walk - 一歩
僕は、相変わらずだ。
相変わらずだめな奴で、だらだらと意味の見いだせない日常を送って、人間をとり囲むのも囲まれるのも億劫に思って、関わるのも関わられるのも煩わしくて、相変わらずここに来る。
あの時彼を悲しませたのに、僕の足はまたここに向かう。
鈍感な足だ。
「やあ」
彼は僕を見るなり、いつもと同じ台詞で迎えてくれた。
僕を待っていると言っていた彼が、僕の暴言をうけて考えを改めるのではないかとは、爪の先ほども思わない僕の頭だった。なんておめでたいのだろう。失笑ものだ。
「どうしたんだい、そんな薄笑いを浮かべて。珍しいね」
「なんでもないよ」
彼のような柔和で知的な微笑は僕にはできない。真似たところで今のように薄笑いと彼に言われる始末だろう。
それでいいんだ。僕は。
彼の目は本当に曇りがなかった。
彼は白のシャツを羽織っていなかった。
ここは特に暑いとか寒いとかの気温変化はないので、彼の微妙なファッションチェンジは完全に彼の気分によるものだった。それも楽しいときは白シャツ、悲しいときは黒Tシャツなどという規則性もみられない。
もっとも、僕がそう感じているだけであって、彼には今日がいつもより暑いのかもしれないけれど。
感覚は事実に劣る。そう彼が言った。
なにもないこの場所には、正確な気温という事実はない。
だからわからない。
彼は見事に、彼の生身が見えている部分だけが白であとは全部黒という容姿だった。彼の細身のシルエットをより引き締める黒。
手の甲まで隠す長袖がなんだか色っぽいとも思ったが、てらてらひかる手錠が空気を読めていなかった。
彼は手に本を抱えていた。
「どうしたんだい?」
「あ、いや、なんでもないよ」
僕ののっぺりとした視線に気付いたものの、彼は僕に微笑みをひとつ投げかけて、開いた本に目を落とした。
青空が見えなくなる。一瞬で山際にいってしまって、かわりに分厚い雲がぞろぞろと連れだってきた。雨こそ降らないけれど。
僕は立ち尽くすしかなかった。
怒っているのだろうか、やっぱり。
彼が、僕を好きだと言って、僕を待っていると言って、僕にそっぽを向かれたら消えるかもしれないとまで言った彼が、僕そっちのけで読書に没頭している。
それは僕に対しなんらかの感情の変化がなければみられない行動だ。
だが、怒りとか、そんな感情は、彼は持たない気がした。だって彼のからだで黒いのは衣服だけだ。
だから彼が今穏やかに読書をしているのは偽りの仮面ではないし、僕を懲らしめてやろうという卑しい魂胆もないはずだ。いや、ない。
わからないことばかりのはずなのに、彼のことは断言できる。
証明する事実なんてひとつもないのに。
だから僕は立ち尽くした。立ち尽くすしかなかった。
僕の髪は黒く、目も、服も、靴も鞄も、中身も、すべて黒く濁っているから。
読書をする彼。突っ立ったままの僕。
同じ静なのに、こうも違う。彼が纏うのは清々しい静寂なのに、僕に纏わり付くのはじれったい沈黙だ。
彼はその差異を気にも留めていないようで、焦っているのは僕だけだった。
でも、焦ったところで僕には何も出来ない。
僕がやれることと言えば、踵をかえすことだけだった。彼に背をむけて、相変わらずの無為な日常にかえること。
仕方ないんだ、もともと青空に手は届かない、とおくに行ってしまったなら尚更だ。
僕は彼といっしょに居るべき人間じゃない。
そんなこともうずっと前から分かってた、僕なんかは釣り合わない。
彼が僕を見てくれていたのは奇跡なんだ。あるはずのない奇跡だったんだ。だから悲しむ必要はない。僕は悲しまない。
そういえば、ここは影ができないなと、ふと思った。
曇天だ。
太陽が出ていない、だから影ができない。なんだ、上を見なくたって事実はそこにあった。青いのは彼の目だけだって。
影のない僕の手の平はのっぺらぼうみたいだと思った。
僕は沈黙のまま、彼に背を向けて、
「…行ってしまうのかい?」
淋しげで、どこか甘えるような声音に、少し驚いた。
その声を跳ね返す強さを、僕の丸まった背中はもっていない。
むしろ何の抵抗もなく吸収した。待ち侘びていた。
彼が僕をみてくれるのを待っていた。
何もできなかったのではなく、何もしなかった。
