第159話『その怒りは誰のため』
暗闇が、ゆっくりと切り開かれる。
ぼやける視界が何を映しているのか、ノアにはしばらく分からなかった。
ただ、誰かが目の前にいる。
分かるのはそれだけだった。
「ノア様!」
声が聞こえた。
幼い頃からずっと聞いてきた声だ。
ずっと隣にいた、彼女の声。
「あ、ここは……」
視界がようやっと回復してきた。
クリアになった視界の先には『戦闘不能者休憩所』だと分かる天井を背景に、糸目の女性がノアを覗き込んでいた。
「リビエラ……」
幼馴染で、今では妻となった女性の名を呟いた。
それだけでリビエラは安堵し、微笑んできた。
微笑み返すのも嫌になるほど全身が痛い。
魔法によるダメージではなく、あのレヴァン・イグゼスに殴られ続けた物理的なダメージだから、そう簡単には抜けない。
レヴァン・イグゼス?
……あぁ、そうだった。
「……負けたんだったな、僕は」
「はい、残念ながら……」
笑みを消し、悲しい表情でリビエラが言った。
その顔を正視する気にはなれず、ノアは近くの窓に目を逸らす。
すでに外は日が落ちかけていた。
自分がどれだけ眠っていたのかが分かる。
一度息を吸って、小さく吐く。
そして、考えたくない先の話を考えた。
ノブリスオージェ家に、両親にどんな顔をして会えば良いだろう?
昨日の時点でレヴァン・イグゼスの『78』という数値は報道されている。
『980』もの数値を持つ自分が負けて良い相手ではなかったのだ。
なのに手も足も出ずに惨敗。
くそ!
こんな失態を犯して、どう言い訳すればいいんだ。
あんな惨めな、無様な姿を、両親に見せることになるとは。
こうならないためにグランヴェルト様に手解きを受けたというのに。
くそ!
くそ!!
あの男に、レヴァンに!
奴にただの一太刀も返せなかった!
しかも奴は、完全に手加減していた!
この『剣聖』の名を持つ自分を相手に!
甦る数時間前の屈辱に、怒りまで蘇り始めた。
ノアは歯を食い縛り、拳は石をも砕くつもりで握り締めた。
強ばらせた全身が痛むが、もはや無視する。
「ノア様……」
「わからない」
「え?」
「レヴァン・イグゼスの方が特訓で強くなっていたのは理解していた。だけど、こんなにも差がついたのは何故なんだ」
「それは……」
リビエラは俯き、それ以外応えなかった。
言いづらいのかもしれない。
自分とレヴァンの差は、とうに奴が答えているのだから。
『俺とシャルの元に来てくれた子供のおかげだ』
そう、子供だ。
たがだか16歳の小僧が、子供のおかげで強くなれたなどとよくほざく。
だが、そんな奴に惨敗した事実は消えない。
自分にも優秀な子供が産まれていたら、レヴァンに負けないくらい強くなっていたのだろうか?
それほどまでに愛してあげられたのだろうか?
当然だ。
優秀な子供だったならば、必ず愛していた。
これだけは胸を張って言える。
優秀な子供だったならば。
それ以外の子供には用はない。
なのに。
「リビエラ。『78』の子供に母乳を与えていたのは何故だい? あれはもう僕と君の子供じゃないと言ったはずだ」
「っ! で、ですからそれは、あの子が泣きやまなくて、仕方なく……」
「どうして放っておけない? 最初の女の子にも定期的に顔を合わせているようだが?」
「!」
リビエラは前にも一度女の子を出産している。
名前はたしか、リンヴェルだったか?
自分とリビエラの初の子供になるはずだったのだが、あの子も『スターエレメント』を持たないで産まれ『教会』送りになった。
「リビエラ、君は母性の塊だ。自分の腹から産まれた子供を愛しく思うのも分かる。だけど割り切らないとダメだ。君の御両親も、僕の両親も、あの子たちが『無能』だったと知ってどれだけガッカリさせたか覚えているだろう?」
言ってリビエラを見ると、リビエラは俯いたまま、少し身体を震わせていた。
「ち、違います」
「え?」
「自分の腹から産まれたから、愛しいんじゃ、ないんです……」
掠れそうなほど小さな声をリビエラは震えながら絞り出してきた。
「ノア様との……ノア様との子供だから、私は……」
言われたノアは、そのリビエラの言葉を理解する前に、ある事に気づいた。
俯いたリビエラの顔から雫が落ちている。
ノアは、それに驚愕を隠せなかった。
あのリビエラが泣いている!?
