」

という言葉で、少し勇気が湧いてきました。少しだけ背中を押された気持ちになって、何かしらのアクションを、自分から起こしてもいいかもしれないと思えて来たのです。

そうして二人は発祥祭に出掛けたのでした。


「どの人や?」

「あそこの背の高い痩せた人。髪の短い」

「あぁ、笛持っといでるな」

「うん。初日からあの人の笛で踊れるって、嬉しい」

ひろみちゃんの笑顔は、本当に素直な、嬉しそうな表情でした。きみちゃんは、そこでもまた、もう自分はとっくに無くしてしまった物を、ひろみちゃんは持ち続けているような、羨ましい気持ちになりました。きみちゃんは、ひろみちゃんといると、もう一度高校生に戻って、この数年をやり直したいような、惨めな気持ちになることがあるのでした。

「まだ屋形には上がっとらんし、挨拶くらいして来たらどうなんよ」

きみちゃんが言いました。

「やっぱり勇気が…」

ひろみちゃんはきみちゃんを見て言いました。

「私、今まで何年も通っとるけど、いっぺんもあの人としゃべったこと無いんやで。いきなり挨拶って、変に思われんか?」

「今晩は、って言うだけや。声掛けなぁ、何にも始まらんがな。今挨拶しやぁ、今から知り合いの仲間入りや。せなんだら、ずっと通りすがりの人のまんまや。挨拶くらい、常連さんとなら、何とも思わんとしとくれるわ。あの人、一番外の方で待っておいでるで、声も掛けやすいがな」

ひろみちゃんは、きみちゃんにそう言われると、急に勇気が湧いてきたような気がしました。

―そうやンな。挨拶くらい、何てこと無いはずやンな。いっつも信金においでる人に、町で会ったら頭下げるのと同じやンなぁ。

「ちょっと、緊張するけど、挨拶してくるわ」

そんなふうにして、ひろみちゃんは初めてひろっさと会話するに至ったのでした。

きみちゃんはひろみちゃんの後からついて行って、後ろからその様子を見ていました。ひろみちゃんがかっこいいと言うほど、かっこ良くも無い人だというのが、ひろっさに対するきみちゃんの印象でした。別に、普通の人。

ただ、その後の踊りの時には、確かに、屋形のひろっさは、他のメンバーとは違うオーラが漂っているようではありました。ひろみちゃんがかっこいいと言うのも認めたくなるほど、屋形のひろっさは凛とした雰囲気をまとっていました。

「なぁ、今年も通うんかって、私のこと、顔は覚えてくれっとったんやんなあ」

ひろみちゃんが本当に嬉しそうに言うので、きみちゃんは、そのくらいのこと、そんなに喜ぶようなことかと思いましたが、

「もっと早よう、声くらいかけやぁよかったんや。帰りもお疲れさん、くらい言わんか」

と言いました。ひろみちゃんは、さっきの会話で少し度胸がついたのか、「うん!」と、とびきり明るい顔で同意しました。

その日、踊りが終わって屋形のメンバーが降りて来るのを待っていた二人は、ひろっさに声をかけました。

「お疲れ様」

ひろみちゃんが声をかけました。

「最後まで踊ってくれたんか」

「来たらいつも最後までや」

「ほら、ありがたいお客様やんなぁ」

ひろみちゃんが少し笑ったところで、きみちゃんが唐突に言いました。

「お兄さん、もう決まった相手はおるんか」

ひろみちゃんは慌てると共に、きみちゃんの度胸の良さに驚いてしまいました。横で呆気にとられているひろみちゃんが何も言えないでいると、ひろっさが言いました。

「なんよ、急に」

「私ら今のところ一人やし、今度飲み会せんか」

「きみちゃん、そんな急に」

ひろみちゃんが慌てて言いました。きみちゃんは、そんなひろみちゃんに向き直って言いました。

「別に、飲みに行くのに、急もゆっくりも無いがな。予定が合わんなら、縁が無いってことや」

ひろっさは、ひろみちゃんのことは知っていました。楽しそうに踊る姿や、清楚な雰囲気は、大勢いる常連客の中でも、印象に残っていました。

でも、きみちゃんの事は全く覚えがありません。初対面ではないかと思われました。多分、会うのも初めてなら、しゃべるのも初めてだと思われるのに、何の躊躇いもないきみちゃんの態度に驚きつつも、最近、飲みに行くのもめっきり減ったな、とも思いました。

「…ええよ。けど、俺の連れは大人しいやつばっかやでンなぁ、つまらんかもしれんぞ」

「それは会ってみな分からんがな。今度、お囃子にはいつおいでるんや?」

「八坂さんの時や。屋形には上がらんけど、踊りには行くつもりや」

「わかった。そん時にまた話しよ」

ひろみちゃんはただ驚いていました。自分が何年もできなかったことを、たった一日でやってしまうきみちゃんの行動力には、感服するばかりでした。

次の八坂神社の踊りの日、ひろみちゃんはきみちゃんと現地で落ち合うことにしました。八坂さんの踊りは、毎年七月十六日と決まっています。その年は平日だったので、ひろみちゃんは定時に上がれるとは限らないため、現地集合ということにしたのです。

きみちゃんが会場に着くと、ひろっさはもう来ていました。屋形当番の人の輪から少し離れて、他の保存会員と二人で何やら話していました。暫く様子を伺っていると、その人は何かを手に持って屋形の方に歩いて行きました。どうやら、手に持っていたのは太鼓の撥で、今日の太鼓当番の人だったようです。

ひろっさが一人になった瞬間を逃すまいと、きみちゃんはひろっさに声を掛けました。

「今晩は」

「お、今晩は」

「この前、飲まんかって話したろ」

こういうことだけはやたら気の回るきみちゃんは、自分の電話番号を書いた紙(ひろみちゃんの番号はわざと書いてありません)をひろっさに手渡しました。

「これ、うちの番号。名前も書いてあるで」

ひろっさはきみちゃんの手回しの良さにちょっと面食らっていましたが、取り敢えず、連絡先を書いた紙は受け取りました。すると、きみちゃんが言いました。

「そっちの連絡先も教えてくれなぁ、だちかんがな。打ち合わせも出来んろ」

「俺、すっかり忘れて、何にも持って来とらんのや」

「なんよ、そんなこともあろうかと、用意してきたで」

きみちゃんはそう言って笑うと、腰に下げた巾着から、手帳と小さいボールペンを取り出しました。手帳の後ろの方にある白紙のページを広げると、

「これに書いとくれ。名前と番号」

と言いました。ひろっさは、まるで仕事を片付けるようなテキパキとしたきみちゃんの態度に、タジタジとしていましたが、なんとなく断ることもできず、番号を書いて渡しました。

「いつならええんや?踊りのある日は避けた方がええろ?」

きみちゃんが聞きました。

「…そうやな」

「また電話するわ。そっち何人来るんか、また教えて。こっちも人数合わせるで」

「…うん」

「ひろみちゃんには、話しとくわ」

「ひろみちゃん?」

「この前一緒やった子や」

「あぁ、あの常連の子か。あの子、ひろみちゃんって言うんか。今日は一緒でないんか」

「後から来るはずや。仕事が遅うなるかも知れんで、先に行っとくれって言われたんや」

「あの子は飲み会、来るんか?」

「そのはずや」

言いながら、きみちゃんは少し面白くありませんでした。ひろっさはひろみちゃんと、この前初めて会話を交わしただけなのに、ひろみちゃんに会いたがっているように感じたからです。少し意地悪な気持ちになって、きみちゃんは言いました。

「ひろみちゃんと二人で会いたいんなら、そうしてやってもええんやで」

一瞬、ひろっさがうろたえた表情をしたのを、きみちゃんは見逃しませんでした。元々、ひろみちゃんはひろっさのファンです。状況がそろえば、簡単に二人はカップルになるだろうと思えました。そして、そう思った時、ひろみちゃんにだけは、この男を渡してなるものかという、猛烈な対抗意識が湧きあがって来ました。

その日、踊りが始まるまで、きみちゃんはひろっさを捕まえたまま、仕事や家族構成について聞き出していきました。現在は両親と三人暮らしで、二つ違いの妹は、何年か前に嫁いでいることがわかりました。趣味は笛だけだと言っていましたが、以前はよく映画にも出かけたと言っていました。きみちゃんは、昔の彼女とのデートは、映画が多かったってことやな、と思いました。ならば、手始めには、映画に誘ってみるか…。

踊りが始まり、ひろっさは踊りの輪の方に歩いて行きました。きみちゃんが立ったままでいると、

「おまん、踊らんのか」

と、ひろっさが振り返りながら聞きました。

「うん、ひろみちゃんが来るまで待っとる」

きみちゃんが言うと、ひろっさは何の疑問も持たない様子で、軽く納得したように頷くと、他の保存会メンバーと輪の中に入って行きました。

きみちゃんは、わざとひろっさにはついて行かなかったのでした。後から来ると分かっているひろみちゃんを、あまりひろっさに近づけたくなかったのです。その結果、その日少し遅れて来たひろみちゃんは、踊りの輪の中で数回ひろっさを見かけただけで、会釈する程度の挨拶しか出来ませんでした。帰りには声を掛けようかと思っていましたが、その時は姿を見つける事が出来ず、少しがっかりしてしまいました。

踊りが終わってから、さっさと歩いて帰っていくきみちゃんの少し後ろを、なんとなく名残惜しいような気持ちでついて行くひろみちゃんに、きみちゃんが唐突に言いました。

「来週でええか?」

「何が?」

「始まる前に、この前の兄さんに、飲み会の話したんや」

「へぇ」

ひろみちゃんは、きみちゃんの行動力に驚くとともに、少しだけ、何かわからない不安を感じました。ひろみちゃんが踊り場に着いた時、きみちゃんはさっきまでひろっさと話していたことなど、一言も言いませんでした。踊りの間、ひろっさの姿を見かけても、何も言いませんでした。そして今、ひろっさがいなくなってから、約束を取り付けたことを話すのです。きみちゃんは言いました。

「向こうの電話番号聞いたで、私、時間とか決めとくで、またひろみちゃんに電話するわ」

この一言で、ひろみちゃんの中に芽生えた、さっきの小さな不安が、少し大きくなったように感じました。

でも、その不安は、心の中のもう一人のひろみちゃんに「きみちゃんは友達じゃないの!」と、否定されてしまいました。そうです、きみちゃんは学生のころからの友人なのです。こんな気持ちになるなんて、自分はどうかしていると、ひろみちゃんは思いました。そもそも、ひろっさは、きみちゃんが学生の頃なら、まず話しかけもしないようなタイプじゃないのと、自分に言い聞かせました。