ただ彼が彼の意思で顔を上げてくれるのを待っていた。そしてその時の彼の視界に僕が入るのを待っていた。青い目に僕を映してくれるのを待っていた。
そうしたら僕も晴天になれる気がして。
彼を待っていた。
彼がいつも僕を待っているのとは、全く違う。
僕は振り返ることができなかった。
なんて臆病で卑怯なんだろう。わかっていてもやってしまう、目をつぶっている僕は、最低なやつだ。
「僕は君に嫌われてしまったのかな」
耳に入ってきたのはそんな台詞だったけど、僕にはあの時の彼の言葉が蘇ってきこえた。
「違う!」
産毛をさかなでるように恐怖が駆け上がるから、僕は彼のいるソファーに駆け寄る。
「嫌いなわけない。そんなことあるはずない」
彼の青い目を近くで見る。彼の青い目は近くで僕を見た。
「消えるなんて言わないで」
満足していた。
僕は、彼に縋った。
「君は心配性だね」
彼はやっと微笑んだ。柔らかくて温かい、いつもの彼だ。
「…いや、それは僕の方だね。君はもう僕に関心がないのかと思っていたんだよ」
彼もずっと僕を待っていたみたいだ。
同じようなことを思っていたらしい。彼と僕という根本的な差は前提にあるけれど。
彼に気を遣わせてしまった自分が情けなくて、強く言い切った。
「そんなことない」
こんなんじゃ怒っているみたいだな、と思った瞬間に、頬に温かいものが触れる。
彼の清廉な手だ。
「でも、よかった」
彼は微笑んでくれた。この僕に。こんな僕に。
「僕は、君がここに来てくれるだけでうれしいんだよ」
彼の親指が頬を撫でる。まるで涙をふくように。
僕は泣いてはいないのに、その見えない涙を彼はぬぐう。
本当に参った。そんなことを君に先に言われてしまったら、僕はもうなにも言えないじゃないか。
ただただ、体があつくなった。
目頭も鼻の奥も耳たぶも指先も胸も腹も足の裏も、急に発熱して風邪をひいたのかと思うくらい。
「おいで」
彼に肩を抱かれ、彼とほとんど間隔のない位置にお尻を下ろす。ボロボロのソファーはそれでも、しっかりと沈み込んでは少し反発してくれた。
彼は先程まで読んでいた本を掲げてみせた。
「×××という詩人の作品集だよ」
その名前にはまったく聞き覚えがなかった。それもそのはず、僕は芸術や文学にはあまり興味がなかった。
でも彼が言うから、手渡されたその本を開いてみる。
短い詩が多かった。ひとつひとつじっくり見たわけではないけれど、行間のわりに書かれている文字数が極端に少ない印象だ。挿絵もない。
寂しい詩人だな、と、率直に思った。
あたたかくなっていた下腹がきゅうと痛くなった。
ぱらぱらとめくると、空白のページがでてきた。章がかわっているとかそういうことではなさそうだ。ミスだろうか。
「そのページ」
静かに口を開いた彼の解説は意外なものだった。
「それは作品の本文さ」
「本文?なにも書いていないのに?」
僕は彼の顔を見る。彼は愉しそうに微笑んで、僕の手のなかの本をめくった。
「これは胸中という作品のいちぶだよ。ごらん」
彼の開いたページにはタイトルとして『胸中』の二文字が書かれ、そのあとに本文がはじまっていた。
胸中
わたしは見る。
朝もやのなかの葦
羊雲と鰯雲
夕立のなかの桜桃梅
しじまの星も
ああ、
そのあと見開き2ページ分の空白があって、最後には『ああ、わたしは見た。』と締められていた。
「不思議な作品だと思わないかい?」
空白のページをみつめて、彼は悠然と言う。
僕はこの詩が不思議なのかどうかすらわからなかった。そもそもこれは詩なのかと、その段階に疑問を抱いた。この空白の必要性は?現代文でいう、行間を読めってことなのだろうか。
ただ僕の頭はそこまで賢くも優しくもできていない。
「よくわからないよ」
素直な感想だ。彼はくすりと笑った。
「そうだね、わからない。だって書いていないんだからね」
彼も僕と同じなのだろうか。
でも彼は僕と違って、この作品に肯定的だ。それは一体どういうことなんだろう。
彼は作品の本文を指で示す。薄いピンクの爪がきれいで、それに伴って触れ合う肩が少し恥ずかしかった。
「そう、書いていない。胸中というタイトルにも関わらずね」