彼女とは3歳の時から一緒だったから、付き合いは長い。
その20年以上の付き合いで、リビエラが泣いたことなど一度もなかったのだ。
いつもニコニコしてて、後ろを付いてくる。
ノア様ノア様と。
だからこそ、今のリビエラの涙が信じられなかった。
「リ、リビエラ!? 君は……」
慌てて声を掛けようとした時、この『戦闘不能者休憩室』の扉がバカン! と荒々しく蹴り開けられた。
何事かとノアは反射的に痛む身体を起こしてベッドから飛び降りた。
そのままリビエラを守るように前に立ち、礼儀の知らない来客に視線を向けた。
相手は、あの赤い髪の。
「邪魔するわよ」
赤い髪の女ライザ・ベオウルフだった。
エルガーの魔女が、いったい何しに?
「ライザ様!」
「……リビエラあんた、また泣いてんの?」
……また?
「あ、いえ! こ、これは目にゴミが入って」
「あんたみたいな糸目でゴミが入るわけないでしょうが。それよりちょっと出てってくんないリビエラ?」
「え?」
「ちょ~っとこいつと二人っきりで話がしたいのよ」
ライザが悪い目付きを更に悪くして此方を睨み付けてくる。
その視線に冷やりとした寒さを感じ、思わず睨み返してしまう。
「え、で、ですが」
「早く出てってリビエラ。別にやらしい事はしないわよ」
「……いったい、なんの話を?」
「説明が面倒だから早く出てって」
「ちょ、ちょっと待ってくださいライザ様! そんないきなり出てってと言われても!」
「じゃ、強制退場してもらうわ。エルガー! それと一緒にいるバカップル!」
ライザが蹴り開けた扉に向かって呼び掛けた。
すると、やれやれと言った様子でエルガーが現れた。
その彼の後ろには、まさかのレヴァン・イグゼスとシャル・ロンティアの姿まであった。
「な、レヴァン・イグゼス!」
「シャル様……」
意外すぎる来客にノアとリビエラは息を呑んだ。
なんで奴らとエルガー達が一緒に?
レヴァンはノアをちらりと見るだけで、特に何も言わず。
シャルの方もまた同じだった。
「どうしてここへ。まさか僕を嘲笑いに来たのかい?」
「……そのつもりだった」
レヴァンが素っ気なく返すと、ライザがダンッ! と床を蹴った。
「喋ってんじゃないわよ。早くリビエラを連れてってくんない? 邪魔なんだけど」
「ライザ。あんまり手荒な真似はすんなよ?」
エルガーの忠告にライザは肩を竦め「さぁ? どうかしら」とだけ返した。
やれやれと溜め息を吐いて、エルガーはリビエラの背を押した。
「おら。今は大人しく出てくぞ」
「リビエラさん。こっちです」
レヴァンが扉をしっかりと開けてリビエラを通りやすくしている。
シャルはリビエラの手を握り、戸惑うばかりのリビエラをゆっくりとエスコートしていった。
彼らがリビエラを連れて出ていき、扉がゆっくりと閉められる。
部屋にはノアと、正面に立つライザだけが残った。
いったい、何の話だろうか。
疑問を抱えながらノアは、ベッドに腰を下ろそうとした。
その時だった。
ライザに顔面を思いっきり殴られた。
あまりに突然で、踏ん張る間もなくノアはベッドに座るどころか、床に倒れ込むことになった。
殴られた頬に激痛が走る。
頬を押さえて、倒れた身体をなんとか上半身だけ起こした。
前を見れば、そこにはライザがこちらを見下している。
影の掛かった顔は、目が据わっていた。
彼女は、ライザは、怒っていた。
いったい、なぜ!?
「あんたさぁ……リビエラを何だと思ってるわけ?」
怒りを滾らせたライザの最初の一言が、それだった。