飲み会まで、場所を決めたり、人数の確認だったりで、きみちゃんは何度もひろっさに電話を入れました。

当日、男女四対四で飲むことになって、ひろみちゃんは少しでもひろっさの近くがいいと思っていました。きみちゃんとひろっさが何度も連絡を取り合っていたのは知っていましたが、だからといって、自分がずっとひろっさのファンだったことは何度も話しているし、初めて話しかけた時も、背中を押してくれたのはきみちゃんだったのだし、まさか自分を出し抜こうとしているとは思いもしませんでした。

ところが、店に入ると、すでにきみちゃんとひろっさは到着していて、ひろっさは一番奥、その手前にきみちゃんが座っていました。ひろっさは一番奥の壁際の席なので、反対側の隣には座ることはできません。男性陣は揃っていて、一つ置きに席を空けて座っています。ひろみちゃんは、ひろっさの向かい側に座りたいと思いつつ、一緒に来た信金の同僚二人の手前、自分がさっさと奥の席に座っていいものかと躊躇っているうちに、一番手前に座っている人が、ひろみちゃんに声を掛けました。

「信金の窓口の子やんなぁ」

見ると、新町の和菓子屋の跡取り息子さんでした。

「あ、いつもお世話になってます」

「なんよ、堅苦しいな」

「お客様ですから」

そうひろみちゃんが言うと、あとの二人も声を合わせて、

「いつもお世話になってます」

と言いました。

「なんよ、今日はそんに硬うならんと、ま、ここに座って、早よう飲まんかい」

と、その人がひろみちゃんの腕を引っ張ったので、ひろみちゃんはひろっさから一番遠い席に座る羽目になりました。

飲み会の間、ひろみちゃんはちらちらとひろっさの方を盗み見ていました。きみちゃんは、もうすっかりひろっさと打ち解けた雰囲気になっていました。そこには、今日に至るまでの、ひろみちゃんが共有できなかった、きみちゃんとひろっさだけの時間があることを感じさせました。ひろみちゃんは、少しきみちゃんが恨めしい気持ちになりました。

とはいえ、ひろみちゃんは今年の発祥祭まで、ひろっさとは挨拶さえしたことはありませんでした。一方的にひろみちゃんがファンだっただけで、きみちゃんが先に親しくなっても、ひろっさがきみちゃんを気に入ってしまっても、仕方のないことなのでした。

ひろみちゃんはなんとなく浮かない気分のまま、両隣の人の話に相槌を打ちながら、車で来ているのでお酒も飲まず、いまいち食欲もないまま料理を食べ、後はレモンスカッシュをちびちびと飲むだけでした。

きみちゃんは、ひろっさのことをとっくに「ひろっさ」と呼んでいました。ひろみちゃんは飲み会が終わっても、「山田さん」としか呼べませんでした。そして二次会の誘いも断り、自分の度胸のなさに落ち込みながら帰ったのでした。

反対にきみちゃんは、ちょっと得意になっていました。ひろみちゃんが何度もちらちらとひろっさの方を見ていたことに気付いていたからです。気付いてはいたけれど、気付かない振りをしていました。そして、ひろみちゃんに対して、生まれて初めて優越感を持ったのでした。「男の人に対しては、私の方がずっと上手く立ち回れるな」そう思ったのでした。

その後、きみちゃんは、ことあるごとにひろっさに電話をいれました。最初は飲み会のすぐ後でした。

「この前の飲み会で、そっち側の人、こっちの女の子で誰か気に入ったって話ないか?」

「タケシは、多分、最初っからひろみちゃんや」

「そうなんか」

「信金の女の子と飲まんかって誘ったら、窓口のきれいな子も来るんかって聞いたでンな」

「そうか、他は何か言っとらんか?」

「あの後、他の連中とは会っとらんで。まンだようわからん」

「ひろっさはどうなんよ、誰かおったか」

「俺は一番奥で、おまんが隣でしゃべり続けるで、他のモンとはろくに話もできなんだがな」

本当は踊り場以外の場所でひろみちゃんと会えるのが少し楽しみだったのに、挨拶くらいしかできなかったな、と思っていました。

「なんよ、私と話するのが不満やったんか」

「そんなこともないけど」

まぁ、そんなこともないけど、というのも本当のところでした。この二年くらいは、お囃子と職場以外では、女の子と飲むことなどなかったので、自分の勘違いかもしれないと思いつつも、そういう席で、きみちゃんがあからさまに自分にべったりなのも、悪い気はしませんでした。男なので仕方ありません。

「なぁ、今度映画に連れてってよ」

「なんよ、急に。どこまで行くんよ」

「八幡には映画館ないがな。岐阜に決まっとる」

「夏の間はお囃子あるで」

「お囃子の当番でない時に行けばええがな」

「…。そうやけど、おまん、日曜は忙しいろ」

「日曜の方が私は暇なんや。日曜はランチ無いし、休んでもええんや」

「けど、おまんが休むと、朝の勤務の人が、夕方まで働かなんろ?あれ、同僚の嫁さんなんや。モーニングだけやで、昼には帰って来られるで働いとるって言いよったでンな。小さい子がおるに、幼稚園が休みの時に、夕方までお母さんに仕事させるのも気の毒やし。こっちの遊びの都合で。そう思わんか」

「なんよ、私とは行きとうないんか」

「そうは言っとらん」

「なら、土曜の夜ならええか?私も仕事終わって、そっちもお囃子の当番でない時に、オールナイト(この頃はレイトショーではありません。週末は文字通り、明け方まで上映がありました)に行かんか」

「そんに遅い時間に行ったら、せっかくの映画も寝てまうろ」

「面白い映画なら寝んはずや」

結局、きみちゃんに押し切られるようにして、ひろっさは映画に行くことになったのでした。

一方のひろみちゃんは、ひろっさと少しでも近づきたいと思いつつ、なんとなくそれも淡い希望に終わるかもしれないという気がしてきました。きみちゃんは、ひろみちゃんがひろっさを好きなのは、単にアイドルを追いかけるような気持ちだと思っているのか、今もひろっさの電話番号は教えてくれません。ひろみちゃんの方からは、きみちゃんに教えて欲しいと言うこともできませんでしたし、それ以上に、ひろっさに直接聞くことなど出来ませんでした。仮に、知り得ることが出来たとしても、踊りの時にやっと挨拶するくらいが関の山の自分が、何の用事も無いのに、ひろっさに電話などできるはずもないと思っていました。

そうして、何度目かの踊りの夜、ひろっさがお囃子の当番に当たっている日に、踊りに来ていたきみちゃんにばったり出会ったのでした。

「あれ、きみちゃん、一人で来たんか。珍しい」

「ひろっさの当番の日やで」

きみちゃんが何のためらいも無くそう言った事が、ひろみちゃんの心に波紋を広げました。

「そうなんか」

「うん。この前も、一緒に映画行ってきたんや。ひろっさが見たいのがあるって、誘ってくれたんや」

本当は自分が誘ったのですが、そのくらいの嘘は嘘とも思わず口にできるのがきみちゃんです。ひろみちゃんはきみちゃんの嘘を真に受けて、とても動揺しました。

「へぇ、良かったンなぁ」

「面白い映画やったで。ひろみちゃんも、タケシさんに連れて行ってもらえばええがな」

ひろみちゃんは、その言葉を素直に受け止めることは出来ませんでした。まるで、ひろっさは自分のものだから、余った者同士仲良くしたら?と言われた気がしたのです。でも、きみちゃんには悪気は無いのだろうと思うことにしました。

「私、タケシさんと二人で遠出するつもりは無いし、映画ならドライブがてらトモちゃんと行くわ。あの子、すごい映画マニアで詳しいんや」

そんなふうに話しながら、踊りの輪の中に入って行きました。

その日のひろみちゃんは、踊っていても、いつものように気持ちは浮き立ちませんでした。いつもなら、屋形にひろっさの姿を見つけると、踊りながら会釈をしたりもするのですが、その日は目を合わせないように、下を向いて踊っていました。隣できみちゃんが屋形のひろっさに手を振るのが分かりましたが、気付かない振りをしていました。

その日から、ひろみちゃんは前ほど踊りには行かなくなりました。ひろっさが、きみちゃんと、自分の知らない時間を積み重ねていると思うと、ひろっさの姿を見ても、どうしても悲しい気持ちになってしまうからです。

きみちゃんは、ひろみちゃんがあの日以来、あまり踊りに行かなくなっていることを気付いていました。いつ踊りに行っても、必ずと言っていいほどひろみちゃんに会っていたのに、八月のお盆前には、一度も会わなかったからです。きみちゃんはひろっさの当番の時にしか行かないので、ひろみちゃんは別の日に踊りに行っているのかもしれませんが、ひろっさの当番の日には会うことはありませんでした。

当のひろっさはというと、予想外のきみちゃんの猛アタックにたじたじとしながらも、男なので悪い気はしません。当初は踊りで顔見知りだったひろみちゃんと、もっと親しくなりたい気もしていましたが、飲み会でも特に話もできず、段々ときみちゃんの押しの強さに慣れてくると、十人並みのきみちゃんの顔も可愛く思えてきました。そして、ひろみちゃんが踊りに来る回数が減ったことにも気付かないままでした。浮かれている男なんて、そんなものかもしれません。

トモちゃんは最近、ひろみちゃんが踊りに行く回数が、目に見えて減ったことに気付いていました。八月に入ると、お盆の徹夜踊りまで、ほぼ毎日のように踊りはあります。なのに、最近はロッカールームで浴衣に着替える姿を見かけません。去年までのひろみちゃんとは違うのです。明らかに踊りに関する話題が減っているのです。

仕事中はいつも変わらず、優しい笑顔でお客さんに接していますが、去年までなら、お弁当を食べ終わった昼休み、よく踊りの話をしましたし、その中にひろっさの話がよく出てきました。なので、ひろっさとの飲み会を、同級生のきみちゃんがセッティングしてくれたと聞いた時は、トモちゃんまでが嬉しくなり、ひろみちゃんを応援する気で参加したのでした。

ところが当日、傍から見ていて、まるで他の女の子をブロックして、自分だけひろっさと話しているきみちゃんの様子に、トモちゃんはものすごく不愉快な気分になり、後日、ひろみちゃんに散々悪口を言ったのでした。ひろみちゃんはトモちゃんの話を聞いて、

「きみちゃんはそういうとこ無頓着なとこあるし、ひろっさがそういうきみちゃんを気に入って、楽しかったんなら仕方ないしな」

と、少し悲しそうに笑ったのでした。

トモちゃんは、ひろみちゃんが、時にはもっと意地悪に開き直ってもいいのにと思うのですが、またそう出来ないところが、ひろみちゃんの良いところでもあると思うのでした。そして、そんなひろみちゃんが大好きだから、トモちゃんは職場で一番の仲良しでいられるのでした。