彼の声はいつになく落ち着いていて、ゆったりとした響きを含んでいた。
「ここには具象の存在の事実しか書いていないし、ひどく漠然としている。それぞれが係わり合う描写もなく、作者の目の前にそれがあったのかどうかさえ曖昧だ。実際にこの書き出しは過去形ではなく現在または未来系だからね」
彼は普段の穏やかな口調で難しいことを語り出した。
「でもこの作品の終わりは過去形だ。つまりこの空白の間に、彼は見て感じたんだよ」
国語の授業みたいだなと思った。彼が先生ならさぞわかりやすい授業だろうに、今日は題材が悪かった。
僕は小学校の生徒みたいに彼をみて言う。
「なにを見たの?」
「わからない」
彼の口からそれが出ると、やっぱり違和感がある。
でも彼は微笑んでいる。触れ合う肩から伝わる体温も、僕を安心させてくれた。
「彼は朝もやに心惑わされたかもしれない。或いは葦を見て元気をもらったのかもしれない。羊雲と鰯雲を見て興奮したかもしれない。夕立に心折れ、濡れた桜桃に欲情したかもしれない。星空に希望を見、或いはうちひしがれたかもしれない。…この空白は本当は真っ黒なんだよ。彼の感じたことを言葉にすればね」
僕は空白を見つめる。
ここには作者である×××の思念がページいっぱいに書かれているのだ。見えないだけで。
それは、なんだかとても気持ち悪い。
「だから僕は考えていたのさ。彼はこの作品になにを込めたのか。この空白の行間になにを書いたのか。なにを感じ思ったのか。彼の胸中を探ろうとね」
本に向き直る彼の横顔、その目はあまりにも真摯だった。
青に見つめられた白の空間が、そこにあるはずの感情が、ざわついているようだ。
僕は黒だ。白じゃない。彼と同じではない。
「…そんなの、無駄だよ。答えなんてないんだから」
「そうだね。答えはない、だから考えることに終わりもない。考えることは苦痛ではないけれど、考えつづけることは難しかった」
彼は少し眉尻を下げた。
僕の手から本を抜き取り、ぱたりと閉じる。その詩集は意外と薄っぺらかった。
彼は本にやっていた視線を、僕に向ける。
「そうしたら君が来たんだよ」
まばゆい青、清純な青。
そんな目に至近距離で見つめられて、僕の黒もざわつく。
白は黒だった。なにもない空間はなにかで満ち溢れていた。
じゃあ、僕は?
僕の黒は満ちている?僕の黒は白なのか?僕は白になれるのだろうか?
「…わからないよ。胸中なんか」
彼をこんなに近くにしても、僕は醜くごちていた。
青空は曇らないけれど、僕はもう完全に曇天のなかにいると自覚できた。
だって彼と僕はちがうから。違う存在だから。
「君が言ったんじゃない、感覚は事実に劣るって」
彼が言ったから、僕は感覚を信じられなくなった。事実がすべてなんじゃないかと、いやすべてなんだと思った。彼が言ったから。
「こんなの、なにもないのと同じだ」
そこにたとえ詩人のメッセージがこめられているとしても、事実はただのなにも書かれていないページでしかない。
そうだ。所詮わからない。
僕が黒だとか、彼が白だとか、そんなのわからない。僕にはわからない。この空白の行のように、考えても考えてもわからない。
ただ見て、触れて、彼が白くてあたたかいから、僕は黒くてつめたい。それだけだ。
ただそれだけの事実が、僕を混乱させる。
「…君はここに来てくれた。なにもないここに。僕のところに」
彼は言った。
「君は僕の疲弊を止めてくれた。永遠に考えつづけなければならない僕の苦痛を、君が取り去ってくれたんだよ」
その目が、僕を捉える。
本は彼の手をこぼれおちて、ソファーを掠ることなく地面におちた。
そのかわりに彼の手は僕の頬に落ち着く。
彼の手は、きもちがいい。
この温度も、感触も、まるでミルクのように僕の内側を浄化する。その時発生する熱が、滞留して僕のからだを燻す。
ああ、このまま蕩けてしまえばいいのに。
そしたら黒も白もない。
そんなことを思うから、やっぱり卑屈な言葉しか出てこない。
「でも、でも君は本を読んでいたじゃないか。僕が来てからも」
「本を開いていただけさ。心のなかは君のことでいっぱいだったんだよ」
彼は微笑む。
そんな恥ずかしいことを正面きって言えるのは、彼だからだと納得してしまう。彼が照れないから僕が照れる。僕はだらしがない、本当に。
