マユドコタワー
1.マユタワー
深夜の音もない暗闇の中の、ここは長い廊下である。夜時間になりライトが消され、今は非常灯のあかりが、数十メートルおきについているだけになった。そこに、突然、ぼーっと青白い光がともった。廊下の行き止まりの奥まったところからはみ出してきているのだ。
ぼーっとした光はその中心が次第に輝度をあげ、何かの形にゆらめいた。人の形だった。しだいにはっきりし始めた芯の形とともに、青い色は薄まり、そこには一人の男が立っていた。男は青い上下の作業服のようなものを着て廊下に現れ、音もなく歩き、エスカレータホールに姿を消した。
この長く暗い廊下は左右の壁が2段に分かれ、人が出入りできるくらいのシャッター扉がつけられている。それぞれのシャッター扉には番号が大きな文字で書かれている。扉はみな閉じられ廊下に人の気配はしない。
ここは単身者用の居住施設で高層のカプセルタワーである。「マユドコタワー」という名であった。旧世紀の人ならすぐに判るだろう。「繭床」と陰で呼ばれていたからなのだ。蚕の寝床という意味だ。そして、繭のようなカプセルがが最上階まで詰まったタワーは、そののち、もっと縮めて「マユタワー」と呼ばれるようになった。
繭の小部屋は人が横になるスペースとわずかの私物を入れる棚があるだけの最小限のものだ。それでも外側から見れば、この小部屋には、それぞれ小さな窓がついているのがわかる。海岸沿いのこの地区には、こうしたタワーが数棟あつまり、朝になれば、その無数の小さな窓に朝日があたり、光は窓で互いに反射しあい、朝焼けで真っ赤に染まり、その地区一帯が火に覆われ、タワーが火柱に包まれているように見えるのだ。夕焼けのときは、残照を背景にしたマユタワーは、ピンクから次第に焼け焦げた棒杭が林立ちするような黒い影に変わっていく。
この地区における社会エネルギーレベルは極小である。世帯を構成せぬ者、または捨てるか逃げるかして来た者に対し、政府は社会保護という名目で、この居住スペースを提供している。つまり明るい未来に向かって、世帯を構成して子孫をそだてるとか、定常的生産活動に従事するといった標準モデルを実践できない人々を集め、「把握しよう」としているわけである。しかし、これらの人々を「把握する」ことはむずかしい。何がこの人たちを標準モデルから隔てているのかを研究し利用価値を探ることも目的のひとつである。誰もが「社会の宝」として役に立たち活躍せねばならぬのだ。
2.住人N
マユタワーの最上階のカプセルにいたNは夢を見ていた。あの青い光が廊下の奥で光った丁度その時に、水中から水面へふーっと浮き上がるように意識が戻った感じがした。そして、またふーと水中にしずみ、水中の生活に戻っていくような感覚を味わった。
言葉をかえれば、浅い眠りから一瞬目覚めて、また寝なおしただけでのことであるのだが、夢の内容はすっかり忘れても、その水中から浮かび上がるような感覚がいつまでも残ったことを不思議に思った。
この感覚は前に覚えがあると考えていると、壁のランプが点滅した。このランプは作業の要請であり、受け入れるときは1分以内にボタンを押す必要がある。
Nはちょうど目が覚めてしまったから仕事にでも出ようと、ボタンを押した。仕事は地下街のエスカレータの清掃であった。
前世紀の予想通り、現在ではサービス、交通、事務などの定常的な仕事は大部分ロボット化されている。ロボットといっても、埋め込み型の指先くらいの小さなチップ型AIが脳となって様々な装置を動かしている。 チップ型ロボットも当然、故障する。不良品だったり、劣化したりして、突然だめになるのだ。そんな時のために、自動修復機能も持っているが、それも故障したり、破壊されたり、在庫がなかったりという理由で運用空白期間ができる可能性はある。
ロボットに依存した社会では、こうした、ひとつの微細なチップの問題が次々に問題を大きくさせ、竜巻的な破壊力に発展していく。小さな障害がもとになって、人々を恐怖と不安が襲い制御を失っていく。
一刻もはやく、対応しなければならない。そこで、マユタワーの住人が故障したチップロボットの代用として呼び出される。
政府は、マユタワー仕事斡旋システムを開発し、登録し出動要請に応えれば、マユタワーに居住できるようにした。 もちろん、呼び出される作業は他愛ないものだ。もともと大混乱の原因は他愛ないものから始まるのものだ。昔は人間の小さなミスが混乱や大事件の原因であったが、それがチップの故障に代わっっただけなのだ。従って今度は、マユタワーの人間がチップの代わりになればよいのである。
3出動