二人が到着した時、踊り会場はすでに人でごった返していました。今日は、ひろみちゃんは赤と黒、トモちゃんは黄色と黒の大きめの市松模様で、色違いのお揃い浴衣です。かなり派手な浴衣ですが、徹夜の時は、派手な浴衣の人達が勢揃いするので、大して目立ちません。

ぐつぐつの輪の中に無理やり入り、踊っていると、お囃子の交代の時間になりました。徹夜でない時は、お囃子の交代はありませんが、徹夜の時は、最初から最後まで同じ人に演奏させるのは、余りにも無理があるので、一定の時間ごとに交代制になっています。

屋形に上がっていたメンバーが降りてくるのを待つ間、ひろみちゃんはつい、ひろっさの姿を探してしまいます。さっきまでのグループには、ひろっさはいませんでしたので、次のグループかもしれないと思いました。

果たして、そこにひろっさはいました。ひろみちゃんが、あ、と思った瞬間、ひろっさの腕に手を添えながら、嬉しそうに話をするきみちゃんまで見つけてしまいました。

その姿は、すでに二人の間に何かしら特別なものがあるような、そんな雰囲気を醸し出していました。

「あれ、この前の飲み会の子やんなあ」

「うん…」

ひろみちゃんは、何とも言えない絶望感に気持ちが沈んでいきました。思えば、きみちゃんは、学生の頃から目新しいものをすぐに欲しがる子でした。服や靴に限らず、アイドルや俳優まで、話題になって、もてはやされるものに飛びつく子でした。ボーイフレンドだって同じです。いつも何かしら悪ぶって目立つ男の子とばかり付き合って、すぐに次の子に目移りするのです。

きみちゃんがそういう子だと分かっていたのに、ひろみちゃんは無防備にひろっさのことを話し続けていました。多分、それをきっかけに、きみちゃんはひろっさに関心を抱いたのでしょう。

でも、まさかこんなことになるとは、ひろみちゃんは思ってもいませんでした。ひろっさは、ひろみちゃんが知っているきみちゃんの歴代彼氏達とは全く違うタイプですし、昔、きみちゃんと別れた後、きみちゃんの元カレから付き合って欲しいと言われたこともありましたが、いくらきみちゃんに新しい彼氏がいても、ひろみちゃんは、きみちゃんの彼氏だった人と付き合うなんて、とてもそんな気持ちになれませんでした。なので、きみちゃんも自分に対しては、同じ気持ちでいてくれると、勝手に思い込んでいたのです。

現実には、学生の頃から何人も恋人を替え、社会人になってからは、不倫まで経験して実家に帰って来たきみちゃんにとって、ひろみちゃんの淡い恋心など、取りに足らないことだったのかもしれないと思えてきました。アイドルに憧れるファンの熱が、そのアイドルの結婚とともに冷めていくように、ひろっさがきみちゃんと付き合うことになれば、ひろみちゃんも簡単に次の誰かに気持ちが移っていくと思われていたのか…。

「なんよ、あの女!」

沈んだ気持ちのひろみちゃんの横で、目が血走るほど怒っているトモちゃんがいました。

「ひろみちゃん、もうあんな女となんか、付き合ったらだちかんで!あんなもん、友達やないがな!あの態度見たか?この前の飲み会、何やったんや?自分のための飲み会やったんやな。自分は最初っから狙い定めて、まるっきり二人の世界で、他のモンとろくに話もせんと、雰囲気白けさせて!うちら、そんなんに付き合わされて、会費払って!たーけにするのもええ加減にしてもらわな!」

まるで自分のことのように怒り狂っているトモちゃんを見て、ひろみちゃんの沈んだ気持ちは、少しだけ救われました。

「ありがとう、トモちゃん、優しいンなあ。でもな、そんに怒らんでもええよ。ひろっさは、私の彼氏やったわけでないんやで」

「ひろみちゃん、優しすぎるわ。あんなたーけ女、絶対、口きいたらだちかんで!これから!」

ひろみちゃんは、トモちゃんの勢いに気おされながらも、その怒気に自分が励まされる気にもなりました。

…。そうやんなぁ。きみちゃんは、自分の他の友人たちとは、異質な感じはしとったもんなぁ。もしかしたら、私が友達やと思っとっただけかもしれん。自分が相手を思うのと、同じだけ向こうが思ってくれとるってことは、まず少ないでンなぁ。きみちゃんは、私が思うほど、私のことを大切な友達やとは思ってくれとらなんだってことや。

ひろみちゃんはそう自分に言い聞かせようと思いました。

いつも遠くから見つめるだけのひろっさは、クールで、どこと無く取っつきにくい雰囲気がありましたが、さっききみちゃんと話をしていたひろっさは、穏やかで、可愛らしい笑顔になっていました。きっと、きみちゃんの存在がそうさせているのでしょう。寂しくはありましたが、ひろっさがきみちゃんを選んだことは、ひろみちゃんには、もうどうにも出来ないことなのでした。

辛い気持ちのまま、踊り納めの日が来ました。

ひろみちゃんは、踊り納めには行きたいと思っていたので、またきみちゃんと出くわすと悲しい気持ちになると分かっていても、踊りに行きました。一人では不安だったので、またトモちゃんに付き合ってもらいました。

「また、あの女来とるか?」

「わからん。多分、今日は納めやで、ひろっさ屋形に上がると思うで、来とるろ」

「ムカつく女や」

「まぁ、そう言わんと」

「あの後、私、友達に聞いたりしたけどよ、あの女、学生のうちから、男とっかえひっかえで有名やったらしいがな。誰と付き合っても長続きせんらしいしな。なんでこんな田舎に帰って来たんよ。男漁りなら都会の方がええろ」

ひろみちゃんは、きみちゃんが不倫の挙句に帰って来たとは言えませんでした。もし自分がそんな話をしてしまって、ひろっさの耳に入りでもしたら、ひろっさまで嫌な気持にさせてしまうと思ったからです。

八幡は狭い町です。ちょっと油断すると、取るに足らないような話でも、町中の人に広まっていることがあります。保存会の人達の前でも、平気でひろっさにまとわりつくきみちゃんの様子から、多分、二人の仲は、すでに噂の種になっていることは、容易に想像できました。そこに過去の不倫の話が入り込めば、まるできみちゃんが前科者でもあるかのように、喫茶店のモーニングのパンをかじりながら、暇なおばさんたちがしゃべる姿が、ひろみちゃんには目に見えるようでした。

…もう過去のことやし、要らんことしゃべるのはやめとこう。相手が仲良しのトモちゃんでも。

「まぁ、な、あの子もただの販売員やったで、一人暮らしはかなりきついって言っとったしな」

「で、帰って来て、喫茶店のパートでは、ろくに貯金も出来んとこは変化なしやろ」

「そのうち、正社員の仕事も見つけるろ」

「あーいうタイプは、そのうち誰かが食わせてくれる、それまでの時間つぶしや、程度の考え方でしか働かんろ」

トモちゃんは、きみちゃんのことがすっかり大嫌いなのでした。


踊り納めの少しあと、ひろっさのお母さんは、古い友達のせっちゃんに、強引に喫茶店に連れていかれました。

「ふさちゃん、おまんとこのひろちゃん、新町の子と付き合っとるんか」

ふさちゃんというのは、ひろっさんのお母さんの名前です。せっちゃんも孫のいるような年齢なのですが、小さい頃からの友達なので、お互い小さい頃からの呼び方のままです。

「新町の子?」

「保存会でみんな噂しよるが、あんな子もらう気か?」

「あんな子?」

「べたべた、ぺたぺた、もたもたと、ひろちゃんが下におるうち中、しなだれかかるようにしてひっついとるんやで」

「はぁ?ほんとにか?」

「見とるこっちが恥ずかしいよな子やで」

ひろっさのお母さんは、我が息子に女の子がしなだれかかるという光景が、想像できませんでした。どう考えても、そんな女の子とは対極にあるような自分の息子が、人前で、相手にそんなことを平気でさせているなんて…。せっちゃんの話は続きます。

「今よ、保存会の会長が自分勝手な人やがな。自分の気に入らんモンは出番少のうしたり、人前でも怒鳴り散らして怒ったり、理不尽な難癖つけたり」

「あぁ、前も聞いたな。今の会長になったら、やにこうなったって」

「けどよ、おまんとこのひろちゃんは、そう愛想も無いが、要らんことも言わんし、稽古も真面目に来るし、笛も上手で、会長にもそれなりに気に入られとったんや」

「なんよ、その子のせいで会長にいじめられとるんか」

「あの子よ、ほんとに人前でも、ひろちゃんにぶら下がるようにしてひっついとるんや。保存会の人んたのおるとこでも、平気なんや。最初は保存会のモンばっかの集まっとるとこに、一人だけあの子が混ざっとるとこみて、会長が変な顔しとったんや。

それがよ、いつやら、会長にあの子が『いつも演奏ありがとうございますぅ。踊りに来ること、毎晩楽しみにしてますぅ』って、媚売ってしゃべってよ。あの子、新町に住んどっても、そう来たこと無いんやで。今年になってからは、ひろちゃんにひっついて時々来るけど。ようあんな機嫌取り出来るわ。

また、あのたーけ会長、見え見えの機嫌取りに鼻の下伸ばして喜んで。それからは、自分の方からあの子に声掛けに行きよる。

おまん、あの子のしゃべり方、聞いたことあるか?気持ち悪いよな甘えたしゃべり方なんやで。会長は喜んどるがよ、他のモンは白い目で見よる。そのうちに、あの子がおると会長がしゃべりに来るで、みんなひろちゃんのそばにも寄らんようになって来たんやで。可哀そうに」

「そうか、そんなんか」

「妹の娘がよぉ、あの子より二つ上で、学校同じなんや。姪が三年の時に一年生やったんやが、一年の入学早々から、男の子と遊んでばっかで、そっちで目立っとったらしいで」

「…」

「謹慎くらったこともあるって言いよった」

「なんよ、万引きか」

「おまん、たーけか。話の流れ考えぇよ。男の子や。不純異性交遊やろまいか」

「ほんとにか」

「そら、本人に直接聞いたわけやないで、絶対とは言わんが、一緒に遊びよった男の子も、その時期に謹慎やったらしいこと考えやぁ、なぁ。

卒業してからは岐阜やら名古屋やらの方で働いとったらしいけンど、この春に帰って来て、今はタカミのウエイトレスのパートらしい。あんに若いに、昼からしか仕事に行かんってのも、私は嫌や。ウエイトレスが悪いとは言わんがよ、朝から働けるとこ、こんな田舎でもあるはずやで」

「まぁ、うちのかよも、学生の頃はお転婆やったし…」

「おまんとこの子は、そんなおかしな子やなかったがな。お転婆と横着者とは違うでぇ。あの子は、とにかく男の子と遊んでばっかで、化粧したり、男の子にもらったっていう指輪、学校にしてきたりで、先生によう怒られとったらしい」