「でも僕は臆病だから。切り出せずにいたんだ」
それは僕が言うべき台詞だ。
君は臆病なんかじゃない、わるいのは全部、
「僕が」
そこで彼の顔が近づいてきて、息を飲み込んだ。
僕の額に、彼の唇が落ちる。
すぐに離れたそれは、しかし火傷のように僕を穿った。
僕に二度目のキスをくれた彼は、依然として落ち着いていて、だから僕が焦った。
「…どうして」
熱がひかない。目が潤む。青を見ていたいのに、僕の卑怯さがそれを許さない。
倒れてしまいそうで、あろうことか彼の服を掴んだ。
「どうして君は僕にこんなにしてくれるの」
君と僕とはこんなに違うのに。
みるたびに、触れるたびに、僕は僕がいやになる。
「君は僕のすべてだから」
彼は、どうしてそんなに真っすぐでいられるのかと思うくらいに、強い心を持った目をしていた。
意思でも意志でもない、彼の心そのものを。
怖くなった。
こんなふうにさらけ出せるなんて、こんなふうにはなれない僕。こんな心をもたない僕。それなのに、こんなふうに彼に接してもらうなんて。
「わからないよ、なんでそこまで僕を大事にするの」
同じようなことを、さっきからずっと喚いている僕は、まるで時計仕掛けの椋鳥。
差し延べられた彼の白い手に爪を立てる僕は、椋よりもっと下劣な、土くれ人形だ。
「君がここに存在しているという事実が、僕にとって唯一絶対の事実なんだよ」
しがみついて俯く僕の頭に、彼のやさしすぎる声は降り注ぐ。
ひだまりのなかに出て、ああ今までは寒かったんだと気付いたら震えが止まらなくなる。
「この本の空白には実体も正体もない。考えてもわからないし考え尽くせもしない。でも君はここにいる。ここにいて、触れられる。それがとても嬉しいんだ」
知的な彼にしては論理的でない言葉選びだった。でも彼だから、感情的になっているわけでもない。
ひとことも発していない僕のほうがよほど内面で葛藤している。
相変わらずばかみたいだ、僕は。
「僕がここにいるって事実?」
おうむがえしにも彼は微笑んでくれた。
「僕は臆病だからね。事実しか信じられない。でも君という事実を信じている僕は信じることができるんだよ。そこにあるきもちもね」
彼が僕を好きだと言ったことを思い出す。感覚が事実に劣るなら、彼のその言葉もひどく不確かなものだ。
でもそれを、彼は信じると言った。
わからないわからないと駄々をこねた揚げ句に目をつぶった僕とは違う。
ああだから、彼はきれいなんだ。
こんなに澄んだ、青い空。
僕とは違う。はっきり違う。
僕にはなれない。
なれないけれど。
「…僕は」
塩辛い汁が唇を濡らす。なんでこんな味がするんだとも思ったけど、どうでもよかった。
ただ次の言葉を言うことが、どうしてもできない僕のよわさ。
「僕は、…ぼくは…」
言えない。言ってしまうともうすべてなし崩しになる気がして。
そんな僕の保守。プライドだけは高い、ちいさな野良猫。
鳴いてるんだ。ずっと。
泣いてたんだ。ずっと。
僕は強くないから、彼の温度に頼ってしまう。
彼が支えてくれるから、僕は甘えてしまう。
でもだからって、彼にここまで言わせて、彼にここまで言ってもらって、僕だけ突っ立ったままなんてだめだ。
「しんじたい…僕も信じたいよ…」
搾り出した柑橘のように。
決しておいしくはないけれど、確かな一滴が、僕の中からこぼれおちた。
ぎゅっと握った彼のシャツはしわしわで、でも離せなくて。
「やはりきちんと言葉にして伝えなければいけないね」
彼の声が懐かしい。
顔をあげると彼の青い目に出会う。こんなにも優しく微笑んでくれている。彼は変わらなかった。変わらずに、ずっと僕を見てる。
彼の手が僕の顔を捕える。距離がぐっと近くなる。
見つめるたびに思い知らされる、ああなんてきれいなんだろうって。
「言葉でなくとも伝わることはあるけれど」
やさしい力が、僕の頬に触れた手にこめられる。それとは逆に僕のからだは全く強張ることなく従った。不思議だった。
彼の顔があまりに端正なので、直視できなくて目を閉じた。その瞬間雫がながれて、これが涙だとわかった。
吸い込まれるように、縫い止められるように、僕は彼とキスをした。