仮想現実
今日は、指定時間内に仕事コールがなかったので、Nは街に出かけた。マユタワーから与えられる仕事は気晴らしにはなっが、それでも、仕事を継続していこうとか、社会に貢献していこうとかいう気持ちはない。Nは自分が何を求めているのかもわからず、仕事がないときは、街を歩き回るのだった。
地下にむかって拡大した街並みは清潔で、緑にあふれ光が満ちている。エスカレータのプラットフォームはすべての階を突き抜ける吹き抜けの下に作られている。吹き抜けの天井から地上の光が取り込まれ、装置により増幅されて穏やかな自然光のように調合された光だ。街にはオフィス、カフェ、酒場もあり、人々が集う街の様子は楽し気でにぎやかである。
Nが降り立ったプラットフォームから続く街には、最新技術の設備を備えたVRゲームセンターができていて、脳への直接刺激により、五感や、痛覚、筋肉への負荷といった感覚まで体現できる。数人でロールプレイゲームのVR空間で遊ぶことができるため、いつもたくさんの人が行き交っていた。不確実性が少なくなった世界では、非現実を自分に都合よく体験できるVRを求めに人はやってくる。人間の暗い欲求を満たす仮想現実プログラムまで実はあるらしい。合理的な社会論理と科学技術の陰で人間の理性は薄っぺらになっている。
Nはにぎやかな通りの一番はずれにある古いVRゲームセンターに入って行った。ここの装置は旧式でプログラムも地味なものばかりのためか、いつも客は少ない。隣のブースに一人いるだけで、一列にならんだブースはみな空いている。Nはプログラム選択パネルから宇宙空間VRゲームを選んだ。すぐに、無音の仮想宇宙空間に放り出され、宇宙ステーションの外で作業するというゲームに入った。
無音とは安上がりなVRだと、まだ浸りきっっていない脳の片隅で考えていると、宇宙船が目の前に迫って来て、衝突する寸前のところまで来ていた。車だって衝突防止装置があるのだから宇宙船もと思うが、どうも宇宙空間では簡単に止まれないようでゆっくりとこちらに向かってくる。仕方なく、宇宙服の小型ロケットを噴射し、宇宙船の壁を蹴った。もちろん、その操作は誤りで、反作用のためNは瞬く間に宇宙船から引き離され、宇宙空間をただよう羽目になった。
遠くに貧弱な星を一つ二つ見せた真っ暗な空間が再現された。無重力感は十分でていて、はじめはおもしろかったが、なかなかタイムオーバしない。次第に、一生このままではという恐怖感が襲ってきたところでやっと、ライトが点り現実にもどった。
空虚な疲れとともにブースを出ると、VR空間にいた時の血圧、脈拍、消費カロリーといったデータが自分の端末に送られてきた。腹だった気持ちで、急に上がった脈拍や心電図データを消していると、「何のプログラムに入ったのですか。客は私たちだけでしたね。」と後ろから声がした。丁寧な言葉使いに振り返ると、ほっそりした体つきの若者が立っている。Nが不審な顔をしたに違いない、すぐに、
「マユタワーの住人です。覚えていないと思うけど、この前、フロア電源故障のときに一緒に作業しました。」と言った。
Nは、あのときに他に二人のマユタワー住人が手配されて来ていたことを思い出した。そのうちの一人だ。帰り際に、少し前のエスカレータ ステップに乗っていて、その背中を見ていのだ。
「ああ、あの時のひとか。あそこは辛気臭いプログラムばかりだからね。その辛気臭い宇宙空間VRに入っていたんだけどね。あんたは?」とNは聞いた。
「わたしは、ヤマノボリVRです。」と恥ずかし気にいった。「運動不足なもので。」と付け加えたので、つい、Nは笑ってしまった。
「あんたも辛気臭いうえに古臭いね。VRじゃ運動にならないだろう。」というと、
「いえ、結構負荷がかかった感じがして、足が重くなったり、息がくるしくなったりするんですよ。それに今じゃ本当のヤマノボリはできないですからね。」と答えた。
「わざわざ、VRで苦しくなりに行くというのも変わっているね。」
「ええ、ヤマを見たくなったんです。どんなものかって。それに、なんか肉体的な実感がほしいかったので『ノボリ』もつけて、ヤマノボリを選んだわけです。まあ、VRで実感ってへんですがね。」と言った。
「実際にしたことがあるのか。」とNは尋ねた。ヤマノボリという語感に、時々Nの夢に出てくる得たいの知れないものと同じような古臭いが懐かしさを感じたのだ。すると若者は「いえ、したことはないんです。ヤマノボリって語感が気になって。他のVR屋ではありませんからね。こんな古臭そうなのは。」と言った。
自分以外にも、へんなものにこだわるやつがいるなとNは思った。マユタワーで初めてできた知り合いだった。