「うちのかよも、昼休みでもないに、朝から教室でおにぎり食べて、先生に叱られよった。弁当の他に、毎日おにぎり三つくらい持っていきよったでなぁ」

「おまん、叱られる内容が違い過ぎるがな」

「いっぺん、自分で作るって言うで、知らん顔しとったら、朝炊いたご飯、みんなおにぎりにして、たーんと持って行ったんや。どうもそれ、教室でみんなに配って、朝から大勢で食べよって先生に見つかってよぉ。うちが首謀者で、たーけ叱られたんや」

「ははは。かよちゃんらしいがな。そんに可愛らしい子なら、私も何にも言わんがよ。どうも、あの子はなぁ。おまんとこの子は二人共、年も違うで、高校も一緒になっとらんもなぁ。どんな子かは全然知らんもなぁ。

女の子の友達はおらなんだらしいで。そら、そんなふうでは、なぁ」

「まぁ、そうやなぁ」

お母さんは、息子の彼女らしい女の子が、恋愛ヤドカリみたいに言われているのを聞きつつ、なんとなく、彼女批判というより、自分の息子が、馬鹿女に簡単にだまされる馬鹿男だと言われているような気がして、彼女のことを庇いたくなりました。

「ほうやけんど、学生の頃のようなことは、もう無いろ。社会人になれば、世の中ってもんも分かって来るで、まぁ、落ち着く年やと思うけンど」

「やけンど、おまん、そんな子でええんか」

「…」

嫌や。お母さんはそう言いたいのをこらえて言いました。

「まぁ、人は色んなこと噂するで。八幡はとくにそうや。すぐ噂になるがよ、本当のところは本人同士にしか分からんでな」

「それもそうやが。まぁ、そういう評判の子やってこと、おまんが知らんなら、言うだけ言っとこと思ったんや。

まぁ、誰が何言っても、決めるのは本人同士やし。若いモンは親の言うことなんか、ろくに聞かんでな」

お母さんは、どうか、ひろっさがそこの子に決めませんように、と願っていました。


踊りが終わり、紅葉の秋が来ました。きみちゃんからひろみちゃんには、電話一本ありませんでした。学生の頃と、きみちゃんは何にも変わっていませんでした。誰かに夢中な時には、ひろみちゃんのことなど、思い出しもしないのです。

冬が来ました。きみちゃんからは忘年会の誘いもありません。もう夏の飲み会以来、まともに会って話をすることは無くなっていました。

かと言って、ひろみちゃんの方から連絡を入れる気にはなりませんでした。きみちゃんから、直接ひろっさののろけ話を聞かされるかもと考えると、まだまだひろみちゃんには、かなりの勇気が必要でした。

年が明けて、お正月がやって来ました。ひろみちゃんの元にきみちゃんから年賀状が届きました。そこには、新年の挨拶と、自分が今年結婚することになったこと、招待状は後日送るということが書かれていました。相手については何も書かれていませんでしたが、ひろっさであることには間違いありませんでした。

その年賀状を見て、お母さんが言いました。

「この子、同級生のきみちゃんか?学生の頃からやり手な感じの子やったけど、結婚するんやンなぁ」

「そうや」

「おまんも早うせんと、だぁれももらっておくれんようになるがな」

「うるさいなぁ」

二人の会話を聞いていたお父さんが口を挟みました。

「おまんがやかましいこと言っても、ひろみが行く気にならなぁ、なんともならん」

「なんよ、娘の機嫌取ることないろ」

「機嫌みたいな、取っとらん」

「おまん、知らんのんか?まー、この子、窓口で見染められて、いくつか縁談もあったに、今まで親にも相談せんと断って来たんやで」

「なんよ、本当か」

「これやで男は」

「ひろみ、それどこの人やったんよ。いくつの人や?勤めは…」

お父さんが、お母さんの言葉にいきなり心配になったようで、少しオロオロした様子で聞いてきたので、ひろみちゃんは泣きたくなりました。そんな人たちなんか、ひろみちゃんにとっては、どうでもいい人たちなのです。ただ、どうでもよくない人は、どうやらきみちゃんと結婚することを決めたようなのです。

ひろみちゃんは気持ちが沈むのを止められませんでした。これで結婚式に呼ばれて、きみちゃんにおめでとうと言えるのかと思いました。

元旦早々から暗い気分になり、お節料理を食べる気分にもならず、ひろみちゃんは一日中二階の自分の部屋に閉じこもって、布団をかぶっていました。

お父さんは、自分が聞いたことがきっかけで、ひろみちゃんが怒ってしまったのではないかとオロオロし、そんなお父さんにお母さんはイライラしていました。

「おネエ、お父さんとお母さん、おまんのせいで雰囲気最悪やがな。おばあちゃんまで口数少のうなって、家ン中、陰気臭うなっとるぞ。少しくらいのことですねとらんと、部屋から出て来いよ」

弟の勝くんが言いました。大学生の勝くんは、家を出て名古屋の大学に通っていますが、冬休みで帰って来ているのです。

「お節もあるし、夜はしんちゃんたち来るで、すき焼きするって言っとったしな」

「…。食べとうないし」

「お父さん、なんや、元気のうなっとる」

「知らん」

「なんよ、しんちゃんたち来るまでには、機嫌直して起きて来いよ」

そう言って、勝くんは下に降りていきました。

ひろみちゃんは後悔していました。なぜ、自分はもっと何年も前に、ひろっさに話しかけなかったのだろう。なぜ、もっと前に挨拶くらいしなかったのだろう。なぜ、あの飲み会の日、強引にひろっさの近くの席に座らなかったのだろう。なぜ、二次会を断って帰ってしまったのだろう。…なぜ、きみちゃんに遠慮なんかしてしまったのだろう。

もう取り戻せない時間を思うと、ひろみちゃんは自分の勇気のなさが招いた結果に、腹が立って、情けなくて仕方がありませんでした。

どこにも出かける気にもならず、ひろみちゃんは三が日を過ごしました。初詣にさえ行く気になりませんでした。浮かない気持ちのまま御用始めの四日を迎え、浮かない気持ちのまま、美容院に出かけました。

当時、銀行や証券会社はもちろん、ゴルフ場などの、いわゆる窓口だの、受付だのがある職業では、お正月の初日と言うと、いつもの制服ではなく、晴れ着姿の女性たちが彩ったものでした。独身女性ともなると振袖姿も多く、それだけお正月や御用始めといったものが、現在より大切な日として扱われていたのでしょう。

ひろみちゃんもトモちゃんと振袖を着ていく約束をしていたので、朝早く髪をセットしてもらいに美容院まで出かけたのでした。相変わらず浮かない気分はそのままでしたが、美容院の先生が振袖を着付けてくれる間、何度もよく似合うと褒めてくれたので、少しだけお正月気分になれました。

家に帰ると、おばあちゃんがそばに来て、

「何べん見ても、ひろみはよう似合うなぁ」

と言いました。

ひろみちゃんは子供の頃からおばあちゃん子で、随分大きくなるまでおばあちゃんの布団で一緒に寝ていました。ひろみちゃんがおばあちゃんのことが大好きなように、おばあちゃんもひろみちゃんに元気が無いと、とっても心配になってしまうのでした。

お正月の間、ずっと暗い顔をしていたひろみちゃんが、とりあえず仕事には行く気になったようなので、それだけでおばあちゃんはほっとしたのでした。そして、振袖姿のひろみちゃんは、誰が何と言おうと、どこの誰よりも一番かわいい、自慢の孫娘なのでした。

「信金の窓口でも、ひろみが一番可愛いろ」

とおばあちゃんが言うので、ひろみちゃんは思わず噴き出してしまったのでした。おばあちゃんはいつも「うちの子が一番」なので、時々照れ臭くなってしまうのですが、そんなおばあちゃんは、ひろみちゃんの心の拠り所でもあるのです。大人になった今も、仕事で嫌なことがあったりすると、おばあちゃんの布団に入って愚痴を話すうちに、朝まで眠ってしまうこともあるのでした。

もう何年も前に、ひろみちゃんはおばあちゃんより背が高くなりました。今ではすっかりおばあちゃんの方が小さくなってしまったのに、おばあちゃんにとっては、まだまだひろみちゃんは、小さくて心配な孫娘なのでした。

「おばあちゃん、私なんかより可愛い子、大勢おるがな」

「そうか。ひろみは気立てもええ子やで、そんな子はそうおらんろ」

「そんなことないて。みんなええ子ばっかや」

ひろみちゃんが笑うと、

「おばあちゃん、正月のうち、なんや心配やったけど、仕事に行く前に笑った顔が見れて良かったわ。ひろみは笑った顔が一番可愛いらしいでンなぁ」

とおばあちゃんは言いました。ひろみちゃんは、なんだか泣きたくなりましたが、もう一度笑顔に戻っておばあちゃんに、

「ありがとう。そんに言っとくれるの、おばあちゃんだけや」

と言いました。

この日はまだお父さんはお正月休みだったので、お父さん、お母さん、おばあちゃんの三人で、振袖姿も勇ましく、車で出勤していくひろみちゃんを送り出してやりました。ひろみちゃんの車が遠ざかってから家に入ると、おばあちゃんは言いました。

「ひろみのようなええ子、そう早う嫁にやらんでもええ」

「なんよ、急に」

「お義母さん、もうみんな段々と片付きよるに」

お父さんとお母さんがそれぞれに言いました。

「そやけど、この正月のあの子の様子見とったら、かわええがな」

おばあちゃんは、ひろみちゃんの元気が無かった真相を知りません。もちろん、お父さんとお母さんも。

「今でも時々、ひろみと一緒に風呂入るがな。ひろみ、いっつも私の頭洗っておくれるろ。だれにしゃべっても、そんに優しい孫おらんって言うで。あんにええ子、そう慌てて、追うようにして嫁になんかやらんでええ」

おばあちゃんの言葉に、お父さんもお母さんも黙ってしまいました。

その日は、窓口の女の子たちが晴れ着を着ていると分かっているので、タケシさんが用事も無いのに信金に来ました。お客さんがカウンターからいなくなった瞬間を逃さず、ひろみちゃんに話しかけました。