Nが呼び出されたのは、エスカレータのベルト清掃である。エスカレータロボットの自動殺菌機能が壊れたのだ。自動殺菌装置に障害が出るとディスプレイに表示される。すると、人々は感染症を恐れて、ベルトに手をのせることができなくなる。恐怖でちぢこまり、揺らいだ体は、エスカレータのベルトを掴んで支えることができずに倒れる。次々に上ってきた人、降りてきた人を巻き込む。それを見た途中の人々は、かれらは何らかの病原菌によって倒れたのではないかと、さらに恐怖が増幅し、しまいには、我先に倒れた人を乗り越えて、または、みずから、エスカレータの外側にダイブし、遥か下のビルの床にたたきつけられるのだ。
Nが指定された現場に到着したときには、混乱の竜巻の最初の渦ができ初めていたときだった。人々は叫びエスカレータの入り口に溜りはじめた。そのうち、人が通路にあふれ始め、通路制御システムは自動的に入場制限のための扉を閉めることになる。たいてい、1箇所で故障がおこるときには、その偶然性は科学的に未解明だが、別の場所でも起こることが多い。すると、さまざまなところで、シャッターが降りることになる。すると、複数のシャッターが降りたことを検知した出入り口管理システムが、疫病の発生かガスの発生を想定した動作モードにかわり、人々の逃げ道を塞ぐ。こうして、たかが、エスカレータのベルト殺菌ができなくなっただけで、不安と恐怖は頂点に達するのだ。
Nの生きている社会では、人間の誤判断を避けるために精密極まるアルゴリズムのもとに社会は管理運営されている。小さな問題から発した混乱が大きくなる状況が続けば、監視システムが警告を発し始める。さらに混乱エネルギーが制御不能になり極大に達すれば、「人類文化の存続モード」という究極のモードにシステムが自動的に移行してしまう。これは、ごくわずかの選抜された人のみを生き延びさせるというシステムである。そうなれば、ほとんどの一般人は援助の手も差し伸べられずさまようしかなくなる。できの悪いアルゴリズムに依存する制御といえば、所詮、こういった結末になるものだ。
4作業
だから、緊急に誰かがエレベータのベルトを殺菌をしなければならない。
到着したNは、さっそく、背中に「エスカレータ殺菌中」というLED文字を貼り付けたベストを着込んだ。バケツに殺菌剤を投入し、雑巾に含ませて、それをエスカレータのベルトに押し付けた。これをエスカレータの運行に任せて一周させればいいだけなのだ。
たったこれだけのことで済むのに、人々は、細菌の培養体である、びちゃとした感じの雑巾などに近寄ることもできない。ロボットにしても、雑巾に一定の水分を残しながら、指の間から不要な水分を流し絞るという高度の技術が兵器技術に通じるとのことで、製品化を禁止されている。そこで、マユタワーの住人に仕事がまわってくる。
人々はNの背中に光るLED文字を見て、平静を取り戻し、Nの脇からエスカレータに乗っていく。Nの持っている雑巾からは目をそらし、雑巾によって除菌されたベルトに掴まって行くのである。こうして雑巾を押し付けて何周目かしたときに、頭上のディスプレイに「殺菌システム復旧」という文字が点滅した。
仕事モードから解放されたNは、ベストを脱ぎエスカレータのフロアに出た。今回はおおきな事故にならなかったので、Nは大量ポイントをゲットできたはずだ。ポイントが何の役にたっているかは知らないが、とにかく加点されるのだ。
5青い作業服の男
エスカレータフロアーから上り下りのエスカレータが並行して長く伸びている。エスカレータは地下に向かって、縦方向にいくつものフロアを一直線に貫いている。途中のフロアごと乗降用プラットフォームが作られ、そこから水平に広い通路でフロアの奥へ向かっている。いまや、地上大気は予測システムの予想をはるかに超えて荒れまくり、地上建築物の構造は自然に対し限界に達している。地上に建つビルは、特別な人だけが住める強靭な合金材による超高級ビルか、マユタワーのような立替できずに置き去りにされたビルだけである。人々は、より地下深くに生活圏を延ばし、街の中心に設置されたエスカレータで移動するのである。
自分のマユタワーに戻ろうと、別のエスカレータに向かったNは、そのエスカレータ脇で、所在なさげに立っている青い作業服を着た男を見た。というより、なんとなく誘導されたように見てしまったと言ったほうがいい。その男は光を帯びた青い服のせいか、全体に青く透けた感じがした。
Nは自分が見られたように感じたが、その男はNを見ているわけではなく、何かを探して目をうつろに泳がせており、Nと目が合うことはなかった。その男は、壁際にある地上へのドアに向かった。ここは地上空間へ、つまり屋外へでる口で、立ち入り禁止の出口である。短い階段があり、その先に距離をおいて2重の自動ドアがある。そのドアとドアの間で、気圧の調整や外気の殺菌を行うのだ。特別なごみを搬出するとき以外開けられないはずだ。
Nは少し気になったが、疲れていたこともあり、自分のマユタワーのカプセル891番へ戻るエスカレータにのった。