第143話『涙の理由』
「リビエラ。あんた身体は大丈夫? ちょっと職場復帰早すぎんじゃないの?」
時刻はいよいよ夕方。
『教会』にあるリビエラの仕事部屋にやってきて、ライザが最初に言ったのがそのセリフだった。
リビエラが妊娠中だったころずっと面倒を見てくれたのがライザだ。
そんな優しい来客にリビエラは椅子から立ち上がって歓迎した。
「ライザ様! 心配して来てくださったのですね。ありがとうございます」
「別に? ノアにあんたの面倒を頼まれてるから仕方なくよ。お金もらってる以上はちゃんとやらなきゃいけないし」
表情ひとつ変えないで素っ気なく言い返すライザだったが、それでもリビエラは嬉しかった。
妊娠中はずっと側にいて面倒を見てくれた彼女は、確かに言葉使いも悪く、お世辞にも教養の良い方ではない。
だがそれ以上にライザは正直なのだ。
自分とはまるで違い、嘘っ気がまるでなく、話せば話すほど好きになった。
出来ればこのまま友人になりたいほどには。
「ライザ様。明日の試合が無事に終わったら、一緒に食事でもしませんか?」
「奢りなら付き合うけど?」
「もちろんですよ」
「……あんた、なんか疲れた顔してない?」
ライザがリビエラの顔を覗き込みながら言ってきた。
どうやら顔に出てしまっていたようだ。
「え? い、いえ。そんなことはありませんよ?」
正直なところシャル・ロンティアの件で疲れていた。
あまりにもしつこく、あまりにも引かない彼女のせいで。
わかったように、人の心を抉ってくる彼女には本当に疲れさせられた。
「ふーん。それより聞いた? あのレヴァンってガキの『潜在能力値』」
「え?」
「『78』だってさ。信じられる? あんな数値のガキに今までやられてきたってことよコレ」
ライザの言葉を聞いた瞬間、思考が止まった。
『78』!?
あの子と同じ数値!?
こんな偶然があるのだろうか!?
「そ、そんな数値であれほどの……何かの間違いでは?」
「アタシもそう思ったんだけど、あのサイスとベルエッタも測るところを付き添っていたから間違いないらしいわ。現にサイスが血相変えてグランヴェルト様に報告してたし」
『潜在能力値』が『78』でもあれだけの戦士になれるというのか!?
だとしたら、あの子にも可能性があるのでは?
「どうしたのリビエラ? 顔色悪いわよ? 具合悪いなら休みなさいよ」
「あ、いえ、その……あの子と、同じ数値だったので、ちょっと……」
「あの子? ……まさか、最近産まれた赤ちゃんのこと?」
「はい。あの子もレヴァン様と同じ『78』という最低な数値を持っていました」
「ふーん。じゃあ『教会』送りにされたのねその子」
「……はい」
「ノアの奴はそのへん厳しいからねぇ。ノアのおかげで『ノブリスオージェ家』の名も上がってきたから優秀な跡取りが必要なんだっけ?」
「そう、ですね」
そう、跡取りだ。
愛しいノア様は、数値の高い跡取りを欲している。
優秀な子供を。
でも、私は……。
「リビエラ? いるかい?」
部屋の扉がノックされ、同時に聴こえてきたのはノアの声だった。
「ノア様! どうぞ開いてますよ」
「お邪魔するよ」
すると入ってくるノアと、そしてもう一人のエルガーも。
どちらも軍服を身に纏っている。
「よぉ。なんだライザもいたのか」
エルガーが言った。
「いたら悪い?」
「んなこと言ってねぇだろ?」
そんなやりとりをするエルガーとライザを避けてこちらに来たノアがリビエラの頬に手を添えてきた。
彼の温かい手の温度が頬に染み渡る。
「リビエラ。身体は大丈夫かい?」
「御心配ありがとうございますノア様。私は大丈夫ですよ」
「そうか、なら良かった。明日は大事な試合だ。負けるわけにはいかない。だからよろしく頼むよリビエラ」
「はい! あなた様のためならば」
リビエラはいつもの通りに笑顔で返した。
ノアも微笑み、優しくリビエラの頬を何度が撫でてから手を離す。
「それじゃエルガー。明日の戦いについて少し話そう」
言って部屋を後にしようとするノアに慌ててリビエラは彼の袖を掴んだ。
「あ、あのノア様!」
「ん? どうしたんだいリビエラ?」
「レヴァン様の数値を、御聞きになりましたか?」
「ああ、確か『78』だって聞いたよ」
「あの子と、同じ数値なんです」
「そうだね。こんな偶然もあるもんだね」
まるでとるに足らないと言った感じで返事をしてくるノア。
それでも構わずリビエラは続けた。
「あの……」
「なんだい?」