「明けましておめでとう」

「あら、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」

「これ、お年玉や。みんなで食べなれ」

「えぇっ。そんな、お客様に頂いては…」

「お年玉や」

そういってタケシさんは、いかにもお正月らしい姿をした、梅の花のお菓子を置いて行きました。それを見たトモちゃんが横から、

「なーんよ、えこひいきやしー」

とからかうと、

「おまんがひがむとだちかんで、ちゃんと余分に持ってきてやったがな」

と笑って帰って行きました。

お昼休みに、タケシさんにもらったお菓子をみんなで食べていると、トモちゃんが言いました。

「タケシさん、絶対ひろみちゃんねらいやンなぁ」

「そんなことないて。トモちゃんこそ、知らんうちにタケシさんと気ぃ安うなったンなぁ」

ひろみちゃんが言うと、周りの女性陣が一斉に、

「どっちにしても、悪うは思っとらんわ」

「そうや。今日なんか、年始のお菓子買いに来る人で忙しいンないか?それを、なぁ」

「こういうお菓子、結構高いしな」

「午前中に持っておいでたってことは、売れ残りおくれるのとは違うもなぁ」

「そら、最初っから数に入れて作ったんや」

と言い始めました。そのうちに、

「あそこは、商売うまいこといっとるしな」

「堅実な商売しといでるでンなぁ。ご両親とも真面目な人やし」

「あの息子さんも、京都で修業しとって、二年くらい前に帰っておいでたんやし」

「あの息子さんが帰っておいでてから、ちょっと変わったって評判やもなぁ。見た目もきれいになったし、うちのおばさん、よそに持っていく手土産は、最近はあそこに決めとるって言いよった」

「どうよ、ひろみちゃんかトモちゃんか、どっちか、あそこの嫁にならんか」

「あそこなら近いで、嫁に行っても通えるし。ここなら歩きで来られるがな」

「ほうやぁ、子供出来たり、商売手伝わんならんようになったりして辞めることになっても、用事で来た時に顔も見れるし」

「たまに菓子ももらってなぁ」

「そん時は、売れ残りでもええことにしよか」

と、どっちかが和菓子屋の嫁になる話になっていきました。

「私は、商売屋の嫁には向かんと思うわ」

とひろみちゃんが言うと、

「そうやンなぁ。大脇さんも悲しむかもしれん」

と、総務の畑中さんという古株の女性が言いました。すると、またみんなが一斉に話し始めました。

「大脇さんって誰よ?」

「なんよ、おまんた、知らんのンか?小野の支店においでる営業の人やがな」

「なら、ひろみちゃん、春まで一緒やったんか」

「そぉんなもん、一緒におるうちに何とかせな、そんなうじうじした男はだちかん」

「でも、真面目な人なんや」

「いくつなんよ」

「ひろみちゃんより、五つか六つは上かな」

「なら、二十八か九か」

「見た目はどうなんよ?三十近うなると、そろそろハゲる人はハゲるでンなぁ」

「太る人は太るしな。デブではないんか」

「今んとこ、頭はフサフサ。まんだ若いで、白髪も無い、真っ黒な髪や。痩せてもおらんが、太ってもおらん。背はそう高いことも無いけども、低いことも無い。まぁ、そんな姿や」

「仕事ぶりはどうなんよ、そちが肝心やがな」

「イマイチ押しは弱いけど、真面目な性格やで、お客さんに怒られるようなことはまずないし、成績もまぁまぁや」

「畑中さん、詳しいんなぁ」

「旦那、今、小野におるし」

「そうか、旦那さん、その人と一緒なんや」

「ひろみちゃんが本店に来るって決まった時、本店の独身は誰やって、うちの旦那にうだうだ聞いたらしいで」

「ははは、情けないもなぁ」

「そうやぁ。ひろみちゃんがええなら、自分の方から手ぇ打たなぁ。何も信金の人だけがライバルとも限らんし」

「まったくよ。そんにしょうもないヤツ、一生一人でおればええんや」

「まぁ、そんに冷たいことも言いなれんな。ええ子なんやで」

「やけど、和菓子屋だけやのうて、この前、穀屋のおばあちゃんが、孫の嫁にって言っておいでたし」

「それいうなら、今町の旅館もやがな。あそこのご主人、自分の嫁がブスやで、息子の嫁は器量良しがええとか言って、ひろみちゃんに話しよったがな」

「ひろみちゃん、あそこはだちかんで。あのご主人、浮気三昧やで。息子が真面目でも、あんな色ボケじいさんが舅になるのは嫌やがな」

みんな、他人事だと思って、勝手なことを言い放題しています。それを笑って聞きながら、もしかしたら、自分の気持ちの持ち方ひとつで、ひろっさより、もっと好きな人が見つかるかも知れないと、ちょっぴり励まされた気分になるひろみちゃんなのでした。


ひろっさは、秋からの自分の人生の急展開に驚いていました。きみちゃんと出会ってからも、自分が結婚するなどということは、到底現実味を感じないことだと思っていました。

けれども、きみちゃんのあからさまな態度に、周りからも恋人同士という目で見られ、後には退けなくなってきました。ひろっさは、もっと時間をかけて、ゆっくり付き合ってもいいと思っていたのですが、そんなわけにもいかなくなってきました。

「おまん、新町の化粧品屋の子、もらう気でおるんか」

踊り納めも過ぎた頃、ひろっさはお母さんに聞かれました。

「もらうかどうか、まんだわからん」

「しょっちゅう電話かけてよこすがな。よう二人で出掛けとるみたいやし」

「まぁ、そうやけど」

「もらう気ないんなら、そうそう二人で会っとったら、だちかんで。この前せっちゃんに、保存会の人ンたの前でも、新町の子がおまんにベタベタとくっついて、目のやり場に困るようなこと言われて、私まで恥ずかしかったんやで。おまん、もらう気もないような子に、そんなことさせとったらだちかん。嫌ならはっきりせな」

せっちゃんというのはお母さんの友人で、保存会で三味線を弾いているおばさんです。踊り納めの日も、ひろっさと当番が一緒だったので、その時のきみちゃんの様子をお母さんに話したのだと思われます。

「あの子、あんまり評判良うないがな。学校行きよる頃も、男の子と遊んでばっかやったらしいで。働くようになってからも、どこで何してきたか分からんような子やないんか」

「いくらなんでも、そんな言い方もないがな」

「私やない。町の人ンたが言うことや」

「そんな学生の頃のようなこと、今は無いわ」

お母さんは、せっちゃんから聞いたことをそのまま言おうかとも思いましたが、ひろっさがきみちゃんのことを庇うので、半ば諦めながら話を続けました。

「おまんも三十になったし、もらう気なら早いこと話せな。もたもたしとるうちに、みんな嫁さんもらって、子供もおるんやで」

「まぁ、そうやけど」

「なんよ、おまんの嫁やがな。あんまりみんなええこと言わんで、私は気に入らんけども、おまんが良けれらぁ、仕方ないしな。もう、おまんも三十やで」

お母さんは、ひろっさが評判の良くない女の子を嫁にして、上手くやっていけるか心配でしたが、この狭い八幡で、この機会を逃すと、ひろっさが一生独身でいるかもしれないことも心配なのでした。

お父さんは、ひろっさの煮え切らない態度を見て、男同士同情が湧いたのか、お母さんに、

「おまんが嫁もらうんでないがな。ひろしの嫁やがな。そう慌てんでも、きちんと家ン中のことやっておくれる子かどうか、よう見極めてからでもええがな。顔ばっかテカテカにしとっても、はるおくんの嫁みたいに、お勝手もせな、掃除もせな、出かける時ばっか、どこのご令嬢かと思うような身づくろいするようなモンではかなわんでな。あんな嫁では、そのうちはるおさんも愛想尽かすンないか」

と言いました。

はるおさんというのは、同じ町内の人で、ひろっさより少し年上の人です。結婚当初、器量良しで評判になった嫁は、今では家事全般を姑にやらせて、勤めにも行かず、娘のように着飾って、遊び歩いてばかりいると、別の評判が立っています。

それを聞いて、お母さんも不安そうな顔になって言いました。

「自分の身ばっか飾り立てて、おかずの一つも作れんような子か」

「確かに、化粧せな、家からは一歩も出んって言っとった。けど、多少なりとも料理は出来るみたいや」

ひろっさが答えました。以前、出かけた時に、きみちゃんがお弁当を持って来たことを思い出したからです。

お母さんが言いました。

「おまん、散々見合いの話もあったに、断ってばっかやったんやがな。最近はあんまりやかましいこと言うのもどうかと思って、ちいとぶっといたんやで。あんだけまともな話断って、やっと見つけた相手が、評判悪い子って、どういうことなんや。その子、もらう気ないんなら、おかしなことにならんうちに、早う別れて違う子連れて来なれ」

「?おかしなことって、なんよ?」

ひろっさが思わず聞くと、

「子供でもできたらどうするんよ?結婚する気も無うて、遊んどるうちに子供が出来て、嫌々その子もらうのも情けないがな」

「俺も嫌々付き合っとるわけでもないし」

「なら、もらう気か」

そう言われると、もらう気は無いとは言えません。きみちゃんのことは可愛いと思う気持ちはありましたし、要るか要らないかという極端な話になれば、やっぱり要るな、と思うのでした。ひろっさには、今のところきみちゃん以外の相手はいませんし、未来に確実に誰かが現れるアテなどありません。そう思うと、自分はきみちゃんに不満があるわけではないし、これがめぐり合わせというものかもしれないと思えてきました。

「まぁ、いずれは」

ひろっさが答えると、お母さんが言いました。

「そんなら、向こうの家にも話せんならんがな。いずれやなんて言っとっては、何にも始まらんがな。もらうつもりなら、物事には順番もあるし、日にちも決めんならんがな」

「えぇっ?」

ひろっさは、この瞬間にきみちゃんと結婚することになり、具体的に動き出すことになったのでした。

きみちゃん本人は、当然ひろっさと結婚する気でいたので、そこは何の問題もありませんでした。

きみちゃんの両親は、思春期を迎えてからずっと、男の子の気を引くことばかり考えている娘のことを、なんとも頼りなく思い、心配していました。どうも娘は、人間の本質を見る前に、見た目に飛びついてしまう傾向があり、結果、どちらかといえば遊び好きな男ばかりを選んでは別れてきたからです。

また同じような相手と、ふらふら遊び歩くようでは困ったなと思っていたところ、今度選んだ人は、どうも今までとは違うようで、きみちゃんのお母さんは、自分の化粧品屋にやってくるお客さんたちに、ひろっさのことを聞いてみたりしました。ひろっさは生え付きの地元っ子でもあり、保存会に在籍しているので、彼を知っている人は大勢いました。その人たちが一様に「真面目な男」だとひろっさを評価するので、両親は意外でありながらも、ほっとしました。

自分の娘の評価は全く逆なのですが、それは聞こうともしなかったので知らないままでしたが。

きみちゃんの両親は、これは逃がしてはならぬ、という気持ちになりました。そのため、きみちゃんから、ひろっさと結婚するつもりだと聞いた時には、心から安堵したのでした。

とはいえ、具体的な話を決めずに、もたもたと時間を掛けていると、またきみちゃんがあちらこちらと、相手を変えてしまうのではと心配だったので、きみちゃんが心変わりしてしまう前に、早いこと結婚させてしまいたいと思ったのでした。

