青い影
Nが次に仕事に駆り出されたのは、3日後であった。朝一番にカプセルの壁のランプが点灯した。目覚まし時計と勘違いして、寝ぼけたNは受諾ボタンを押してしまった。キャンセルボタンというものはない。「目覚まし時計」とは何だろうか、Nはそんなものを使った経験もなかったが、夢の中では、はっきりと目覚まし時計とわかることが不思議だった。それも、具体的な形を見たわけではない。
また、厄介なものが夢にでてきた、とNは思った。これで、しばらく「目覚まし時計」なるものが頭からはなれなくなる。Nの夢の中には、形をあらわさない何かが時々でてきて、しばらくの間、Nを悩ますのだ。
とにかく目覚まし時計に起こされたNは身支度をして、シャッタードアから出た。マユタワーはロボット管理システム管理下におかれているため、人の姿を生身であろうが、アンドロイド型であろうが、ほとんど見ることがなかった。そして、利用するにあたり、何の制限も、何の注意も受けていない分、不気味であった。指示に従うしかない。
Nはマユタワーから一般通路への下りエスカレータに乗り換えるところだった。この街では、移動手段はすべてエスカレータを利用する。光に満ち溢れるエスカレータ空間は街の中心であり、若い人たちの、笑い声や話し声がホールに明るく響き明る。しかし、朝早く現場へのエスカレータにNが乗りこんだときには、ホールはまだ静まりかえっており、モータの駆動音とベルトが回転する音だけが響いている。皆、宇宙へ飛び立つロケットにでも乗り込むクルーのように黙りこくって乗っている。
その時に、1つ下の階のプラットフォームからこのエスカレータに青い作業服の男が乗り込むのが見えた。その男は、Nの何人か前のステップに乗り、背中を見せていた。やはり全体が青みがかって見えた。Nはその男と間隔を保って、エスカレータを下っていき、指定されたエリアで降りたが、青い男は、そのまま更に下っていった。
指示されたエリアにつくと、そのフロアのエスカレータプラットフォームから水平に続く奥の通路が真っ暗である。暗闇の中で通路の床の中央に取り付けられた非常用の細い光のラインが遥か彼方まで一直線に続いていた。通路の両側には様々な会社のオフィスや店が並んでいるが、どこも真っ暗である。そして、あとから上ってくる人々がエスカレータプラットフォームに溜り初めている。
仕事自体は他愛ないものだ。照明システムが故障していて自動的に点灯しないだけである。警備ロボットがそのフロアに急行しバックアップ用照明システムのボタンを手動で、というと変だが、ロボットのアームの先で押せばいいだけなのだ。しかし、照明システムの故障時に過電流が流れ、充電器につながれていた警備ロボットをショートさせてしまった。
さらにその代理ロボがあるはずなのだが、整備不良で、スイッチが配置されている細い穴にアームの先が入らなかった。アームの仕様が古いままで交換されていなかったのだ。いつでも偶然が重なる。いつもだから偶然ではないが、そうなのだ。アームが抜けなくなったロボットは、くねくねとのたうち回っている。
そこで、マユタワー住人の出動となる。今回はNだけではなく、何人かが集められていた。それぞれに指示を受けているので、話し合う必要もなく、すぐに仕事に取かかる。あるものは、人々を上か下のエスカレータに誘導し、あるものは、非常用の照明をともした。
非常用照明により、少し見通せた通路の先にアームをを突っ込んだまま唸っている代理警備ロボットが見えた。Nはそこまで、非常用ラインに沿って歩き、ロボットの後方のカバーを明けて、リバース&リセットボタンを押す。そして、力いっぱい引っ張った。ロボットはアームの先が抜け、停止状態になった。それから、Nは自分の指をスイッチの穴に差し込み、バックアップ照明システムボタンを押した。
Nは自分が選ばれた理由が指の太さと関節先の長さのためだったと理解した。穴にぴったりだったのだ。これで完了だ。
普段、地下深くに人工的照明と複雑な管理システム環境下で暮らし、それを空気のように吸っている人々には、システムの実態がわからない。あまりにも巨大で複雑になっているのだ。普段は目にしない生々しいロボットが唸りながら体を振動させてバタついている姿を見れば、ロボットが誤動作を起こして攻撃されるのではないかと、無知は恐怖に変わる。それは、ロボットの反乱の前兆だとかデマが広がれば大騒ぎになる。
仕事が終わり、作業に従事したマユタワー住人は、帰るために上りエスカレータに乗った。最後に乗ったNからは2人の背中が見えた。口を利くことは無かったし顔も見たことがなかったが、この背中を覚えておきたいと思った。すると、二人の少し先に、あの青い男が乗っていたのだ。
彼が何をしてきたのかはわからないが、まったく無関係の者が、まったく別々の事をしていたはずなのに経過した時間が同じであったということだ。Nは緊急に呼び出されてロボットの指を引っ張っていたし、全く別々の空間にいた無関係な人だ。それなのに、起点と終点の時間がぴったり同じであることにNは不思議な感じを覚えた。彼の作業服が目立つので、まったくの偶然だが気になるのだろうとNは思った。