「レヴァン様はあの数値であれだけの戦士になりました。ならば、あの子も、もしかしたらレヴァン様のような戦士になれるかもしれません」
「そうかもしれないね」
「で、でしたら、その」
どうか、この手で育ててあげたい。
そんな言葉が喉まで出かかっていたが。
「リビエラ。あの子の事は忘れるんだ。もう僕と君の子供じゃない」
あえなく喉の奥にしまい込めさせられた。
「で、ですが!」
「レヴァン君はあくまで『例外』だよリビエラ。無能の中でもたまたま伸びただけの『例外』だ。それに『78』の数値しかない子を跡取りにはできない。この国の男の子は数値こそ全てだ。分かるね?」
社会は数値でしか人を見ない。
そんなことは分かっている。分かっている。
「……はい。わかります」
「もう一度がんぱろうリビエラ。また僕の子供を産んでくれるね?」
「もちろんです。あなた様のためならば、何人でも……」
嘘はなかった。
彼との子供ならばいくらでも産みたい。
それぐらい、ノアの事を愛しているのも事実なのだ。
愛して、いるから。いるからこそ、なのに。
「さ、いこうエルガー」
「……ああ」
ノアとエルガーは別の部屋へと移動してしまった。
夕日の光が差し込むこの部屋には、リビエラとライザだけが残される。
「やれやれね。熱いとこ見せつけてくれるじゃない」
ライザが茶化すようにリビエラに言った。
「そ、そんなことは。普通ですよ」
そう言って振り向いたら、ライザの顔が驚愕の色に染まった。
「え、ちょっとリビエラあんたっ!?」
「え?」
ライザが何に驚いているのか、分からなかった。
しかし、頬を伝う生暖かい温度を感じて、リビエラはそこに手をやった。
少し撫でて、手を見やると、その手は濡れていた。
「──え、あれ? な、なんで、これ、なんで……?」
それは間違いなく涙だった。
それも自分の流している涙だ。
しかもその涙は止まらない。
止めどなく溢れてくる。
「ど、どうして、これ、どうして……止まらない、なんで……」
手の甲で何度拭っても、涙が止まることはなかった。
どうして、こんな。
「リビエラ、あんた……」
「ご、ごめんなさいライザ様。め、目が疲れたんでしょうか、すみません」
すると、ライザにいきなり腕を引っ張られ、そのまま引き寄せられると、ライザはリビエラを抱き締めてきた。
温かく、柔らかいライザの胸に、リビエラの顔が埋まる。
「っ!? ラ、ライザ様!?」
「ごめん。慰め方とかアタシ知らないから、これで我慢して」
口調は相変わらず素っ気なく、それでも優しく抱き締めてくれているライザ。
背中をポンポンと叩かれ、本気で泣きそうになる。
「……、ふ、ふぅぅ……く、ぅぅ……ご、ごめんなさい」
「謝んなくていいから。ほら、泣きなさいよ。……アタシはあんた達の事には口出せないし、こうしてやる事しかできないから」
泣きなさいよ。なんて初めて言われた。
こんな言葉が、今は無性に嬉しい。
「ライザ様……ぁ、ありがとう、ございます……」
「いいからさっさと泣きなさいよ。……全部受け止めてあげるから」
最後の言葉だけ、ライザらしくない優しい口調だった。
それがトドメになって、リビエラの涙腺はついに決壊した。
愛している人だからこそ、その間の子供も愛しい。
だからどれだけ子供が『無能』であっても、本当ならうんと愛してやりたい。
でもそれをノアが望んでいない。
彼が望んでいないのならば、仕方ない。
仕方ないと言い続けて、彼に尽くせばいいだけの事ではなかったか?
割り切っていたはずなのに、どうして涙する。
子供を棄ててまで守らねばならない家名とはなにか?
愛する人との子供を愛して何が悪いのか。
だからそれは、ノアが望んでいないから……。
『嘘つかないでください! 本当に愛していなかったら、あんな『母親の顔』なんて出来ないはずです! あの時のリビエラさんは素敵でした! 本当に聖母みたいな感じで、赤ちゃんが愛しくて愛しくて仕方ないって顔でした』
『ノアさんの事を愛してるんですよね? 大好きな人との子供だから本当はいっぱい愛してあげたい。それがあなたの本音じゃないんですか?』
『私は、リビエラさんが『グランヴェルジュ』と『ノア』さんに従って自分をすり減らしているように見えるんです。あなたが一番、傷ついている』
シャル・ロンティアに言われた言葉が鮮明に甦ってくる。
分かったように言って!
たかが16の小娘のくせに。
小娘の、くせに……。
リビエラはライザの胸に顔を埋めて、精一杯の嗚咽を漏らし始めた。
涙が枯れるまで、リビエラは身を震わせて泣き続けた。