そんな周りの雰囲気に押されるようにして、夏に出会ったばかりの二人は、あわただしく翌春に結婚式を挙げることまで決まってしまったのでした。


春になりました。

まだまだ八幡の朝はキンと寒い日が続きますが、梅は満開となり、陽射しは随分と柔らかくなってきました。

今日はひろっさときみちゃんの結婚式です。ひろみちゃんは花嫁側の受付を頼まれていたので、振袖姿で受付に立っていました。

招待状が届いた後で、受付を頼まれた話をトモちゃんにしたら、また彼女は激怒して、

「まぁ、よう頼むンなぁ!どっこまでも図々しい女や。そんなもん、断りなれ!」

と言っていました。トモちゃんは、情の濃く、優しく、楽しく、明るく、素直で、正義感あふれる、真っ直ぐなおこりんぼなのでした。そんなトモちゃんは、ひろみちゃんにとって大切な、愛すべき友人でしたので、言い分はひろみちゃんにもよくわかりました。

でも、お人好しのひろみちゃんは、おめでたい席に呼ばれたのに、断るのは失礼な気がしたので、受付を引き受けることにしました。

当日、披露宴の席についてみて、成程、とひろみちゃんは思いました。きみちゃん側の招待客は、親戚以外は、喫茶店のマスターご夫妻と、早番のバイトの人と、ひろみちゃんだけで、きみちゃんには受付を頼めるような友人は、ひろみちゃんしかいないのでした。

新郎側の受付は、踊り会場でよく見かける保存会の人でした。この人は既婚者です。ひろっさの子供の頃からの友人で、ずっとお囃子を続けている人のようです。すぐにひろみちゃんが気付いたように、向こうもすぐにひろみちゃんに気付きました。

「あれ、今日は受付頼まれたんか。よう踊りにくる子やンなぁ?」

「ハイ。今日はよろしくお願いします」

「振袖着といでるってことは、独身か?」

「ハイ」

「もう決まった相手はおるんか?」

「全然」

「そんなら、今日、ひろっさの友達の誰か、捕まえたらええがな。独身のやつもおるで」

「はぁ、そんに上手いこと立ち回れるなら、今頃何とかなってます」

「なんよ、悲観的やし。こんに可愛い子、男がぶっとかんろ」

「今日はおめかししてますから。いつもは地味すぎて、どこにおるかわからんような人間なんで、ぶっとかれたまんま、今に至ってます」

「ははは、そんなこともなかろ。今日だって、特に厚化粧なわけでもないがな。踊りに来る時と変わらん。勤めはどこなんよ?」

「今は八信の本店です」

「あー、タケシが綺麗な子がおるって言いよった。おまんのことか」

「うーん、それはトモちゃんのことかも」

「そっちは多分、面白い子がおるって言いよったほうの子や」

「確かに、トモちゃんは元気で楽しい子や。私の一番の仲良しなんや」

「そうか。おまんなら、カウンターにおったら目に付くわな」

「ありがとうございます。嘘でも」

「嘘やないがな。嫁がおらなんだら、俺が一緒に遊びに行きたいくらいや」

「はは。嫁がおらんようになったら誘ってください」

最近のひろみちゃんは、気持ちも少し上向きになって来て、トモちゃんが誘ってくれる飲み会や、ドライブにも行くようになっていました。

一方、結婚式当日、ひろみちゃんからお祝いの言葉を受けたきみちゃんは、お礼を言いつつ、複雑な気持ちになりました。

その日まで、電話で話をすることはあっても、ほとんどひろみちゃんとは会いませんでした。結婚の準備に追われながらも、きみちゃんはずっとひろみちゃんに優越感を持っていました。

「ひろっさは私を選んだんや。すこしくらい賢いとか、仕事が出来るとか、愛想がいいとか、そんなことより、自分の狙った男の一人も手に入らんようでは、女として負けや。ひろっさは、私の旦那になったんや。私の方が女としては上なんや」

そんな気持ちでいたのです。学生の頃から、何の努力もしないまま、ひろみちゃんに対して勝手な劣等感を持っていたきみちゃんにとって、この優越感は快感でした。当日も、ひろっさと自分が並んでいる姿を見て、ひろみちゃんが辛い気持ちになるのを、少し意地悪な気持ちで想像していたのです。

ところが、当日のひろみちゃんは艶やかな振袖姿で、招待客の中で一番の華でした。二人におめでとうと言いに来たときも、少し恥ずかしそうな、優しい笑顔でした。暗い雰囲気など、微塵も感じられません。本当はまだ辛い気持ちはありましたが、ひろみちゃんはそんな素振りは見せず、ずっと笑顔でいました。

帰りにロビーで、新郎新婦そっちのけで、ひろっさの友達がひろみちゃんを囲んで記念写真を撮っているのが見えました。

その瞬間、きみちゃんは自分が何か、途方もない間違いをしでかしてしまったような気持ちになりました。いつもいつもひろみちゃんが羨ましくて自分にない物を持っている彼女に、劣等感を持っていました。その気持ちだけでひろっさを自分のものにしてしまったけれど、今日、ひろみちゃんが他の人達と楽しそうにしている姿を見て、もしかして、もうとっくに、ひろっさは、ひろみちゃんの一番ではないのかもという気持ちになってきました。ひろっさよりも、もっと大好きな誰かを、これからひろみちゃんは見つけていく…。その時、ひろっさは私の一番なのか?

そう思うと、急に心が寒くなっていきました。ひろみちゃんが欲しがっていたおもちゃを、ひろみちゃんが欲しいといったから自分も欲しくなって、挙句に横取りしてしまったような、そんな気持ちになってきました。そして、それが自分のものになった今日、もともと、大して欲しいおもちゃではなかったことに気付いてしまったのでした。

…ひろっさと本当に結婚したかったのだろうか。一生、この人と生活を共にし、何十年も一緒に暮らしていきたいと思ったのだろうか。

きみちゃんは自分の心に聞いてみました。そんなの当然だと、どこかで声がしました。その声は、一生懸命何かに蓋を被せようとしています。それなのに、その蓋の下から、暗く低い声でささやく声が漏れ聞こえてきます。

―本当はひろみちゃんのお気に入りでなかったら、気にも留めなかった相手だろ。

それはとても小さな声なのに、きみちゃんにははっきり聞こえてしまうのでした。


冬の間はほぼ練習期間で、活動停止状態の保存会ですが、春になるとお囃子の依頼も増えてきます。いろんなお祭りやイベントに呼ばれることが増えるのです。

ひろっさは若手といえども、もう保存会にはなくてはならない存在になっていましたので、休みにはちょくちょくイベントに呼ばれ、家を空けることも増えました。きみちゃんは喫茶店の仕事を続けていたので、日曜は仕事でした。普段から早起きは苦手なので、朝食を一緒に食べることはありません。ひろっさは自分で目玉焼きと味噌汁を作って、ほぼ毎日同じメニューの朝食を食べ、汚した食器はきちんと洗ってから出かけました。夜の食事はきみちゃんが支度しましたが、ひろっさがイベントに出かける時は、帰りも遅くなることがあり、お囃子のメンバーと食べてくることも多いので、そういう日は自分も食べに行ったり、レトルト食品で済ませてしまったりしました。

五月も終わりのある日、ひろっさがイベントに出かけた日の夜、きみちゃんが一人でいると、電話がかかってきました。

「もしもし」

「…きみこか、俺、わかるか?」

それはきみちゃんの不倫の相手だった人でした。

きみちゃんは、「結婚しました」の葉書を、その人にも送っていました。なぜそんなことをしたのか。自分が結婚したことを、その人に見せつけたかったのか、まだその人に未練があったからか。

まだひろっさは帰って来ていません。きみちゃんはその人の声を聞いたら、今すぐにでも会いたい気持ちになりました。その衝動は、ひろっさには抱いたことのない気持ちでした。

「なんよ、突然に」

きみちゃんは出来るだけ冷静に返事をしました。

「今、話しできるか?」

「まぁ。今なら一人やし。どしたんよ」

「嫁が子供連れて出て行ったんやて」

「はあ?浮気でもしたんか?」

「お前と別れた後で、お前とのことがばれてなぁ」

「終わったことやって言えばよかったがな」

「言ったし、謝ったけど許せんらしい。それ以来、不信感の塊になって、何かにつけてそれ持ち出しては喧嘩腰なんやて。俺も嫌になって来て、嫌な顔していつまでも家におらんでも、出て行きたいなら出て行けって言ったんやて。そしたら子供連れて出て行って、もう一月帰って来うへんのやて」

「…そうか」

「お前は幸せにやっとるか?」

そう聞かれて、急にきみちゃんは泣けてきました。

…幸せなはずなのに。

ひろっさは、本当に不満を言わない夫です。きみちゃんが朝起きなくても、自分のことは自分でやり、朝食の支度が出来ていないことなど、文句を言ったことがありません。ましてや、きみちゃんの作った料理に、評論家よろしく、マズイだの、出汁が効いてないだの、みりんを使えだの、そんな細かいことなど、言われたことがありません。きみちゃんがアイロンがけが苦手なので、ひろっさは自分の職場の作業着は、いつも自分でアイロンを掛けていました。気の利いたこともしない代わりに、自分のことは自分でできる、手のかからない夫でした。

きみちゃんは満ち足りているはずの生活の中に、いつも足りないものがあるような気がしていました。ひろっさは、確かに良い夫でしたが、自分は必要とされているのか、もしかしたら誰とでも、この人は同じような生活が送れるのではないか。そしてそれ以上に、自分もまた、この人しかいないと強く思える、ひろっさではない誰かがいたのではないか。いつもいつも、絶えず心のどこかでそんな声が聞こえていました。

「旦那は良うしてくれるんやけどなぁ」

「なんや。不満でもあるんか」

「私、旦那に会いとうて仕方ないとか、思ったこと無いまんま結婚してまったんや」

「向こうが押せ押せやったんか」

「私なぁ、間違ったことしてまったんや。旦那にも、友達にも」

「お前、どういうことや。ちっとも幸せそうやないな」

「幸せやって思わな罰当たるって、思うほど、悲しくなるんや」

「お前、泣くな。…今度ゆっくり会わへんか?」

「…金曜ならええよ」

「俺も仕事終わったら岐阜出るで、関か美濃あたりで落ち合うか?」

「うん」

そうしてきみちゃんは、別れた恋人と再会する約束をしてしまったのです。それは、「旦那にも、友達にも、間違ったことをしてしまった」と言っていたことより、さらに間違ったことなのですが、もうきみちゃんは自分を止めることはできませんでした。

最初は、一度会ったら気が済むと思っていました。でも、別れ際、また会いたいと思いました。携帯電話などない当時、きみちゃんの家に高木さんから頻繁に電話が入るのは危険です。そのため、再開の夜に、次に会う日も場所も決めてしまいました。そうして、それが毎回の決まりごとになったのです。

きみちゃんは、当初二週間に一度くらいだったのが、そのうち、毎週、高木さんと会うのを待ち望むようになりました。待ち望む気持ちは、毎週ではなく、毎日、一日中でした。もう八幡での生活は、というより、ひろっさの妻でいる生活は、嫌で仕方がありませんでした。ひろっさが嫌なわけではありません。ひろっさは、相変わらず、真面目で、優しい夫でした。

でも、ひろっさが夫でいる限り、きみちゃんが高木さんと会うことは、当然、道徳に反することなのです。もうきみちゃんは、自分が夫のある身でいるのが嫌でした。高木さんと会いたいときに会えるようになりたいという気持ちしか持てなくなりました。正式には離婚していないとは分かっていても、奥さんが家を出て行ったとなれば、以前とは状況が違います。一旦欲しいと思ったものは、手に入れないと気が済まない性分は相変わらずでした。

そして、そのうちには相手の都合に合わせて仕事を休むようになり、ひろっさに問い詰められるまでに至ったのでした。

もう隠し通せないと、きみちゃんは思いました。その日は一晩中、泣いて眠れませんでした。自分がしでかした、どうしようもないこと、つまり、結婚してしまったことを一晩中後悔し続けました。不倫の方ではなく、結婚してしまったことを後悔し続けました。後悔はしましたが、ろくに反省はしませんでした。そして、次の約束の日には、身の回りの物を持って、誰にも何も言わず家を出たのです。

その日、ひろっさは職場から帰ると、夕食の支度が何もできていないことに気付きました。

最近のきみちゃんは、食事の支度だけしておいて、実家に泊まりに行くことが増えたので、先週、そのことについて問いただしてから、怒っているようでもないけれど、ずっとよそよそしい態度だったので、よほど腹が立ったのか、と思いました。

とはいえ、仕事を休んだりして何をしているのか、どうもはっきり言わないし、隠していることがある様子なので、夫なら聞いても当然だろうと思いました。まさかきみちゃんが、怒って泣き出すとまでは予期していませんでしたから、今週の休み明け早々に、同僚のとみちゃんにその相談をしました。

とみちゃんの奥さんは、きみちゃんの働いている喫茶店で、早番のウエイトレスをしている人です。

「とみちゃん、この前、うちのがこの頃仕事休むって言いよったろ?」

「おー、どうや、やっぱりおめでたか?」

「違う。聞いたら怒って、一晩中泣きよって、未だに何も言わん」

「何でよ。仕事まで休んどるに、旦那に言えんって、どんなわけや」

「何にも言わんで分からん。あれからろくに口きかんし」

「おまん、何かしとらんか」

「何をや」

「そら浮気や」

「たーけか。そんな甲斐性ないわ」

「はは、そうか。なら、嫁さんの方はどうや」

「…。疑ってみたこと無いけど」

「旦那に言えんってことは、言えん相手が一緒やないんか?」

「おまん、それ、本気で言いよるんか」

「冗談やがな。おまん、まさかほんとに浮気やなかろ。まんだ春にもらったばっかの嫁やに。今、まんだ夏やでなぁ。いっくらなんでも、おまんに愛想尽かすには早すぎるろ」

「それはそうやけど、なんか隠しとるのは間違いないなぁ」

「なら、借金か。押し入れ開けて見てみたか?買い物依存症ってのがあるらしいがよ、高いモン、最近増えとらんか?」

「今のアパートでは、そんなもん、置くとこもないがな。物が増えたらすっぐにわかるわ」

「なら、ギャンブルか。パチンコ通いでもしとらんか。ギャンブルは、のめりこむと、あっという間に金使ってまうでンなぁ」

「ギャンブルかぁ。結婚前は、まったくやったこと無いって言いよったがなぁ」

「金は残っとるんか?ごっそり減っとるなら、ギャンブルやと思うぞ。まさか、大金貢がんならんような男と付き合っとるわけでもなかろも」

「なんよ、ギャンブルでなかったら、やっぱりそっちか」

「そら、一般的にギャンブルでなかったら、男なら女やし、女なら男やないんか?」

「そうか…」

「やけど、おまんとこは、いっくらなんでも倦怠期には早すぎるろ」

「…」

ひろっさは考えていました。交際中はきみちゃんの方が一方的に積極的で、ひろっさは自分が惚れられているのだと思っていました。そう思っていたからこそ、きみちゃんのことが可愛く思え、助け合って生きていけると思ったのです。きみちゃんが朝起きなくても、二人とも仕事を持っているし、その時間帯も違うので、それは仕方が無いと思っていました。夕食の支度が遅くなっても、せかしたりはしませんでした。出来ないことや、苦手なことは、お互い出来る方がやればいいと思っていたので、きみちゃんのわがままも特に気になりませんでした。

ところが、結婚してからというもの、いつ頃が境だったかはよくわかりませんが、きみちゃんは以前のようにひろっさに甘えることが無くなりました。結婚前のように、こちらが困るほどべったり甘えて欲しいわけではありませんが、打ち解けた雰囲気が無くなり、よそよそしさを感じることが増えました。ひろっさにはその理由はわかりませんでしたが、きみちゃんは自分が思っていたほどの甘えっ子ではなかったのかもしれないと思っていました。結婚したのだし、毎日一緒にいられるのだから、以前と同じはずもないかと、単純に考えていたのです。

それが最近極端に、実家に帰り、泊まって来る回数が増えたので、何か変だと思い始めた時に、とみちゃんから、きみちゃんが仕事を休みがちだという話を聞いたのです。ひろっさは、やっぱり変だと思っていたのは気のせいではなかったと思うに至ったのです。

「おまん、そのあとろくに口きかんって、ぶっといてはだちかんで。きちんと話せんと」

とみちゃんが言いました。

「そうなんやが」

「何が原因か、俺ら男にはわからんけどよ、女に言わせや、そんなこと、いちいち言わなわからんか、やで。女のようには、男は察知能力ないでンな。わからんことははっきり聞かんと」

「あれ以来、バリア張られとる」

「そんでも無理に聞け」

「また泣くとかなわんしな」

「それを繰り返して、どこの夫婦も長いこと一緒におるんや」

「…そうか」

とみちゃんに言われても、ひろっさは様子を伺っていました。

今は町の踊りシーズンです。お囃子の当番に当たっている日は、帰ったら食事もそこそこに保存会の浴衣に着替え、出かけなくてはなりません。八月に入ると、お盆までは毎日のように踊りがあるので、当番のない日の夜、寝る前にゆっくり話をしようと思っていました。

八月十二日の夜、翌日から徹夜も始まるし、お盆前にこのもやもやをなんとかしてから、気分よく盆休みに突入したいとひろっさは思っていました。なので、今日こそは話をしようと思っていたのに、帰宅するとすでにきみちゃんは家にいなかったのです。置手紙も何もなく、また実家に行ったかと思いました。それなら、明日から盆に入るわけだし、今日こそは自分もきみちゃんの実家に泊まらせてもらうか、無理にでもきみちゃんを連れ戻すかして、きみちゃんが隠している何かを聞き出そうと思いました。

「もしもし」

ひろっさは、きみちゃんの実家に電話を入れました。

「はい、今晩は。ひろっさやんなぁ?」

「ここのところ、きみこがしょっちゅう泊りに行って…」

「きみこ?このごろ、顔も出さんよ」

「今日、泊まりにいっとらんかな?」

「来とらん。どういうことや?今、そこにおらんのンか?」

その頃、ひろみちゃんはきみちゃんからの電話を受けていました。お風呂から出たところをお母さんに呼ばれ、慌てて電話に出たのでした。

「ひろみちゃんか」

「なんよ、結婚式以来やンなぁ。元気やったか」

「…、私、もうひろっさのとこには戻らんで」

「はぁ?」

「結婚してからわかったんや。私なぁ、ひろっさのこと、ちっとも好きやなかったんや」

「なんよ!自分の方から押せ押せで嫁に行ったんやがな!どして一年も経たんに、そんに無責任なこと言えるんよ」

ひろみちゃんは、去年の夏の辛い気持ちを思い出していました。自分なら好きでもない相手に、しなだれかかるようにして歩いたりできません。

「悪いンなぁ」

きみちゃんの呑気な口ぶりに、怒りがこみ上げてきました。

「おまん、楽そうに言うけど、ひろっさとは話し合ったんか」

「ううん、話し合っとらん。もう、話するとかやないんや。もう、誰が何と言おうと、ひろっさとは別れるって決めたんや」

「おまん、自分がどんだけ勝手なことしゃべっとるんか、わかっとるんか!」

「高木さんと再会したら、ひろっさにはこんな気持ち持ったこと無いなぁって思って」

「高木さんって、家庭持ちの人やがな!」

「そうや。離婚はまんだしとらんけど、奥さん出て行ったんや」

「その人こそ、おまんでのうても、他の女でもええんと違うんか?よう考えんと!」

「もうええんや。高木さんがどう思っても、私はあの人がええんや。ひろっさとでは、こんな気持ちにはなれんのンや。親にも黙って出てきたし、もしなんか聞かれたら、別に犯罪に巻き込まれたわけやないでって言っといてくれるか」

「おまん、そんなことだちかん!早う、今すぐ帰って来なれ!」

「嫌や。もう高木さんのとこにおるんや。もう帰らん。悪かったんなぁ、ひろみちゃん。私、早いこと離婚するで、ひろっさの嫁になってやっとくれ」

そう言って電話は切れました。ひろみちゃんは、慌ててきみちゃんの実家に電話を入れました。

きみちゃんの実家は大騒ぎになっていたようでしたが、ひろみちゃんからの電話で、ただの(!)家出だとわかり、少し安心したようでした。

ひろみちゃんはきみちゃんのお母さんと電話で話しながら、きみちゃんの実家にひろっさがいるのを知ると、きみちゃんに対して猛烈な怒りがこみ上げてきました。ひろっさの誠実さに、きみちゃんほど似つかわしくない女はいないとさえ思えてきました。

結局、きみちゃんの恋愛ヤドカリな性格は、学生の頃から変わっていないのです。きみちゃんの一番は絶えず変わり続けるのです。今は一番の高木さんも、一生一番ではないだろうと、ひろみちゃんは思いました。


きみちゃんが出て行っても、ひろっさは持ち前の集中力で、その年の盂蘭盆会の当番も乗り切り、踊り納めまで少しの動揺も見せず、お囃子をやり遂げました。そのあたりの強さは、さすがのつむじ二つです。

ひろっさときみちゃんの離婚は、すぐに成立しました。雪深い八幡に、初雪が降る前に片付きました。ひろっさは、俺が嫌になったのなら仕方がない、と思いましたし、何より、きみちゃんの両親から平身低頭謝られて、それが鬱陶しくもあり、気の毒にも思えたからです。

きみちゃんが去ってみると、自分が置いてきぼりを食らったというみじめさは多少ありましたが、自分がそんなに深くきみちゃんを愛していたわけではないということもわかりました。相手の男に対する憎しみだの、深い嫉妬心だのが、不思議なくらい沸いてこないのです。

―俺のことを嫌やって言うモンを、無理に引き留めても仕方なかろ。

もしかしたら、そういうところが、きみちゃんには不満だったのかもしれないとも思ったりしました。嫁が出て行ったことよりも、嫁が出て行ったというのに、この程度の気持ちしか持てない自分は、とても冷たい人間なのではないかと思えてきました。この先も、誰かを深く愛するとか、大切に思うとか、そんな感情は持てない人間なのかもしれないと。

ひろみちゃんの方は、トモちゃんに今回の顛末を怒ってしゃべっていました。

「なんよ、そこまでひどい女やったんか」

トモちゃんが言いました。

「私も、まさか昔の男にふらつくような子ではないと思っとったんやけど。でもな、誰でもええと思って結婚するなら、何も、わざわざひろっさにすることもなかったと思わんか?結婚式で友達のスピーチなんか聞いとったら、きみちゃんの方からせまっていったようなんやで。どして好きでもない人にそんに出来るんよ?」

「そら、ひろみちゃんのお気に入りやで、ひろっさがよかったに決まっとるがな」

「なんでよ」

「人の持っとるもん、すぐに欲しがる子供と一緒や。ひろみちゃんのお気に入りってだけで、良う見えたンないか?」

「どういう理屈や」

「人もいろいろ、人生いろいろや。ひろみちゃん、今度こそ、あの人狙ったらええがな」

「はぁ?」

「あの兄さん、保存会辞めとらんろ?」

「うん、多分」

「そんなら、踊りの時はしょっちゅう会えるわけやがな。遠慮せんと、堂々としゃべったらええ。今なら完全独りやないンか?」

トモちゃんはそういいましたが、ひろみちゃんは複雑でした。

…ひろっさの嫁になってやっとくれ…。

きみちゃんの言葉が、呪文のように聞こえてきました。その言葉が頭の中に渦巻くほど、ひろみちゃんはイラつきました。

…大きなお世話や。私が誰と結婚しようが、きみちゃんになんか関係ないことや。大体、自分がもういらんからって、人に押し付けるような言い方して、物やないんやで、ひろっさにも、私にも、失礼過ぎるわ。ひろっさもひろっさや。甘えてくるだけの女に簡単に騙されて。

お人好しのひろみちゃんにも、今回ばかりは女の意地がありました。トモちゃんの友人と一緒に遊びに行くようになって、自惚れる訳ではないけれど、自分だってそんなに捨てたもんではないと思えるようになりました。何人かは、悪くはないと思える人にも出会いました。その中から、お互いに思いやりを持ちつつ暮らしていける人を探すのもいいかなと、少しずつ思えるようになっていました。

ただ、きみちゃんが言っていた「ひろっさとは、こんな気持ちにはなれん」というのも、なんとなく分かってしまう自分が嫌でした。ともちゃんの友人達と遊びに行っていても、その中の誰かと、一歩踏み出せないでいる理由は、自分が一番よく分かっているのでした。ひろっさが独身に戻った現在、気持ちは更に複雑でした。


翌年の発祥祭の日が来ました。

ひろみちゃんはトモちゃんと、始まる前の屋形の近くにいました。ひろっさは今年も発祥祭のお囃子に上がるようで、保存会メンバーの集まりの中にいました。以前と同じ、物静かな表情で、時間が来るのを待っていました。

「ほれ、しゃべらんでええんか」

トモちゃんが言いました。

「うん…」

ひろっさは相変わらずすっきりした立ち姿で、涼しげな雰囲気を漂わせていました。

ただ、ひろみちゃんは、以前と同じ、手放しで憧れる気持ちにはなりませんでした。結婚式以来、去年は数えるほどしか踊りには行きませんでしたし、踊り場以外でひろっさに会うことはありませんでしたので、そんな自分の気持ちの変化にも、今日初めて気づいたのでした。

二人が例の色違いの市松模様の浴衣で並んでいると、タケシさんがやって来ました。

「おー、今日は絶対来とると思ったで、俺も久しぶりに浴衣着てきたんや。おまんた、目立つし」

「あれ、男ぶりも上がるもんなぁ」

トモちゃんが言いました。タケシさんは細い縞の浴衣です。八幡の男衆は、着慣れているせいか、浴衣がよく似合います。

「ま、馬子にも衣裳や」

「なぁ、ひろっさの別れてからの近況聞いたか」

「この前、久々に飲んだけどな。そう落ち込んどる様子もないなぁ。もともと俺は、アイツには合わん嫁やと思っとったでンな。最初の飲み会から、気に入らなんだンや」

「なんよ、おまんの嫁でもないに」

「あんなもんは、頼まれても俺は嫁にはもらわん。やで、そう慌てて決めんでもええって言ったんやで。やけど、嫁の方がせっついて、急いで結婚した割に、半年も経たんうちにこんなやでな」

「ひろっさ、次のはおるんか?」

「おらん。そういう人間でないでな」

「そうか、なら、ちょっと呼んで来て」

「なんでよ」

「そら、挨拶した方がええろ。今年も頼むわって」

「そんなもん、いらんわ。そんなこと、言っても言わんでも、今年も笛は吹くに決まっとる。挨拶したけらぁ、こっちから近づいて声掛けやぁええがな」

「なんよ、根性悪やし。もうええわ。ひろみちゃん、行こ」

トモちゃんがひろみちゃんの手を引っ張って、保存会メンバーの集まっているあたりに歩いていきます。タケシさんが慌ててついていきます。

「おまん、なんよ。ついて来て」

トモちゃんが信金のお客さんだと言うのに、すっかりタメ口になって言いました。

「そんな薄情なこと言いなれんな」

「自分が挨拶みたいな、せんでええって言ったんやがな。おまん、挨拶せんなら邪魔やし、隅っこ行きなれ」

「俺だけのけにする気か」

「根性悪な上に小さいもんな」

トモちゃんとタケシさんのやり取りを聞いて、思わずひろみちゃんが噴き出しました。

「漫才やもな。二人、いつの間にそんに仲良うなったんよ」

トモちゃんが慌てて、

「仲良うって、やめてよ」

と言うと、タケシさんが

「おまん、どこまでも失礼なヤツやし。もう貯金せんわ」

と言い返しました。

「おまんこそ、こんな話で貯金せんって、セッコぉ。かぁっこ悪う」

トモちゃんがそこまで言ったところで、ひろっさが気付いて三人に近づいて来ました。

「今晩は。みんなして来とくれたんか」

「ま、おまんに会いとうて来たわけでもないけど」

タケシさんが言うと、トモちゃんが、

「いちいち小面憎いこと言うし。約束したわけでもないに、おまんこそ勝手に来て邪魔臭いわ」

と言いました。

「おまん、冷たすぎるろ、その言い方。俺が泣いたらどうする気や」

「笑う」

「よう言うな。俺が客やってこと、忘れとらんか?」

「そもそも覚えとらん」

「どういう言い方や」

「おまんが細かいこと言うでやがな」

二人のやり取りを聞いていたひろみちゃんが言いました。

「トモちゃん、そんに言ったらだちかん。お客様やで」

「これが冗談やってわからんようでは、そっちの方がだちかん」

「トモちゃんにかかったら、誰も彼もけちょんけちょんやンなあ」

「そんなことない。こっちの話はどうでもええがな。ひろしさん、今日も頑張ってなぁ」

トモちゃんがひろっさに言いました。ひろっさのことを「ひろしさん」と呼ぶあたり、トモちゃんは少しだけ、タケシさんよりはひろっさに対してよそ行きな態度です。

「なんよ、おまん、俺にはおまん呼ばわりで、ひろっさにはひろしさんって」

タケシさんが冷やかし半分、ひがみ半分で言いました。それを聞いていたひろっさが、

「おまん、楽しそうやし。二人ええコンビやンなぁ」

と言いました。

「私もさっき、そう言ったばっかなんや」

ひろみちゃんも言いました。タケシさんがひろっさに、

「こんに苛められて、何が楽しい。おまん、もうええろ。早う屋形に上がらんかい」

と言うと、

「なんよ、そんに根性悪言わんでもええがな」

「まだみんな上がる気配もないがな」

と、ひろみちゃんとトモちゃんの二人が、声を揃えて言いました。

「なんよ、おまんた口揃えて。どしてこう、ひろっさばっかり女の子に庇ってもらえるんよ。いっつも」

タケシさんが拗ねています。

「日頃の心がけの違いや」

トモちゃんが何の遠慮もなく言い放ったところで、屋形のあたりが急にざわつき始めました。

「おまん、今度こそ始まるンないか?」

タケシさんが言いました。

「お、行ってくるわ」

と、笛を握った手を軽く上げて言ったひろっさを三人で見送ると、周囲はいよいよ、ざわざわと浮き立った雰囲気が満ちて来ました。お囃子を待ちかねている踊り手たちも、屋形に上がった人たちに声をかけます。

今年初めての踊りが始まろうとしています。

ひろみちゃんは、屋形に上がったひろっさを見つめていました。

―やっぱり、ひろっさはかっこええなぁ。

その気持ちに変わりはありませんでした。ただ、以前のように強くあこがれる気持ちとは、ちょっと違います。

―やっぱり、私は踊りが好きや。

ひろみちゃんはひろっさの笛を聞きながら思うのでした。

―踊りと、ひろっさと、究極の選択で、どっちか選べって言われたら、今なら躊躇いなく踊りや。こんに楽しいこと、他に知らんわ。もし、一生お預けやなんてことになったら、そん時は死んだほうがマシや。

「踊り踊って嫁の口なけりゃ、一生後家でもササ構やせぬ」

春駒の一節を聞いて、まるで自分のことのようだと笑えてくるのでした。

ひろっさはひろっさで、久しぶりに見かけたひろみちゃんが、妙に色っぽく、あんなに綺麗な子だったかと気になって、いつものように笛に集中できずに困っていました。こんなことは初めてです。

―誰かいい人が出来たで、あんに綺麗になったんやろか。まさか、相手はタケシってことはなかろ。

こんなことばかり考えている今日のひろっさは、全くいつものひろっさらしくありません。いつの間にやら立場が逆転してしまったことは、誰も、当の本人たちも気づいていません。もしかしたら、今度こそが、ひろっさの遅い遅い初恋なのかもしれません。

ひろっさの悶々とした気持ちなど、全くお構いなしに、発祥祭の夜は例年通り、楽しく賑わしく更けて行くのでした。

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